あの歌を聴いてからというもの、僕と美沙ちゃんの間にあった隔たりのようなものはなおさら少なくなって、距離が縮まったように思えてきた。
なんだろう、もちろん元々仲は悪くなかったけれど、もう少し踏み込んで、お互いの弱さや恥ずかしいところまで、晒してもいいと思えるような。それこそ猫が隣に並んで、互いの尻尾で体を撫でたり毛繕いをしたりするような、そんな穏やかな空気感に似ている。
時折、実家ではなく僕の部屋に寝泊まりするようになった美沙ちゃんは、今日も並べた布団に転がって、スマホで夜のニュースをチェックしていた。冷房の効いた部屋でも布団を被る贅沢をするのが彼女らしい。暑いところは苦手とはいえ冷え過ぎも嫌うのか、そろそろ寝る時間と見たメルが、美沙ちゃんの腕の中へ暖を取ろうと潜り込んでいた。
「いいなあ」
猫といえば抱っこして眠るのがちょっとした夢だろう。あまり期待もせず、お前もどう? と畳のへりを歩いているレイに目配せすると、レイはふんと鼻を鳴らしながら、すたすたキャットタワーの上にあるハンモックの定位置に登って行った。相変わらずつれない猫だ。
『そういえば、愛理さんが名付け親なんですよね。レイって名前。ひょっとして、
隣にいる美沙ちゃんからメッセージが来た。昔懐かしい感触の敷布団に背を預けながら、僕は苦笑いで頷く。
『美沙ちゃんは相変わらず鋭いなぁ』
『気になってたんです。黒猫なのに、光って意味の名前だから。でも、素敵だと思う』
『翠涙とは別なんだけど、僕が好きなバンドに「in the ray」って曲があって。十年くらい昔の曲なんだけど、あれを聴いた時の感じが忘れられないんだよね。何かを失った時に、それでも目の前へ差してくる光。レイのことを、僕は瞬間的に導きだって思ったから。きっと僕は、あの子を自分の光にしたかったんだろうね』
懐いてくれているかどうかは別として、今尻尾を垂らしながら体を丸めているそこの黒猫が、毛皮を規則正しく上下させて眠ってくれているだけで、僕は心に幸せが満ちてくるような不思議な感覚を味わっている。別に好きな気持ちだけで猫が飼えるわけじゃあるまいに、もうとっくに、レイがいる日々が当たり前に感じるくらいに。
布団の下でうつ伏せに起き上がった美沙ちゃんが、レイの瞳孔と同じ深く艶のある黒目を、きゅるんと光らせた。
『知ってます、その曲。確か、当時初めてシガロとリアルのバンドがコラボしたって言って、すごく有名になって』
『そうそう。おんぷちゃんが歌ったバージョンと、バンドのボーカルが歌ったバージョンと両方出たんだよね』
『いいなあ。由来を聞いたらますます素敵に思ちゃった。もっといっぱい、名前呼んであげよう』
僕の前ではなかなか恥ずかしがって声を出してくれないけど、美沙ちゃんは時々、リラックスした空間に一人でいる時に、猫達に向かって話し掛けているのを僕は聞いている。鈴を転がすような、一匹ずつに語り掛ける優しい声に思わず胸が詰まって、僕はそんな時、しばらくの間立ち尽くして盗み聞きをしてしまうのだけれど、猫がよくてなんで僕はダメなんだと思うのは、くだらない嫉妬だろうか。
『「月と黒猫のワルツ」って曲、翠涙にもありますよね』
『うーん、それもちょっと意識した。名曲だよね』
『レイって名前、音も響きもすごく好き。愛理さんの大好きをたくさんもらえて、レイは幸せですね』
ころりと転がってこちらを見たまま、美沙ちゃんがふわりと微笑む。タンクトップの下から覗く薄い皮膚と、真っ白なシーツに広がるぬばたまの黒髪があまりに綺麗で、僕はじっと凝らした目を、不審がられない程度に慌てて引き離した。
『そういえば、メルとララはきょうだい猫だって言ってたよね。名前はヒデちゃんが付けたのかな』
『その二匹はそうですね。フランス語のラ・メールから取ったそうです。ヒデちゃん、沖縄の海が好きだから』
『なるほど。いい名前だ』
『ポーラは、私が付けました。丁度、ララがお星様になった頃にやって来た猫で、まだすごく小さかったんですけど、野良だった母猫が助からなくて。お尻についてる白いちょんの模様が、北極星みたいでしょ』
『そっか。ポラリスだからポーラなんだね』
腕の中でもぞ、と動いたメルを、美沙ちゃんが抱きしめる。話をわかっているかのように顔を上げているメルの瞳を覗いて、美沙ちゃんは鼻先をくっつけた。
『北極星は、昔航海をしていた人が目印にして進んだ星だそうです。ずっと夜空の中で位置が変わらないから。もしメルが寂しくなって、道標に迷ったとしても、ポーラがララのところまで連れて行ってくれるかもしれないと思って』
『それも素敵な由来じゃないか』
『本当に道標になって欲しかったのは、私の方かもしれませんけどね』
やんちゃなポーラは、今日はヒデさんと一緒らしい。無邪気でちょっかいの出し方が上手いポーラに、きっとメルも何度も救われてきたことだろう。そんな姿を見て、美沙ちゃんも僕と同じように、心を温められてきたのかもしれない。
『猫って、いいよねえ』
『それに尽きますよね』
そんな会話で終止符を打ってから、僕は部屋の電灯の紐を引っ張った。
クーラーの稼働音だけが響く部屋で、布団を被って体を丸めることしばらく。寝付けなかった僕は、目を開けて暗闇に目を凝らした。ぼんやりと外の明かりがカーテン越しに入る窓際の側に、キャットタワーはある。魔法のマントみたいなレイの黒毛は、じっと見つめていても綺麗に闇に溶け込んでいて、そこにいるのにいないみたいだ。僕は、枕元のスマホに手を伸ばした。
『美沙ちゃん、もう寝た?』
『起きてます』
寝てたら一方的に纏めて長文を送り付けようかと思っていたのに、予想外の返事が返ってきた。
『ごめん、起こすつもりじゃなくて。多分ちょっと書くのに時間がかかるから、むしろ寝てて欲しいんだけど』
『そんな面白そうな話されて、寝てられる訳ないじゃないですか。でも、ゆっくり書いてください。待ってますから』
背後で身じろぐ音がして、美沙ちゃんがイヤホンを耳につける気配がした。翠涙の曲を聴いているんだろうか。
『よかったら、どうぞ。作業用BGMに』
BluetoothとWi-Fiを繋げっぱなしにしていたので、それを経由して美沙ちゃんから音楽が共有されてくる。布団の中でイヤホンを耳に嵌めると、聞き覚えのある翠涙の曲が流れてきた。
好きなアーティストの曲を、同じアーティストが好きな人と、深夜に真っ暗な同じ部屋の中で聴いている。それは、すごく特殊な感覚だった。
『美沙ちゃん、前に「大切な人を奪い去っていった音楽のことを、憎んでいるのか」って聞いたよね』
『はい』
あれからずっと、自分の中で反芻していた問いだった。そうやって誰かにはっきりと口にされる前から、本当は答えは出ていたような気がする。真っ暗な闇の中でも、心の皮膚を切り裂いていくような翠涙の音楽は、爽やかな夏の原風景を歌っているはずなのに、首を絞められるような苦しさを僕に残していく。
置いて行った人が憎くて、変われない自分が不甲斐なくて、記憶の中の幻想とは裏腹に、毎日はありふれた日々の繰り返しで。それを突きつけてくる翠涙の曲を聴いていると、思い描く過去が美しければ美しいほど、手の届かないものであればあるほど、どうしようもない感情が心の中で膨れ上がって爆発して、死にそうになる。
いっそ、塞いだ耳と頭の中で音が破裂して、死んでしまえたらいい。塵になった感情の中で、何も感じずに死んでいけたら本望だろう。そう思いながら、一人の時、何度も翠涙の曲を聴いた。
それでも、聴くのをやめられないのは。縋らざるを得ないのは。
『多分、そうなんだと思う。ずっと認められない感情を、翠涙だけが代弁してくれるような気がしてた。不思議だよね。僕は普通に話せるはずなのに、喉の奥でずっと死んでいく声を、翠涙だけが知ってた。後悔とか、憧憬とか、妬みとか痛みとか、寂しさとか。そういう綺麗じゃないものを、ずっと歌ってきた翠涙だからこそ、僕は彼らのことを誠実だと思ってて。生きろなんて励まされてるわけでもないのに、一人ぼっちの世界で味方がいるような気分だった』
『わかりますよ。翠涙ってそういう曲ですもんね。だからちょっと、重過ぎてファン以外の人にはあまり話せないっていうか』
『悔しかったんだよなぁ。多分ずっと、僕から離れていく恋人のことを、どこかで恨んでいた。一緒にいないのが寂しいとか、そういうんじゃなくて、彼女にとって都合よく「恋人らしい」自分になり下がっていくのが、嫌だった。僕は、あやめの恋人という位置に収まっていたけれど、それ以外の何者でもない。彼女の前以外では…音楽という世界で自分を見つけていく彼女と違って、何の役割も持たない自分に嫌気が差してた。
今思えば、焦ることなんてなかったのに。人が自立していくのは、当たり前のことなのに。僕だけがずっと、大人になれなかった』
今だって、翠涙の曲が頭の中をぐるぐる回って、破裂しそうになる。でも、これがあったから、酸素を吸うように翠涙を吸入してきたから、僕たちは生きてこられたんだ。そして、今ここで、レイを介して繋がっている。
いつの間にか湿っぽくなった鼻を啜ると、少しの間返信が途絶えて、またトーク画面が動いた。
『きっと、実際はそんな事なかったんだと思います。何の役割もないなんて。でも、愛理さんがそう感じたんだったら、それが真実ですべてです。他の人の目を通してじゃなくて、愛理さん自身の心が感じたことが、愛理さんにとって一番正しい。だから、今ここにいるんだと思う』
『だね。まぁ、結果的によかったのか悪かったのかわかんないけど』
『人には、いい時も悪い時もありますから。これからよくしていくかどうかは、愛理さん次第じゃないですか』
変に慰めっぽいことを言わないのが、またドライな美沙ちゃんらしいなと思い、僕は涙の粒をつけたままで小さく笑った。
『それに、大人になれないことは、別に悪いことじゃないと思いますよ。綺麗に大人になった人が、翠涙みたいな曲を書けるわけありませんから』
『なるほど、一理ある』
『ほんと、どういう人達なんでしょうね。素性を明かさずに作品一本で勝負してるところが、魅力と言えば魅力なんですけど』
こんなに心に刺さる世界を、音楽や映像といった媒体で作れる翠涙の素の顔が、気になるのは無理もないことだろう。
翠涙の曲はいつでも、死んで『終う』ことと生きて『行く』ことが、紙一重だった。その境界はひどく曖昧で、全然違うのにとても似ていて。そんな危うさを綱渡りするように、真綿で包みながら心を傷付ける歌詞を、ナイフを突き刺しながら血塗れの手で僕らを引き上げる歌詞を、幻想や文学の世界と反復横跳びしながら書ける人間に、僕は一人しか心当たりがない。
最初に聴いた時、まさかと思った。けれど、聴けば聴くほど、その無視できない違和感と確信は強まっていった。ある人物が、翠涙の裏側にいるのではないか、と。
美沙ちゃんの勇気を目の当たりにして、僕は長年抱えたこの違和感を、確かめるべき時が来たのかもしれないと、スマホを握り直した。勘違いで終わるかもしれないけれど、僕が前に進むために、それはきっと必要なことだ。ただそれは、まだここで美沙ちゃんに話すべきことでもない。
『ありがとね、美沙ちゃん。おかげで少しすっきりした』
『私でよければいつでも』
おやすみのスタンプを打って、僕はもう一度布団に潜り込む。掛け布団を動かそうとして、ふとその端が重たいことに気が付いた。ずしっと漬物石のように動かない布団の感触で、僕はそこにレイがいることを知る。
「……」
何も見えないけれど、体を丸めて眠っているようだ。いつの間にキャットタワーから降りて来たのだろう。折角の温もりが離れていってしまわないように、僕はなるべく動かず、布団を隔ててレイの側で横になった。
今、動いている僕の心臓と背中合わせにして、裏側にはレイの心臓がある。光と涙を、相反する二つを美しい名前の内側に持つ、艶やかな黒色の猫がいる。忍び寄る夜の闇のように、その心臓が奏でる音はワルツになって、布団に沈んでいく僕を、回転しながら眠りの淵へ誘っていくようだった。