僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day14.お下がり

 美沙ちゃんに変なことを言ってしまったかもしれない……という感傷に浸る間もなく、またまた想定外の客がこのゲストハウスにやって来たのは、その翌日のことだった。

 厳密に言うと、想定はしていた。ただ、僕が本来の自宅から今はこっちのゲストハウスに引っ越して住み込んでいると聞いたら、来るのを諦めるんじゃないかと心のどこかで思っていただけだ。

 

「げっ。母さん……」

「久しぶりに会う母親に、げっとは何だ、げっとは。相変わらずだな。そういうお前こそ、随分垢抜けた格好をするようになったじゃないか」

 

 涼しげなカーキ色のサロペットで、子供と見間違われるんじゃないかという手足を椅子に乗ってぶらぶらさせていた僕の母親は、リビングルームの扉を開けるなりそう言った僕を、麦わら帽子の下で苦笑気味に振り返った。今しがた到着したばかりのようだ。

 けれどこの馴染みの応酬から、中学や高校の時以来、家を出る時間が長くなるにつれて、徐々に棘が少なくなっているのを、僕は何となく感じ取っている。母さんもそうだと思う。お互い歳を取ったのだ。だからどうって言われると、それはそれで向き合いづらくはあるけれど。

 何かもっと痛烈な言葉を投げかけられると思っていたせいで、ただ気まずげに立ち尽くす僕の元へ、背の低い母さんがとてとて歩いてきた。僕の身長は父親譲りだ。

 

「いい宿だな。さっきここで、久しぶりに大陸の人間と会った。私とは相部屋になるらしい。話が盛り上がったよ」

「ああ。中国からのお客さんも、よく来るんだよね。ここ」

「お前の半端な中国語も、少しは役に立ったか?」

「半端に育てたのは母さん達でしょ。まあね。ホテルだとほとんど英語だったから、あそこよりは使う機会多いかも」

 

 窓辺まで行った母さんが、雨上がりの街路を覗き込む。雲の隙間から覗く青空が、水たまりに反射して映っていた。

 

「名古屋の街も随分と久しぶりだ。駅やら何やら見たが、どこも変わったな」

「そう? 住んでるとあまりわからないけど」

「ずっと街の中にいると分からんもんさ。お前が新潟に帰って来た時に覚える違和感と同じだよ。まぁ、そもそも旅行自体が私は久しぶりだしな。コロナの前と後じゃあ自分が住む街の風景すら変わったが、おかげさまで、外に出るとどこもかしこも新鮮だ」

 

 麦わら帽子を指先でくるくる弄んでいた母さんは、それを手に携えながらぐぅっと伸びをした。

 上海生まれの母さんは、父さんと二人三脚で始めた酒事業と、現地で生まれた僕を引っ提げて帰国して以来、ずっと新潟の酒造で働いてきた人だ。

 母さんが酒造を切り盛りする一方、言語学者で大学教授をしてきた父さんは、もう既に退職して、最近はのんびり家のことや母さんの仕事を手伝ったりしているらしい。そういう母さんも、かつての日本であればもうそろそろ定年で、仕事を降りてゆっくりしてもいい歳だ。

 贔屓目に娘の僕から見ても、母さんは若々しい方だと思う。全然、六十代が間近であるようには見えない。そんな中でも、止められない時の流れが忍び寄っているのを象徴するかのように、少しずつ深くなる目元の皺やほうれい線を、僕が横からじっと見つめていると、母さんは不意にこっちを振り向いて言った。

 

「なぁ、アイ。折角だから観光に付き合ってくれないか」

「は、はぁ? このクソ暑いのに外出ようって言うの? 正気?」

「そうは言っても、折角来たからには出かけないと惜しいだろう」

 

 それで何で僕が……と思ったけど、遠路はるばるやって来た母親を、いくら苦手とはいえ突っ撥ねる勇気がなかなかない。

 ヒデさんに休みを貰った僕は、パーカーを羽織ってショルダーバッグだけを提げ、涼しい場所で昼寝中のレイを尻目に、階段を降りた。相変わらず、降ってはいなくてもじめっとして蒸し暑い天候だ。ところが僕が文句を言うことを分かり切っていたのか、僕の母は初めからレンタカーを手配するつもりでいたらしい。歩いてほど近いレンタカーの店で、地元で乗っているのと同じコンパクトカーのトランクへ、何やら大荷物を詰め込んでいる母に呆気に取られながらも、僕は助手席に乗り込んだ。

 運転席に乗って来た母が、座席の位置と高さを調整している。脚が短いので、母はいつも座席を最前まで出した上でクッションを重ねて座っていた。

 

「さすがにこの猛暑の中を、悠長に移動する気にはなれんからな」

「いや、だからってレンタカーはかなり奮発じゃない? 僕運転しようか?」

「何言ってる。こっちに住み始めてからは、ろくに運転してないんだろ?」

「まぁ地下鉄あれば済むから自分の車は持ってないけど、たまにレンタカーで友達乗せるぐらいはしてたって」

 

 父さんぐらいはもうそろそろ免許を返納してもいい歳だが、未だに仕事でも仕様でも現役で車を駆っている母さんの運転は、さすがの名古屋でも危なげががなかった。

 わざわざ車まで借りてどこへ行くつもりなのかと思ったら、この進路は見覚えがある。着いた先は犬山市の明治村だった。

 

「本当は北側に停めたかったんだが、更衣室は正門側にしかないんだったかな」

「はい? 更衣室?」

 

 なんか嫌な予感がする。駐車場で、スーツケースの中身を取り出した母さんは、袋ごとそれを僕に掲げてにっこりした。

 

「浴衣だ」

「見ればわかる」

「お前の分もあるぞ。私じゃ身長が足りないので、ハルのお下がりをもらった」

「そんなんわざわざもらって来なくていいから!」

 

 ハルさんというのは、歳の若い僕の伯母だ。父さんの妹だけど、父さんとはものすごく歳が離れていて、母さんよりもまだ若い。

 男勝りなところもあるハルさんの浴衣のセンスは、かなり渋めで着るのに抵抗があると言うほどではなかったが、それでも僕が浴衣とか。

 

「勘弁してくれよぉ」

「あーあ……折角襦袢まで、夏用素材を仕立てて持って来たというのに……並んで写真を撮って来るって言いながら家出て来たのに、娘からの土産の一つもなければ、広海(ひろみ)さん悲しむだろうなぁ」

 

 恨みがましそうな目でちらちら僕を見ながら、母さんがわざとらしく言った。娘が若干ファザコン気味であることを認識していながら、その情報を出して来るのずるいと思う。

 どこにいても暑い事に変わりはないものの、灼熱の駐車場で押し問答を繰り広げるのは間違いなく一番の時間の無駄だと思ったので、僕は大人しく更衣室で糊の香りがする浴衣に着替えたのだった。ここまで丸くなった自分を褒めたい。

 汗だくになりながら何とか白地に紺で縞模様の入った浴衣を着た僕を、先に外に出て待っていた母さんは、抹茶のような燻んだ緑地に白で華やかな花柄の入った浴衣姿だった。随分地味だ。別に見たかったわけじゃないけど、母さんならもう少し若作りもできたんじゃないかと思う。

 

「ふむ……お前の今の髪なら、もう少し派手な浴衣の方が良かったな」

「いや、むしろこれで丁度いいよ」

 

 昔みたいにピンクとかレモンイエローとか、可愛すぎる服を押し付けられるんじゃなかっただけ全然いいと思う。四十代にもなろうという娘にさすがにそれはないかと思ったけど、それにしたって、僕の母親も変わったよな。

 

「それで? どこから見て回る?」

「先に五丁目までSLで行って上から降りて来ないか。見ろ、この白桃氷。白くまも抹茶も捨てがたいが、いずれここは歩いて通るだろうし、私はまずこれが食べたい」

「はいはい。母さんって本当にアイス好きだよな……」

 

 パンフレットを指差しながら目を輝かせている。僕が前住んでた台湾まではるばるちょっかい出しにきた時も、あやめとアイスクリーム屋で山盛りのアイス頼みまくってたっけ。

 そんな事を回想しながら、僕は緑の間を走るSLに母さんと揺られていた。緑陰が揺蕩う足元を眺めているうちに、ふと昔の記憶が蘇る。昔から、泣いても喚いても問答無用で習い事や学校に僕を行かせるぐらい厳しかった母さんだけど、夏にはよく帰り道にアイスを買ってくれたことを。それはお洒落なパーラーのこともあれば、炉端の小さい商店のこともあったけど、どちらかといえば母さんは、老舗の甘味処にあるアイス最中やかき氷が大好きだった。

 

「いやあ、暑い日のかき氷は格別だな。うん、桃が甘くて美味い」

 

 鹿鳴館を回るのも早々に、五丁目のコロッケ屋で白桃かき氷を買って来た母さんが、パラソルの下で盛られた氷にスプーンを突っ込んでいる。その向かい側で僕もそれを平然と強奪し、ひんやりした味わいを楽しみながら、ぼんやりと夏の風景を眺めていると、母さんがふと言った。

 

「そういえば、アイはブルーハワイの方が好きだったな」

「……そうだっけ?」

「毎回、イチゴを買うと不服そうな顔をされてな。それで、祭りの時に初めて小遣いを持たせて屋台に行かせてみたら、真っ青なかき氷を持って帰って来た。この子はこっちの方が好きだったんだと、遅ればせながらその時になって初めて気付いたよ」

「いや……別にイチゴが嫌だったわけじゃないけど、そもそもいつもの店は抹茶かイチゴかレモンしかなかったじゃん。だから物珍しかっただけだし。そもそも、シロップって色が違うだけで味は同じでしょ」

 

 特に深い意味なんてなかったし、それを見て母さんが何か思うところがあったなんて、考えもしなかった。もしかしてこの目の前のかき氷は、何かの罪滅ぼしのつもりなのだろうか。

 溶ける前にさっさとたいらげた母さんが、麦わら帽を被り直しながら立ち上がる。

 

「さて。ブルーハワイはないが、この先の洋食屋にあるイチゴは格別らしいからな。何せ、中身に本物の果肉入りだ。これは期待できるぞ」

「ちょっと待って、まだ食べる気!?」

 

 この人、マジで明治建築の見物じゃなくて、食い倒れに来ただけかもしれない。

 しかし熱中症になりかねない暑さの中とあっては、二人で食べればかき氷も意外と腹に溜まらないものだ。ひょっとしたら全制覇も夢ではないかもしれないと思いながら、僕は母さんの後を追って日陰を後にした。

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