僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day20.甘くない

 その日。

 猫波荘一階にあるバー「猫の眼」は、珍しく昼間の客を受け入れていた。僕の我儘と一存で、念の為貸し切らせてくれとヒデさんに頼んだからなんだけど、僕を覗いてはたった一人しかいない、人気のない店内は、美沙ちゃんにとってもリラックスしやすい環境だったらしい。

 僕が招き入れた、高身長高収入高学歴を絵に描いたように見えるその人物は、体の八割が脚なんじゃないかってぐらいスタイルのいい体を上質な紺のスーツで固め、襟足を刈り上げたダークブロンドのショートヘアの下で、朗らかに美沙ちゃんに笑いかけていた。剥き出しの耳からはピアスがよく見える。

 

『それで、この曲の盛り上がりのところが最高すぎて。単体としてもいいんですけど、やっぱりこの曲順で来て、尚且つあのアルバムの曲に被せたメロディーラインにしてくるところが、本当に翠涙はすごいっていうか』

「うんうん」

『絶対に関係してると思うんですよ。この時はまだ出てなかった物語だけど、アルバム全部完結してからもっかい振り返って聴くと、そうとしか思えなくって』

「あはは、美沙ちゃんは初期の頃の曲から、こんなに聴き込んでるんだなぁ。なんか、同じ音楽が好きな人から、こんなに話を聞けるとぼくも嬉しいね」

『私もです。尊い…』

 

 さっきからしゃあしゃあと美沙ちゃんに話を合わせている野郎は、女のくせに全女性を恋に堕とすんじゃないかとも思える低く落ち着いたアルトボイスで、顔を覆って撃沈する美沙ちゃんを優しく見つめている。まあ、美沙ちゃんが撃沈してるのは推しのトークで盛り上がれる尊さ故なのだろうが、なんか面白くない。

 美沙ちゃんは、夢中になって(スマホじゃ追いつかないから、もはやBluetoothのキーボードとタブレットまで使って)翠涙トークを繰り広げていた。彼女には、こいつのことを「僕と同じ、翠涙ファンの友達」だと話してある。

 ——まさか目の前にいるのが、いわば翠涙(スイレイ)(スイ)に当たる、憧れのバンドの片割れとも呼べる人間だなんて、夢にも思うまい。

 

「あのねえ、僕もいるんだけど」

「はいはい。悪かったね、スズちゃんを置き去りにして」

「その名前で呼ぶなって」

 

 昔のあだ名に苦りきった顔になる僕とは反対に、美沙ちゃんはキラキラ目を輝かせて、そいつに話しかけていた。

 

『それにしても、驚きました。愛理さんの同級生の方にも、翠涙のファンがいるなんて。この世代って、何かこういう音楽にハマるところがあるんですか?』

「うん? んー、それはどうだろ。現に美沙ちゃんだってハマってる訳だし、別にこういう世代だから、っていうのは関係ないんじゃないかな? たとえどんなに大人になっても、消えない傷を持つ人間には、幾つになっても刺さる。そういうものだろう、音楽って」

 

 感心する様子を見せた美沙ちゃんに、小さくウインクを返す彼女の足を、余計な事は言うなという意味を込めて軽く踏む。ここに来てもいいとは言ったが、僕らの過去の醜態までバラしていいとは許可してないぞ。

 ふと掛け時計を見上げた美沙ちゃんが、タブレットを閉じてからスマホに持ち替えた。

 

『私はそろそろ、友達と待ち合わせの時間なので。ゆっくりしていってくださいね、誠さん』

 

 ぺこりと頭を下げて、美沙ちゃんはご機嫌な様子でバーの奥の階段を上がっていった。望んで引き合わせたのは僕のはずなのに、変なところで神経を使ってめちゃくちゃ疲れた。やれやれ。ミントシロップを割って作ったノンアルのモヒートを、僕は一気に煽る。

 「お客」から「友人」の顔に戻ったそいつはというと、燻んで鈍い色をした天然の金髪を揺らしながら、くつくつと楽しそうに笑い転げている。スツールから伸びて揺れる磨き上げられた革靴の先を、僕は睨んだ。

 

「それで? ぼくの事は上手く誤魔化してるみたいだけど、あんなに熱心に翠涙のファンをしてくれてる子に、教えてあげなくていいのかい」

「それはなんか、卑怯だろ。たまたま翠涙の翠が僕の友達だったなんて、あまりによく出来た話すぎて、美沙ちゃんの方が気に病むんじゃないかと思ったら怖くて言えない。友人が芸能人の知り合いだからって、その友人に頼んでサインもらうのは、何か気が引けるだろ。それと同じ」

「相変わらず『いい子』だねぇ、スズは。それに、まだこんなぼくのことを『友達』だって思ってくれてるんだ。光栄だよ」

「勘違いするな。便宜上そう呼んでるだけだ」

 

 差し出された手を叩き落とすような言い草にも、誠は動揺することなく首を傾げる。

 ソーダ水を光の中で濃縮したみたいな、青空色の瞳がすうっと細まって僕を見た。成長するにつれて、天使のようだった透けるブロンドは燻んだヴィンテージの色合いに変化したらしいが、その瞳の色だけは昔から何一つ変わっていなかった。僕らの青さを象徴するかのように、赦されない思い出と感傷を切り取ったかのように、どこまでも僕を追い詰め、誘惑する瞳。

 気が付いたら、白魚のようにすらりとした腕が、僕の体を背後から抱きしめていた。日焼けしていない指先が伸びて、シャツの袖を引っ掛けながら捲り上げ、晒し上げられた僕の腕の内側をなぞる。

 

「っ……」

「跡、残っちゃったね」

「だ、れのせいで……っ!」

「そうだね。ぼくのせいだ。でも同じだけ、君もぼくに刃を振るった。ぼくに嘘を吐き、作品という命を奪い、虐めに間接的に加担するという刃をね。……でも、そんなことはもうどうでもいいんだよ。あの日、勝手に逃げ出した君が再びぼくの元に堕ちて来てくれるだけで、ぼくは十分なんだから」

 

 誠がなぞった指の下には、他人の元では滅多に晒すことがない、白い筋の跡。恋人にさえ全ては晒すことが躊躇われた、幾つもの剃刀の跡が、この体には何箇所も刻み付けられている。

 また連絡くれると思わなかった、と嬉しげに囁いた唇が首筋に押しつけられる。それだけで芯から震えが走るのに、これが恐怖によるものだけではないことを、身体が本能的に理解してしまっている。

 あの頃——世界のどこにも味方はいなくて、僕らを守れるのは僕らしかいないのだと、狭すぎる価値観で何もかもを俯瞰していた頃。今だったら青かったで済む時期も、当人達にとっては生きるためだけに必死で、そんな時代に僕はユイこと唯根(ゆいね)(まこと)の手を取った。

 ハーフで生まれた誠は、外見的にも性格的にも、女子校の生徒達の憧れの的で、当時は野暮ったい黒のおさげ髪が定着していた僕を、選んでくれた事自体が信じられなかった。彼女を愛しているのと同じくらい、離れていくのが怖くて、何度も試すように嘘を吐いた結果、誠の心を先に壊したのは僕だ。だから、その分の仕打ちを誠から受けるのは、当然だと思っていた。

 傷付けられると知っても、求められるのが嬉しくて、痛みに歓びすら覚えて。親しい友人同士の束縛、と呼ぶにはお互い度を越していることを、頭のどこかで理解はしていた。それでも、やめられなかった。

 お互いがお互いの命を救っている。傷跡と痛みが、消えない絆として僕らを繋いでいる。僕には、彼女だけ。彼女には、僕だけ。そうやって築かれた友情は、友情と呼ぶには歪すぎるものだったかもしれない。それを清算するつもりで、僕は実家を出た。長い髪も一人称も、何もかも捨てて、生まれ変わったつもりだった。

 

「でも、……っ、翠涙の曲を聴いた時だけ、わたしの中に、おさげ髪の女の子がいる……っ! だから、あの曲は……あれは、ユイが」

「それだけで普通は気が付かないと思うけどね。でも、そんなにぼくらの音楽に浸りきって、君が“スズ”を眠らせずにいてくれたのなら、ぼくとしては本望さ。まさか本当に届くなんて、思っていなかったんだもの」

 

 どこまで本当かわからない事を言いながら、苦しげに息を零す僕の喉元を軽く絞めた誠が、もう片方の手を鼠蹊部のあたりへするすると下ろしていく。蛇が這うような温みが、シャツの下の素肌に触れて我に帰った瞬間、僕は手を引き剥がして誠を突き飛ばしていた。

 

「はあ、はぁ……っ、さ、すがに人の店で手出すのは、やめてくれる?」

「何、ここじゃなければいいってこと? 上の部屋とか?」

「帰れ。ここはラブホじゃねーんだよ」

「わかってる。流石にぼくもそこまで下衆な真似はしないさ。それに、肉体を縛るよりもっと効率的なやり方を、ぼくは知ってるもの」

 

 飄々と肩をすくめた誠は、僕の背を押すと椅子に座らせた。レモン水のお冷をコップに注いで僕の前に置きながら、息を切らした僕が落ち着くのを待っている。静かな瞳に、震える息を吐き出してから、僕は自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「病院の先生に僕の具体的な過去が知れたら、絶対君と会うのは止められるんだろうな」

「それを分かってて、何でぼくを呼んだ? 言っとくけど、ぼくに心の専門家みたいな真似は無理だし、アーティストの片棒を担いでる以上、君相手にだけ手加減して付き合うとか、そういう器用な真似も期待できないからね。誰のことも傷付けない曲を作って食っていけるほど、世の中甘くないんだよ」

「まあ、そうだろうね。別に助けてもらおうなんて期待してないよ。ただ……何となく、気になって」

 

 ああは言ったけど、美沙ちゃんには時を見て、誠のことは話すつもりだった。

 かなり昔に交換した古いアドレスに、ダメ元で送信して問いただしてみたら、僕と並々ならぬ繋がりを持つこの友人が、翠涙の作詞担当を担っていたということは。

 別に、だからそれで美沙ちゃんと翠涙のコネクションができると決まったわけじゃないし、そもそも誠に聞いてみないとダメだったけれど、あんなに翠涙のことが好きな子だったら、喜ぶんじゃないかと思って。

 「美沙ちゃんを喜ばせたくて、サプライズ」という言い訳が、表向きの理由。もう一つの理由は、僕自身が、母のことと同じように、過去に置き去りにしてきてしまったものと向き合う必要があると感じたからだ。

 

「相変わらず粗治療っていうか、不器用だなぁ、スズは。中等部にいた頃も、勝手に髪型とか変えちゃうし」

「あれは、誠のショートが羨ましかったから」

「ぼくは、スズの真っ黒な地毛のおさげ大好きだったのにさ」

「見た目や一人称を変えたぐらいじゃ、結局何が変わるわけでもないんだよね。やっぱり」

 

 茶色くなった毛先に触れると、ちらりとこちらを見た誠が言った。

 

「その髪色もよく似合ってるけれど。ぼくがどうこう言うより、スズが在りたいと思った姿でいるのが一番だと思うよ。自分の在り方は自分で決めるものだ。君が美しいと決めた姿ならば、ぼくには全部美しいもの」

「ユイ……」

 

 人はそう簡単には変わらないと言うけれど、誠はどうなんだろう。

 実家を出てから何十年も、誠には会っていなかった。同窓会で顔を合わせるぐらいの事はあったかもしれないけど、それでもちゃんと喋った覚えがない。

 あれだけ聡明でありながら本当はガラスのように脆く、人を翻弄し、歪さを抱えたままそれをぶつける事しかできなかった誠も、あれから全く変わらなかったとは、僕にはどうしても思えなかったのだ。

 僕に向ける感情が一つではないことはわかる。僕との思い出をモデルにした曲を聴いて、何も感じないほど僕も馬鹿ではない。誠だけの力ではないとはいえ、未だに僕の傷を抉り出そうと考えている人間でなければ、あんな詞は書けない。

 けれど誠は……僕には届かなくてもよかったと言ったのだ。一度捨てたはずの僕が再び連絡してくるかもしれないという、一生の中では確率の少なすぎる賭けに出ながらも、誠は曲を完成させることを躊躇わなかった。実際に、それで多くの人の心を掴んで、詞を作り続けた。

 そこにあったのは、僕への思いだけではなかったと思う。「今」であれば、あの頃とは違う僕たちであれば、関わり合えるのではないかと、恐れ知らずにも僕は手を伸ばそうとしていたのだ。

 

「やっぱり、幾つになっても君は綺麗だなぁ。見た目の話じゃなくて。フランス人形みたいだって言われてたぼくより、ずっと綺麗で、誰かを信じようとする心がある。そういうところに、惹かれたんだろうね」

「誠の曲にだって、心がないわけじゃないと思うけど」

「そりゃ、曲を書いてるのはぼくじゃないもの」

 

 ぷはっ、と小さく笑った誠は、僕の出した食器や皿の片付けを全部手伝ってから、盆にそれらを乗せて階段を上がろうとした。悪逆非道な振る舞いを見せるくせに、こういう周りへの気配りが如才ないところは、昔から相変わらずだ。

 

「そういえば、作詞のところにも誠の名前ってないよね? 『翠』っていう名前すら、クレジットには載ってないし。そもそもボーカルの(レイ)はともかく、メンバーに(スイ)っていう人間が存在することすら、誠に聞いて初めて知ったんだけど」

「これは企業秘密だからね。だから、あの子にもあんまり喋るつもりはなかったんだけど、折角の再会だ。土産代わりに、スズ達には教えてあげようか」

 

 階段の上から、誘うような微笑みを浮かべた誠の唇は、二十年以上前の青春の息吹を、どこか彷彿とさせた。

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