「そうだ」
ふと思い出して、僕は自分のスマホで音楽を再生した。薄い襖越しに、ほんのわずか、振り返るような気配を感じながら僕はLINEの画面を開き直す。
『この曲知ってる? ていうか、美沙ちゃんなら絶対知ってると思うんだけど』
真っ白な砂浜に、波が打ち寄せて泡と雫が砕け散る。そんな音から、この曲は始まっている。淡々と指が押さえていくピアノの音色が、浜辺を一人黙々と歩いていくところを想起させて、それに並走するギターは、エレキの音色なのにその鳴き方がどこか琴のような和楽器の情緒を呼び起こす。
一音一音、寂しげでありながら、凛と前を向いて踊るような歩調で砂浜を進んでいく、艶めいた乙女の浅黒い剥き出しの足。海水で湿った、砂の上に沈んで残る足型の凹み。そんなミュージックビデオを脳裏にありありと蘇らせながら、僕が語り掛ける前に返事があった。
『「
『そう。泡になって水の中に消えていく歌なのに、どこか清々しいっていうか、全然悲壮感ないっていうか。よく聴いてるんだ、最近』
『その曲は、万葉集の歌をモチーフに作られているらしいですよ』
『知ってる。二七三四番…だっけ』
僕もネットで調べたきりで、万葉集の膨大な和歌を覚えているわけではないので番号はうろ覚えだったが、美沙ちゃんはやや置いて、すらすらと続きを書き出した。
『潮満てば
潮が満ちるにつれ、打ち寄せられてくる泡に浮く細かい砂と同じように、自分はなって漂っていたい。恋に死ぬこともできないまま』
『焦がれるような恋に渇望して死に切る、なんてこともできずに、中途半端な思いを抱えながら生きて、流されていく。そういう読解でよかったかな』
『それでもいいんですけど、「泡心中」はそれに、八百比丘尼の伝説を掛け合わせて作られたそうです』
初耳情報だ。僕は思わず、勢い込んでスマホに指を走らせた。
『八百比丘尼ってあの、人魚の肉を食べてすごく長生きになったっていう?』
『そう。だからMVの女性は白っぽい布を被ってて、頭には椿を挿してて、歩く先々で魚の鱗が落ちてるっていう。まぁ、ファンの考察なのでどこまで本当か分かりませんけど』
『すご……それは知らなかった』
『ていうか、愛理さんやっぱり、翠涙のファンなんですか?』
『うん。いや別に、美沙ちゃんみたいにそんな深い考察とかしてるわけじゃないけど!』
『でも、曲のモチーフとかめちゃめちゃ知ってるじゃないですか』
心なしか、文面がキラキラしてきたような気がする。もう一押し。
そう思ってランダム再生していたスマホが、別の曲を流した。激しいギターサウンドと、夕立のように叩きつけるピアノ。それなのに歌声は、余計な感情が滲まずに深く響き渡って、選び抜かれた歌詞を的確に耳に残していく。バス停と歌えば森の奥のバス停が浮かび、水滴と歌えば雨と涙の雫が過ぎる。あかねさすと歌えば、木の葉の隙間から顔を出した鮮烈な日がギターと共に降り注いで、目の前が眩くなった。
『だいぶ初期の曲ですね』
『でも、似てた。君が作ったんだろう、さっきリビングで流れてたあの曲。ヒデちゃんに聴いたよ。こういうの、褒め言葉としてどうかと思うけど、聴いた時真っ先にこれが思い浮かんだ。翠涙を愛する人が、この曲の向こう側にいるんじゃないかって』
『恥ずかしいですね…実際に、真似して作ったんですよ。最初は耳コピから始めて。全部をコピーして自分のものにしたいぐらい、翠涙が大好きだったから。でも、ところどころ変えてみたくなって、気付いたらこんな風に』
『真似でもすごい才能じゃない? もっと聴きたい。これは立派な、君の言葉だよ』
返信が、不意に途切れた。
また何か言葉選びを間違ったのでは、と不安で汗が滲んできた頃、ひょいと美沙ちゃんは押し入れから顔を出した。覗き込んで待っていたレイが、慌てて距離を取る。どこまでもツンデレ猫だ。
思わず安心して、僕はスカートの汚れを払いながら立ち上がった美沙ちゃんの手を取ると、もう片方の手の指で涙の跡をそっと拭い取った。
「よかった。やっと女神様のお出ましだね」
「……」
きょとん、と僕を見上げた美沙ちゃんは、たたっと素早くスマホを打つ。
『愛理さんって、たまにものすごくクサい事言いますよね』
「んなっ」
『だって、私を天照大御神に例えるなんて、バチが当っちゃいますよ。私なんかが隠れても、日本は暗くなったりしないし』
「そ、そうだけど……!」
意外にも塩対応だったので、何かこっちが恥ずかしくなってきた。ていうかこれじゃ、「君は僕にとって太陽にも等しい存在だ」って言ってるようなもんなんじゃ。
意味が通じたせいで、勝手に告白して玉砕した人みたいな恥ずかしさを味わいながら僕が頭を抱えていると、美沙ちゃんは笑っているようだった。そんなに大きな声じゃないけど、ふ、ふっと、微かな息の音と共に、静かに雪の降るような笑いが聞こえて、僕はびっくりした。
『ありがとうございます。おかげさまで、元気出ました』
『そ、そう……? 美沙ちゃんが元気出たなら、それでいいけど』
『迷惑かけてごめんなさい。それと、今更ですけど、勝手に部屋入って冷房つけちゃって』
『それは別にいいって。他に隠れる場所、思いつかなかったんでしょ』
まあ確かに不法侵入といえば不法侵入だけど、間借りしてるのは僕の方だし、僕は苦笑しただけでそれ以上責める気も起こらなかった。
『あとで、レイにもお礼しなくちゃ。ちゅーるあげたら触らせてくれるかなぁ』
美沙ちゃんは、尻尾をぴんと立てて部屋を歩き回るレイを、しゃがみ込んで見つめている。艶のあるふんわりしたボブの黒髪を、もし今撫でたらどうなるのだろう、と思ったその時、美沙ちゃんが不意に顔を上げた。
改まって、スマホに打ち込みながら文字を見せてくる。
『愛理さんにはここまでバレちゃったから、もう一つの秘密も教えてあげます』
「ん?」
何だろう。状況によっては声が出せることと、曲が作れること。他にも何かあるんだろうか。
そう思っていたら、美沙ちゃんは僕から視線を外すようにして、指先でスマホをタップする。さっきも聴いた、美沙ちゃんの作った曲だ。彼女はそのまま目を閉じながら窓際を向き、大きく息を吸い込んだ。
開いた喉から、歌声が流れ出す。この六畳間では十分すぎるくらいに響き渡ったのは、繊細なのに強くって、危なっかしいのに深みがある、そんな声。話している時のそれとも違う、美沙ちゃんの心そのもののようなまっすぐな歌声に、僕は目を見開いた。