オリジナルです。
 ちょっと不思議な月夜の話。

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月の蟲

 馬鹿みたいに大きく口を開けた木立の隙間から、これまた呆れるくらい大きな満月が覗き込んでいた。煌々と降り注ぐ月光は夜の森の中にポッカリと空いた空間を淡く儚く、それでいて明るく照らし出す。その様はさながら、森の中に作られた劇場の舞台を思わせた。

 その舞台の中心に、ポツンと立つ人影が一つ。

 見た目から、容易に大人ではないと知れる、小さく華奢な体躯。その身を覆うのは、夜闇の中で尚黒く深く、陽炎の様に揺らぎ浮ぶ漆黒のローブ。目深に被るのは、同じく漆黒のつば広帽。その下から長く溢れ流れるのは、白い月光の中、其を反して淡く輝く(しら) の髪。

 夜風に踊るその間から覗くのは、まだあどけなさを多分に残しながらも酷く整った造形。年のころは、十代後半と思われる少女。

 彼女は演劇の主役よろしく月の照明の真中に佇みながら、その細い喉を反らして天を仰ぎ見ていた。物憂げに開かれた眼差しの中に浮ぶのは、目にも鮮やかな深紅を映した瞳。切り開いたばかりの傷口から滴る滴をそのまま落とし込んだ様なそれは、その中にもう一つの夜を納める様に天空の月を映し込んでいた。

 深い深い、夜の森。

 澄んだ静寂。

 停まった静謐。

 人の界と隔てられたその中で、少女は一人、月と見つめ合う。

 ――と。

「あは、珍しい」

 不意に響く声。今この場所においては、異端としかいい様のない響き。けれど、少女は特に驚く様子もなく天を仰いだまま。ただ、その瞳だけがキョロリと声の方向に向けられる。視線の先、月光の舞台から外れた木立の中。亜麻色の髪がフワリと揺れる。

「人がいるよ。しかも、女の子」

 いつの間にか少女がもう一人、立っていた。白髪の少女と同様、幼さの残る顔に人懐こそうな微笑みを浮かべると、踊る様な足取りで月光の舞台へと進み出る。

 トントンと軽いステップを踏みながら前に立つと、役者が舞台の上から観客に向かってする様に「こんばんは」とお辞儀を一つ。その恰好のまま、顔だけを上げて目の前の顔を覗き込む。

 琥珀色の瞳に映る、深紅の瞳。

「わぁ!! すごい、綺麗な眼!! それ本物? カラコンとかじゃなくて? それにこの髪! こんな色、リアルじゃ初めて見た!! これも地毛? 染めてるとか、脱色してるとかじゃなくて?」

 キャラキャラとはしゃぎながら、揺れる白の束に触れようとして。

 やっと、向けられた眼差しの冷ややかさに気付いた。

「あぅ! ご、ごめん!! あんまり綺麗だったから、つい……」

 バツが悪そうに、謝罪の言葉を述べながらペコペコと頭を下げる。それでも、向けられる相手の目からは冷ややかさが消える様子は一向にない。

 ますます、慌てる。

「う……ま、まだ、怒ってる? ってか、静かにマジギレ? そんなに気に障った? あ!ひょっとして、他人に触られるの嫌なタイプ? うわ、マズ!! ファーストコンタクトにして第一印象最悪!? ってか、完全決裂!? うわうわ、マジマズ!! どーしよど-する!! っつか、謝るしかないじゃない!! 御免なさいすいません申し訳ありませんお許しくださいソーリーブーシーミアンハムニダ!!」

 テンパリながら、知りうる限りの謝罪の言葉を連ねる。しかし、

「………」

「………」

 やはり、返事はない。どころか、唯一こちらに向けられていた筈の視線すら、いつの間にか空の月へと戻ってしまっている。

 再び訪れる静寂。

 少女の額、いや全身から噴き出す汗。ほとんど、油を絞られるガマガエル状態。静寂の重圧に耐えかねて、もう一度声がけようとしたその時、

「無粋だな」

「……へ?」

 不意に飛んできた言葉に、ポカンとして目の前の白髪を見やる。

 その視線を変わらずの視線で返しながら、白髪の少女はもう一度その容姿にふさわしい鈴音の様な声で言葉を紡いでいく。

「あの月」

「はい?」

 訳が分からぬと言った顔の少女。その意識を、視線だけで天上に招く。

「綺麗な月だ。こんな夜は、静かに観月と限る。なのに、君みたいに騒がしくしたら台無しだ」

「はぁ……」

「分かったら、すこし静かにしておくといい」

「は、はい……」

 穏やかながらも、有無を言わさぬ圧。思わず頷く。

「よろしい」

 そう言うと、白髪の少女は三度(みたび) 視線を夜空の真円へと向けてしまう。その様を、もう一人の少女は畏まって見守る。

「………」

 見守る。

「………」

 見守る。

「………」

 見守る。

「………」

 そして。

「ちょっと!! これじゃ、さっぱり話が進まないじゃないぃいーっ!!」

 やっと、気づいた。

 

 

「じゃあ、改めて自己紹介。あたしは、比奈野弥生(ひなのやよい) 。三月生まれなんで。この間、十五になった」

 

 気を取り直した様に人懐こい笑顔を浮かべながらそう言うと、弥生と名乗った少女は目の前の白髪に向かってもう一度頭を下げた。けれど悲しきかな、求める答えは一向に返ってこない。

「あ、あのねぇ!」

 いい加減腹に据え兼ねたのか、些か険のこもった声音で迫る。

「いい加減にしてくれない? そこの方。お寺の仁王様だって、君の一億倍は愛想があるよ!?」

 牙の様に八重歯をむきながら噛み付く。もっとも、当の彼女には糠に釘。その態度がさらに癇に障ったのだろう。弥生はますますムキになる。

「ちょっと!! 人がこぉんなに友好的に自己紹介したんだから、そっちも快く自己紹介し返してくれるのが人としての礼儀だと思うんだけど!? そこんとこ、どう思ってんの!?」

 大きめの瞳を潤ませながら、両手を振り回して喚き散らす。その有様に流石に辟易したのか、少女が溜息をついた。

「……叉夜……」

 いかにも、面倒くさそうに。

「ん?」

夜皎叉夜(やしろさや) だ。叉夜と呼べばいい」

「叉夜さんね。ようし。よくゲロった」

 頷く弥生を見て、やれやれと言った様で頭を掻く叉夜。

「まあ、字名(あざな) だがね」

「は? あざな?」

 ポカンとする。何の事か分からない。

「あだ名みたいなものだよ」

「はぁ? あだ名だぁ!?」

 その言葉に弥生、再びいきり立つ。

「何よそれ!! こっちが本名名乗ってんのに、そっちはあだ名とか!! ふざけんなよ!! しまいにゃ、その澄まし顔両手でプレスして前歯ガチガチ言わすぞ!!」

 大概、腹に据え兼ねてきたのだろう。相当剣呑な事を、真顔で言い出す。しかし、肝心の叉夜は極めて涼しい顔で返す。

「君は、私の何を望んでいる?」

「へ?」

 再び、ポカン。

「名というのは、単なる個体識別のための鑑札ではない。それは、言霊(ことだま) 。持ち主本人の魂を縛る呪い言だ。名を晒すなど、自分の魂を晒すも同義。それを知りたいのなら、相応の対価が必要となる」

「そ、そんな重大な事……?」

 想定外の事態に、慄く弥生。そんな彼女を、朱い瞳がキョロリと映す。

「さあ、君は私の何を望む? その対価に、何を差し出す?」

「そ、それは……」

「それは?」

 言葉の圧力が、半端じゃない。叉夜が、首だけをこちらに向ける。見つめてくる、深紅の瞳。それが、無言で問いかける。有音の次は、無音の圧力。

「う……うぅう……」

 いたいけな少女に、抗う術はない。

「わ、分かった!! 分かったから!!」

「ん?」

「もういいです!! あだ名でいいです!! だから、もう許してーっ!!」

 勝負が決した、瞬間だった。

 

 

「……で、叉夜さんは何をしてるんだっけ……?」

 半泣きでそんな事を訊いてくる弥生を、叉夜は冷ややかな顔で見やる。

「君は、記憶力が皆無だな」

 身も蓋もない言い様。胸を押さえた弥生が、ウッと苦しげに呻く。

「先も言っただろう? 観月だよ。ここは、良い月が見える」

 そう言って見上げた先には、満天の星と闇の虚空に浮かぶ真円の月。

 

「ふぅん……。あたし、見慣れちゃってるからなぁ……」

 よく分からない、といった顔で頭を掻く弥生。細い指に梳られた髪から、夜風に乗って甘い香りが流れた。

「でもさ……」

 そう言って、改めて叉夜に向き直る。

「ここ、こんな時間に君みたいな子供がお月見に来る様な場所じゃないと思うんだけどなぁ……?」

 言いながら辺りを見回せば、鬱蒼とした木々の群れと夜の闇。人の世と隔てられた、隠者の世界。確かに、十代も半ばと言った子供が宵も過ぎた時刻にいる場所ではない。

「自分の事は、棚上げか?」

 全くもって当然の反論。けれど、弥生は悪びれるどころか得意げに胸を張る。

「あたしはいいの」

「何故?」

「だって、あたしの家ってあそこだもん」

 そう言って、指差した先。間近な山の中腹からせり出した峰の先に、黒い影が見て取れた。夜闇に包まれて分かりにくいが、窓らしき部分から淡い光が漏れている。確かに何かしらの建造物であることが分かる。

「パパが建てたの。うちのパパって変りモンでさ。人付き合いを嫌がって、こんな山ん中に小屋を建てて……。家族(あたし達) まで引っ張って来て、皆して山暮らし」

 何でもない事の様に紡がれた言葉。叉夜が初めて、弥生に向き直る。長い前髪の間から朱色の瞳が覗き、弥生の姿を映した。

「家族揃って? 酔狂だな。随分と、物分りがいい事だ」

「……分かる?」

 探る様な響きを孕んだ言葉。小悪魔の様に笑って、ぺロッと舌を出す。

 「訳ありだよ。ちょっとした事情でね、町にいられなくなっちゃった。全く、この歳で陰棲生活おくる事になるなんて思わなかったよ。ほんと、人生分かんないもんだよねぇ」

 一般的観点で言えば、とてもマトモでは無い現況。友人に失敗談でも話す様な調子で語ると、コロコロと楽しそうに笑った。

 その笑い声が、ピタリと止む。

「でもさぁ……」

 何やら含みのある光を瞳に浮かべると、弥生は腰を屈めて上目使いに覗きこむ。

「訳ありってんなら、叉夜さんも同じ様なもんなんじゃない? こんな所に、こんな時間に、一人でいるんだもんね……?」

 ゆっくりと、叉夜の周りを歩き出す。クルクルと歩き回りながら、品定めでもするかの様な視線で舐めまわす。

「ふむ……」

 ひとしきり回ると、叉夜の真正面でピタリと立ち止る。人懐っこそうな顔が、ひょいと突きつけられた。お互いの呼気がかかるほどの距離で、朱と琥珀の視線が絡み合う。

「……興味、あるなぁ……」

 そう言って、ニコリと微笑む。年齢(とし)に似合わない、不思議な艶を含んだ笑み。

「ねぇ、うちに来ない?」

 妙に甘い声が、切り出した。

「今日ね、パパもママも、留守なんだ。いるのは、あたしと妹だけ」

 まるで恋する乙女が、想い人を誘う様な口調。言葉が紡がれる度、微かに甘い吐息が香る。

「女の子が二人だけじゃ不安だし、ちょっと怖い。それに……」

 弥生の腕が、スルリと伸びる。

「ここの夜は、一人で過ごすには寒すぎるよ?」

 細い指が、ツウと白い頬に触れる。

「ほら、もうこんなに冷たくなってる……」

 両の手が頬を包み、眼前の顔をさらに引き寄せる。それは、もう少しで互いの唇が触れ合おうかという程の距離。

「ねぇ、おいでよ。暖かいよ。話をしようよ」

 優しく、甘く、誘いかける。

 けれど、当の叉夜はそんな誘いにも無表の仮面を貼り付けたまま。ただ、朱色の瞳だけが冷淡に、絡み付く琥珀の視線を受け止める。

「むぅ~~!!」

 態度に気をそがれたのか悪くしたのか、弥生の口調がコロリと変わる。

「ねぇ!! こんな美少女が、あつ~くお誘いかけてんのに!! 何さ!? その鳴いてるキチキチバッタでも見る様な態度!!」

 一頻り喚くと、いきなり叉夜のローブの中に腕を突っ込む。華奢な腕が、同じ様に華奢な腕をガシッと掴んだ。

「言っとくけど、お断りは却下ですからね!! 叉夜さんはあたしの秘密を知っちゃいました!! 秘密を知った人を、このまま帰すわけにはいきません!! 拒否権はありません!!」

 理不尽な理屈をまくし立てながら、掴んだ手に逃がしはしないと言わんばかりに力を込める。

「さぁ、チャッチャッと歩きなさい!!」

 恋する乙女は帝国主義の憲兵に変ったらしい。叉夜が、溜息をつく。それを諦めの了承と受け取ったのか、弥生の顔に満足気な笑みが浮かんだ。

「それ!! ゴーゴー!!」

 空では真円の月が、一部始終を眺めていた。呆れた様に、煌々と青く輝きながら。

 

 

 森の深淵に降り注ぐ月明かり。その中を、二つの小柄な人影が歩いていた。一方の影がもう一方の影の手を引いて。行く先にあるのは、ひっそりと立つ一棟の山小屋。

 ログハウス風の外見にレンガ造りの煙突。春の星空に白い煙をモクモクとたゆらせるそれに向かって、二つの影はフラフラと踊る様に歩いていく。

「ただいまー」

 楽しげな声とともに、一枚板で出来た戸が低く軋む音を立てて開いた。

「さ、上がって上がって」

 久方の客人(まろうど) が嬉しいのだろうか。はしゃいだ声を上げながら、急かす様に腕を引く。半ば無理やり引っ張り込まれた叉夜が、心なしか渋い顔をした。

 少々辟易しながらも、その朱眼で招き入れられた部屋を見回す。

 間取りの広い部屋。フローリングの床にログ造りの壁。部屋の中央では煙突と同じ、レンガ造りの暖炉が明々と燃えていた。流石に電気やガスの類は通っていないらしく、光源はテーブルの上に置かれたランタンのみ。けれど、それを除けば山小屋というよりは小洒落た別荘といっても申し分のない造りだった。

 「へへ、いいでしょ?」

 弥生が、得意げに胸を張った。

 そんな彼女の声が聞こえているのかいないのか、叉夜は突っ立ったまま、ランタンの光を眩しそうにみつめていた。と、そこに奇妙な音が聞こえて来た。

 ズル……ズル……ズル……。

 重い布袋を引きずる様な、あるいは巨大な(くちなわ) が這いずる様な、そんな音。

 ズル……ズル……ズル……。

 音は、叉夜と弥生のいる居間の隣。引き戸一つを隔てた向こうから聞こえてくる。

 ズル……ズル……ズル……。

 ゆっくりと近づいてくる。それとともに、戸の隙間から奇妙な匂いが漂ってきた。幾つかの異なる匂いが折り重なった、混沌とした匂い。何かの(こう) か、嗅ぎ慣れない香気。しっとりと湿った、土の匂い。咽気を誘う、草いきれ。そして……。

 叉夜は無言で、音のする引き戸を見つめる。音が、戸の直ぐ向こう側でピタリと止まる。

 やがて、スルスルと細い音とともに、引き戸がゆっくりと開き始めた。細く開いたその隙間向こうから、蝋燭のものらしい淡い明かりが漏れる。その暗い光の中で細い影が動いた。

「お帰りなさい……お姉ちゃん……」

 そんな声とともに戸の隙間から覗いたのは、叉夜や弥生よりも二つ三つ幼い少女の顔。全体の姿こそ分からないものの、肩口で短めに切りそろえた髪形や病的な肌の白さを除けば、弥生のそれによく似ている。

「……誰……?」

 弥生と同じ、琥珀色の瞳が見知らぬ訪問者を写す。微かに歪められる、細い眉根。叉夜としばし、無言で見つめ合う。空気が、奇妙に張り詰めた。

「あ、皐月(さつき)だよ。さっき言った、あたしの妹」

 その空気を和らげるかの様に、弥生が言葉を挟む。

「お客様だよ。挨拶しなさい」

 けれど、皐月と呼ばれた少女が姉の言葉に応じる事はなかった。無言のまま閉じられる引き戸。そして、先程と同じ、ズルズルと言う音が閉じた戸の向こうで遠ざかっていった。

「あ~、えっとぉ……ご、ごめんね。あの娘、何ていうか、酷く人見知りするたちでさぁ……」

 気まずそうに取り繕う弥生をよそに、叉夜は遠ざかっていく音に耳を澄ます。その朱眼には、戸が閉じられる一瞬、皐月の顔に浮かんだ表情が焼きついていた。

 酷く何かに怯える様な、酷く何かを悲しむ様な、そんな顔だった。

 

 ◆

 

 ランタンの光に染まる部屋の虚空に、白い湯気がユラユラと舞う。手にしたポットから花柄のティーカップへ中身が注がれると、甘い香料の香りが部屋いっぱいに満ちた。

「はい、どうぞ。お手製だよん」

 そう言いながら、弥生はお茶菓子の入った器と共に湯気を立てるカップを叉夜の前に置く。

「なーんて言っても、インスタントですけど」

 カップの中身はレモンティー。インスタントらしく、わざとらしい程に人工的なレモンの香りが鼻をくすぐる。

「ちょっと沸かしすぎちゃった。熱いから、気をつけてね」

 叉夜は無言でカップを手に取ると、冷ましもせずに熱い湯気の立ち昇るそれに口を付ける。

「あっ!! そんないきなり口つけたら……!!」

 慌てる弥生に構わず、そのまま湯冷ましでも飲む様にコクコクと飲む。その様を見て、『あれ?』と小首を傾げる。

「……熱くないの?」

 叉夜は答えず、コクコクと琥珀色の液体を飲み干していく。

(……ひょっとして、これ(ぬる)い……?)

 自分の分のカップに、叉夜と同じ様に冷まさずに口をつける弥生。

「○×△□○△×☆――――!!」

 口を押さえて悶絶する様を横目に、叉夜はコクリと飲み干した。

 

 ◆

 

「弥生」

 不意にかけられた声。火傷で真っ赤になった舌を悲しそうに手鏡で確認していた弥生は、あからさまに驚いた顔で振向いた。

「うわ!? ひょっとして、話しかけた? あたしに!?」

 他人が見たら何事かと思うほどの喜色を浮かべ、叉夜に向かって身を乗り出す。

「ねっ、ねっ!! 初めてじゃない!? 叉夜さんの方から声かけてくれたの!!」

 大げさにはしゃぐ彼女。構う事なく。

「妹さん、足に不自由でも?」

 弥生の顔から、笑みが消えた。

「……何で?」

「さっき、妹さんが動く度に引きずるような音がしていた。それに……」

 そこで一旦言葉を区切ると、ちらりと弥生を見やる。

(こう)か何かの香りに混じって分かり難かったが、血の匂いがした」

「はは……。鼻、いいんだねぇ……」

 一旦色の消えた顔に、先程までとは違う苦い微笑みを浮かべながら弥生は答える。

「あの娘、そそっかしくてさ。土手から転がり落ちちゃって。途中にあった枯木で、太ももざっくり……。おかげで、しばらく動けなくなっちゃった。たまに酷く痛むから、薬がないと眠ることもできないんだけど……。でも、こんな所に住んでるから、薬の調達もままなんなくて。まぁ、それで不機嫌なところもあるって訳。」

「病院には?」

「今のあの娘には遠すぎるよ。傷に負担かかって、かえって悪くなっちゃう。だから、パパとママが泊りがけで街まで薬買いに行ってるの。パパは大分、渋ってたけどねぇ……」

「ふむ……」

 とりあえずは納得したのだろう。叉夜はそれ以上の詮索はせずに、注がれていた二杯目のお茶に口を付けた。

 楽しげに話す少女と、無愛想ながらもそれに付き合うもう一人の少女。そんな二人を、細く開いた引き戸から琥珀色の双眸が悲しげに見つめていた。

 

 ◆

 

 ボオン ボオン ボオン……

 灯りの落ちた小屋の中から、時を告げる時計の音が響く。その音を壁越しに聞きながら、叉夜は小屋の裏手に佇んでいた。

 時折、腰下までもある白髪を夜風が派手に嬲るが、それを気にすることもない。彼女はただ、その瞳を眼前の裏庭へと泳がせるだけ。

 森の闇の間にポッカリと開いた、狭いけれど開けた空間。

 そこにあるのは、暖炉にくべる為の薪の束と、ひなびたトマトやレタスが疎らに生えた小さな菜園。そして、煌々と降り注ぐ月明かりに照らされて整然と並ぶ、塚の群れ。

 掘り返して間もない黒土を積み上げた土饅頭。その上に立てられた、無骨な自然石。そして、それに稚拙な(すべ)で刻まれた文字。

 それが、幾つも幾つも。

 少し視線を落とすと、一番手前の塚が何かによって無残に掘り返されていた。倒れた碑石。散らばる黒土。掘り穿たれた穴の中から覗くそれが、降り注ぐ月明かりを青白い燐火の様に照り返す。暗い眼窩が、自分を見つめる少女の視線を虚ろに浮け返していた。

 「……何してるの?」

 視界の端で、白い影が揺れる。

 身に纏った白襦袢の裾が足元の草に擦れ、サラサラと乾いた音を立てる。身に着けたものはそれだけなのか。月明かりの中、薄い布地に素肌の色が透けて見えた。亜麻色の髪が吹き通る夜風に舞い、甘い香を散らした。

「部屋にいないから、驚いちゃった」

 サラサラと歩いて隣に立った弥生。その顔を叉夜に向けて、にこりと笑む。歳に似合わない、酷く妖艶な笑みだった。

「ごめんね。寒かったね」

 そう言って腰を屈めると、足元に転がるそれを抱き上げる。そして、元の穴へと納めると、周りの土をかき集め、被せ始めた。

「どうして、気付いたの?」

 後ろで見つめている叉夜に、背を向けたまま尋ねる。

「匂い」

「匂い?」

「この家に入る時、裏手(こちら)の方から墓土の匂いがした」

「はは、本当に鼻、良いんだねぇ……」

 苦笑いを浮かべながら、作業を続ける。

「ここにいる方々は誰かな? まさか、先祖代々とは言わないだろう?」

「そうだね」

 笑って、答える。

「あのね。この辺りの土、落ち葉がいっぱい混じってるの。だから、ふわふわしてて、温かくって、とっても寝心地がいいんだよ」

 穴を満たしながら土を一握り、叉夜に向かって差し出した。

「ほら」

「………」

 黙って土を受け取ると、手の中で転がす。良くこなれた腐葉土が、サラサラと指の隙間から零れて散った。

「ね、いい感じでしょ?」

 土を均すと、その上に転がっていた碑石を乗せる。

「でも、掘り易いのがたまに傷かな。こんな風に、よく獣に掘り返されちゃうんだ」

 合掌。しばしの黙祷の後、ゆっくりと立ち上がると、襦袢に付いた汚れをポンポンとはらう。その様子を、背後で叉夜は佇んだままじっと見つめる。そんな彼女を見て、またニコリ。

「だから……」

 着物の裾を優雅に舞わせ、クルリと振り返る。

「叉夜さんも、気持ち良く眠れると思うよ」

 叉夜の視線が、弥生の右手に注がれる。手の中で輝く、一振りの短刀。

 微笑む、弥生。酷く、優しい。

 ゆっくりとした足取りで、近づく。一歩、一歩、ゆっくりと。

「動かないでね……」

 だらりと下がっていた短刀の切っ先が、ゆらりと上がる。

「動くと、一度で終わらせてあげられないから」

 月を背負う顔が影に沈み、笑みの形に歪んだ口だけがやけにはっきりと見えた。

 一歩。

 もう一歩。

 叉夜が言う。

「大人しく?」

「……そう?」

 ニコニコ笑みながら、もう一歩。

「――っ!?」

 不意に叉夜が、ふらふらと小屋の外壁にもたれかかった。そのまま崩れ落ちそうになる身体を、壁についた左手が辛うじて支える。その手首を、視界の外から伸びてきたもう一本の手がガシッと掴んだ。

「ほら、捕まえた」

 得意気な声に、顔を上げる。霞む視界いっぱいに飛び込む、満面の笑み。手首を掴む手を振り解こうとするが、すでにそれすらも適わない。ただ、だらりと下がった右手がプルプルと刻む様な痙攣を繰り返すだけ。

「危ないよ」

 脱力する細い身体を、弥生が抱き抱える様にして支える。うなだれた頭が微かに動き、半ば焦点を失った目が彼女を見つめる。

「動けない? 動けないよね」

 そう言って、またクスリと笑う。

「さっき飲んだお茶ね、そう、寝る前にわたしと一緒に飲んだやつ。あのね、叉夜さんの分、薬草を煮出したお湯で煎れてたんだよ。痛み止めとか、沈静の効果があるやつ。良く効くの。効き目が出るの、ちょっと遅いけど。それをね、多めに入れて、濃いめに煮出したの。大丈夫。大したことないよ。ちょっと、効果がきつめになるだけ。言ったよね。お手製だって。ねぇ、聞いてる? 聞いてないか……」

 いつしか叉夜は目を瞑り、糸のない操り人形の様にぐったりとその身体を弥生に委ねていた。弥生はほくそ笑み、自分の腕の中の細身に愛しげに腕を絡める。逆手に持たれた短刀が叉夜の背に回され、切っ先がピタリと心臓の位置に当てがわれた。

「あのね、今言った薬草、痛み止めの効果もあるって言ったでしょ? だからね……」

 手に、力が篭る。

「痛くないよ」

 鋭い切っ先が、サクリとローブに埋まる。そのまま一気に押し込もうとして。

 止めた。

「……(ここ) 外でやったら、汚れちゃうか……」

 右手を引くと、短刀を懐の鞘へと納める。改めて叉夜の身体を抱き直すと、小屋の戸口に向かってゆっくりと引きずり始めた。引きずられる音と、襦袢が擦れる音。それらが、静寂の中で控えめに響く。やがて、二人の姿が戸口の中の闇へと消える。少し遅れて、パタリと戸が閉じた。

 後に残るは、煌々と降り注ぐ月光と、寂しく鳴く夜の風だけ。

 

 ◆

 

「はぁ……」

 窓から射し込む月明かりで、青白く染まった小屋の居間。その中に叉夜を引っ張り込んだ弥生。動かない身体をフローリングの床に横たえると、一息つく様に自分もその側らに座り込んだ。

「これで良し……」

 そう一人ごちながら、額に浮いた汗を襦袢の裾で拭う。と、その火照った耳朶に細い鈴音が語りかけた。

「……お姉、ちゃん……」

「皐月?」

 振りかえると、細く開いた戸の隙間から琥珀の瞳が覗いていた。

「駄目だよ!! 大人しくしてないと!!」

 慌てた様子で近づく姉に、皐月は言う。

「だって……お姉ちゃん、いないんだもの……。夜は……いてよ……ずっと、一緒に……いてよ……。でないと、あたし……あたし……」

 荒い息遣いと共に、生気を感じさせない声が訴える。

「弥生……」

「一人に……しないで……。そばに、いて……」

 戸の隙間から細い腕が伸びる。蝋燭の様に青白いそれが、プルプルと震えながら差し伸ばされる。弥生は急いでそれを掴むと、愛しげに頬を寄せた。

「大丈夫。大丈夫だよ。あたしは、何処にも行かないから。パパやママみたいに、居なくなったりしないから」

 手に寄せられる、姉の温もり。それに安心したのか、戸の隙間の向こうから安らいだ溜息が漏れる。しかし。

「かはっ!?」

 突然咽返る様な声が響き、伸びていた腕がビクリと跳ね上がった。

「皐月っ!?」

「げっ、ぐ……けふっ!!」

 苦しげなうめきと、異常な呼吸音。弥生の手から皐月の腕が落ち、ガリガリと床を掻き毟った。

「いけない!! 待ってて!!」

 そう言って、身を翻す。視線の先には、横たわる叉夜の姿。走り寄りながら、懐に右手を入れる。抜き出した手の先で、銀の閃きが闇に走る。研ぎ澄まされた切っ先が、叉夜の左胸に向けられた。

 叉夜は、目を覚まさない。

 一寸のためらいもなく、振り下ろされる切っ先。それが、心臓へ真っ直ぐに吸い込まれて――

 キョロリ。

 急に開いた朱色の眼が、迫る切っ先以上の鋭さで弥生を射貫いた。

「ひっ!!」

 息を呑むと同時に、叉夜の手刀が強かにその手を打つ。短刀が、乾いた音を立てて床に転がった。

「え……あ……」

 事態を飲み込めない弥生の前で、長い白髪(はくはつ)がザワリと踊る。畏怖さえ感じさせる程に鋭い朱眼に射すくめられ、弥生は猛禽に狙われた子兎の様にすくみ上がった。

「あ……な、んで……?」

「何が?」

 恐怖と混乱に喘ぎながら、辛うじて絞り出された言葉。それに、叉夜は酷く平坦な声で問う。

「だって……薬で……」

「ああ、あれか」

 そんな事かと言う様な口調で、答える。

「クサノオウの刺激を誤魔化すのに熱い紅茶に混ぜるというのは、稚拙だが良い手だとは思うよ。けれど、願わくばもう少し種類を厳選すべきだな。クサノオウはやはりきつ過ぎる。まだ舌がピリピリするよ」

「気付いて……たの……?」

 その言葉を、叉夜は頷いて肯定する。

「目的に興味があった。探らせてもらったよ。大丈夫、その道は得意分野でね。解毒処置はやってある」

 言いながら一歩、歩を進める。気圧される様に後ずさる、弥生。

「君達の話は聞いていたが……」

 もう一歩。背が、襖に当る。

「聞けば聞く程、妙な話だ。妹さんの病態と、私の命と、どういう関係があるのかな?」

 朱い目が、キュウッと細まる。

「さて、目的は?」

「………」

 弥生が生唾を飲み込む音が、仄闇の中にやけに大きく響いた。

「………?」

 それまで弥生に向けられていた叉夜の目が、ふと虚空を泳ぐ。その先に何の焦点も望まない視線。彼女の意識が、弥生から別のモノへ移ったことを意味する。

 一拍の間。そして――

 静寂を劈く撃音とともに、戸板が弾け飛んだ。

 反射的に飛びずさった叉夜の眼前を、白い何かが切り裂く。舞い散る破片。舞い上がる木塵。たち込める(こう)の香りと、咽返る様な木の匂い。

 硬い戸板を引き裂き、叉夜と弥生を隔てる様に生えた物。

 それは、節くれ立ち、曲がりくねった数本の枝。太く巨大な、木の枝だった。長年野晒しにされた白骨の様な樹皮に、所々緑色の苔を張りつかせたそれ。ギシギシと乾いた硬音を奏でながら、硬い樹皮を無視して理不尽に蠢く。その度に、表皮に幾筋も走ったひび割れの隙間から樹液とも体液ともつかない粘液が滴り落ち、夜闇の中に樹の匂いと血臭を漂わせた。

「………」

「………」

 突如として出現した怪異。けれど、叉夜は取り乱す様子も見せず、ただ黙って目の前の異形を凝視する。対して弥生は、酷く悲痛な表情を浮かべ立ちすくんでいた。

「……やめて……」

 蠢く樹足の間から、可憐な声が響く。

「お姉ちゃんを……虐めないで……」

 哀願の声とともに樹爪が床を噛み、狭い入口から己の生え出る本体を無理やりに部屋の中へと引きずり込んだ。半壊した入口がさらに抉られ、木片や埃が再び周囲に散る。数本の枝が伸び、舞い散る欠片から守る様に弥生を包む。

 一方、叉夜は退くでも避けるでもない。ただ立ちつくし、隙のない視線を眼前で蠢くそれ(・・)に向け続ける。

 パンパンに張り詰めた、半透明の薄皮。

 その下で脈打つ様に流動する、クリーム色の粘体。

 身に均等に刻まれた括れと、その一節ごとに突き出た一対の吸盤状の器官。

 挽肉の代わりに濃い溶かしバターを詰め込んだ、大きな腸詰を思わせる外見。

 内を流れる脂肪が滲み出したかの様に、テラテラヌルヌルと光る表皮。

 壊れた入口から、半ばその身体を捻じ込む様にして叉夜の前に身を投げ出した存在。外見から判断すればまさしく、現実にはありえない程に巨大な蛆虫だった。従来の蛆虫と違うのは、その頭部にあたる位置から八本の樹の枝が、まるで触手の様に伸びていると言う事。それが床に爪を立て、三脚の様に突っ張って鈍重な蛆虫の身体を鎌首をもたげる様に持ち上げる。そのままゆっくりと、上がった頭部が叉夜へと向き直った。

 闇の中でフワリと揺れる、亜麻色の髪。

 その合間から除く、大きな琥珀色の瞳。

 悲しみの色に染められながら叉夜に向けられるのは、姉と良く似た幼顔。

 白く細い首の下に続くのは、薄手のカットソーに包まれた、折れそうなまでに小さく華奢な身体。

 そこから伸びる腕も、まるで芽吹いたばかりの若木の様に細く弱々しい。

 夏夜のかげろうの様な、儚げで可憐な少女の肢体。

 それが、闇の中を無様に這いずる蛆虫の頭部(あたま)を形作るものだった。

「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……」

 蛆虫の頭がパクパクと口を開け、鈴の様な声を転がす。

「でも、お姉ちゃんは悪くない……悪くないの……」

 おぞましい巨躯に生えた、小さな少女。その顔は違う事なく、先刻弥生が皐月と呼んだ妹のそれ。小柄な身体を、恐怖と緊張、そして羞恥に震わせて、それでも姉を庇おうと、皐月は叉夜と弥生の間に立ち塞がる。見上げる眼差しを、怯えの混じる瞳が受け止める。薄い唇が息を吸い、萎縮しそうな声を必死に絞り出す。

「悪いのはあたし……あたしの、この身体……!!」

 そう言って、細い腕で自分の身体を掻き抱く。忌むように力の込められた両の爪先が柔肌に食い込み、朱の線がツウと蝋の様な肌の上を滑った。

 皐月の身体はへそより下、腰のくびれの辺りから異常に膨れ上がり、蛆虫状のそれへと変容している。人間としての身体と異形の境目は、まるで剥き出しになった心臓の様に縦横に大小の血管が走り、奇怪に脈打っている。蠢く八本の樹の枝は、その両の肩から不対照に四本ずつ、白い肌を突き破る様にして生えていた。

 儚くも美しい少女と、禍々しくおぞましい妖虫。それが生み出す、奇妙なコラボレーション。

 その様は、滑稽と言うにはあまりにも異様に過ぎ、悪趣味というにはあまりにも悲しく見えた。

 

 ◆

 

 あくまで表情は揺るがさず、目の前の異形を見つめる叉夜。彼女を、身体一つ高い場所から見下ろしながら、皐月の懇願はなおも続く。

「あたしの……あたしの身体が……欲しがるの……。欲しい。欲しいって……だから……だから、だからお姉ちゃんは……――っ!!」

 不意に途切れる、言葉。皐月の顔色が、見る見るうちに変わっていく。ただでさえ血の気の薄い肌がさらに蒼白になり、掻き抱いた身体が瘧にでも罹ったかの様に震え出す。

「か……ふ……っ!!」

 滑稽に思えるほど裏返った声が上がり、その身体が大きくビクリと震え仰け反った。

「か……ぐ……くぅ……ぎ……」

 悲鳴にすらならない、苦悶の声。身体が巨蛆(きょそ)の下半身から跳ね曲がり、半ば逆立ちの様な体制で崩れ落ちる。華奢な身が、壊れてしまうのではと思うほど激しい痙攣。細い指が爪も剥がれんばかりにガリガリと床を掻き毟り、紅い滴を周囲に撒き散らす。

 その様を見た弥生の顔が、恐怖と焦燥に強張る。

「皐月ぃっ!!」

 妹の呻きに重なる様に、姉の悲痛な叫びが響いた。

 

 ◆

 

 叉夜は少女の狂態を、冷めた目で見つめていた。彼女の視線がゆっくりと、悶える皐月の身体をなぞっていく。と、それがある一点でピタリと止まった。

 少女と、巨蛆(きょそ)の境目。不自然な体勢のせいで上着がめくれ、件の場所はよりはっきりとその様を晒し出していた。

 少女特有の、ほっそりとした柔らかい曲線を描く下腹部に、網の目の様に走る血管で強引に接合された巨蛆(きょそ)の腹。苦痛に戦慄き、ぐっしょりと脂汗に塗れた人の肌に対し、その濁油の詰まった薄皮は冷たく乾き切っている。

 それは、淡々と静かな脈動を繰り返していたかと思うと、突然大きく膨らみ、一拍の後に急速に縮まるという運動を繰り返していた。その様は、まるで玩具の蛙に空気を送るポンプの動きを連想させる。そして、蛆の腹が運動を成す度に、其と弥生を繋ぐ血管がグギュルと不気味に蠢く。その度に、

「あっ……かはっ!!」

 皐月の身体が苦悶のうめきを吐き、苦痛に跳ねるのだった。

 その様を見た叉夜の目が、冷たく光る。彼女が一歩、皐月に向かって踏み出したその時、

 不意にその身が翻った。

 一瞬前まで、叉夜の身体があった空間。そこを、白い閃きが切り裂いた。向き直った鼻先を、亜麻色の髪がかすめていく。

「存外しつこいな。君も」

 呆れのこもった呟き。向けられた先には、鬼気迫る様子で叉夜を睨みつける弥生の姿。その手には、いつの間にか拾い上げられた短刀。再び叉夜の鳩尾に向かって構えられた切っ先が、闇の中で鋭い光を放っていた。

「……お願い……」

 低く押し殺した声が、乞う。

「叉夜さんの命、頂戴……!!」

 己に向けられた言葉に沈黙で答え、叉夜はただ目を細める。

「……痛くない様に、するから……」

 弥生が、ジリッと叉夜に近寄る。

「……ちゃんとお墓、作るから……」

 一歩。

「一生、忘れないから……」

 もう、一歩。

「だから!!」

 叫びとともに、走り出す。光る短刀をしっかりと両手で構え、急所目掛けて一直線に。けれど、叉夜は眉一つ動かさず、迫り来る切っ先から容易く身をかわす。

「――っ!!」

 返す勢いで、もう一撃。けれど、結果は同じ。

「避けないでよぉっ!!」

 悲痛とさえ思える声を上げ、弥生はがむしゃらに刃を振り回す。半ば正気の失せた目に涙を浮かべながら、舞う様に刃先を逃げる叉夜を追う。

「ちょうだい!! 叉夜さんの身体!! 叉夜さんの命!! 無駄にしないから!! 骨の一片も、血の一滴も!!」

 大振りの一撃が空を切った瞬間、それまで常に刃の先にあった叉夜の身体が、スルリと弥生の懐に滑り込んだ。

「!!」

 不意を突かれた弥生の目が、驚きに見開く。気がついた時には夜の色が視界を覆い、細い腕がその身体を床にねじ伏せていた。短刀が再び、乾いた音を立てて床を転がる。的確に力点を封じられているのだろう。万力で締めつけられた様に、固められた腕はビクともしない。

「く……!!」

 痛みに顔を歪めながら見上げると、叉夜が冷ややかな眼差しで見下ろしていた。あれだけの大立ち回りを演じたというのに、息を切らすどころか、汗一滴浮かべてはいない。

「諦めるがいいよ」

「………」

 苦しげに喘ぐ弥生に向かって紡ぐ言葉は、数刻前にお茶を飲んでいた時と全く同じ調子。

 

「好きじゃない。荒事は。疲れるだけだから」

 その言葉に、何とか逃れようともがいていた弥生がギッと睨みつける。痛みに涙ぐみながらも、その瞳には以前絶える事無い鬼気が揺らめいていた。

「……叉夜さんこそ、やめてよ……。逃げるの……」

 多少自由の許されている左手が、自分を押さえつける手を掴む。

「お願い……ちょうだい……。貴女の、命……。あたし達には要るの……!! 欲しいの……!! あの娘には……。弥生には……!!」

 突き立てられる爪を気にもせず、溜息をつく。

 

「聞いていれば、随分と手前勝手な言い様じゃないか。命は唯一無二のものだ。くれと言われてやる馬鹿が、いると思うのか?」

 その言葉に、弥生の顔がクニャリと歪んだ。

「分かるよ。だって、ここはそういう所なんだもの……。そういう人達しか、来れない所なんだもの……」

 たった今まで、顔に浮かんでいた筈の苦痛の色が消えている。代わりに、そこには奇妙な笑みが張りついていた。

「ねえ……。叉夜さんは、何をしたの……?」

「………?」

 小首を傾げる。

「何をしたの? 何があったの? 居場所が無いの? それとも無くしちゃったの? 命の使い方ってわかる? 分からないでしょ? 無駄な使い方してるでしょ? そういう人の前にだけ、開く様にしてあるんだもの。ここ(・・)の入口は」

 腕を掴む手に、さらに力がこもる。

「無駄だよね? 居場所がなくて、使い道もなくて。辛いでしょ? 苛々するでしょ?それもこれも、重い命を持ってるからだよ。持っててもしょうがない、使い道の分からない命を、持ってるからだよ。重すぎる荷物持つと、辛いよね? 苦しいよね? それが使い道のない、いらないものだと、苛々しちゃうよね?それと、同じ。そういう時、どうすればいいか分かる? 分かるよね? 荷物、下ろしちゃえばいいの。簡単でしょ? だからね、それと同じ様にすればいいの。でも、下ろした荷物は、どうすればいいと思う? そのまま、置いてっちゃあ、勿体ないよね? どうする? 教えてあげよっか?あげちゃえばいいの。欲しい人に、あげちゃえばいいの。そうすれば、自分は楽になるし、荷物は無駄にならないし、欲しかった人も満足するし、めでたしめでたし。」

 歪んだ笑みを貼り付けて、コロコロと笑う。笑う度に、締められた気管がヒュウヒュウと鳴るが、気にもしない。

「分かる? ここはね、そういう場所なの。おも~い命を持っちゃった人が、楽になる場所なの。だからね……」

 正気の失せた瞳が、叉夜の後ろを見上げた。

 

「叉夜さんの命、あたし達が貰ってあげる」

 叉夜の背に、冷たい呼気がかかる。

 瞬間、叉夜の頭の位置を風切の音と共に巨大な樹棍が通り過ぎた。床を転がる様にして身をかわす。目をやると、今まで床で悶えていた皐月がユラリと身を起こしていた。爛々と光る双眸が、叉夜を見つめる。

「……おネエちゃんヲ……イヂめルな……」

 呂律の狂った口調で、ボソリと呟く。薄い唇の隙間から、肉食獣の様に長く鋭い牙がのぞいた。八本の樹手が、ギシギシと軋みながらその先端を叉夜に向ける。

「……ユルさナイ……」

 歯牙をガチガチと鳴らしながら、ズズッとその巨躯が動く。

「オねえチャンをイジメルやつは……コロシテやる……!! ころしてヤルんダカラぁっっ!!」

 咆哮にも似た叫びと共に、樹手の一本が叉夜に向かって槍の様に突き出される。既でかわした所に、続けざまにもう一本。今度はかわし切れずに、ローブの一部が裂かれる。

「……一張羅なのだけど」

 少々不愉快げな色を浮かべた視線が、暴れる巨躯に守られる様にしてこちらを見つめている弥生を捕らえた。

 笑っていた。酷く嬉しそうに、そして優しく。

 三日月に歪んだ口が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 ――お墓、作ってあげるからね――。

 追い詰められた叉夜の背が、軽い音を立てて壁に当たった。

 八本の樹手が、叉夜を巻き込む様に夜の空気を裂く。粉塵が上がり、澄んだ夜気を汚す。それに混じる、獣の如き呻き声。夜天に浮かぶ月が、怯える様にユラリと揺れた。

 

 ◆

 

 弾け飛んだ小屋の壁。舞い散る破片を零しながら、巨大な影がその身を起こす。外壁を引き裂き、地面に突き刺さった八本の樹脚。その中に文字通り、篭の中の鳥になった叉夜の姿があった。その篭の口を塞ぐ様に覗き込んでくるのは、皐月と呼ばれていた少女の顔。

 見上げると、皐月がカチリと牙を鳴らした。

「捕まえタ」

 カチカチと牙を鳴らしながら、呂律の回らない口調で言葉を放つ。亀裂の様に、歪んだ笑みを浮かべる顔。

 そこにはもう、一途に姉を想っていた少女の面影はない。見開いた双眸を血走らせ、小さめの口から不釣合いな大きさの牙をむくその様は、もはや全く別の存在。それ(・・)が、言う。

「……おなカが、スイた……」

「?」

「……オナかガすいたヨ……。たべサ、せて……」

「食べる?」

 唐突に出た言葉に、叉夜は一瞬目を細める。けれどすぐに何か得心した様に、頭をかく。

「ああ、なるほど。そういう事か。これはまた、随分と面倒な」

 そう呟きながら、視線をちらと篭の外に向ける。襦袢を着崩した弥生が、ニコニコしながら手を振っていた。

「――バイバイ」

 次の瞬間、皐月の形をしたモノの口がバリッと裂けた。顕になる、無数の歯牙。それが、雪崩落ちる様に迫ってくる。巨蛆(きょそ)の身体が覆い被さる様に、叉夜を閉じ込めた篭の中を満たした。

 

 ◆

 

 目の前で、クリーム色の巨体がモゾモゾと蠢いている。それをぼんやりと眺めながら、弥生は壊れていない側の壁に背を預け、ほっと息をついた。

 これでいい。これでいいのだ。これでまたしばしの間、皐月は皐月でいてくれる。

 疲れた。

 壁に背を預けたまま、ズルズルとへたり込む様に腰を下ろす。目の前で、モゾモゾと哀れな少女を貪る妹。その様に、愛しげな視線を送る。華奢で小柄な娘だったけど、皐月の可愛い口では、食べきるのに一晩かかるだろう。

 その間に、とりあえずお風呂に入って、ゆっくり休んで、食べ終わったら、血とかいろんなもので汚れちゃってるだろうから、着替えさせてあげて、床を掃除して、骨を集めて、お墓を掘って――

 やらなきゃいけない事は、いっぱいだ。

 そこまで考えて、『あ』と声を上げた。

「『やしろさや』って、どう書くんだろう?」

 さて、困った。名前がなかったらお墓を作った時、様にならない。平仮名で書いてもいいけれど、あからさまに漢字な名前だ。締まりが悪い様な気がする。

 さて、どうしたものだろう。

「ちょっと、口では説明し辛いかな」

「!?」

 不意に聞こえてきた、聞き覚えのある声。文字通り、飛び上がって驚く。顔を上げると、目の前に叉夜が一寸変らぬ姿で立っていた。

「ひっ!?」

 思わずくぐもった悲鳴を上げる弥生。そんな彼女に向かって、叉夜は平然と言葉を続ける。

「『やしろ』の『や』は、そのまま『夜』だがね。『しろ』の方が面倒なんだ。ああ、漢和辞典などあると助かるのだけど……」

 淡々と言葉を紡ぐ。しかし、聞かされる方はとてもじゃないがそれどころではない。

「あ……貴女、一体……!?」

 驚愕と恐怖に青ざめた顔で見つめてくる弥生に、叉夜は微かに肩をすくめる。

「酷いな。化け物でも見るみたいに。自覚はしているが、面と向かってそんな目で見られるとさすがに傷つく」

 言葉のわりには飄々とした調子で言いながら、親指を立てて背後を示す。

「せめて、君の妹さんに向ける十分の一分くらいは、思いやりを持った対応を希望したいものだ」

「妹……皐月っ!?」

 その言葉に我にかえった弥生が、慌てて叉夜の肩越しに目をやった。

 視線の先に映ったのは、無残に大破したフローリングの床。そして、その上に長々と横たわる 巨蛆(きょそ)の姿。力なく投げ出されたその身体は輪郭がぼやけ、まるで陽炎か蜃気楼の様に危うげに揺らいでいた。

「さ、皐月ぃ!?」

 青いを通り越し、もはや土気色に近くなった顔で叉夜に向かって叫ぶ。

「な、何よ!? 皐月に……妹に、何したのよ!?」

 血を吐かんばかりの剣幕で詰め寄る弥生。叉夜は無言のまま、ローブの中から右手を出して晒す。

「………?」

 キョトンとしてそれを見つめる、弥生。握られていた手の平が、ゆっくりと開く。そこにあったのは、夜闇の中で白く輝く小さな欠片。

「?……?……?」

 弥生はしばしの間、訳が分からないといった顔で叉夜の手の中のそれ(・・)を見つめる。

 じっと。じっと。ただ、見つめる。

「?……?……?……?」

 やがて、見つめる目がゆっくりと歪み始める。細い肩が、怯える様にフルフルと震える。戦慄く唇の間から、カチカチと歯の根が鳴る音が聞こえた。

「あ……あぁ……あ……!? い、嫌ぁああっ!! 駄目ぇえっ!!」

 突然絶叫すると、弥生は叉夜に掴みかかった。伸ばされた手が叉夜の手の中のそれ(・・)をもぎ取ろうとするが、動きは速い。スルリスルリと、その指の間を抜けてしまう。

「駄目ぇっ!! 返してっ!! 返してってばぁっ!!」

 叫びながら、三度(みたび)掴みかかる。今度は、伸ばした手がローブの端にかかった。そのまま、ぶら下がる様にしがみ付く。

「……重いんだがね」

 眉を潜めた叉夜が、女の子にかけてはいけない言葉のトップスリーに入るそれを口にするが、弥生は気にもとめない。ただ、闇色のローブに爪を立てながら、叉夜の手の中のそれ(・・)に必死の形相で自分の手を伸ばす。けれど、叉夜の手はスルスルと蛇の様に動いて、捕まえることも出来ない。

「お願い……返して……皐月を、返して……」

 顔を涙と鼻水でグチャグチャにしながらすがりつく。

「妹なの……。一人しかいないの……。大事なの……。取らないで……。連れてかないで……。嫌だ……嫌だよぉ……!!」

「大事?」

 嗚咽混じりの声で連ねられた、言葉の羅列。その中から一言を拾い上げ、叉夜は冷淡な声を出した。

「その大事(・・)な妹さんに使ったのか? こんな、欠陥だらけの術を」

「………!?」

 嗚咽の声がピタリと止まる。バネ仕掛けの様に跳ね上がる顔。大きく見開いた目が、呆然と叉夜の顔を凝視した。

 その顔を見下ろしながら、言う。

「使ったのだろう?」

「………?」

 怖気が立つ程に冷たい声。手の中の欠片が、カリリと鳴る。

「これは、人骨(・・)だ」

「………」

「使ったのだね?」

 もう一度、問う。絶対の、確信を持ちながら。

「『反魂の術』、を」

 聞いた弥生の顔が、ピシリと強張った。

 

 ◆

 

 件の術は、『撰集抄』という古書において記される。

 今より千年ほどの昔、西行という名の僧侶がいた。

 彼は高野山での修業中、人恋しさに耐えられず、一つの禁呪を成す。その術は、本来鬼の術法を見真似したものであり、正真正銘の外法である。

 方法は、下記に準ずる。

 

 7日ほど断食を行った後、人のいない荒野に出る。そこで、あらかじめ手に入れた死人の骨を並べ置く。 骨には砒霜を塗り、イチゴとハコベの葉を揉み合わせ、骨にまぶす。 その後、骨を水で洗い、頭部の髪が生える箇所にサイカイの葉とムクゲの葉を焼いて作った灰を塗る。土嚢に畳を敷き、骨を畳の上に寝かせる。そのまま27日間放置した後、人間の母乳を炊く。そして骨に魂が戻る事を願えば、反魂の呪は叶うという。

 

 しかし、元より自然の摂理に反した代物。成功する道理は少ない。

 事実、西行も苦心の末に術を成したものの、黄泉帰った人間は顔の色青白く、符抜けた笛の様に奇妙な声でぼそぼそ喋るだけ代物。気味悪く思った西行は、結局それを山奥に捨ててしまったという。

 

「何処で仕入れたのか知らないが、無茶をしたと言うべきか、大したものだと言うべきか……」

 そう言って、叉夜は手の中の白片をまたカリリと鳴らす。

反魂(これ)は、西行程の術者さえ完璧には成せなかった難術だ。それを、形ばかりとは言え君の様な素人がよくも……」

 その言葉に、床に崩れ落ちていた弥生がボソリと答える。

「だって……だって、それしかなかったんだもの……。妹を、皐月を生かす方法は……」

 空言でも言う様に、紡がれる言の葉。それを飾る様に、周囲の木々が夜風に揺れる。

「妹さんが足が不自由と言うのは、見ての通り嘘。両親と一緒に住んでいると言うのも、嘘だろう?」

「……どうして?」

「家の中に残る人の気配が薄かった。少なくとも、一家族が暮らしてる様子はなかったからな」

「はは……。本当に、変な人……」

 乾いた声で、弥生が笑う。

「そんな事まで分かるなんて。一体、何?」

「些か、そっち側に足を突っ込んでいるだけさ。君と同じ様にね」

 言いながら、叉夜は持っていた欠片を弥生の前に放る。カツンと乾いた音を立てて、白い骨片が床で跳ねた。

「!!」

「戻しておやり。このままでは、術が解けてしまうだろう」

 目を剥いた弥生が、欠片に飛びつく。そのまま、倒れている皐月の姿をしたモノに駆け寄った。落ちていた短刀を拾い、皐月の服の胸を引き裂く。そのまま、左側の淡い膨らみに短刀を突き刺した。紅い雫が散り、白い身体がビクリと跳ねる。しかし、弥生はそれに構わず、握っていた骨片を開いた傷口に強引にねじ込んだ。

「……先刻、それ(・・)を摘出した時に気づいたのだが……」

 傍らで見ていた叉夜が、問う。

「今のその娘の身体、構成している素材でまともなのはそれ(・・)を含めた、数片だけだ。残りは、そこらの木の枝で代用しているな?」

「………」

 朱色の瞳がキョロリと動いて、沈黙する弥生を睨めつける。

「どういう事だ? ただでさえ成功率の低い術だ。何故、そんな余計なリスクを?」

「……しようがないよ……。これしか、残らなかったんだもの……」

 荒い息をつく皐月の肩をさすりながら、消え入る様な声で言う。

「……何があった?」

 叉夜の問いかけに、妹の形をしたモノを愛でながら弥生は言う。

「……パパはいない。ずっと昔に、あたし達を置いて何処かへ行った」

 

 ◆

 

 比奈野弥生は、劣悪な環境下で育った。

 たった一人の妹、皐月は生まれつき下半身に障害があり、他者の手を借りずしては生きる事もままならない身であった。

 そんな彼女を捨てる様に、父親は姿を消した。

 親としての責任も果たさず、父としての愛情も示さず、弥生達家族を捨てて失踪した。

 母親は、親となるにはあまりに未熟だった。

 いつまでも。いつまで経っても、消えた伴侶の影を追い続け、二人の子供を省みる事をしなかった。

 彼女は弥生を夫を追うための足かせと疎み、皐月を夫が自分を捨てた理由と憎んだ。少女二人が母から与えられたのは、愛情でもなければ食事でもない。躾という名の暴力だけ。

 皐月の介護は、全て弥生の仕事。

 その代わり、皐月は弥生が受ける心の傷の全てを受け止めた。弥生がいなければ皐月は生きていけなかったし、皐月がいなければ弥生はとうの昔に自分で自分の命を絶っていただろう。

 少しづつ、真綿で縊られていく様な毎日。その中で二人の姉妹は睦み合い、絆を強めていった。細い綱で奈落の上を渡る様に、二人は日々を生きていた。昨日も。今日も。これからも。

 けれど、破滅は訪れた。突然に。そして、あっさりと。

 雪の降る、寒い冬の日の事だった。弥生は自分と皐月のために調達したパンを持って、家路を急いでいた。

 最近、町内では食べ物を手に入れる事が難しくなっていた。同じ事を何度も繰り返したせいで、店側の警戒心が高くなってきていた。

 捕まる事は出来なかった。捕まって母親が呼ばれれば、家で待っているのは罰という名の暴力だった。

 それも、自分だけではない。原因を作ったとして、皐月も咎められ、殴られるのだ。そんな事は出来ない。

 けれど、食べない訳にもいかなかった。仕方なく、まだ顔の知られていない隣町にまで足を伸ばした。道は遠く、途中から降ってきた雪で薄い布地しか身につけていなかった身体は冷え切っていた。それでも、何とか食料は手に入れる事が出来た。

 小さな菓子パンが二つと、パック牛乳が一本。これで、今日一日を過ごす事が出来る。パンは、片方がクリームパンだった。皐月の好物だ。きっと、喜んでくれるに違いない。そう思いながら、家の戸を開けた。

 家の中は、冷気と異様な臭気に満たされていた。

 少しの混乱。

 けれど、次の瞬間にはそれがガスの臭いである事に気づく。

 ガス漏れ。

 そう悟ると同時に、家の中へと駆け込んだ。早くガスを止め、換気をしなくては。そう思った瞬間、背後で大きな音を立てて戸が閉まった。驚いて振り返るのと、ガチャリと鍵が掛かる音がするのとは同時だった。

 戸の前に、母親が立っていた。壮絶な姿だった。顔と服は真っ赤に染まり、ダラリと下げた右手には、鮮血の滴る包丁が握られていた。

 言葉を失い、立ち竦む弥生に向かって母親は言った。

「こうすれば、良かったんだねぇ」

 壊れた蓄音機が回る様な、そんな声だった。

「荷物を。邪魔なものを全部捨てれば、あの(ひと)の所に行けるんだ」

 生乾きの血で引きつる顔を歪ませ、母親は笑う。

「この家も。あんた達も。みんな。みんな、なくなればいいんだ」

 マズイと思った。

 完全に正気を失っていた。逃げなければ。そう思った瞬間、皐月の事が頭を過ぎった。反射的に皐月のいる部屋に視線を向けるのと、包丁を振りかざした母親が襲いかかって来るのは同時だった。

 咄嗟に避ける。振り下ろされた包丁が、頬を掠める。熱い痛み。バランスを崩して転ぶと、母親が覆い被さってきた。仰向けに組み敷かれた視界に、鋭い切っ先が迫る。咄嗟に、刃を両手で掴んだ。焼ける様な痛みが手に走るが、かまってはいられない。必死で、握り締める。滴り落ちる手で赤く染まる視界に、母親の壊れた笑みが映った。

「いい娘ね。弥生は、本当にいい娘。だから、ママの言う事、聞いてね」

 その言葉に、血を吐く思いで反論する。

「嫌だ!! いい娘なんかじゃなくていい!! やめて!! お願いだからやめて!!」

 実の娘の懇願に、母親は困った様な顔をした。

「ダメよ。我が儘言っちゃあ。皐月は、ちゃんと言う事、聞いてくれたのよ? お姉ちゃんのあなたが、そんな事言ってどうするの?」

 体中の血が、一瞬で下がった。反射的に、皐月がいる筈の部屋を見る。

 真っ赤だった。見える範囲の部屋の内部が、血で真っ赤に染まっていた。その床に、手が見えた。小さな。小さな手だった。ピクリとも動かないその手は、やっぱり真っ赤に染まっていた。

 ――頭の中で、何かが切れた――。

「うわぁああああっ!!」

 弥生は絶叫すると、覆い被さる母親の腹を力いっぱい蹴り上げた。

「ぐふっ」

 くぐもった声を上げて、母親の身体が転がる。弥生は起き上がると、母親が手放した包丁を手に取った。それを振り上げ、悶絶している母親に向ける。

「よくも……」

 躊躇はなかった。

「よくも!!」

 憐憫も湧かなかった。

「死んじゃえ!!」

 憎悪の言葉とともに、包丁を振り下ろした。

 手応えは、酷く不快だった。

「はあ……。はあ……」

 肩で息をしながら、血糊でぬめる手で顔を拭う。

「皐月……」

 フラリと立ち上がり、玄関に向かう。家に、電話は引いていない。助けを呼ぶには、外に出るしかない。震える手で、ドアノブを握ったその時。

「……康夫(やすお)さん……」

 か細い声が、聞こえた。自分達を捨てた、父親の名前だった。振り返ると、血の海に横たわった母親が笑んでいた。

 弥生を見るでもなく。皐月を想うでもなく。ただ、その男の面影だけを夢に見て。

「……今、行くわ……」

 真っ赤な手の中に、何かが握られていた。それがライターだと気づいた瞬間、全身が怖気立つ。

 家の中には、ガスの臭いが充満していた。

 「やめ……!!」

 幸せそうに笑んだ母親の手の中で、ライターが乾いた音を立てた。

 平屋建ての貸家は、木っ端微塵に吹き飛んだ。玄関にいた弥生は外に吹き飛ばされて一命を取り留めた。けれど、それだけ。母親も、皐月も、全ては炎の中に消えた。

 その後、通報を受けた警察や消防が駆けつけ、現場処理にあたった。弥生も事情を聞かれたが、何も分からない。住んでいたのは自分と母親だけだと、シラを切った。

 幸か不幸か、母親は皐月の事を世間に知らせてはいなかった。身体の不自由な我が子の存在を隠したかったのか。それとも、そんな我が子に成した所業を知られたくなかったのか。とにかく、警察も消防も弥生の言葉を信じ、原型を止めない遺体を母親と認定して捜査を終了した。もう一人の犠牲者、皐月の存在には気付く事もなく。

 その夜、弥生は保護所を抜け出して現場に戻った。目的は、ただ一つ。妹を。皐月をこの手に取り戻すため。月明かりだけが照らす中、弥生は探し続けた。今も変わらず、ここで自分を待っている筈の妹を。

 やがて、月が天頂を過ぎた頃、焼け焦げた残骸の中で佇む弥生の姿があった。

 その手の中には、黒く焦げた数個の欠片。指で擦ると煤が剥げ、白い地肌が覗く。弥生はそれを大切に。大切に胸にかき抱いた。

 

 

「さして珍しくもない話を、よくぞここまでこじらせたものだ」

 話を聞き終わった叉夜が、そう言って乱れた髪をかき上げる。

「……同情、してくれないんだね……」

「涙の一つも、欲しかったか?」

「まさか」

 ボソリと呟いた言葉に返ってくるのは、酷く素っ気のない言葉。けれど、それを歓迎する様に弥生は笑む。

「そんな事されちゃあ、やり辛くなるもの」

 そう言う彼女の向こうで、横たわっていた巨体がモゾリと動く。

「この娘は、こんなにお腹を空かせているのに……」

 肩越しに叉夜を見て、ほくそ笑む弥生。そして、半人半樹の妖魅がゆっくりとその身を起こした。

「……まだ?」

 ユラリユラリと揺れる、異形の影。それを背に負った弥生が、鬼気迫る表情で叉夜を見る。その手に持たれた短刀が、月の光を反して冷たく光った。

「……しようがないんだよ」

 昏く沈む声で、弥生は言う。

()がないと、皐月は皐月でなくなっちゃう。皐月が皐月でいるためには、()が必要なの……」

「それが、人の血肉という訳か」

 溜息を一つつくと、叉夜は言った。

「一つ、私の見地を聞いてもらおうか」

「……見地?」

 キョトンとする弥生。構わずに、続ける。

「『樹木子(じゅぼっこ)』と言うモノを、知っているか?」

「じゅぼっこ……?」

 首を傾げる弥生。答えなど期待していないのだろう。叉夜は淡々と話す。まるで、医師が患者に病状を説明する様に。

「『樹木子(じゅぼっこ)』。君の大事な妹さんの半身だよ。古戦場などに生えた老木が、死体から流れた血や腐汁を啜るうちに生ずる。凶暴で貪欲。人を食う妖物だ。君は術を行う際、足りない人骨を補うために木の枝を使った。それが、樹木子(そいつ)の一部だったんだろう」

 言いながら、叉夜は周囲の森を見回す。

「そもそも、この山林自体が樹木子(じゅぼっこ)の作った神域だ。言ったね。『ここは、命を無駄に使う人間の前にだけ、開く様にしてある』と。恐らくは、妹さんの仕業だろうが、それとても妹さんの意思じゃない」

「………」

 沈黙する弥生。背後の異形も、まるで話の続きを求める様に動かない。

「分かるかな?」

 故に、叉夜は続ける。この地を満たす、怪異の真理を。

「分かるだろう? 人の命を求めているのは、妹さんではない。その身に宿る、樹木子(じゅぼっこ)の方だ。妹さんが苦痛を訴えるのは、樹木子(そいつ)が飢えを訴えるから。妹さん本人が欲しがってる訳ではない。」

「だ、だから何よ!!」

 ようやく、弥生が口を開いた。何かを振り払う様に、叉夜に向かって食ってかかる。

「中身がどうだとか、何が求めているかなんて、関係ない!! 皐月なの!! 苦しむのは、皐月なの!! 痛いって!! 苦しいって!! それを止めてあげなきゃ!! 治してあげなきゃ!! それとも何!? この子に、一生苦しんでろって言いたいの!?」

「……望んでるのか?」

「……え?」

 激情を、冷めた声があっさりといなす。

 戸惑う弥生を、冷えた視線が射抜く。

「妹さんの本意だよ。君の妹さんは、望んでいるのか? 今の様な、在り方を」

 そう言って、弥生の向こうの彼女を見る。その視線が、彼女のものとかち合った。

 悲痛な、眼差しだった。血への渇望に喘ぎながら、心の痛みに苦しむ眼差しだった。

「……ふむ」

 それを見た叉夜が、ローブの裾を揺らした。黒衣の中からスルリと出てくる細い手。そこには、ひと振りのメスが握られていた。先刻、皐月の身体から骨片を抜き出したのも、これだろうか。その刃は、紅い液に濡れている。

 強張る、弥生の顔。

 

「……何、する気……?」

「その子の中から、核となる骨片を全て摘出する」

「な……!!」

 絶句する弥生の前で、叉夜が取り出した脱脂綿でメスを拭う。強いアルコールの匂いが、夜風に漂った。

 弥生が、悲鳴の様な声で叫ぶ。

「やめて!! そんな事されたら、皐月が死んじゃう!!」

「その子が、望んでいる」

 身体が震えた。

「分かっているのだろう。その子の心は、今の在り方を望んではいない。むしろ、苦痛に思っている。本能に従えば、心が痛み、心に従えば身体が病む。文字通りの無間地獄だ。それから開放してやる事こそ、その子のためだと思うが?」

 紡がれる言葉が、不意に途切れた。

 朱い瞳が、淡々と己の足元を見つめる。その視線を、見上げる琥珀の瞳が受け止めた。狂気と怒りと、憎悪の入り混じった瞳。

「………」

「………」

 朱色に凍った視線と、凶色(まがいろ)に染まった視線が、無言で絡み合う。

 瞬間、叉夜の胸に飛び込んだ弥生。白い手に握られた短刀が、鳩尾に深々と突き刺さっていた。握った短刀の柄に渾身の力を込めると、突き立てた身体ごと振り回して背後の壁に叩きつけた。

「許さない……そんな事、絶対に許さない……」

 そのまま、壁と自分の身体で挟み込む様にして、刺した刃をさらに深く押し込んでいく。深く、深く、ギリギリと。

「皐月は、あたしのもの……。あたしだけのもの……」

 短刀が、埋まっていく。

「奪う奴は、許さない……」

 どこまでも。どこまでも。

 

「……許さない……許さない!!」

 根元まで、叉夜の中に埋まった刃。それを、グリリと抉る。叉夜の中の何かが、ミチミチと湿った音を立てる。

「渡さない!! 離さない!! ずっと……ずっと二人だけで生きてくの!! あたしが皐月を守って、皐月があたしを救ってくれて……!! これからも、そう!! ずっと、ずっと!! そうあり続ける!! だから、だから、そんな事を言う奴は……」

 狂気の言葉を吐き散らしながら、しなだれかかる様にその身を叉夜の身体に預ける。少女一人分の重みをかけられた刃が、一気に根元まで沈んだ。

「殺してやる……そんな奴は、母親(あいつ)みたいに……皆、皆……」

 捻る。捻くる。細い身体が、ガクガクと揺れる。

「神様だって、殺してやる!!」

 最後に抉り取る様に、大きくグリッと引き抜いた。

 鈍い手応え。音。

「はぁ……はぁ……」

 荒い息をつきながら、手元の刃を見る。綺麗に研かれた刀身に、半ば正気を失いかけた自分の顔が映った。

 本気で正気を失いかけた。

 何も、ついてなかった。

 突き刺した筈なのに。あんなに深く。

 掻き回した筈なのに。あんなに激しく。

 抉った筈なのに。あんなに力任せに。

 なのに。

 一滴の血さえも。

 一片の肉片さえも。

 何も、ついていなかった。

「ふむ……」

 頭の上から、声が響いた。

 苦痛の呻きでも。苦悶の慟哭でもなく。

 何でもない調子の声が。

 弥生は泣き出しそうな、それでいて笑い出しそうな顔で、上を見る。

 その視線の先で、叉夜が笑んでいた。

 とても楽しそうに。そして、愉快そうに。

 そして、こう言った。

「神を、否定するのか?」

 嬉しそうに。本当に嬉しそうに、そう言った。

 

 ◆

 

 目の前で、穿った筈の傷が闇に飲まれる様に消えていく。

「あ……あは……ははは……なに……? 君、何!?」

 引きつった顔に泣き笑いを浮かべ、弥生は脱力した様に立ち尽くす。そんな彼女を前にして、叉夜は酷薄に笑む。

「何を怯える? 今や君もこちら(・・・)側の存在だろうに」

 そう言って笑う顔は、ゾッとする程に美しい。月明かりの中、朱く輝くその瞳はまるで人外のそれを思わせる。

「私にも、ちょっとした事情があってね。今ではすっかりこちら(・・・)の存在だ」

 聞いた弥生の顔が凍りつく。赤く上気していた頬が見る見る青ざめ、全身がガタガタと瘧にでも罹った様に震え出す。打ち合う歯が、カチカチと乾いた音を立てた。

「その様子だと、私がここに来た理由は承知出来た様だね」

 後ずさる弥生。それを追う様に叉夜も一歩踏み出す。

「そう」

 白い顔に月の様な笑みを浮かべながら、言う。

「君達は、やり過ぎたのだよ」

 夜風に流れる白髪が、サワリサワリと夜気を揺らす。霧色の髪の下から覗く、白磁の顔。それを、弥生は震えながら凝視する。

「妹さんの発作とやらを抑えるためだろうが、少々喰い過ぎさね。向こう(・・・)では、大概騒ぎになってきている」

 言いながら、また一歩。

「幻想と現の境界は曖昧だが、絶対だ。君達はそれを犯し過ぎた。このまま続ければ、この辺りの境界が崩れてしまう」

 叉夜の右手がゆっくりと上がる。その手の中のメスが、冷たく光った。

「遊戯はもう、終わりだよ。その子を土に返し、君は向こう(・・・)に戻れ」

 かけられた言葉に、怯えていた表情が一変した。身体の震えは止まり、だらりと下がっていた手に再び力がこもる。短刀をもう一度腰に構えながら、彼女は問う。

「それって……皐月に死ねって言う事……?」

「とうに死んでいるんだよ。その子は」

 冷淡に告げる。憐憫の影も見えない朱い瞳。その輝きを、狂気の瞳が受け止める。

「死んでない!! この娘は、ここでこうして生きてる!!」

 ユラユラと揺らぐ皐月の形をしたものを守る様に、その前に立ちはだかる。

「言ったでしょ!! 許さないから!! そんな事は絶対に!! 皐月はあたしと一緒にいるの!! ずっと一緒に!!」

「堂々巡りだ。どうしてもと言うのなら、実力行使と行くが?」

 叉夜がそう言った途端、彼女の黒衣がザワリと蠢く。蠱虫の群れの様に蠢いたそれがメスへと絡まり、覆っていく。

 叉夜の手の中で大きく伸び上がった『それ』。弥生が、息を呑む。

 研ぎ澄まされたメスを核にして現れたものは、『鎌』。主である叉夜の身長を遥かに超える、漆黒の首刈り鎌だった。

「さて、最後通告だ」

 大鎌を右手に構えた叉夜が言う。絶句する弥生と、忘我の淵を彷徨う皐月に向かって。

「君達は、あるべき形に戻れ。さもなくば、二人ともこの場で排除する」

 主の言葉に沿う様に、妖しく光る大鎌の刃。それを掲げる、黒衣の少女。

「あ……あは……」

 青ざめた顔で凝視していた弥生が、破顔した。

「あ……あは、あはははははははは!!」

 蒼い月の下で、少女の笑い声が壊れた様に響く。

「そうか!! そうだったんだね!! 君は、死神だったんだ!!」

 苦しげに腹を抱えながら、弥生は笑う。

「そうなんだね!! 来たんだね!! とうとう、来たんだ!! 死神が!! 神様が、あたし達に罰を与えに来たんだ!!」

 この上もなく愉快げに、笑い転げる。けれど、その笑いが不意にピタリと止まる。

「……上等だよ……」

 狂気と凶気を孕んだ声が言う。

「これも、言ったよね……?」

 汗にぬめる手が、それでも健気に短刀の柄を握り締める。

「皐月を傷つける奴は……あたしから、皐月を奪おうとする奴は……」

 決意を示すかの様に、カタカタと震えていた短刀がピタリと止まる。

「神様だって……殺してやる……」

 聞いた叉夜が、また嬉しそう笑んだ。笑んだのだけれど、弥生はその事を知らない。何故なら、その時彼女の視界は真っ赤に染まっていたから。

「あ……?」

 何も分からないまま、弥生の意識はそこで途切れた。

 

 ◆

 

 全てが、真っ赤に染まっていた。裂けた口が、溢れ出る血を啜る。鋭い歯が、肉と骨を爆ぜる。彼女が肉を咀嚼する度、頭の失くなった少女の身体から真っ赤な液体が吹き出して、足元に出来た血溜りに散った。

「………」

 頬に散った血飛沫を拭い。叉夜は目の前の光景を見つめる。

 弥生だった肉塊を齧る、皐月だったもの。すでに半分しか人間の形を残さない、顔。琥珀の瞳から、ポロポロと溢れる涙。それだけが、まだ彼女に人としての心が残っている事を示していた。

 自分の足元に転がる、弥生の頭。それを見下ろし、叉夜は言う。

「さて。これが君の望んだ結末かな?」

 彼女はもう、答えない。ただ、もう何も映さない瞳から、代わりの様に涙が一筋溢れた。

「ふむ。だとしても……」

 叉夜はその朱眼を細め、視線を上に戻す。そこでは、皐月だったモノが今だ弥生だったモノを貪っている。それを見ながら、呟く。

「どうにも、面白くないね」

 握られた大鎌が、ゆっくりと掲げられる。

「私の目の前で、死ぬなんてね」

 闇色の刃が、弧を描いた。

 

 ◆

 

 ……春に桜が香る夜は……雲雀が恋歌歌うまで……父の背に乗り眠りましょう……

 ……夏に蛍の灯火燃ゆる夜は……椎に空蝉止まるまで……婆の歌にて眠りましょう……

 

 目が冷めた時、其処に見えたのは大きな蒼い月。そして、聞こえてきたのは、鈴が転がる様な声で紡がれる、優しい歌。

 

「……?……」

 

 身を起こそうとした瞬間、身体を激痛が走った。たまらず脱力し、また横たわる。

 

「気がついたか?」

 

 流れていた歌が途切れ、そんな声が聞こえた。何処かで、聞き覚えのある声だった。

 

「今少し、寝ていればいい。身体がまだ、馴染んでいない」

「………?」

 

 言われている事が分からない。いや、そもそも自分が何かが分からない。自分は一体、何だっただろう?

 

「ああ、思考もまだ曖昧だろう。心配はいらない。じきに魂魄も同化して、一つの人格となる」

 

 そんな言葉と共に、人の顔が覗き込んできた。黒い帽子に白い髪。朱い瞳の、女の子だった。知らないけれど、やっぱり何処かで見た様な気がした。

 彼女は、言う。

 

「妹側の下半身は、完全に妖化していたので廃棄した。代わりにしたのは、姉側の下半身だ。あちらは上体の損傷が激しかったので、丁度良かった。体躯に、さほど差がないのも好都合だったな。お陰で、余計なサイズ合わせをしなくて済んだ」

 

 何を言われているのかは、分からない。けど、聞いているうちに何故か視界が滲んできた。

 

「核は、お互いの骨片を使わせてもらったよ。文字通りの、一心同体だ」

 

 ああ、そうか。ようやく、分かった。あたし達(・・・・)は、取り戻せたのだ。一番大事な、お互いを。そんなあたし達の目尻を、白い細指が拭う。

 

「先刻、言ったな。『神でも殺してやる』と。結構な話だ。抗ってごらん。そして、あかしてやるがいいさ。あの力ばかり持った能無しの鼻を」

 

 言葉とともに、朱い瞳が近づいてくる。優しく、蠱惑する様に。額に冷たい感触を感じた。口づけされたのだと気づいたのは、一拍の後。

 

「契約は成立だ。これで、君達は私のもの」

 

 優しく。美しく。そして冷たく笑いながら、彼女は言う。

 

「連れていってやろう。君達が在れる、その場所へ」

 

 ああ。そうか。そうなのか。在れるのだ。あたし達は。

 

「この信息が絶えるまで、しばらくの間がある。今一度、眠るがいいさ。君達(・・)が、()になるその時まで」

 

 その言葉に誘われる様に、また眠気が襲ってくる。遠ざかる意識の中で、あたし達は言った。

 

「うた……」

「ん?」

 

 覗き込んでいた彼女が、小首を傾げる。

 

「うた……きかせて……」

 

 あたし達の願いを、聞き入れてくれたのだろう。視界から、彼女の顔が消える。そして、代わりに聞こえてきたのは、鈴音の様な優しい子守唄。

 

 ……秋に雁が渡る夜は……サルナシの実が熟れるまで……爺の語りで眠りましょう……

 ……冬に雪虫舞う夜は……雪が星に変わるまで……母に抱かれて眠りましょう……

 

 歌の帯は風となって、蒼い月の大気へと溶けていく。誰も、歌ってくれなかった子守唄。それに身を委ねながら、あたし達はそっと抱き合う。

 

 ……お目々覚めたら上げましょう……雲雀が歌った恋歌を……空蝉止まった椎の枝……青くて甘いサルナシを……雪色に光る星の屑……だからお休み……可愛い子……お眠り……お眠り……愛しい子……

 

 優しい闇の中で、あたし達の心はゆっくりと溶け合っていった。

 


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