僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day2.透明

 思えば、滑稽だった。

 数分前まで、自分が生きるか死ぬかなんて事を考えていたはずなのに、なんで僕は今、濡れ鼠になりながら、自分の命さえ顧みず車道に飛び出して、あの生き物を庇おうとしているのだろう。

 放り出した傘も、今し方買って来たばかりのスープも、何も気にならなかった。ただ、この手を伸ばした先にある、黒っぽい塊まで全速力で走る事だけを、考えていた。

 とっさに飛び出してから、ようやく顔を打つ雨の勢いに気が付いたぐらいだ。

 幸いにも車通りが偶然なかった事と、動物が撥ねられていたのが車道の脇だったこともあって、僕は轢かれずに済んでいた。息を切らして、足元の影にしゃがみ込んだ僕は、思わず肩を揺すって咄嗟に問い掛けた。

 

「ねえ……ねえ。大丈夫?」

 

 声が震える。

 猫……だよな。

 人でもないのにこんな普通に話しかけてしまうなんて、僕はよっぽど動揺していたんだろう。

 毛皮がボロボロで、肩甲骨のあたりが触ると驚くほど痩せ細っていたので、思わず僕はびくりと指先を動かした。その動きに反応したかのように、耳先が持ち上がる。

 

「……なぁん?」

 

 狭い額の下から、緑がかった目がうっすら開いて僕を見たかと思うと、また閉じた。

 

「……だ、ダメダメダメ」

 

 何がダメなのか全然分からないまま、僕は消えていく命に手を伸ばすようなつもりで、真っ黒な体をかき抱いていた。

 猫なんて猫カフェ以外でろくに触ったことないし、そもそも動物が大人しく自分に抱かれてくれた経験なんて、動物園のヒヨコとかウサギレベルだ。

 だから抱き寄せるには勇気が要ったけど、この瞬間ばかりは躊躇なんてしていられなかった。

 痩せてはいるけど思ったより大きな猫で、何とか抱えてみると、雨水に濡れたスーツの腕の中がどっしりと重い。冷え切った体をぴたりと胸に押し付けた瞬間、小さな鼓動を感じた。

 ——よかった。生きてる。

 

 雨はもう坂道の表面を川の如く流れるくらいに勢いを増していて、僕はとっくに浸水したスニーカーの足を引き摺りながら、途中で放り出した傘と荷物を抱えて、何とか自宅のマンション前に辿り着いた。

 晩飯がびしょびしょだが、構っていられない。テイクアウトのビニール袋と、もはや水袋と化したリュックを玄関の三和土(たたき)に放り出し、濡れると面倒なので着替えも全部脱ぎ落として素っ裸になりながら、僕は抱えた猫と共に風呂場に急いだ。

 いいんだよ。一人暮らしなんだから誰も見てないし。

 

 野良猫の保護なんてやった事ないけど、とりあえず汚れを落として毛を乾かすのが先決だろう。

 長らく使っていなかった、家で一番デカい手洗い用のタライを棚の物入れから引っ張り出し、蛇口から湯を溜める。

 少し水流を弱めてから、僕は満タンにお湯の張ったタライへ、猫の体をおそるおそる沈めた。

 猫は水が嫌いって言うから相当難儀するかと思ったが、もはや暴れる気力もないのか、思いの外大人しくしている。僕に猫の気持ちはわからないが、額の上を指で掻いてやると、目を細めて気持ち良さそうにしているようにすら見えた。随分殊勝な猫だ。

 うちに猫用のシャンプーはないので、とりあえず毛に引っ掛かったゴミや汚れを取り除きながら、タライのお湯がだいたい透明になるのを目安に、見よう見まねで洗ってみる。

 それでようやく気が付いたが、洗い終わってもこの子の毛は真っ黒なままだった。黒猫だ。時折うっすら開ける瞳は、緑と金の中間あたりの色をしている。

 

「……っ、へっくしゅい。大丈夫かな」

 

 こんな真っ裸のところで暴れられても困るが、うんもすんも言わないので、逆に心配になってきた。

 とりあえず僕も手早くシャワーを浴び、自分の毛より優先して猫をドライヤーで乾かしながら、もう片方の手でスマホを弄って軽く食べ物の事を調べた。やっぱり猫用のフードかミルクがないとダメらしい。

 コンビニはすぐそこだったので、湯冷めをしないように部屋着の上へ厚手のパーカーを羽織って、僕は出向く事にした。さっきテイクアウトした夕飯も、おじゃんになったままだしな。

 夜特有の眩しすぎる照明の店内で、とりあえず日用雑貨の棚を探した。棚にある銘柄はそんなに多くないけれど、贅沢も言ってられないだろう。猫缶と一緒におにぎりも買い物籠に放り込み、お会計を済ませると、僕は再度部屋に戻った。

 少し離れている間にも死んじゃうんじゃないかと思って不安だったけど、猫は保温用に僕が毛布を敷いた段ボール箱の中で、大人しくしていた。

 

「よかった。はい、これ」

 

 缶詰を目の前で開けようとして、ふと猫用の皿がないな……と気付いた僕は、立ち上がって食器棚を漁った。引っ越してからはあまり使っていない、前恋人と住んでいた頃の家から持ち越した深めのグラタン皿が、一つ残っている。

 

「……しょうがない。これは君に譲ってあげよう」

 

 まあ、使ってないのに捨ててなかったのは、引っ越しの時の整理がおざなりだったせいでも、何となく捨て切れない未練があったせいでもあるんだけど、そんな人間の感傷など知ったことかと言わんばかりに、黒猫は盛られた猫缶をガフガフ食べ始めた。それはもう、皿の中に頭ごと突っ込むような勢いで。

 目立って大きな怪我はしていなさそうとはいえ、あの衰弱具合からは考えられない食欲だったので、思わず僕は拍子抜けして、それから笑い出してしまった。

 

「あははっ……明日は病院に行こうね」

 

 食べ終わった皿にミルクを注いでやりながら、僕は鳴り出した腹の虫をおさめるべく、鞄から取り出したおにぎりの包みを開けた。

 何もわからぬ顔で猫はきょとんとしていたが、胡座でこの子を眺めて食べる晩ご飯は、いつもより少し、心に火が灯ったようなあたたかさがあった。

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