僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day16.レプリカ

 午前中、母を駅まで見送ってから、僕はゲストハウスに戻って来た。

 駅前で母の新しい服やらお土産やら買い込んで、こんなに大笑いしながら家族と出かけたのは、本当に久しぶりのことだったかもしれない。

 一度寮へ戻って荷物を置いてから、僕はゲストハウスでの仕事に戻った。他のスタッフと手分けして、空き部屋のシーツの取り替えと換気。糊のぴんと張ったシーツを、二段ベッドの上下にあるマットレスの敷き布団に掛けていく。リネンの取り替えはこの年にもなると結構腰にくる作業だけど、さすがに長年携わってきた仕事でもあるせいか、真っ白な布に触っているだけで、こちらも背筋が伸びるような心地がして清々しい。

 客や従業員用の洗濯機はあるが、リネンやタオル類はさすがに量が嵩むので業者委託だ。ランドリーに出す分を仕分けして一階の裏口に運んでから、僕はスタッフ達と冷房の効いたリビングで、麦茶で乾杯した。

 

「なんか今日のBGM、いつもとちょっと違う感じ?」

「あ……言われてみれば確かに、たまに聞き慣れない感じの曲混じってるねえ」

 

 リビングのBGMは、据え置きのスマホからBluetoothスピーカーに曲を飛ばして流している。いつもヒデさんか誰かがプレイリストを組んで、動画サイトとか音楽配信サイトとか、あるいはスマホ本体のデータからフリーのBGMを流しているんだと思っていたが、今日聞こえてくる曲の中に、心なしかテイストの違うものが混じっている気がする。

 静かな音の重なりの中で、雨垂れのように畳み掛けて訴えてくる音色。リラックスできるよう組まれている曲の中で、どこか寂しげで切なげな色を、その曲だけが放っている。

 僕は目を閉じて、記憶を探るようにじっと耳を傾けた。畳み掛けるようなピアノリフの繰り返しは淡々とした感じにも聴こえるのに、どこか——そう、懐かしい。雨の中で、傘を差して佇む誰かをただじっと見ているような。そして、その傘の表面を、木の葉から落ちた幾つもの雫が滑っていくような。

 

「ていうか、この曲の感じ、ものすごく翠涙(スイレイ)に似てるような……」

「スイレイ? 妖精の親戚か何かかい?」

「あー、俺聞いたことあるかも。バンドじゃなかった? 確か顔出しNGで活動してる」

「うん、そうそう。最近のアーティストだから、さすが若い子はよく知ってるね」

「鈴木さんは好きなん? そのスイレイってバンド」

「うん。結構聴いてるかな」

 

 別にファンクラブに入ったり、生ライブに行ったりしたことまではないので、ファンと呼んでいいのかわからないが、配信された曲は漏れなく聴いている。というか、コロナの事やあやめの事があって、心身がかなり落ち込んでからというもの、翠涙だけが唯一、僕が「追っている」と言えるアーティストだったのだ。

 

「でも、この曲シガロの声混じってない?」

「言われてみれば。でも、いい曲だなぁ、これ」

 

 思わずそうしみじみと感想を零してから、僕は自分の麦茶のコップを片付ける。シガロはいわゆるSINGERLOIDの略で、歌詞と音程を打ち込めば誰でも自由に曲を歌わせられる、合成音声ソフトだ。

 

「おんぷちゃんかな……? でもちょっと声の種類が違うような」

 

 一番有名なのは、多分おんぷちゃんこと廿樂(つづら)音風(おんぷ)だろう。ブルーのグラデーションがかかったツインテールが特徴で、僕も名前ぐらいは聞いたことがある。でも、それとは声質が違っていた。

 あまり聴いた事がないタイプの声だったけど、しっかりとしたアタックの強さと、音が微妙に途切れるロボットらしさが、かえってこの曲調にしっくり合っているような。意外な組み合わせだったけど、好きかもしれない。後で歌詞検索でもしてみようかな。

 シンクの水切り籠にコップを置いてから、僕は爪研ぎ中のポーラと、キャットウォークで遊んでいるレイをふと見回した。

 そういえば、今日はまだ美沙ちゃんの姿を見掛けていない気がする。別棟に荷物はあったから、来てはいると思うんだけど。こっちのスタッフルームでヒデさんと作業でもしているんだろうか、と思い、僕は二人をおやつを差し入れるつもりで、盆にゼリーと麦茶を乗せて運んだ。足元をじゃれるように、レイとポーラがついて来る。レイはともかく、ポーラはまた作業部屋のメルにちょっかいでも出すつもりでいるんだろう。

 

(うん?)

 

 ノックをするつもりだったが、スタッフルームの扉は軽いので、完全に閉まらずにほんの少し開きかけになっていた。中が見えるほどの隙間は空いていないけれど、内側から声が漏れ聞こえてくる。盗み聞きするつもりはなかったのに、ノックをする手が止まって。僕が思わず立ち尽くし耳を澄ませてしまったのは、聞き覚えのない声が聞こえてきたからだ。

 

「どうしよう、愛理さんも翠涙のファンだったら!」

「あらあら」

「間違えてプレイリストに入れちゃったから、気付いて曲変えに行こうとしただけだったのに。そしたら、リビングに入ろうとした時に、喋ってるのが聞こえてね。いい曲だなって。いい曲だって、言ったの」

 

 興奮で少し上擦った、弾むような声。決して地声が高いという訳ではないのに、ヒデさんに向かって喋りかけるその声は、微かで小さいけれど、小鳥が囀るように澄んでいて、心地よく聞こえる。でも。まさか。それは、僕が絶対に耳にするはずのない声だ。

 あまりに幸せそうな空間に、水を差してしまいそうな危機感と緊張感を覚え、どっと汗が吹き出す。踵を返してそのまま帰ろうとしたのに、ドアの隙間に鼻先を突っ込んだポーラが、自力で堂々と侵入してしまった。

 

「あっ、コラ……!」

 

 何もだもだしてるんだと言いたげに振り向いたポーラが、机の書類の上で昼寝中のメルを見て、挨拶するように鳴く。ゆっくりと開いた扉の先にいた人物は、もう疑いようもなかった。馴染みの館内着であるTシャツにジーンズ姿のヒデちゃん。そして——いつもと同じ、黒いスカートにTシャツ姿の美沙ちゃんが、そこにいた。

 

「あ……えっと、ごめん……聞くつもりじゃないんだけどドア開いてて、その」

「……!」

 

 正直に話そうとしてもしどろもどろになってしまう。ていうか、これあれだよね? 絶対僕が悪い感じのあれだよね?

 ヒデちゃんも驚いていたが、美沙ちゃんはそれに輪を掛けて驚いたような反応だった。たった今まで、言葉を紡いでいた唇が緊張で震え、一瞬で白くなったかのように感じる。動揺に揺れた目を伏せた美沙ちゃんは、スカートをぎゅっと掴んでから、ヒデちゃんを押し退けるようにして僕の横を駆け抜けた。

 

「おわっ、と、と!」

 

 麦茶とゼリーを乗せていたことをすっかり忘れていたので、一瞬よろめいて漫画みたいに一回転しそうになったけど、さすがというか何というか、猫のような身のこなしで僕の体と入り口の隙間を上手くすり抜けた美沙ちゃんは、相当な勢いだったのに僕の腕にぶつかることもなく、あっという間に姿を消した。

 踏まれそうになったレイは壁際まで横っ飛びになってふーっと唸っていたが、やがて心配そうにうろうろし始めた。メルが呆れたように細めた目を、戦犯のポーラに向けている。そこへ、ヒデちゃんが苦笑しながらやって来た。

 

「ごめんねえ、愛理ちゃん。いつもだったら鍵掛けとくんだけど、あの子ったら妙に興奮してやって来て。あの曲褒められたのが、よっぽど嬉しかったんだわね。ゆるしてちょうだい」

「え、うん、それは全然……っていうか、今、美沙ちゃん喋……えっ……?」

 

 色々混乱して立ち竦んでいる僕の手からお盆を受け取ると、ヒデちゃんは僕を事務所の椅子に座らせて、しばしの間話をしてくれた。

 それを聞き終わってから、僕は改めて、美沙ちゃんの姿を探しに行った。

 玄関じゃなくてゲストハウスの中に走って行ったから、多分外には出掛けていないだろう。もしかしたら、別棟の方で靴を履き替えて外出したかもしれないけれど。でも、何となく家のどこかにいるような、そんな気がしていた。

 寮棟の一階リビングにも台所にも、お風呂場にも気配がない。だとしたら、行きそうな場所はあと一つしかない。他のどの空き部屋の前も素通りして、僕はまっすぐに自分の部屋に向かった。襖が閉まっていて、レイがかりかりとそれを背伸びしながら引っ掻いている。

 

「みゃー」

 

 あのレイが、人に向かって鳴いているところを滅多に見た事がない。単に廊下が暑いから入れて欲しいのかもしれないが、僕には引き篭もった美沙ちゃんを心配しているような、そんな風に見えた。

 

『美沙ちゃん。今部屋の前にいる』

 

 メリーさんみたいな文面を送ってしまったけど、既読はすぐについた。

 

『僕の部屋の中にいるんだよね。僕はいいから、レイだけでも入れてやってくれないかな。まぁ、今は嫌だったら、僕が連れ帰るからいいんだけど』

『熱中症になるかもしんないのに、愛理さんとレイをこの廊下で放っておけるわけないじゃないですか』

 

 ややあって、襖がすっと横に動く。人が一人通れそうなほどの隙間ができるが、誰かが出てくる気配はない。レイに続いて部屋に入ると、畳の上にあるべき人の姿はなかった。ただ、まだ使ってない押入れの扉が半分開いていて、その中をレイが覗き込んでいる。

 僕は、押入れの襖の前に壁をくっつけて座りながら、そのすぐ後ろ側にいるであろう美沙ちゃんに向かって、LINEを打った。

 

『そこにいたら暑くない?』

『平気です。クーラーつけてたし、扉は開いてるから』

『でも、埃っぽいでしょ』

 

 まるで、天岩戸の神話だ。

 どうやって天照を岩屋から出そう、と考えていると、手の中のスマホがぽこんと鳴った。

 

『ごめんなさい』

『なんで美沙ちゃんが謝るのさ。僕は何も怒ってないよ』

 

 襖が微かに震えて、啜り泣く苦しげな息の音が聞こえる。

 再び訪れた沈黙を埋めるように、僕は自分から文字を打った。

 

『少しだけど、ヒデちゃんに色々聞いた。美沙ちゃんは、喋れないんじゃなくて、場面緘黙症なんだよね?

特定の場面や場所でなら普通に喋れることもあるけれど、そうじゃない場所では声を出すことがとても難しい。

僕がそれをちゃんと知ってれば、美沙ちゃんをもっと傷付けずに、接することができたかもしれないのに』

『ごめんなさい。何度も、本当のことを言わなきゃって、思ったんです。でも』

 

 僕の言葉を責めていると取ったのか、美沙ちゃんはまた謝りモードに入ってしまう。それで僕も慌てたけど、文面を見て、落ち着いて言葉を待つことにした。

 僕の言葉は聞こえているのだから、僕まで文字を打つ必要がないのはわかる。実際に、声を出して話し掛けることも普通にある。でも、美沙ちゃんは文字を打つスピードで話しているのだから、それよりも先走ることや、自分の言葉が美沙ちゃんと同じ重みで画面に残らずに行き過ぎてしまうことが、何となく公平じゃないと感じたから。

 だから僕はずっと、文字で伝える。時には喋りながら伝える。それが美沙ちゃんに寄り添うことになるのかなんて欠片もわからないし、もしかしたら的外れかもしれないけれど、それでも僕が、そうしたいと思ったから。

 

『私、子供の頃からずっと、人前で話す事ができなくて。外だとずっと、息が苦しくて、何を喋ろうとしても体が冷たくて、固まってて。でも家の中ではよく喋るから、お母さんにはすごく叱られて。何でお外じゃ何もできないのって』

『…僕が言えることじゃないと思うけど、すごく辛い思いしてきたんだね』

『中学の時も、それで学校に行けなくなったんですけど、仲良くしてくれた友達は何人かいて。保健室とか、人のいないトイレとか、安心できる場所だったら、その子達の耳元で話すこともできるようになったんです』

『すごい進歩じゃないか』

『すごく嬉しかった。でも、そしたらだんだん友達とかクラスの子が、本気で声を出そうと思えばちゃんと出るのに、何で最初から喋らないんだって。都合の悪い事だけ黙ってるんだったら、そんな病気も声もニセモノだって、ズルいって言い始めて』

 

 ぽつりと、画面に涙が落ちる音を耳にした気がした。レイは、暗い押入れの入り口あたりに座って、じっと美沙ちゃんの方を見ている。

 

『私、どう反論していいかわからなかったから…その子達の、言う通りだったから。そのまんま、また教室に行けなくなって。結局その後、学校の中では一言も友達と喋れないまま、卒業して。

高校は、通信制のところを選んで受験しました。できるだけ、喋れなくても授業に支障がないところ』

『そっか…』

『だから、愛理さんもきっと、がっかりしましたよね? 嘘つきだって、思いましたよね』

「そんなことない」

 

 そうはっきり文字を打ち込むと同時に言い切ってから、僕は襖にそっと掌を当てた。

 

「病気は、目に見えるものじゃない。僕のこれと、美沙ちゃんの症状じゃ、比べものにならないのもわかってるけど……でも、目に見えないからこそ、お互いの痛みをちゃんと測ることもできないんだと思う。想像するしかない。だから余計に、君のことが心配だよ。君のことも、君の声も、偽物だなんて思わない。思うもんか」

「……」

「笑顔で喋れる場所があるなら、いいことじゃないか。この世界の全部が、君から声を奪うわけじゃないって知って、僕ほんとにホッとしたんだよ。猫波荘が少しでも、美沙ちゃんが美沙ちゃんらしくいられる居場所なら、これからもそうであって欲しいし、できることならもっと広がって欲しい」

 

 そしていつかは、その輪の中に僕も、なんてちょっと欲張りが過ぎるけれど。

 でも、あの声で話し掛けてもらえる日が来たらきっと、僕は嬉しいと思う。

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