【本編完結】諏訪子様になった、負け戦を回避したい 作:洩矢廻戦
では二部最終回。
東の果て、外界とこの地を隔てる山裾の境目にその場所はひっそりと佇んでいた。
湿り気を含んだ風によって、辺りの木々と薄霧が揺蕩う。
そこは人知の及ばぬ未開の領域でありながら、同時にどこか神聖な清涼さが満ちている。
その開けた丘の上に、一つの神社が建っていた。
朱色の塗料が瑞々しく映える鳥居と、木肌の白さが残る素朴で重厚な社殿。
それは何処の神を祀るでもなく、ただそこに『境界』の柱として打ち立てられただけの、未だ不完全な神社。
『巫女』も、そして『神』もいない抜け殻のそれを、八雲紫は静かな眼差しで見上げていた。
「良い出来栄えね、これなら充分に耐えられるでしょう」
神社を見る紫は、その名と同じ紫苑色の瞳を満足げに細める。
帽子を揺らし、優雅に扇子を弄ぶその立ち姿には、長きにわたる準備が結実へと向かう事への高揚感で満ち溢れていた。
そう。いよいよこれから幾千の妖怪と神々が。
これから先、忘却の滅びに沈みゆく怪異たちの為だけの『楽園』が産声を上げる。
「藍」
高揚感を律し、静かな声でその名を呼ぶ。
その呼び声に応え、紫の背後に控えていた九尾の狐――式神・八雲藍が静かに一歩前へ出る。
それから、自身の巨大な耳をわずかにピクリと動かし、続く主の問いを待つ。
「結界の展開準備は滞りなく進んでいるかしら?」
「はい、紫様」
藍は堂々と。
「大結界……『梵界』を支えるいくつかの簡易結界の設置は完了いたしました。あとは地脈への神秘の還元、そして大結界への『名付け』を残すのみです」
「そう。……なら、あの子の調子はどうかしら」
紫が不意に問うと、藍は即座に淀みなく返した。
「例の巫女……『博麗』も問題ありません。いつでも転移の準備にかかれるかと」
「結構」
満足そうに微笑んだ紫は、手にしていた扇子をパチンと音を立てて閉じた。
そして、ゆっくりと境内を歩きながら、かつて常世神が占拠していた『虚無の世界』を奪い、作り替える事になる大結界の仕組み。
それについて確認するように、藍と問答を交わし始める。
「結界の侵入条件は?」
「はい。紫様の命令通りに、侵入対象を『意志のないもの』にしています。当初予定していた『無生物以外』では一部の付喪神が結界を超えられない可能性があるとの事でしたが、それでは……」
「いいのよ、藍」
紫は閉じていた扇子を緩やかに開き、その優美な柄で自身の口元を隠しながら言葉を遮った。
「確かにそれだと、眠っている生物が紛れ込む可能性がある。それでも、得られる利益の方が圧倒的に多いわ」
藍は耳をわずかに伏せ、紫の言葉の裏にある意図を巡らせた。
それは、僅か数瞬の無言の思案。しかし、それもすぐに終わる。
主に劣ろうとも、大妖怪として天才的な頭脳を持つ九尾の式神は、その冷徹かつ合理的な主の目的と計算をすぐ理解した。
「なるほど、餌の問題ですね」
「……ふふ、察しが良くて助かるわ」
紫は表情を変えることなく、淡々とした冷ややかな調子で言葉を紡ぐ。
「所詮、質も量もたかが知れるでしょう。それでも、低級妖怪の腹を満たしてやる分にはそれでいい」
肉体に注がれた畏怖をまともに活かせず、自我も知能もない哀れな獣たち。
種族名もない、俗にいう名無しの妖怪たちは人間からの『負の感情』だけでは満たされず、しかし人間社会を脅かす程の力もないため、血肉を求めて夜の闇を徘徊し続けるのが関の山。
だがそれは、むしろ紫が望む『楽園』のシステムに丁度いい。
「毒にもならず、薬にもならず。中途半端な獣たち……それでも人間への抑止力としては役に立つわ。それに最悪、彼らは共食いするしね」
その言葉には、人間に対する過剰な慈悲も悪意もない。
ただ『幻想郷』という、『楽園』の皮を被った自分だけの箱庭を維持するための、冷徹な管理者としての視線だけがあった。
紫は静かに歩を進め、神社の前、その境内の中央で足を止めた。
「それでも、万が一の為に人間たちの住処に『浄界』を張ってはおきましょうか」
風が止む。
大気がぴんと張り詰め、世界の理が歪む気配が満ちていく。
紫は右手に持った扇子を、虚空に向かって横一閃に振った。
ちり、と空間が破れる音が響く。
空間の裂け目――八雲紫の異能『スキマ』が虚空に幾重にも形成された。
その黒々とした内部には、気味の悪い無数の赤い目玉が浮かんでは蠢き、異界の波動を撒き散らしている。
「うえっ……やっとあの気味悪い場所から出れた……」
そして、その薄暗い不気味な開口部から二つの影が滑り出る。
辟易したような声を上げ、最初に着地したのは真っ白な髪をした少女――『蓬莱人』藤原妹紅だった。
その辺の山々の湿気とは違う、境界の冷気に身を震わせながら、彼女は不快そうに髪を掻き揚げる。
そして、その妹紅の手をギュッと固く握り締め、同じように『スキマ』から出てきたのは、青の混じる銀髪を持った幼女――上白沢慧音であった。
「うぅぅ……」
『スキマ』内で三半規管を揺さぶられたのか、慧音はふらふらとした様子であり、見るからに気持ち悪そうにしていた。
それを見た妹紅はすぐさま目元を和らげると、小さな体躯を優しく抱き上げた。
「慧音、大丈夫?」
「…………うん」
妹紅は優しく声をかけながら、慧音の背中をトントンッ、と小さく叩く。
その手つきは驚くほど慣れており、容姿こそ少女ではあるが、その雰囲気には母のような底知れぬ慈愛が満ちていた。
「あらあら、随分と可愛がってるのね?」
「…………」
その光景を、扇子の影から目を細めて微笑ましそうに眺める紫。
そして、そんな紫のからかうような戯れ言に対し、隣に立つ藍は心底どうでも良さそうに、視線を明後日の方に向けていた。
敬愛する主以外の事情など、今の藍にとっては関心の外であり微塵も興味がなかったからだ。
「まぁね」
妹紅は慧音をしっかりと抱っこしたまま、不機嫌さを隠そうともせずに紫を睨みつけた。
「で、私は何をすればいい訳? 言っておくけど、陰陽術に関しては何も力になれないわよ」
それは己の過去と、かつて学んだはずの技術に対する自虐を含んだ言葉。
だがそれに対して紫は、静かに首を横に振った。
「大丈夫よ。あなたに力を借りたいと思ったのは……その『不死』の力や、かつて捨てた『陰陽師』としての才能でもない。あなた自身だから」
「…………」
藤原の血、かつて『縛り』を破った代償として自身に課された呪縛。
誰にも明かしていないであろう彼女の最も深い秘密の一つを、紫はあまりにも当たり前のように言い放った。
だというのに、紫の前の妹紅は顔色を一つも変えないまま。
動揺も、怒りすらも見せない、心底どうでも良さそうな顔。
それは不老不死となり、それでも自暴自棄に陥らず。
ただ永遠に、この先もずっと『生き続ける』と決めた者だけが持つ、輝かしくも冷めた諦念の態度だった。
「ふぅん、そう」
妹紅は特に気にする素振りも見せず、鼻を鳴らした。
「じゃあ何が欲しいのさ」
「話が早くて助かるわ」
紫は満足そうに目を細めると、閉じた扇子の先端を妹紅の頭の方へとまっすぐに向けた。
「欲しいのはあなたの『記憶』よ」
「…………記憶?」
「そう、記憶」
紫は視線をゆっくりと上げる。
「神の畏怖がかつてより落ち着き、そして夜の闇と妖怪への畏怖が最も多く集った――怪異全盛の時代とも呼ぶべきその記憶」
そして、まるで遠い過去の情景へと巡らせるように、紫は語り始めた。
「今から作る『幻想郷』は、これから忘れられ、滅んでいく人外にとっての楽園でなくてはならない。でも、そこではかつての神代……それこそ『諏訪大戦』があった頃のような時代だと神の力が強すぎるし、人間は脆すぎる」
天地開闢の時。
かつて神々が地上を席捲し、強絶な神威をもって天地を震わせた時代。
人間がただの生贄や、神を維持するのに必要な信仰の為だけに生かされていた、そんな泡沫の存在に過ぎなかった神代。
紫は、そんな狂乱と圧倒的な力の奔流の余韻を思い起こしながら、それを言葉にする。
「だからこそ丁度いいのよ。あなたはあの時代の生き証人、その記憶と経験が『楽園』の支柱となる」
妖怪が最も妖怪らしく夜を統べ、人間が恐怖しながらも適度な智恵と術を持って生きていた時代。
過剰な神威に潰されることもなく。
そして、月で見たような科学の光に夜を奪われることもない。
神秘と現実が程よく混ざり合った、あの完璧な均衡の時代の記憶。
「かつて無辜な『人間』として、そして怪異に立ち向かった『陰陽師』として、そして……」
これから先、永劫を生きる事が決まった神秘そのものとも言える――。
「――不老不死。これから永遠に生き続ける『神秘』の化身であるあなたの、それらの記憶が欲しいのよ」
「……」
紫のその言葉を静かに聞く妹紅。
彼女は自身の腕の中でようやく落ち着きを取り戻した慧音の頭を優しく撫で。
それから不敵に、そして僅かな寂寥感を込めて口元を歪めた。
「……ふん」
妹紅は短く、吐息のような笑いを漏らす。
腕の内の小さな身体を落とさないよう、よりしっかりと慧音を抱き直し、それからゆっくりと顔を上げる。
その眼差しは、紫の顔を正面から捉えていた。
「私の記憶ね。あんなろくでもない思い出の数々でいいなら、いくらでも」
自虐とも言える言葉。だが、その声には確かな意志が通っていた。
紫は扇子の影で不敵な笑みを深め、納得したように満足げに肯こうとした。
――だが。
「……ただし」
妹紅の口から落とされたその二文字が、辺りの空気をぴたりと凝固させた。
「一つだけ条件がある」
紫の細い眉が、僅かにピクリと動いた。
扇子の隙間から覗く目は、まるで面白がるような、あるいは品定めするような光を宿す。
しかしそんな妹紅の言葉に対して、紫以上に劇的な、そして苛烈な反応を示したのはその背後に控えていた藍だった。
「おい、貴様」
低く、地底の底から響いてくるような声。
それまで主以外の存在など、世界の端にある塵芥程度にしか思っていなかった八雲藍の視線。
それが瞬時に、妹紅へ死線のように突き刺さる。
「どの口で……条件など――!」
その時、大気が鳴動した。
空間そのものが、まるで物理的な質量を持ったかのように歪む。
藍の背後から、九尾の狐としての圧倒的な妖力と、底知れぬ殺気の圧が爆発的に解き放たれ、辺りの木々悲鳴を上げてざわめき、鳥居までもがミシミシと軋む音を立てている。
境内の砂利が浮き上がり、目に見えるほど濃密な紫紺の妖力が、藍の身体を中心に渦を巻く。
九本の大尾が逆立ち、狐耳を極限まで引き絞った藍の表情。そこには主の尊厳を脅かそうとする愚か者への怒りが満ちていた。
『妖怪の賢者』八雲紫の威光を前にして、対等な取引の条件を口にするなどという増長。
それは式神として、何より紫を絶対として崇拝する藍という妖怪にとっては、万死に値する愚行に他ならない。
今にもその鋭利な爪を振るい、空間ごと目の前の生意気な小娘を切り刻まんとする膨大な圧力。
だが、それを受ける妹紅の瞳に、恐れの色は微塵もない。
「まぁまぁ……落ち着きなさいよ」
妹紅は、肌を刺すような凄まじい殺気の渦をあっけらかんと受け流してみせる。
藍の激昂をまるで意に介さず、妹紅は正面の紫へ直接言葉を投げかける。
「八雲紫。あんたの作ろうとしてる『楽園』……そこには、人間もそれなりにいるんでしょ?」
藍は牙を剥き出しにし、一歩を踏み出そうとした。
爪が空間を裂き、妹紅の首を跳ね飛ばす……その数秒前の動作。
「えぇ、そうよ」
だが、紫は静かに右手をわずかに掲げ、無言で従者の行動を制止した。
紫の手の動き一つで、藍はどれほど激しい怒りに燃えていようと、その動きをピタリと止める。
渦巻いていた凄まじい妖圧が、主の意思に従って瞬時に収束する。藍は悔しそうに歯噛みしながらも、主の制止に従って黙るしかなかった。
紫は制止した手の平をゆっくりと下ろすと、何事もなかったかのように優雅に扇子を揺らした。
「神にしろ妖怪にしろ、彼らの存在の基盤となるのは人間の『畏怖』であり『信仰』だわ。境界の向こうに人間という種が存在しないのなら、この楽園は最初から成り立たない……人間の存在は必要不可欠よ」
「ならさ」
妹紅は当たり前のように言い返した。
「人間が住む場所も、当然あるわけだよね?」
「勿論。人間たちが安寧に暮らすための集落……『人里』を形成させる予定よ。そこに彼らをまとめ、適度な恐怖と適度な保護を与える。それが『幻想郷』の基本構造になるわ」
「…………」
紫の言葉を聞き届けると、妹紅は腕の中の慧音へと視線を落とす。
その瞳に宿るのは、蓬莱人としての冷めた諦念ではなく、血の通った温かな慈悲の光。
「……だったら」
妹紅は、静かに、だが噛み締めるように言った。
「この子が……『人間』としても、『人外』としても住めるようにしてよ」
その言葉により、再び静寂が降り積もる。
「この子には妖怪の血が流れてる。だから人間でもあり、妖怪でもある。どちらの側にも完全には属せない」
妹紅は指先で、慧音の柔らかい銀髪を愛おしそうに撫でた。
慧音はその動きに甘え、自分からぐりぐりと妹紅の方に頭を向ける。
「迫害もされない。寂しくない……そんな環境にこの子を置きたいのよ」
自分はいい。
不老不死という禁忌を背負い、孤独に永遠の時の中を生きていける存在だからだ。
だが、この小さな子は違う。
これから生まれ落ちる新しい世界で、悲しい思いをしてほしくない。自分のような孤独の淵に沈んで欲しくはない。
それが、妹紅が求めた唯一にして最大の『条件』だった。
「…………」
そして、それを聞いた紫は――。
「――――」
思わず、言葉を失った。
大妖怪、八雲紫の人を欺く鉄の仮面がその時、ほんの僅かに崩れていく。
目を丸くし、ポカンと口を少しだけ開けたような……それは数百年以上の時を生き、境界を操り、冷徹に計画を実行する賢者の内側にある、他者には見せない素の表情。
それは、ほんの一瞬のことだった。
だが、その一瞬の『素』は、背後に立っていた藍にだけしっかりと伝わっていた。
「――………………」
辺りに落ちた短い静寂。
風が木々を揺らす音だけが規則正しく響いていく中、やがて。
「――――あははははっ!!」
静寂を切り裂いて、紫の口から清々しいほどの笑い声が弾けた。
腹を抱えるのではない。
優雅さを保ちながらも、心の底から込み上げてくる可笑しさを抑えきれないといったように、紫は肩を揺らして笑い続ける。
目を細め、それから妹紅と慧音を見つめる。
「あははっ! うん、いいわ」
紫は笑い残した息をふっと吐き出すと、きっぱりとそう宣言した。
「その条件、受け入れましょう」
「紫様!?」
思わず声を上げたのは藍だった。
普段の冷静さを欠き、驚愕の面持ちで主を見る。
たったひとりの半獣の幼子のために、幻想郷の設計に個人的な事情を挟むことなど、あまりにも不確定要素が大きすぎる。
だが、紫は挙げた手で優しく藍を制した。
「いいのよ、藍」
紫は妹紅へと向き直り、その唇に慈愛と不敵さが混ざり合った笑みを浮かべる。
「その子が将来住む場所の手配は、私が責任を持ってしてあげる。人里の中で浮かないように、けれど人外の力に怯えることもないように……そして、孤独にならないように周りの環境も手配してあげる。それにある程度は……この私が陰から守ると誓いましょう」
「…………」
紫のその言葉には、言霊としての絶対的な重みが宿っていた。
そこに宿る意思に偽りがない事を直感したのだろう、しばらく無言のままだった妹紅は、静かに。
「なら、いいよ」
そう言って、口元を僅かに緩めた。
「さて、これで契約は成立かしら?妹紅」
「あぁ、言質はとったぞ。一応言っとくが『縛り』だからな」
「分かってるわよ、ちゃんと明確にね」
言霊による制約が、静かに、だが強固に二人の間に結ばれる。
妹紅の記憶による『箱庭』の生成の補助。そしてその代償として、上白沢慧音という一人の幼子の未来を八雲紫が保障すること。そんな明瞭で対等な取引が、ここに完了した。
背後に立つ藍は、納得がいかないといった様子で眉間に深い皺を寄せていた。
主が決めたことには従う、それが式神の絶対の掟だ。だが、この蓬莱人の図々しい要求をあっさりと受け入れた主の意図が、どうしても解せなかった。
「紫様……」
再び藍が何か意見を言おうと口を開き掛けた、まさにその時だった。
「――ごめんごめん。ちょっと遅れちゃってさ」
どこか緊張感の足りない、軽い調子の声が響き渡った。
声のした虚空、妹紅たちが現れたのとはまた別の場所の空間が水面に投じられた波紋のように大きく歪む。
ちりちりと歪む空間から再び幾重もの『スキマ』が形成され、不気味な赤い目玉たちが爛々と光を放ちながら開いていく。
新たな来訪者の気配に紫は扇子を閉じ、妹紅は視線を向ける。
そして次の瞬間――。
それまで辺りを包んでいた冷たい空気とは一線を画す、桁違いに濃密な『瘴気』が溢れ出した。
それは妖怪の泥臭い妖気でもなければ、人間の研ぎ澄まされた霊力でもない。
地脈の底から湧き上がる溶岩のように巨大で、まるで『畏怖』そのものが形を成したような――真の『神』の気配。
「……おいおい、マジか」
慧音の頭を覆うように抱きすくめながら、妹紅は思わずそう口にする。
『蓬莱の薬』を口にし、いくつもの死線を潜り抜けてきた妹紅の身体が、魂が鮮明な『死』を予感した。
妹紅は引きつった表情のまま、すぐ傍らに立つ紫の方を見て、額に一筋の冷や汗を流しながら呟いた。
「とんでもない大物を連れて来たわね、あんた……」
『スキマ』の中から軽やかな足取りで姿を現したのは、妹紅と同じくらいの背丈をした少女。
稲穂のように鮮やかで瑞々しい黄金の髪、それが風に揺れて眩い光を反射している。
華奢で白皙な脚といい、一見すれば誰もが愛おしさを覚えるような、それは無邪気で可憐な少女の姿。
だが、その小柄な身体から発せられているのは、『祟り神』の威圧感。
その御形が示す正体。
この国に生き、古代の神話を知る者であれば、その神を間違える筈もない。
「……洩矢神が、まさかこの場に来るとはねぇ」
妹紅の低く掠れた呟き。
かつて『諏訪大戦』にて、同じく最強と名高い八坂神奈子を倒し、そして取り込んだ絶対的存在――洩矢諏訪子。
そんな妹紅の驚愕や緊張感を他所に、当の諏訪子はどこまでも気楽な調子で言葉を返した。
「まっ、八雲紫との契約でね」
そう言って、諏訪子は頭の後ろで両手を組み、くるりと軽やかに回転してみせる。
まるで近所の庭へ遊びにでも来たかのような、あまりにも無防備で軽快な動作だった。
「今の時代、一番『神秘』が集ってるのは間違いなくうちの国だからさ。私の存在も利用して、より安定した『幻想郷』を作ってみないかって、私の方から提案したの」
諏訪子は回転を止め、それからふふっと無邪気に笑ってみせた。
「だって楽しそうじゃん? そういうの」
その笑顔には、一切の邪気も悪意も存在しない。
かつて立ち塞がった外敵を凄惨な『祟り神』によって死滅させ、敵国を壊し、取り込んだ災厄の面影が微塵も感じられない。
そのちぐはぐさが何よりも恐ろしいと思いつつ、妹紅は小さく吐息を漏らした。
「……噂通りだね」
そして、その妹紅の呟きに紫も内心で深く同意する。
(彼女の生きる指針は己の快・不快のみ……今でこそ大人しいけれど……)
紫は扇子の陰で、表情を完璧に殺しながら思考を巡らせる。
あの神代の『諏訪大戦』にて、彼女は信仰と実力の両方で屈することなく、今も尚この地上で『最強』の座を保ち続けている神なのだ。
その存在が引き起こす影響。
それは未だ『大結界』の準備を終えたばかりで、地脈の流れすら完全に固定できていない『幻想郷』にとっては毒でしかない。
最悪、彼女というあまりにも大きすぎる波紋によって『幻想郷』の土台ごと破壊される可能性すらあった。
あらゆる神も、妖怪も、全てを受け入れる絶対の楽園。
それを作ろうとする紫にとって、この洩矢諏訪子という怪物は、いつか必ず克服し、その協力を得なければならない絶対の相手であると同時に。
しかし、今のこの瞬間においては、絶対にどうしようもできない問題でもあった。
主である紫が抱く、その微かな焦燥と緊張。
それを敏感に察知した背後の藍もまた、額に嫌な冷や汗を滑らせていた。
藍はは九つの尾を硬直させて一歩も動けないまま、目の前でくすくすと笑う諏訪子の動向を、全身の神経を研ぎ澄ませて伺っている。
境内に満ちる、目に見えない恐ろしいまでの緊張感。――しかし。
「そう緊張しなくていいって」
諏訪子はそんな紫たちの内心の動揺を吹き飛ばすかのように、なんて事ない様子で言った。
「別に、私はまだそこに住む気ないしさ」
あっけらかんと告げられたその言葉に、紫は目を僅かに見開いた。
「……どういう事かしら?」
「心配しなくても、私は『幻想郷』がいつか本気の私を許容できるようになるまで待つ。そう言ってるの」
まるで、こちらの思惑の全てを見透かしているかのような発言。
自身の冷徹な計算も、内なる焦りですらも、この神の前では全て手の平の上ではないのか? 紫はそう疑ってしまう。
「たださ」
諏訪子は、少しだけ表情を和らげて言葉を継ぐ。
それは、まるでどこか遠くを見るような、それでいて無邪気な好奇心に満ちた瞳。
「『幻想郷』の土台ができたら、ちょっとだけでいいから見させて欲しいんだよ。どんな景色か、どんな世界になっているのか……それが知りたいだけなんだよね」
そう語る諏訪子の瞳を、紫は言葉もなく、じっと見つめ続けた。
(一体何を考えてる……? 洩矢諏訪子……)
外の世界において、未だ絶大な信仰を集める彼女。
神社を構え、人々からの畏怖と崇拝を一身に受け続けている彼女。
他の有象無象の、忘れ去られゆく存在たちと違って、現状『忘却の滅び』から最も遠い場所にいるはずの彼女が――何故、ここまで『幻想郷』という存在を気にして力を貸そうとするのか。
紫の頭脳をもってしても、明確な答えが出なかった。
(……いいえ、今は置いておきましょう)
既にこちらの目的に沿った形で動く事は『縛り』で決定されている。
ならば今は、あの洩矢諏訪子が味方であり、『幻想郷』の誕生に力を貸してくれるという事実だけを見ればいい。
紫は胸の奥に澱んでいた緊張を吐き出すように、静かに、深く息を吐いた。
「……その言葉、信じるわ」
紫は優雅に扇子を広げると、自身の胸前へと掲げた。
その意思に呼応するように、地脈の鳴動と共に未完成の神社が青白い光に囲われる。
「これより現と幻の境を断ち、忘却から逃れる永劫の箱庭を作りましょう」
紫の静かな声が、響き渡る地鳴りを押しのけて凛と響き渡る。
瞳が妖しく光り、空間そのものが紫の意思に従って幾重にも歪んで折り重なる。
「常世と現世を分かつ、夢の揺り籠をここに」
紫は手にしていた扇子を、虚空へと勢いよく振り下ろす。
「――与える名は『博麗大結界』」
言葉が発せられた瞬間、大結界の最終展開――その発動条件である『名付け』が完了し、術式の構築が開始される。
そして、理の組み替えが成功した事で神社とその敷地全体が、眩い光の奔流の中に溶け込み。
現世から、その『幻』の部分が転移した。
光の奔流が収まり、荒れ狂っていた風も凪ぐ。
先ほどまで辺りを満たしていた冷たい湿気が、新しく生まれ変わった大気に変換される。
現世からの切断と転移。その大仕事を成し遂げた紫は、手にしていた扇子を緩やかに閉じると、胸の奥に溜まっていた緊張を吐き出すように、ふぅと小さく息を吐いた。
「ひとまずは、第一段階完了といったところかしら」
紫が優雅に髪を揺らしながら言葉を漏らしたその隣。
腕の中の慧音の頭を優しく撫で続けていた妹紅が、不思議そうに首をひねりながら声を上げた。
「あれ、なんか変わってなくない?」
妹紅の言う通り、目の前に広がっている光景に劇的な変化はない。
青々と茂る樹木、立ち込める薄霧。そのどれをとっても、転移前の景色そのままであった。
正確に言えば、たった一つだけ変化した部分がある。
転移する前、山裾から遠く眼下に見えていた筈の小さな集落――人々の営みの灯火や家々の影が消え去っていることのみ。
しかしそれ以外は、ただひたすらに見慣れた、ありふれた山々の景色だけがどこまでも広がっている。
妹紅の率直すぎる疑問を聞いた藍は、ピクリと耳を逆立て、苛立ちを隠そうともせずに冷ややかな声を出す。
「当たり前だろう。お前たちの『記憶』に合わせて作ったんだ、むしろ違和感があった方がおかしい」
「あー……それもそうか」
藍の至極もっともな指摘に、妹紅はあっさりと納得したように頷いた。
それから、腕の中の慧音を落とさないようしっかりと抱き直しながら、興味深そうにきょろきょろと周りの景色を見渡し、それからふと思いついたように藍へ視線を向けた。
「ちょっと周り見てもいい?」
「勝手に動くな、紫様は許可していない」
即座に容赦のない拒絶。
藍は冷たい瞳で妹紅を牽制し、主の周囲から一歩も離れようとしない。
それに妹紅は別段怒る風でもなく『はいはい』と肩をすくめてその場にとどまった。
だがそんな中――紫だけは、ひとり静かに強い違和感を抱いていた。
(……おかしいわね)
紫は閉じた扇子の端を顎に当て、考える。
たった今作り終えたばかりの、この『幻想郷』という箱庭の土台、それに対して強烈な違和感があったのだ。
その空間の密度、地脈の定着度、世界としての強度が。――紫の当初の予想を遥かに超えて、異様なほどに安定しているという事実。
本来の計算であれば、この『名付け』による大結界の発動だけでは、世界はまだ不完全な概念の器に過ぎないはずだった。
これから先、後から『スキマ』の力を微調整し、外界に生きる無数の人間や妖怪たちの無意識下から『忘れ去られゆく記憶』や『世界の輪郭』を抽出し、それらを徐々に流用して組み込むことで、皆が思い描く『確固とした世界』へと補強していく。
そんな、何段階もの途方もない補正工程を予定していたというのに……
いざ蓋を開けてみれば、妹紅と諏訪子の力という――たった二つの要素を織り込んだ段階であるにもかかわらず、この『幻想郷』の土台は、既に八割ほど完璧に安定しているのだ。
(一体なぜ……? いくら何でもここまでの定着速度はあり得ない……)
紫の頭脳の中で、数式と概念が目まぐるしく交差する。
けれど、どれほど論理を組み立て直しても、目の前にある『世界』の安定感に対する明確な根拠が見出せない。
思考の海に沈む紫の隣で、周りを見回していた妹紅がふと呟いた。
「でも、洩矢神はもういないじゃん」
そう、つい先ほどまで圧倒的な存在感を撒き散らしていた諏訪子の姿は、大結界が完成した瞬間にいつの間にかどこかへ消え去っていたのだ。
妹紅のその言葉に、藍はどこか苦々しい表情を浮かべ、わずかに言葉を詰まらせながら返す。
「ッ、あの神は……例外だ。最初から気まぐれで手を貸したに過ぎん」
「ふぅん。神様ってのも気楽なもんだねぇ」
妹紅は特に深く追及することもなく、腕の中で落ち着いている慧音の頬を突っついている。
そのやり取りを聞きながらも、紫の胸中に生じた深い疑惑が晴れることはない。
八割方完成してしまった楽園の土台。
自分たちの与えた入力に対して、あまりにも大きすぎる世界の出力。
果たしてこれは、洩矢諏訪子という強大な存在が残した余波の影響に過ぎないのか? それとも自分の知らない別の何かが作用したのか……
新しく生まれ変わった風が神社の境界内を吹き抜ける中。
八雲紫は空を見上げ、その疑惑を胸の奥に抱えたまま佇み続けていた。
諏訪子は神社から少し離れた山道を静かに歩いていた。
背後からは、まだ転移の余波に戸惑う紫や妹紅たちの気配がかすかに漂っていたが、諏訪子は一度も振り返らない。
彼女らを無視し、未だ人知の及ばぬ未開の領域――山を下りた先を目指して。
諏訪子は歩き続ける。
土と落ち葉を踏みしめる音が、静まり返った山に規則正しく響く。
歩いて、歩いて山を下りる。
一歩、また一歩と標高を下げていくにつれ、周囲の空気の質感が少しずつ、しかし確実に変わっていくのが肌を通して伝わってくる。
――『
あるのは、草木が呼吸する清廉な匂いと、土が放つ芳醇な生命の気配。
そして、地脈から湧き上がる純粋な『神秘』の息吹のみ。
山道はどこまでも続いていた。
時折、古木の傍らにひっそりと咲く小さな野花が揺れる。
頭上からは、聞いたこともないような澄んだ声で鳴く小鳥たちの羽ばたきが聞こえる。
かつてとは違う華奢な脚で、『彼』は一歩一歩、確実にそこへ向かっていく。
どれほどの時間、そうして歩みを進めただろうか。
何百歩と進み、鬱蒼とした密林の奥深くを抜け出そうとしたその時。
頭上を覆い尽くしていた木の枝葉が唐突に途切れる。
まるで薄霧が一散に吹き払われたかのように。
視界が晴れると同時に踏み出したその先で、諏訪子は目を見開く。
「――――ぁ」
目の前に広がる――あまりにも圧倒的で、あまりにも美しい『幻想郷』。
そこには、外界の灰色に沈んだ閉塞感は微塵も存在しない。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほどどこまでも深く透き通った、コバルトブルーの青空。
頭上には、太陽の光を燦々と浴びた巨大な白雲がまるで光の城郭のように存在し、吹き抜ける風に合わせた柔らかな光を地上へ散らしている。
見渡す限りの地表に広がるのは、溢れる光を受けて鮮やかに輝くエメラルドグリーンの生命の絨毯。それらは風が優しく撫でる度に美しい草波を立てて光を打ち返していて。
そんな草波の中で、白や黄色の小さな野花たちが同じ様に揺れていた。
そこは、画面越しに夢見た世界。
生と神秘の息吹を存分に吐き出した――
画集を見るたび、曲の旋律を聴くたび、頭の中で幾度となく思い描いては焦がれ続けた『夢』。
だが、目の前に広がっているのはイラストの色彩よりも鮮烈で、そしてどんな小説の描写よりも圧倒的なもの。
今、目の前で風となり、匂いとなり、光となって呼吸している『現実』の世界。
追い求めた夢が目前に広がっている。
ずっと、ずっと夢焦がれたその世界。
「…………ぁ……」
声にならない呼気が、小さな唇から漏れ出た。
そのあまりにも眩しく、あまりにも美しい光景を前にして――『彼』が、溢れ出る涙を流す。
(やっと、やっと――)
何年、何十年、何百年。
どれほどの時間を越えて、この場所に辿り着きたかったのだろう。
胸の奥底から激流となって溢れ出す感情が、目から、そして頬にかけて止めどなく流れ落ちていく。
溢れる涙を拭う事すら忘れ、『彼』は溢れんばかりの息を胸いっぱいに吸い込んだ。
胸が痛いほどの生気に満ちた空気が、全身の細胞を優しく満たしていく。
そして――。
どこまでも続く青々とした丘を。
光溢れるコバルトブルーの空の下を、弾むように力強く駆け出した。
第二部、完!
最後の風景描写は作者が昔『神々が恋した幻想郷【On Vocal】』のニコカラ映像に心を奪われたので、同じ思い出がある読者に向けたものです。
あと次回から三部です、頑張れレミリア。
投稿時間は何時がいいか
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