便利屋の女が色々あって空港で死ぬ話
原作最新刊までのネタバレアリ
問題等ございましたらご一報ください

pixivでも同タイトルにて公開しています。(2024/2/3)

1 / 1
君のことすら守れない

 赤く染まった掌が、目の前に投げ出されている。

 この手の持ち主は誰なのだろうと考えて、少し後に(おれ)の物だと気が付いた。尤も、身体から切り離されたそれを自分の所有物だと云えるのかは甚だ疑問ではあるが。そんな筈はないのに鉄臭い匂いが鼻先に突き付けられたように感じて、噎せた拍子にごぼりと唇から生温かい液体が溢れた。咄嗟に右手で抑えようとして、腕の先の欠損に気が付く。感覚がどこか遠かった。まるで夢を見ているようだ。

 夢、か。夢ならなんだって出来るだろうに。(おれ)に今出来るのは虫の息で天井を仰ぐ事だけで、鼓膜を揺らす悲鳴にすら対応出来ずに血を流している。起き上がることすら億劫になって、段々と眼前が狭まっていく。悔しい。憎い。彼奴をせめて、倒してやりたい。異能力を持った人間には、努力程度では敵わない。そんなこと昔から分かっていたのに。

 瞼が落ちる。緞帳のように。完全に目を瞑るその直前、真っ赤な何かが視界の中で揺れた。

「嗚呼やっと起きたのね! 眠りすぎよ、こんな大騒ぎなのに!」

「……」

 逆さまになった少女が、こちらの顔を覗き込んでいる。長い髪をおさげの三つ編みにした少女は(おれ)が瞬きをしても消える事はなかった。エプロンドレスを纏った彼女は武装探偵社の関係者だった。確か、モンゴメリという名前だったはずだ。ゆるゆると身体を起こしながら自分の右手を見る。傷だらけでごつごつと骨張った、女とは到底思えないような手がきちんと繋がっていた。

「どうやって入った」

 畳の上で布団すら敷かずに眠っていたらしく、身体中からばきばきと骨の音がする。皺だらけになった寝巻きの前を整えながら酒焼けた声で問い掛けると、こちらの二の腕を引っ掴んで無理に引き摺ろうとしていた彼女はむっと唇を尖らせた。

「貴方、鍵も掛けずに眠りこけてたのよ。死んだのかと思って焦ったわ、煙草の火だって消していないし! 本当にもう!」

「そうか。迷惑をかけたな」

 一つ咳払いをしてそう云うと、モンゴメリは少しだけ顔を歪めて「自分の身体くらい大事にしなさいな」と呟いた。その声音が微妙に震えていたものだから、悪かったなあと誤魔化すように頭を掻く。短く刈った髪についた寝癖が指先に当たって、少し擽ったかった。

 もぞもぞと立ち上がり、彼女に引き摺られるまま外に出ようとする。片足を扉の外に出した瞬間に彼女が振り向いて、「まあ!」と甲高い声を上げる。二日酔いと声圧でずきずきと痛む頭を押さえ込みながら、不満を表に出して見下ろした。

「……どうした、そんなに大きな声を出すな」

「貴方それ、寝巻じゃあないの! とっとと着替えておいでなさい!」

「そっちが引き摺り出したんだろうが……」

「ほらほらさあさあ着替えなさい」

 背中を押されて、(おれ)は部屋の中にもう一度押し戻された。ぶつぶつ云いながら箪笥へ向き直ってとっとと服を着替えた。いつもの仕事着である。モンゴメリは先程までの騒がしさはどこへやら、静かに膝を立てて座っている。どうせ呼びにきたんだろうに云い辛いのだろうか。気を遣って、(おれ)はさりげなく口を開いた。

「今日の仕事はなんだ。猫探しか」

 彼女の目が僅かに鈍く光った。

 

 ○

 

 (おれ)はヨコハマで便利屋を営んでいる女である。この犯罪が多発している地域でどれほど信じて貰えるかは知らないが、非合法な仕事には誓って手を出していない優良な業者だ。それなりに鍛えている為、民間人の護衛や引っ越しの手伝いなどが主な仕事になる。前職の関係上目立ちたくはないので時折にはなるが、武装探偵社のような企業からの依頼も請け負っている。

 探偵社からくる仕事は、大半が猫探しといった人手こそいるが簡単な仕事ばかりだった。彼らは異能を持ち、個々が高い戦闘能力を持っている。が、分身するような能力を持っている者はいないらしく、時折こちらへ協力を仰ぐのだ。命令の効率はよく金払いもいい、その上目立ちにくいと来て、(おれ)からすれば好い顧客だった。

 態々こちらの拠点まで訪ねに来るのだから、仕事に違いないと思ったのだが。彼女は何度か口を開けては閉じを繰り返し、言葉を探している様子だった。やがて苦しげに顔を歪めたモンゴメリはテレビのリモコンに手を伸ばす。この沈黙を切り抜けようとしているのか。けれどそれにしては、彼女の手つきは異様なほど動揺していた。まるで、テレビを点けるという行為自体が何かの引金であるかのように。ぶつんと音がして、電源が入る。

 テレビに映し出されたのは、いつもの面子の顔だった。

『テロリストの一員だったとされる武装探偵社の社員については現在調査中であり──』

「……は?」

 やけに明瞭な、聞き取りやすい声でニュースキャスターが原稿を読む。モンゴメリがリモコンを置く音が静かな部屋に響いた。唖然としながら彼女の顔に目を向けて、その目を見た。こちらを真っ直ぐに捉えて離さない、翠の瞳を。その目の奥に横たわる深い絶望を、見た。

「……お願い。探偵社の無実を証明する、手伝いをして頂戴」

 彼女はこちらをじっと見つめて、それから立ち上がって手を握ってくる。その身体はよく見ると小刻みに震えていて、先程までずっと誤魔化していたのだろう焦燥が見えた。モンゴメリは、彼らの無実を信じているのだ。少女の真摯な瞳に捕まって、身動ぎすらも出来やしない。(おれ)はすうと息を吸って、それから手をそっと外した。

「……来い」

 彼女が目を瞬かせる。その顔は見たこともない程に不安そうな色を宿していた。

「行く宛は決まっているんだろうな。意味もなく走り回るのは御免だぞ」

 そう云ってインバネスコートを纏うと、フルフェイスのヘルメットをモンゴメリに向かって放り投げた。ドアの鍵を開けながら、こんなことしかしてやれない自分を疎ましく思った。

 

 ○

 

 ぱっと顔を明るくさせたモンゴメリを連れて、(おれ)はアパートの駐車場に停めてあったバイクに跨った。普段は仕事中に使っているものだから、これで移動していたって怪しまれはしないだろう。発進させてしばらく、彼女は小声で右や左と道案内をする程度しか喋らず、こちらも喋る事など思いつかないので街中の喧騒が嫌に耳についた。「探偵社がテロリストである」と云うのは、どうやら間違いなく事実らしい。指名手配まで食らっていると知りげんなりとする。何をしたのかは分からないが、彼らが築いた信頼は一朝一夕で砕かれるようなものではないだろうに。その信頼を裏切るほどの何かがあったのだろうか、と口元を歪めた。()()()()()()()で裏切るだなんて、組織というものは薄情なものだ。

「そこを右に。もうそろそろ着くわよ」

「嗚呼……」

 三十分程走った所でそう云われ、小さく息を吐いた。何処に連れて行かれるのかと思っていたが、かなり近い位置に行こうとしていたらしい。もう二時間以上走らされることを覚悟していたのでかなり安堵して、それからアレッと思った。いや待て、ちょっと待て。この先にある建物って、真逆。

「ここよ、停めて頂戴!」

「…………」

 辿り着いたのは警察署だった。

「帰るぞ」

「さあ行くわよ! 潔白を証明できるのは私達しか居ないんだから!」

「おい離せ、引き剥がされたいのか。コラ、(おれ)を巻き込むんじゃない、離せ」

 思い切り引き摺られていく。無理矢理手を振り払って帰ることも考えたが、これも一種の依頼と考えると気が引けた。モンゴメリの縋るような顔つきも脳裏を過ぎる。躊躇っている内に、彼女はずかずかと署内へ入っていった。止まる事無く進んでいき、エスカレーターをずんずん登っていく。モンゴメリの手にはいつ握ったのか資料が握られており、いやそれよく見ると手書きじゃないか。読んで貰えるか怪しいぞ。

 ぐい、と一際強く袖を引かれて立ち止まる。眼前にある看板には思い切り『捜査本部』と書かれていた。

「……一応聞くが、何をするつもり」

「敦くん達が人殺しな訳がないでしょ! 話を聞きなさーい!」

(おれ)だけでも帰らせろ」

 

 ○

 

「と云うのが事の経緯だ」

「ご、ごめんなさい……」

 アンの部屋と呼ばれている異能空間に入れられた(おれ)は、中島と泉に向き合っていた。

 どうやら彼らは上手く逃げられたらしいが、他の面子は生死すら分からない奴もいるらしいと聞きうんざりする。相も変わらず物騒な連中だ、猟犬部隊は。どうせ殺しては居ないだろう、と云おうとして黙った。推測で喋って、もし死んでいたら申し訳も何も立たない。

 顔を真っ赤にして頬を包んでいる彼女を宥めていると、小栗が口を開いた。彼の問うたのは、『七號機関』について、である。懐かしい響きだ。前職ではちらちらと話を聞くことはあれど、結局一度も接触することは無かった。問われている坂口は、「一度だけ」と云った。マフィアだった友人を、表の世界で生きられるようにする為だったと。そうか、と小さく呟いた。理屈の正しさだけが人を救う訳ではない。分かりきっていて、それでいて難しい言説だ。

 過去の自分は、一つだって分かっては居なかった。自分の思う正しさこそ、秩序こそ正しく、報われるべきだと。そう思っていた。

 愚かな話だ。それでどれだけの物を失って来たのか、覚えていない訳でも無いだろうに。

「……小川さん」

 静かな声が、(おれ)に向けられたと気付いたのは少し後だった。指先で弄んでいたライターの蓋を閉めて顔を上げる。坂口はじっとこちらの目を見ているから、きちんと見返した。それが自分の役割であり、勤めだと思った。

「なんだ」

「僕は、貴方がこの先の作戦に参加するのは反対です」

 ぴくり、と指先が動いたのが分かった。反応を見せない様に懐から煙草を取り出して、火を近付ける。

「此処は禁煙よ」

「……」

 モンゴメリの云葉に強い圧を感じた。

 黙って仕舞い直し、仕切り直すように腕を組む。いつもの猫背ではなく、腹に力を入れてしゃっきりと立つ。鋭く睨め上げると、彼の顔に微かな緊張が走った。昔を思い出す。自分を信じて、駆けずり回っていたあの頃を。

(おれ)が足手纏いになる──と。そう云いたいのか、坂口」

「いいえ。腕の立つ貴方に居て貰えれば、心強いことこの上ありません」

「世辞はいい。単刀直入に云え」

「……貴方は、異能を持って居ません。そしてこれからの戦いは、持てる異能総てを用いた総力戦になることが予測されます」

「成程な」

 つまり、怪我をする前に引っ込めと云われているのだ。

 そんな事を今更気にするとでも思っているのだろうか、と思ったが、しかし(おれ)の戦闘能力が異能力者に敵うほど高いかと問われれば否である。鍛えてこそいるが、今は酒も煙草もやっている身だ。高が知れていると思われても仕方がない。強力な異能を持っている訳でもない自分は前線に立つ事しか出来ず、使い捨ての駒にしかならない。

 そして探偵社は、人を使い捨てにはしない。

 荒れた唇の皮を引き千切った。

「……分かった」

「ご理解頂き、有難う御座います」

「安吾さん……!」

 (おれ)はモンゴメリの肩に触れ、目配せをした。深々と頭を下げる坂口に、何か云おうとして呉れている中島。その側にそっと寄って行く泉を最後に見て、目を深く閉じる。

 目を開けた時には、場所を移す前に居た廃ビルの前に立っていた。指で掴んだままだった煙草を口に咥えて火を灯す。煙を口の中で転がして、それから脱力するように息を吐いた。

「……あそこまで云わせるとは、先輩失格だな」

 自嘲するように笑みを浮かべる。煙草の煙だけが、馬鹿にしたように燻っていた。

 

 ○

 

 前職と云うのは、異能特務課のことだった。

 あの組織は異能力者が多く配属されているが、異能を持たずとも所属することが出来る。かく云う(おれ)もその一人であった。学生時代に事件の捜査協力をしたところ、腕っぷしの強さを買われてスカウトを受けたのだ。結局長くは勤められず、三年前に退職してしまったが。

 当時の自分を知っている者とは殆ど縁が切れたと思っていたのだが、あちらからするとそうでも無かったらしい。たったの一年共に働いただけの先輩を覚えているだなんて、彼も義理堅い生物だ。

 ヘルメットを被りバイクに乗る。こう云う、ぐだぐだと考え込みたい気分の時は疲れているのだ。疲れている時には酒を流し込んで眠るに限る。その前に一度帰宅して、もっと楽な格好に着替えてしまおう。吸い差しの煙草を携帯灰皿に擦り付けて懐に仕舞い、ゆるゆるとバイクを発進させた。

 しばらく車輪を走らせていると、思考回路が徐々にすっきりと整っていく。けれどそれで出来た隙間に物事がどんどん詰め込まれて行くから、頭がパンクしそうだった。これはまずい、と思考を単純化させることに執心する。途端に腹がぐうと鳴って、昨日から何も食べていないことを思い出した。とは云え自宅には特に食い物もないし、恐らく一食食べ切る元気も特に無い。仕方なく、一度シートから降りて近場の自動販売機で栄養機能食品を買い付ける。道端でもそもそと一、二本食べていると腹がだんだん膨れてきた──ような気がする。

 こんな食生活ではいけません、と母の叱る声が脳裏に響いた。一瞬びくりと腕が止まって、それから小さな息を吐く。特務課に入った時に縁は切ったじゃないか。それで無くとも娘の生活態度を態々ヨコハマまで来て叱るような親ではない。あの人たちはいつも、世間体を気にしていたから。

 嫌なことを思い出した。こういう日も酒を飲んで眠るに限るのだ。かぶりを振って思考を霧散させる。バイクに乗り直して、(おれ)は帰路についた。

 いつもの駐車場にバイクを停車させ、ブルーシートを被せる。頭部を守っていたヘルメットを小脇に抱えて、錆び付いた階段に足を掛ける。カンカンと音を立てながら上がっていくと、(おれ)の部屋から大家の婆さんが飛び出してくるのが見えた。こちらの顔を見るや否や小走りに駆けてくるものだから、取り敢えず婆さんの肩を押さえて動きを止めてやる。

「どうした、婆さん。水漏れでもしたか」

「違う、違うのよ未明ちゃん、ごめんなさい、本当に──」

「おやおや」

 異様な程取り乱した婆さんの声に被さった、穏やかな男の声。

 それを感知した瞬間に、心の臓が凍ったのが分かった。

 聞きたくない声だった。聞く筈の無い声だった。頭は理解しきれずに、それでも心は間違えない。どく、どく、とやけに大きな鼓動を聞きながら顔を上げる。

「お久し振りです、未明さん」

 条野が笑う。末広が一礼する。彼等の纏う真っ赤なマントが、鮮血のように映った。

 

 ○

 

 怯える婆さんを背に庇いながら、注意深く口を開く。

「……婆さんに何をした」

「何もしていませんよ。ただお話を聞かせて頂いただけです」

「どうだかな」はっと鼻先で笑う。「お前の言葉は信用ならんよ」

「ふふ。相変わらず警戒心がお強いようですね」

 条野は堪えた様子もなく朗らかな笑みを浮かべる。(おれ)はそれを無視して、婆さんの方へ向き直った。

「大丈夫だ、婆さん。あとは(おれ)が何とかするから」

「で、でも未明ちゃん、あの人達軍人さんよ」

「大丈夫、大丈夫だから」

 云い聞かせるように繰り返すと、婆さんは怯えの中に心配そうな色を覗かせて暫し立ち止まっていた。彼女の肩をもう一度強く支えてやり、「大丈夫」ともう一度囁いてやる。すると、彼女は少しだけ躊躇った後すぐに階段を駆け降りていった。その背中が見えなくなるまで見送ってから振り向く。彼等はじい、と今の行動を値踏みするように見つめていた。

「……何を聞きに来た。云っておくが、武装探偵社の行方なんぞ知らん」

「おや。私達が何を聞きたいかなどお見通しなのですね」

「猟犬部隊が派遣されるなら、余程の大事件だ。今公にされているのはそれ位だろう」

 簡単な事だ。息を吐きながら彼等を押し退けて家の扉に鍵を捩じ込む。「それでは一つ聞きたいことがあるのですが」左右に揺らすようにしてようやっと鍵を通した。古い鍵だからかいつも上手く開けられないのだ。「此処を一人の少女が伺ったと小耳に挟みまして」鍵はいつでも付け替えていいと云われていたけれど、防犯に気を遣わねばならない程の物はこの家には無い。「あの、聞いてますか? 聞いていますよね」その為面倒がって、鍵を付けるのを躊躇っていたのだ。けれど付け替えておけばよかったな、と思う。「もしもーし」すぐに開けられるような物に替えておけば、こんな風に声を掛けられ続けることもなかっただろうに。

「……鬱陶しい。話すことは何もない、帰れ」

「手厳しいですね」

 嫌に爽やかに条野は笑む。その笑みの裏にいつでも潜んでいる悪意が疎ましくて、厭わしくて、だから(おれ)は何時だって彼のことが嫌いだった。

 捨てた筈の過去が追いかけてくるように感じて、少しだけ息を浅くする。吸って、吐いて、呼吸を正常に戻してから扉を開ける。

「じゃあな」

「貴方のご家族と連絡がつきました」

 びく、と身体が竦んだ。まずい、動揺するな、耳を傾けるな。どく、どく、と心臓が戦慄いている。この心音すらも、彼には聞き取られているのだろうか。一気に不安になってしまって、手が微かに震える。その動揺を見せないように身体を室内に滑り込ませて鍵を掛け、一瞬息を吐いた。次の瞬間、だった。

「お邪魔しますよ、未明さん」

 煙のように、条野の姿が部屋に現れる。まさか、そこまでするのか。目を見開いて息を呑み、逃げなくては、と扉に縋りついた。こいつと二人になりたくない。自分を見透かしてくるような人間の側には居たくない。否、違う。

 家族の話を、聞きたくない。

 ただの焦りが、どんどんと形を持ってこちらに迫って来る。がちゃがちゃと滑る手で鍵を開けようとする。冷や汗が頭からどっと噴き出す。開け、開け、開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け──

「ほら、落ち着いて」

 扉の取手に、彼の手が触れる。片手で軽く握っているだけのように見えるのに、たったそれだけで取手がぴくりとも動かなくなって、まずいという思考が脳裏を埋め尽くす。どうしよう、どうすればいい。今末広を呼んでも、条野が扉を開けようとしない限り力は拮抗するだろう。自分一人の力で出られるとは思えない、ならどうやって逃げればいい? 鼓動がどんどん騒がしくなって、呼吸も荒くなっていく。

「小さくなってしまって、どうされましたか?」

 いっそ愛おしげにすら聞こえる彼の声が右の耳元で鳴る。反射的に思い切り突き飛ばして、その反動で壁にぶつかった。ずるずると座り込みながら、見えないと分かっていても条野の顔を思い切り睨み付けた。

「……一般人を甚振る為にここまでするか。お前の性根は相変わらずのようだな」

「甚振るだなんて、そんなことはしませんよ」

 冷や汗をだらだら流しながらふうふうと息を荒げるこちらとは裏腹に、条野は涼しげな面差しをしている。それが憎たらしくて堪らなくなり、小さく舌打ちをした。彼は赤いマントをふわりと揺らしてこちらに歩み寄ってくる。三日月型に歪んだ唇が、彼の愉悦を表していた。

 

 ○

 

 家族のことが苦手だった。

 理想的な娘を求めてくる父母も、女としての幸せを説いてくる姉も嫌で嫌で仕方がなかった。

 だから特務課にスカウトを受けたとき、「いい機会だ」と思った。彼らから逃げ出すための、真っ当な名目が出来たと思った。

 これは、血を分けた相手に対する薄情さへの、罰なのだろうか。

 自分を否定されることから逃げることは、裁かれなければならないほどの罪だったのだろうか。

 

 ○

 

 壁にもたれて、(おれ)は震える身体を守るように両腕を交差させる。ぐっと歯の奥を噛み締めて、目の前にしゃがみこむ条野をじっと見つめた。自分の呼吸音が煩わしくて、喉を締めてしまいたくなる。手負いの獣のように身を守ろうとするこちらを見て、条野は一言、馬鹿にするように囁いた。

「自分の事は知られたくないんですね。私達の実情は無理矢理知った癖に」

「……黙れ」

「嗚呼、馬鹿にしている訳ではありませんよ? ただ感心しているだけです、知って呉れと云わんばかりに情報を山程残して『知られたくない』だなんて。貴方はずいぶんお行儀の善い犬に囲まれていたのですね」

 それを馬鹿にしていると云うんだ。ぎちり、と握りこんだ拳から血が滴る。もう向き合っていたくない。逃げ出そうと首を巡らせたとき、ふと扉の取手が目に入った。それが意味を紡ぐ前に、口が大きく開く。

「末広ォッ‼」

 唐突に響いた喚くような絶叫に、条野がぎょっとした顔をして耳を押さえる。その一瞬に銀色の光が差し込んで、条野の尻にぷすりと刺さる。痛あ、と間抜けな悲鳴を上げる彼は先程までの底知れなさを失っていて、それだけで胸の奥に安堵が巣食った。鍵を切断した末広は扉を開き、出入口となった四角い枠の中で仁王立ちした。背後から射す日光が彼を神々しく見せている。

「すまない、鍵を壊した」

「構わない。……突然呼び立てて悪かったな。会話は聞こえていなかったか」

「聞いていた。盗み聞きなぞ道義に悖るが、条野が暴走する事もあるからな」

「だからと云って尻を刺さないで下さい!」

 条野の抗議の声を聞き流し、末広はこちらへ向き直り、手を差し伸べる。その手を取って立ち上がり、(おれ)はぽつりと呟いた。

「お前等が得ようとしている情報は、何も持っていない。だから帰って呉れないか」

「……分かった」

 そう云って、二人は連れ立って去っていった。意外にも条野は反対せず、大人しく──「また会いましょうね」とは云われたが──末広の後を付いて行った。赤いマントを翻して帰路に就く彼等の背中を見送って、階段の下に蹲っていた婆さんを宥めた。かなり錯乱した様子だったが、根気強く声を掛け続ければ何とか落ち着いた様子で家に戻らせることができた。

 聞けなかった、聞く気も起きなかった家族の話は、翌日には忘れていた。

 末広が壊した鍵だけが、あの瞬間の恐怖をそのままに残していた。

 

 ○

 

 彼等の来訪から数日経ったある日の事だった。

 家に常備していた酒が尽きそうになったから、久々にちゃんと食糧を手に入れるかと重い腰を上げた。立ち襟の襟衣の上から着物を纏って、袴を穿く。徒歩で行くのだからこの格好で構わないだろう。危なくもない。

 財布だけを懐に仕舞って家から出る。街中で流れるニュースは未だに武装探偵社の事ばかりで、彼等の悪意をでっち上げる物が主だった。よくやるな、とぼんやり思う。彼等から悪意を見出すなんて、砂漠から砂金を見つけ出すような行為なのに。本人達を知らない人間にとっては、総てが悪意にも見えてしまうのだろうか。それは少し、寂しいな、と思った。

 暫く歩いていると、向こうからとことこと歩いて来る少女が見えた。それは見慣れた姿で、憤懣遣る方ないと云わんばかりにずかずかと歩いている。挨拶の一つでもしておくか、と声を掛ける。

「文。何かあったか、そんなに苛ついて」

「小川やないの! またご飯も食わんと彷徨いとるん?」

「……飯を食う為に彷徨いてるんだ」

 極まりが悪く、ふいと視線から逃げる。一度この子供に扶けられた身としては偉そうな事も云えず、少し黙ってから話を逸らした。

「何処かに行くなら付いて行ってやろうか。この頃は物騒だろう」

「そんなん何時もの事やないの。ウチなら大丈夫や」

「十歳の餓鬼が遠慮をするな。護衛はいた方がいい」

 それだけ云い、彼女の背中を押す。文は擽ったそうに笑って、「ほなお願いするわ」と上機嫌に云った。

 文の父親は警察官だった。そして、文は理想的な娘であることを求められていた。

 たったそれだけが、彼女を気に掛けてしまう理由なのだと云えば幻滅されるのだろうか。

 詮無いことを考えながら、彼女の背を押して歩いて行く。可愛らしい靴音の隣に並ぶ自分の下駄の音が、酷く場違いに感じた。

 

 ○

 

 空港に着いた(おれ)達は一旦別れる事にした。此処に来るのは久々だったのと、「此処からならウチ一人でも大丈夫や」と文に笑われたのもある。過保護すぎるのもよろしくないだろう、と入口近くの土産物屋で待機する事を決め、子供の好きそうな玩具をちらちらと見繕うことにした。彼女は正義感が強いから、拳銃や手錠のような物騒な玩具が善いのだろうか。そう云えば、と思い出す。姉の子供も、文と年頃が同じだった。数年会っていないが、大きくなったのだろうか。

 少しだけ感傷に浸っていたが、頭を振って誤魔化した。どうせ死んだとでも伝えられているだろう。一方的に縁を切ったのは此方なのに、それを寂しく思うなんて傲慢だ。

 柄にも無く、誰かを心配するなんてことをしたのが悪かったのだろうか。変に感傷的な気分になっている自覚はあって、切り替えなくては、と下唇を噛み締めた。

 見るものが無くなるまで探索した後、嫌に文の戻りが遅いことに気が付いた。慣れない場所で迷ったのだろうか? 否、それなら迷子の呼び出しだって使う筈。音沙汰も何も無いのは奇妙だ。

 彼女は親父さんの忘れ物を取りに来たと云っていた。ならば遺失物の承り所に向かえば会えるだろうか、しかし入れ違いになる可能性もある。もう少しだけ待ってみるか。

 椅子に向かって歩いて行った瞬間、放送が流れた。迷子の呼び出しだろうか、と耳を澄ませて、それから目を見開いた。

『緊急放送です。第二ターミナル内滑走路にて車輌の火災事故が──』

 どく、どく、と心臓が鳴る。普通に考えれば、このまま外に出られれば文とも再会できる。そのまま二人で帰ればいい。(おれ)に出来ることなんて何もない。当然文もそうだ、その筈だ。なのにこの嫌な予感はなんだ? 

 余計な事に首を突っ込むな、と理性が喚く。そうだ、自分はもう一般人なのだ。何も出来ることはない。だけど、だけど。

 着物を翻して、(おれ)は駆け出した。下駄の音が煩く、少し走って脱ぎ捨てる。足袋は履いているから別に痛くはない。空港内の人々の視線が集まる。逆走するのは目立つ為、当然のように警備員に阻まれた。「戻って下さい。安全の為です」と機械のように同じことばかり云うものだから苛ついて、思い切り蹴り飛ばした。それによって集まってくる数名の警備員たちを見て、嗚呼、と反射の様に理解する。

 此奴等はもう、人間ではない。

「……待っていろ」

 怖いだろう、恐ろしいだろう。子供から脅威の総てを取り除くのが、大人の役目だ。

 堰を切ったように飛び込んでくる警備員たちを迎え撃つ。握り込んだ拳が、目の前の男の鳩尾に突き刺さった。その衝撃に蹲った身体を引き起こし、襲い来る警棒の盾にする。此方は異能者相手に戦闘を行っていたのだ、舐められては困る。

 直ぐに制圧し終わると、間を縫ってまた駆け出した。目の前を塞ぐ何名かのみを掌底や蹴りで吹き飛ばしつつ、文の姿を探す。何処に行ったんだ。怪物共は此方に向かって来る者と何かを捜索する者に分かれたらしい、ならばその他の陣営を探せば楽だ。何が起こっているのか、如何して警備員たちが怪物になっているのか。その謎が解ける筈。

 暫く駆けずり回っていると、どんどん人が少なくなっていく。その途中、怪物共がある方向に進んで行くのが見えた。その先にいるのは──

「ッ文! 逃げろ!」

 悲鳴のように叫んで、警備員の背後から思い切り体当りをした。どちゃ、と間抜けな音を立てて目の前の怪物共が纏めて二匹倒れる。此方の声に驚いたように振り向いた彼女の背には、衣服を纏った何かが括り付けられていた。嗚呼いい、説明はまた機会があれば聞かせてもらう。警備員等の前に回り込んで囁きかける。

「此処は(おれ)に任せて逃げろ」

「で、でも、小川はっ」

「大丈夫だ」唇を指先で擦りながら、笑った。「絶対にまた会える。迎えに行ってやるから、先に逃げておけ」

 文は此方の顔を見て、それから真剣な顔で頷いた。ぱっと身を翻して走っていく文の背を追おうとする怪物を前に、静かに深呼吸をした。

 目の前に居るのはざっと二十、これだけの数は通常なら相手にできない。それこそ、()()()()()()()()()

 割れた窓に触れ、硝子の欠片を手に取る。掌大の大きさのそれを手首に押し当て、少しだけ笑った。

「嘘を吐いてごめんな、文」

 強く当てた儘、掻き切る。力が入らなくなる前にもう片方の手首も切り裂いて、傷口を縦に開いた。血がどくどくと溢れるのを感じながら、虚勢を張るように大声を上げた。

「こっちへ来い、(おれ)が最期に相手をしてやろう!」

 

 ○

 

 家族のことが苦手だった。

 理想的な娘を求めてくる父母も、女としての幸せを説いてくる姉も嫌で嫌で仕方がなかった。

 理想的な娘になんてなれやしない。正義感だけ一人前の、気の強い女だったから。女としての幸せも、そんな性質で説かれたって腹が立つばかりだった。そんな物を手にしなくとも、自分は幸いを勝ち取れるのだと信じてやまなかった。

 結局、自分が手にしたのは何だったのだろう。

 あの日──猟犬部隊の身への代償を知って絶望した、あの日から。

 ずっと、考え続けている。

 

 ○

 

 断った血管から零れた血液が、ぐるぐると蜷局を巻き始める。多量の血液は踊るように集まっていき、宙に浮かぶ一つの生物を作り上げた。

 この異能は、(おれ)が多量に出血する事が引鉄となって発動するものだ。血液が集まり、凝縮され、小さな異能生命体を作り上げる。そうして出来た生命は、宿主に仇なすものすべてへ向けて牙を剥く。

 数年前発現したこの能力は、探偵社の女医と探偵のみが知っている奥の手だ。それでも使う算段など無かった。この異能が発動する瞬間に与謝野が居なければ、確実に死ぬのだから。

 それでも使うべきだ、と思った。文の命を天秤にかけた訳ではない。ただ、そうしたかった。此処で彼女を守れなければ、死ぬ方が幾分かましだと思った。

 出来上がった人魚が踊るように敵を薙いで行くのを見ながら、よろよろと床に這い蹲る。血が流れていく弊害で、意識が今にも飛びそうだ。あの自殺嗜好より先に死んでしまうのが、不思議で仕方なかった。

 ぐらぐらと揺らぐ視界の中で、微かに赤い何かが見えた。目を凝らそうとしてもうまく出来なかったけれど、それが幻覚であることも、誰であるかも分かってしまった。

「じょう、の」

 掠れた声で呼びかける。掛けたい言葉は山程あって、それでも選んだのは一言だった。

「……にげて、ごめんな……」

 あの日の彼の、露悪的な表情を。此方の顔を見て、寂し気に歪んでいた目元を。今でも確かに覚えているのに、自分はあの場から逃げた。守れないという現実から尻尾を巻いて逃げ出して、今の今まで思い出そうともしなかった。

 逃げてごめん。向き合うこともしなくてごめん。その罰が、お前に看取られることなら、甘んじて受けてやるから。

「……」

 はく、と唇だけが動く。弱った身体がどんどん、目の前を暗転させていく。重くなっていく瞼を無理に開けていると、何かに身体が包まれた。ぐいと持ち上げられて、背骨が歪むほど強く、抱き締められる。

 ふと、これが条野ならいいな、と思った。彼に殺されるのなら、本望だって笑える気がした。

「……ばかだな、わたしは……」

 首筋に何か、熱いものが押し当てられたように感じる。それが何かを探る前に、意識がブラックアウトした。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。