僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day15.解く

 結局、二人で五杯も六杯もかき氷を平らげてから、僕らは明治村を後にした。

 まさかこんなに食べれるなんて自分でも思わなかったが、かき氷があって丁度いいくらいの暑さの中を浴衣で歩いていたのと、本当にどこの店のかき氷も個性があって全く食べ飽きなかったので、全然そんなに食べている実感がなかったのだ。

 僕の大食漢は母親譲りなのだと、改めて感じさせられる出来事だった。

 

 帯を解いてようやく楽になった腹を摩りながら、今度は夕飯をどうするかなんて事を考えながらゲストハウスに帰って来たら、丁度猫と遊んでいた美沙ちゃんと鉢合わせた。

 エプロン姿の美沙ちゃんに、母が笑顔で頭を下げる。

 

「娘がいつもお世話になってます」

「……!」

 

 自分より年配の人間にこんな丁寧に頭を下げられると思わなかったのか、美沙ちゃんが慌てていつもの「声が出せません」カードを出しながら、スマホで挨拶していた。

 素直な美沙ちゃんのことが、僕の母もすっかり気に入ったようだ。他の客を交えながら、中国語の発音を美沙ちゃんに教えてあげたり、手話で会話をしたりしている。

 そういえば手話と指文字も、母親から習った無駄に雑多な習い事のうちの一つだったなと、僕は気が付いた。今はスマホがあるとはいえ、それがあって美沙ちゃんの示すサインのうちの一つを理解できるのだから、どこへ遠回りしたとしても、無駄なことなど何一つなかったのかもしれないと、賑やかなリビングでの会話を眺めながら、僕は思う。

 

『愛理さんのお母さん、面白い人ですね』

 

 会話の合間に、美沙ちゃんがそうメッセージを送ってきた時には、照れ臭いやら恥ずかしいやら何とも言えない気分だったけど、一時期のような母親への嫌悪感は、今はかなり薄れているのを感じた。それにあの日以来、美沙ちゃんには何を話していいかわからないところがあったので、話題があるのは正直助かる。

 みんなで買った軽食を持ち寄り、台所で調理も加えながら夕飯を食べ終えた頃、母さんが僕に言った。

 

「なあ、さっき美沙に聞いたよ。ここの下で夜はバーやってるんだって?」

「うん。けど、今日は営業日じゃないよ」

『愛理さんのご家族だったら、開けてくれるかも。ヒデちゃんに交渉してみます』

「いやいや。酒飲みの頼みだ、無理にとは言わない」

 

 慌てて母さんが言ったが、美沙ちゃんが尋ねてくれたところによると、すぐさまヒデさんからはLINEで快諾が返って来た。ただ、今は所用で外にいるので、酒は勝手に出して作って欲しいという。

 

「よし、久しぶりに腕を振るうか」

「うわ〜、他のお客さんがいたら色んな意味で怒られそ〜……」

 

 カウンター席周辺だけ電球を点けた、身内オンリー営業モードの一階。

 遠慮なくカウンターの内側に入った母さんが、マドラーやらシェイカーやらオリーブやらを張り切って出しているので、身長的にはぱっと見未成年が酒作ってるように見える。まあ、元々母さんは酒に関わる仕事をしているので、そんな人が酒を作っているのは僕からしたら違和感がないが、それにしてもよく人の家の道具をここまで堂々と扱えるものだと呆れてしまった。

 

「いやあ、本業の職場はやっぱり楽しいな。店主になった気分だ」

「全部ヒデさんのなんだから大事に扱ってよ?」

「わかってるわかってる。そうだ、美沙は何にする? ノンアルのだったら、ミルクセーキとかどうだ」

 

 ちゃっかり、案内でついて来た美沙ちゃんの分も作る気満々だったらしく、母さんは再び彼女を慌てさせていた。

 

『さすがに申し訳ないです、簡単なのなら自分で作れますし』

「美沙ちゃん、遠慮とかしなくていいよ。台所使わせといてもらって言うのも何だけど、僕の母さんものすごい世話焼くのが好きな人だから。さすがにシェイクの腕は、ヒデちゃんには及ばないと思うけどね」

『…じゃあ、ミルクセーキをお願いします。私、好きです』

「おお、そいつはよかった」

 

 嬉々として氷と牛乳をシェイカーに入れ、卵を卵黄と卵白に分け始める僕の母。その手元を向いの席に腰を下ろして眺めながら、僕はそれとなく付け足すように言った。

 

「じゃあ僕も同じやつで」

「ん? お前酒は」

「今病院通いしてるから、アルコールは無理」

「ああ……そうか。そうだったな」

 

 思い出したように呟いて、母はバニラエッセンスとシロップを加えた銀色のシェイカーを再び振った。少し皺や皮膚の黒ずみが目立つ、骨ばった手。母に、ここへ来る前クリニックに通い始めた事は話してある。僕たちにデザート代わりのキウイを切って出してくれた後、残ったキウイとジンをシェイカーで振る母に、美沙ちゃんは軽く手のひらを頬に当てる仕草をしてみせた。

 

『美味しいです』

「おお、口に合ったんならよかったよ。ミルクセーキもなかなか馬鹿にはできない。日本酒は辛党だが、甘いものは私も飲むんでね」

 

 ふわりと微笑んだ母は、昔の僕でも見るような気でいるのかもしれない。

 いつになく優しい目をして、キウイのマティーニを作り終えた母さんは、自分の分のグラスを僕のミルクセーキの横に並べてから、隣の席に座った。

 

「……僕が鬱になったって聞いた時、もっと大騒ぎするかと思った」

「まぁな。内心気が気ではなかったが、お前ももう大人だ。私が手取り足取り世話してやるような歳ではないだろう」

「でも、そういうのが好きな母さんだったでしょ」

「なんだ。手を離されたら、それはそれで寂しくなったのか?」

「そうは言ってないけど。過干渉な自覚があるなら、もっと早く放っておいてくれればよかったのに」

 

 甘いはずのミルクセーキは、大粒の氷できりりと冷えて丁度いい味わいだった。よく実家で母さんが作ってくれて、子供っぽい、甘ったるいから嫌だと文句を垂れたあの頃と、同じはずなのにどこか違う味に感じるのは、ヒデさんの台所の魔法だろうか。それとも。

 

「しかし、あれはお前に似て、愛想のない猫だな」

「レイのこと?」

 

 愛想がないと言う割には、くすり、と笑った母さんの横顔は楽しそうだ。

 その過保護と過干渉に昔は辟易したもんだけれど、もしかしたら手を焼く相手の方が、燃えるタイプなのかもしれない。いずれにしろ、子供をコントロール下に置けないと苛立つタチだった母さんが、行動予測不能なレイのことを面白がっているのは、なんだか感慨深く思えた。

 

「まあ、野良なら無理もないな。車に轢かれて死にかけていたんだろう?」

「それなんだけどさ。健康診断とかワクチンで何度か動物病院に連れて行ってわかったんだけど、レイってどうも元飼い猫らしいんだよね」

「そうなのか?」

 

 母さんはグリーンのカクテルを傾けながら目を丸くする。元々ヒデさんの飼い猫だったメルは元より、ポーラも拾われてきた身でありながら今はすっかりお客さんに対して人懐っこい看板猫になっているから、その中にあってレイの人馴れのしなさは、確かに生粋の野良っぽく見える。母さんが驚くのも無理はない。

 

「レイはオスなんだけど、保護した時点で睾丸がなかった。去勢手術を受けた痕があったんだよ」

「……なるほど。つまり誰かに飼われていた可能性があるってことか」

「もしかしたら意図せず脱走したのかもしれないし。首輪もマイクロチップもなかったから、いつから何で野良になったのかとかは、判断しようがないけどね。担当の獣医さんが、同じ地域の他の動物病院にも連絡して、迷子の黒猫の情報を調べてくれたんだけど、今のところ届出とかはないらしいから……少なくとも、あのへんで最近脱走した猫ってわけではないと思う」

「……そうか」

 

 噂話に上ったのを聞きつけたのか知らないが、ひょっこりとバーの店内に顔を出したレイが、美沙ちゃんの足元に来て鳴いた。撫でられるのは嫌だが、人間が美味そうなものを食べていると一丁前におやつの催促はするらしい。苦笑した美沙ちゃんを見て、母が不思議そうに首を傾げた。

 

「腹が減ってるのかな」

『ごはんはちゃんと食べてるはずなんですけどね。そこの冷蔵庫に、猫用のささみが残ってるんですけど、取ってもらってもいいですか』

「あった。これだな。私が切ろう」

 

 包丁で刻んだささみを餌皿に入れて置くと、警戒気味に床を歩いてやってきたレイは、皿についた母の匂いを確かめるように何度か嗅いでから、一口ずつささみを噛み始めた。

 

「大食いなところまでお前に似たなぁ」

「いや、大食いは母さんもでしょ。その体のどこにかき氷六杯分も吸収されてんの」

「一杯を二人で分けてるんだから、実質三杯だろう」

 

 六杯だろうが三杯だろうが大差あるか。食い過ぎだ。

 前は餌皿の傍に人がいるだけで唸って警戒していたレイは、母の前では黙々と肉を噛み続けている。母が小柄すぎて大して恐怖も覚えないのかもしれないが、少しずつ慣れてきた証拠だ。

 獣医の先生が言っていた。明らかに飼われていた形跡があるのに、ここまで人に触られるのを嫌がるのは、何らかの虐待を受けていた可能性がある、と。レントゲンでは特に異常なかったものの、何も写らないからと言って、レイの過去の経験や記憶が消えるわけではない。

 

『もしかしたら、この子は普通の飼い猫ちゃんのように、人間に甘えたり、触らせてくれたりはしない猫かもしれません。鈴木さんは、それでもいいですか』

 

 何度目かの病院に連れて行った時に、獣医さんにはそう言われた。

 猫に触って癒されたいがため、触れ合いでコミュニケーションを取りたいがために飼う人もいるから、その本来の目的が合致しなければ、再度手放されてしまう可能性を、医師は懸念したのだろう。別にもふりたい人間が悪いわけじゃない。単に猫との相性と性格の問題だと思う。

 でも僕は、別にそれでもいいと思った。最低限、病院に行く時だけ暴れずにキャリーに入ってくれればいいし、レイは短毛だから、ブラッシングにさえどうにか慣れてくれればシャンプーもあまり必要ない。

 何より、僕がレイを見捨てたくなかった。可哀想とか放っておけないとか、人間側の身勝手な同情もあったかもしれない。けれど、冷たい雨から守られて回復し始めたレイの、黄金に輝くあの目の光を見た時、なぜか無性に「お前は生きていていい」と伝えたくなった。生きていく事を見離さないで欲しい、と。

 バカみたいだ。誰よりも生きる事に不器用で、好きだった人に何一つ与えられず、愛する事にもされる事にも失敗した僕が、たかが黒猫一匹に何故、愛される事を諦めないで欲しい、なんて願うのだろう。

 もし相手が人だったら、決してそんな事言えなかった。僕自身にすら、素直にそう呼びかける事はできなかっただろう。でも、それがレイだったから。そして、レイに向かって抱いた望みが、ゆっくりと静かに、僕自身を縛る糸をも解いていく感覚を、最近になってずっと感じていた。長年遠ざけていた母を、今こんな、親しい友人のように思えるほどには。

 

「……母さん」

「うん?」

「可愛い女の子になんかならないって勢いよく家を出てったくせに、いつか世界を股に掛けてちゃんと稼いで、パートナーと海外で挙式するなんて豪語したくせに……結局はあやめとも別れて、勝手に病んで、ただ日本で小さい仮の宿に収まってるだけの“わたし”を、今でもみっともなくて情けないと思う?」

 

 全部を言い切る頃には、声が震えそうになった。レイを観察していた母さんが、ゆっくりと顔を上げ、膝をはたいて立ち上がりながら、厚ぼったい瞼の下で僕を見る。

 

「逆にお前に聞くが、喧嘩別れ同然で勘当してから、ろくに娘と向き合う事もできず、その性格も成果も何一つ認められないまま、この歳になるまで後悔を抱えてきた母親を、お前は情けないと思うか?」

「質問に質問で返すのはずるいよ」

「そうだな。私もお前も狡い。謝ったところで過去なんかなくなるはずがないからと妙に賢ぶって、そのくせ痛みも代償も伴わず、何となくでなかった事にならないかと考える。……お前がそうやって逃げを打つようになったのは、私が少しでも強い母であらんと虚勢を張って、あるがままのお前を見られなかったせいだね」

「……」

「今更になっていい母親ぶるなと責められても仕方がない。だが、今更でいいから言わせてくれ。……アイ、もう無理をするな。自分を赦してやれ。誰を好きになろうと、どんな場所で何をして暮らそうと、私はお前を愛している」

 

 少し乾燥した小さな手が、僕の頬に触れた。

 美沙ちゃんの見てる前で甘やかすな。そう言いたかったのに、伝っていった涙で言葉は消えてしまった。

 椅子に座ったままの僕を、母さんは両腕をめいっぱい回して抱き締めた。ぎこちなく触れれば、ノースリーブから伸びる母の腕がひんやりとしている。その脂肪のつき方も、皺の寄り方も、もうかつて知る母のものではなくて、僕はしがみつくようにしながら泣いた。

 

「おかあさん」

「アイ。よく頑張ったな」

 

 なぜこんなに涙が出るのかわからない。ただ一つ言えるとすれば、たった今助かったばかりのレイもいずれは必ずそうなるように、母も僕も、そして父も、どちらかが先にこの世から消えゆく運命にある。

 猫も人も、残された時間はそんなに多くない。その岐路に立った時、僕はもう、これ以上母を憎みたくないと思った。すべてを赦す事はできないかもしれない。分からず屋で、沢山の棘のような言葉を刺された。容赦なく叩かれたこともあった。今更ずっと欲しかった言葉をもらったぐらいで、赦せるようなものでもない。それでも、赦せない想いは抱えたままで、「今」の母と僕を見ていたかった。

 

「……今更になっても、僕は母さんに、愛してるって伝えていいのかな」

「馬鹿だな。言われて嬉しくない母親がいるわけないだろう。いつでも帰って来い。お前は私の娘だ」

 

 そうか。

 失敗は、別にしてもよかったんだな。僕も、母さんも。

 こんな簡単な事に気付くまで、遠回りの二十年間はあまりにも長すぎる。

 不思議そうに足元で見守るレイの気配を感じながら、僕は小柄な母の温もりに目を閉じた。

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