「……ねえ」
「うん?」
「誠までこっちに住み込むとか、聞いてないんだけど」
「いいじゃん。人手が足りてないんだろ?」
「そーだけどさっっっ!」
宿の表側、バーの入り口ではなく宿泊客が主に出入りする表側の入り口へ面した通路で、いけしゃあしゃあと手桶で打ち水をしている誠に、思わず怒鳴り込んでしまった。ちなみに僕はゴミ拾いと箒担当。
早朝七時でも既に太陽が元気に活動しているせいで、甚平の下からは容赦なく汗が噴き出してくる。正式なスタッフ用のユニフォームではないのだけど、カジュアルに着られる和服が物珍しいのか、ゲストハウスですれ違った外国人のお客さん達からもかなり好評だったので、最近ヒデさんがお客さん用にも貸し出しを始めたのだ。
ので、誠が僕と揃いの甚平を着ているところまでは百歩譲って納得できるのだが、そいつが何故か宿泊客用の部屋ではなく、スタッフ用の寮棟に陣取って、昨日の夜から平然と宿の手伝いをして働いているのはどういう訳だ。
おかげで、昨日は誠がヒデちゃんやスタッフ達からほとんど仕事を教わっていたものだから、あの話の続きをする暇が結局なかった。そのくせ、僕の身の上話だけはその短時間でもちゃっかり聞き出してきたのだから、相変わらず口が上手いというか。
「宿の雰囲気いいし、スズを見てたら面白そうだからぼくも手伝おうと思って」
「それで普通住み込んで働こうってなる!?」
「ぼくさ、落ち着いたら古本屋事業始めようと思ってんだよね。んで、どこに開くかは決めてないけど、全国の空き物件とか本屋とか見て回ってんの。名古屋はまだそんな知らないから、この機会に数週間滞在して色々物色するのもいいかと思って。予定変更した。作詞の打ち合わせはリモートでもできるしな」
「へ、へえ」
意外とちゃんとした理由だったので、僕は淡々と水を撒く精悍な横顔を見ながら、拍子抜けしてしまった。
お嬢様育ちで我の強く気難しい誠がちゃんと働いているところなんて、あの頃は想像もできなかったけど、そりゃそうだ。僕らは大人になる。厳しい父親と、優しいけれど死んだ心を不倫で満たす母親に囲まれ、籠の外に出る希望もなく死んだ目で虚な将来を語っていた誠も、生きる道に恵まれたのだろうか。
手桶の柄杓を片方奪いながら、僕はさりげなく聞いた。
「そういえば……おばさんとは、今はどうしてるの」
「あの人? 元気だよ。書店のEC事業部で働いてるけど、ぼくが本屋するんだったらそっち手伝うって張り切ってる。こんな不況の時代だし、まだ計画段階なのにさあ。ま、助かるんだけどね。こんな不安定なぼくに、母も妹も協力してくれるのは」
「ちょっと待って妹いるの? 僕初耳なんだけど? 嘘でしょ?」
「そりゃ、ぼくらが高校生の時には生まれてないもん。母さんが離婚して、一緒にイギリスの実家に帰ってから再婚した相手の子だよ。だから生粋のイギリス人。三人とも、今大阪に住んでる」
衝撃の家族情報を平然とぽんぽん出しながら、誠は空になった桶を置いた。高校を卒業して海外に引っ越したまでは風の噂で聞いた気がするが、妹がいたのは知らなかった。唖然とするしかない。
「ていうか、おばさん再婚したんだね……」
「まぁ、あの人はそういう人なんだろうなぁ。でも、今回はずっと幸せそうだからよかったんじゃないかと思うよ。ぼくにとってはあんまり父親感はないけど、いい人だし」
「ふぅん」
声からはあまり感情が読み取れないけれど、誠がそう言うなら、誠の中では決着がついた事なのだろう。翠涙のことを聞き出すのも忘れたまま、僕は再会した同級生の身の上話に聞き入っていた。
蝉の声が、じわじわと路上にこだまする。うーんと背伸びをしながら、誠が腰の骨を伸ばした。男物の甚平を着ていても、さらりと違和感なく着こなせるほど、ざっくりしたブロンズのショートが似合っていた。
「うー、この作業、意外と腰にくるなぁ。ぼくらも歳取ったってことか」
「ジジくさいこと言うなよ……」
「
「妹ちゃん?」
「そ。今年の夏は、イギリスに短期留学中でいないけどね。ぼくには勿体無いぐらいよくできたいい子だよ」
「それ、最早嫁とか彼女に対する言い回しじゃないの? ユイって結構シスコン?」
「うるさい」
昔のあだ名で呼ぶと、誠がべっと舌を出す。
そこへ、二階のゲストハウスの玄関口へと続く階段から、美沙ちゃんが朝顔柄の暖簾をかき分けて降りて来た。本当は朝顔のグリーンカーテンでも宿に作りたいところだけど、朝顔は猫にとっては猛毒なので、レイ達が外でうろつく事はないとはいえ、念の為イラストで我慢している。
眠そうに目を擦りながら、美沙ちゃんがグループLINEにメッセージを送ってきた。
『おはようございます。二人とも早いですね』
『おはよ。美沙ちゃんは眠そうだね』
『朝弱くて』
夜行性っぽい仕草に目を細めていると、誠が不思議そうに言ってきた。
「ねえ、なんで愛理はメッセージに書いてるんだい? 喋るだけでいいじゃないか」
「えっ。いやだってその、なんか」
美沙ちゃんに合わせてるつもりだから、とか、少しでも僕の言葉を残したくて、とか、本人の前で言うのは恥ずかしい。しどろもどろの僕の前で、掃除道具を引き上げてきた誠は言った。
「ぼくだったら、全部喋っちゃうけどな。だって、あんまり腫れ物触るみたいに扱うのも、相手望んでないかもしれないし。そりゃ、できるだけゆっくり喋るようにはするけど」
「あ、あのなぁ……!」
『いいですよ。お二人が好きなようにしてくれて。私も、気を遣わせるのは嫌なので』
美沙ちゃんが、苦笑しながらメッセージを打ち込む。
すれ違いながら、誠が小さくウインクした。
「それにどちらにせよ、この後の話は記録媒体に残らない方がいいからね」
意味深な言葉に顔を見合わせる僕らを残して、誠は裏手の入り口から寮の中へ戻って行ったのだった。
***
「え゛ーっ! ゴーストライター!?!?」
寮一階のスタッフルームには、僕ら以外誰もいないから気兼ねが要らないのは事実だが、それにしても大声で叫んでしまった。美沙ちゃんも目をまん丸にしている。
僕らの横で食事を取っていたレイ達が、何事だと一瞬顔を上げて耳を立て、何でもなさそうだとわかるや否やまたせっせと食事に戻っていた。静かにしろと言わんばかりに、皿の上でメルがあの薄い色の瞳を細めている。
「あ……ご、ごめん。えっ、じゃあ、でも、誠が翠涙の詞を書いてることって、本当に誰も知らないの?」
「翠涙の制作チームと、業界のほんの何人か以外はね」
美沙ちゃんはと言えば、口元に手を当てたまま目を見開いて固まっている。憧れのバンドのメンバーが目の前にいるというだけでも緊急事態なのに、更なる衝撃情報で脳の処理が追いついていないのかもしれない。心配になってきた。
面白がった誠が、美沙ちゃんの顔の前で手を振ってから、目の前のフルーツサラダのトマトにフォークを突き刺して強奪していた。それにすら気付けないほど美沙ちゃんが呆然としていることはよくわかったが、マイペースすぎやしないか、こいつ。僕の生活を取り巻く気まぐれな猫が、また一匹増えてしまった気分だ。
「なんでったってまたそんな、面倒くさい真似を。普通に作詞家として公表すればいいじゃないか」
「この方が、なんか面白そうだから?」
「お前なあ……」
「半分真面目な話すると、翠涙は別に誰か一人が全部曲を作ってるってわけじゃないんだよ。曲作ってんのはほぼプロデューサーのhamakiだし、歌ってんのは
くるくると、誠は掌の上で銀のスプーンを得意げに回した。ようやく衝撃から立ち直ったらしい美沙ちゃんが、ぷるぷると頭を振って、トーストを一口齧る。きっと今すぐスマホを持ち上げて質問責めにしたくてたまらないだろうが、食事中はたとえ喋りたい時であってもスマホを触らないことをポリシーにしているのが、真面目な彼女らしかった。
「はあ……」
「だから、作者の単位を“グループとして”見てもらえるんだったら、別にゴーストライターでもないし嘘もついてないよ? ただぼくの名前を出してないだけで」
「そうとも言えるだろうね」
捻くれ者の誠らしいと言えば誠らしい。指先にスプーンを挟んだ誠が、ゆらゆらとそれを振りながら、水面のような青い瞳を輝かせる。
「それに、実際ぼくが担当してるのは詞だけじゃない。いわば世界観の造形担当……グループ内での肩書は“ストーリーテラー”として動いてる。君たちなら、この意味は何となくわかるだろ」
僕と美沙ちゃんは、同時に頷いた。翠涙の曲は単体でも聴けるし、特に意味がわからなくても曲自体の魅力が褪せる事はないが、アルバム全体や歌詞に、それとなくストーリーが張り巡らされていたりする。決して具体的なものではなく、ぼんやりした人物像ではあるけれど、そのキャラクターの人生や物語に思いを馳せながら聴くことができるのも、また翠涙の魅力だった。
食べ終わって重ねた食器を流しに置いた美沙ちゃんが、こっちに帰って来た。いつも僕より食べるのがゆっくりなのに、よっぽど急いで済ませたんだろうというのがよくわかる。
『いつも、どうやって考えてるんだろう? って思ってました。よっぽど深い教養とか、人生経験がないと出てこない言葉や価値観だと思ってて。誠さんほんとにすごいです』
「ありがとう。ぼくだけの力じゃないんだけどね。ベースとか案は作曲者のhamakiが出してきて、それで面白いなぁって思った部分をぼくが……おっと、これはあまり喋らない方がいいか」
苦笑して口をつぐんだ誠が、名残惜しそうな美沙ちゃんの前で、からんとスプーンを空のマグカップに戻す。
「そんなことより、昨日美沙の曲聴いたけど、はっきり言って勿体無いよ、自分の箱の中に収めとくのは。発表はしないの?」
『あの、一応動画投稿サイトに載せてるんです。好きだって言ってくれる人もいて。でもそれ以上は別に…ものすごい再生数欲しいわけじゃないし、有名になりたいわけじゃないし。気に入ってくれてる人がいるだけで嬉しい。それに、私のは翠涙のカバーとか真似をしてるだけだから』
たった一日ですっかり呼び捨てが定着している。それは、誠が美沙ちゃんのことを、単なる表の付き合いで済ましていい相手じゃなくて、一人の人間として認めていることの証左でもある。
謙虚に返事を返した美沙ちゃんだけど、微かに頬に赤みが差していた。憧れ続けたバンドのメンバーその人から褒められているのだから、よっぽど嬉しいみたいだ。
「ふぅん……曲もいいけど、美沙の声、生で聴けたら感動的だと思うけどな」
『そうですか?』
「人前で歌を披露するのに抵抗感はあるの? うち、メディア露出してないだけでライブはたまにお客さん入れてやってるけど、対面だとやっぱり一体感とか拍手の音とか、くるものがあるよ。それこそ、言葉じゃ表現できない」
『ライブのDVD、見ました。…正直、私もちょっとだけ考えることあります。目の前で、集まってくれた色んな人が私の音色を聴いてくれたら、それはどんな感じなんだろうって。でもそんなの、私が勝手に夢の中で妄想してるだけだから。ただの一般人が、大きいステージになんて立てるわけないし』
僕らを映す大きな瞳が、微かに潤んでいる。その目を柔らかく閉じて、美沙ちゃんは心をぎゅっと閉じ込めるように、両手を胸に当てた。その夢を、僕らに聞いてもらっただけで幸せなのだという風に。
すると誠が、空になった皿をテーブルの上で重ねながら、あっけらかんと言った。
「立ちたいだけだったら、規模は問題じゃないよ。一階のバーでライブやれば?」
「……え?」
「そのぐらいの広さはあるでしょ。演奏つきで酒とか食事とか提供してるライブバーなんて、たまにあるし。ていうか、愛理の元カノがいたっていうTraditional Lilyの前身は、栄のライブバーで演奏してたんじゃないの?」
誠が目の前にいるだけで、意外な角度からどんどん話題が出てくるけれど、これは間違いなく、僕らの頭の中をちらとも過らなかったことだった。美沙ちゃんをライブで歌わせるなんて、同じ曲を聴いた僕さえ微塵も思い至らなかった発想だ。僕も美沙ちゃんも、ぽかんと口を開いて目を見合わせる。
「そ、そんな……でも、そもそも美沙ちゃんはさ」
『やりたいです、私』
答えは早かった。稲妻よりも速くそう打ち込んだ美沙ちゃんは、がたんと椅子を蹴って立ち上がる。強い光が、その目に灯っていた。
『私、やってみたいです。今までずっと、克服できなかったことだから。これがきっかけに何かを変えられるなら、やってみたい』
「君次第だから声に関しては何の保証もできないけど、やる気があるならいいんじゃない? よし、折角だから、その話乗った。ぼくも協力しよう。作詞は愛理の担当ってことで」
「えええっ!? なんで僕!?」
あれよあれよと話が進んでいくうちに、とんでもないところからお鉢が回ってきた。もちろん協力するのはやぶさかではないけれど、僕が曲作りに関わるのか!?
こうして、レイが運んできた不思議な縁は、僕を音楽へと誘った。
あの時以来、向き合えず避けてきた世界への旅に、僕は想像もしなかった形で、奇妙な手を取り合うことになったのだ。