僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day1.傘

 人生初の四十代を目前にして、鬱病と診断されました。

 それが僕、鈴木(すずき)愛理(あいり)三十代最後の夏の幕開けだった。

 

 夜になっても相変わらずじめっとした湿気の去らない駅前の大通りで、僕は蝙蝠傘を閉じたまま、煙るような梅雨空へ吸い込まれていく摩天楼を見上げた。

 ちなみになんだけど、別に本日初めて鬱だって言われたわけじゃない。

 診断自体は随分前に降りていて、今日は休職して一ヶ月後の面談の日。

 行けなくなった職場のカフェテリアで、上司と面談する一方、ちらりとフロアに目を走らせれば、つるりと磨き上げられた床をあくせくと走り回る、かつての同僚達のスーツ姿が、人形のように目の端に映るのだった。

 きちんと休めているのか。復帰の目処はとう考えているのか。

 形だけの面談と、傷病手当金の書類提出を終えてから、僕は駅近のホテルを出て、雨で煙る名古屋の街を、駅に向かって歩き出した。

 地下通路を通って行けないわけじゃないのだけれど、梅雨時によく降る何もかもを洗い流すような雨の中を、敢えて歩くのが僕の好みだ。別に、この後仕事もないし用事もない。信号待ちで立ち止まっていると、傘の中に籠る雨音は、遠く水の中へ潜っていくかのような不思議な感覚をもたらして、僕はゆっくりと目を閉じた。

 

 職場で、特に上手くいっていないという事はなかった。大小のストレスは社会人としては許容の範囲内だったし、激務なのも覚悟してホテル業界にいたのだから。

 そのつもりが、どうも頭も心もこれでは回らないらしいと気が付いたのは、とある友人にメンタルクリニックへ半ば怒鳴りながら連行された時だ。鬱というのは、別に自殺を考えなくても、家で日常生活が送れていても、診断される時はされるのだなぁとその時初めて知った僕は、とりあえず様子見で三ヶ月休職するように、という医師の言葉を、現実感なくぼんやりと聞いていた。

 

 信号が切り替わる。僕は小さな溜息を吐いて、ゆっくりと歩き出した。もう随分とコロナ規制が緩和されて、電車の中も駅もかつての通り、人が溢れかえっている。名駅のあたりなんかもう、人山人海(ひとのやま)だ。

 既に帰宅ラッシュのピークは過ぎている。雨に濡れる駅の階段を登り、ホームにさえ出てしまえば、人熱(ひといき)れからは解放された。

 天に鼻を向けて息を吸えば、コンクリートと雨の匂いが押し寄せる。大して冷たくも心地良くもないけれど、湿った空気が少しずつ、夜の帳の中で僕の体を冷やしていくように思えた。

 

(そういえば、前は地下鉄とか自転車で通勤してたっけなぁ)

 

 乗り込んだ電車の窓辺に寄りかかり、立ち込めた雲と電線を見上げながら、僕はどうしようもなくそんな事を思い出した。

 友人のツテで神宮前の賃貸を居住先に選んだのは、もう、僕の思い出が残る場所には帰りたくなかったからだ。恋人と住んだ場所とか、友人と住んだ場所とか。ひとつ前は浄心、ひとつ前は平針だったから、そのどちらにも近くないところがいいとゴネた結果、この神宮前が、どうしようもない僕の漂流地になった、というわけ。

 

 歩くたび、スニーカーの横に雨水が跳ねる。

 途中、道を折れて夜でもやっている喫茶店に寄り、ベーグルとスープカレーをテイクアウトしながら、僕はとっぷり日の暮れた道を歩いた。

 病院の先生には、好きな事をして過ごせばいいと言われている。だからこうして、普通に近所の喫茶店にも寄るし、家で本を読んだり溜め込んだゲームを消化したりもしてみるけれど、実際それまでやっていた仕事の時間がぽっかり空いて、空身(からみ)一つで放り出されてみると、人間、意外とやりたいことなんてないものだ。

 呼吸をして、雨の音に耳を澄ませて、ただ日々が過ぎるのを待つ。

 誰かと繋がれば、また生きていてもいいかなぁとその瞬間は思えるけれど、一人でいる間は、別にそうでもない。

 この胸に渦巻いていた執着が静かに消えて、辛くはないけれど、日々を楽しんでいる心地もない。

 

 「生きたい」と「死にたい」が、ゆっくりと往復する生命の振り子。

 

 代わりばんこに踏み出す、雨で濡れた自分のズボンの脚に、何はともなくそんなことを思った。規則正しく暮らしてはいても、生きているのか死んでいるのかわからない。明日になって、命を放り出せと死神に言われたとしても、僕は大して命乞いなんかしないだろう。

 本当に、これから先、「生きたい」と思える日が来るのだろうか。それは僕にとって、「いいこと」、なのだろうか。

 

「……なんか、こんな事を考えるのも、学生とか若い頃以来だな」

 

 ちなみに僕は、高校までしか出ていない。

 放浪癖のあった時と大差ない感傷を、まさかこんな中年にまでなって考えるとは思っていなかった、と思わず苦笑し、通り沿いの道を歩いていた時だった。

 

「……?」

 

 道路に置かれた物体に辛うじて気付けたのは、反対車線を走る車のサーチライトが微かに当たったおかげだった。

 日暮れの藍色に沈んだコンクリートの車道に、黒っぽい何かが転がっていた。

 ゴミ袋か不法投棄物だろうかと、僕は思った。回収され損ねた黒いゴミ袋が、そのまま車道に転がり出して彷徨っているのも、この街では見たことがある。

 だから、大して気に留める事もなく背を向けようとした時——そのゴミ袋に生えた耳が、ぴくりと動いた。

 瞬間、傘も荷物も放り出して、僕は走り出していた。

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