とん、とん、と指先が木目のテーブルを叩いている。
私の打ち込んだメロディーを、イヤホンで耳にしてリズムを取りながら、誠さんは文字がいっぱいのルーズリーフを前に顔を上げた。私の丸文字、誠さんの流れるような筆跡、愛理さんの少し雑な走り書き。案を出していたはずが、落書きや会話文で溢れていく紙とペンが、雑多にテーブルには広げられている。
「自分の中に浮かんだネガティブな感情を眺めて、相手のことを一旦最後まで憎み切ること。現状を正しく認識しないと、前になんて進みようがないからね」
『なるほど』
「冷静に切り離せたら、客観的に見て伝わりやすいかどうかを重視しながら、音数に合わせて言葉を配置してみる。自分が伝えたいという気持ちだけが突っ走っていては、聴く側に何の共感も得られないんだ。最悪、自分が表現したいことが表現できてりゃそれでいいんだけど、一応そういうのを考えとくことも有効打ってことで」
『だそうです、愛理さん。なのでもっと詳しく、あやめさんと別れた時の心境を教えてもらえませんか?』
「すごい拷問だよねえええええ!? 別にいいんだけど、三人で作ってるはずなのに僕だけ公開処刑みが強いの気のせいかな!?」
リビングでの相談中、愛理さんが勢いよく言いながらパソコンから顔を上げて、私の方を振り向いた。曲ができてくるまでの間、何もしないのは申し訳ないからと言って、愛理さんは私が昔よく見ていたサイトで、作曲の基礎理論を勉強したり、
そこまで真面目にならなくても、興味を持ってくれるだけで私は嬉しいのだけど。でも、同じものを創ろうとしている作業の間中、隣にいられるのが楽しくて、無理しないでください、なんて言えないまま、狡い私は黙っていた。苦笑した私の横で、先生をやってくれていた誠さんが、愛理さんに呆れたように言う。
「ていうか、愛理が自分で歌詞書けばいいんじゃないの? 曲作りは美沙ちゃんに任せて。いきなり音楽とか映像系から始めるより、文字からとっついた方が愛理は絶対にやりやすいでしょ」
「うぐぐ……まぁ、確かにメロディーを作るよりは、はるかに僕にとって取っ付きやすいだろうけど……文章も小説書きもブランクだった人間の復帰が、いきなり作詞とか。しかも、歌うのは美沙ちゃんなんだから、僕が失敗したら大恥かくのは美沙ちゃんなんだよ? 責任重大すぎて」
私が想像するより、かなり愛理さんは私の舞台を手伝うことを重々しく考えているらしい。私だって、こうして傍にいる人にもろくに声が出せないでいるのに、知人の範囲とはいえ呼び集めた人の前で歌を歌うなんて、想像しただけで緊張で倒れそうになるけれど、本番どうなるかなんてことより、今はこのメンバーで何が出来上がるのだろうということに、わくわくしていた。
作品さえ私たちにとって最高の出来ならば、その後のことはどうとでもなる。私には、そういう変に楽観的なところがあった。だから、誠さんの提案にもあっさり頷いてしまったのだけれど。
『別に、愛理さんが書いてくれる歌詞だったら、どんなものでも恥だなんて思ったりしません』
「ほら、彼女もこう言ってくれてることだし」
前に部屋にお邪魔した時、もう随分と私的な文章を書いていないのだと、愛理さんは言っていた。恋人や友人、身近な人への想いや、その人たちと過ごしたことで湧いてくるアイディアやモチベーションが、関係性が変化して絶たれたことで、愛理さんの中では朧になって久しいらしい。
それでも、何かを捻り出す事に意味があるのだというように、パソコンに向かう愛理さんの目は真剣だった。一本一本指を動かして、進んでは消し、キーをぽつぽつと叩いている。その姿は、目の前の誰かに向かって、必死で喉をこじ開けようとする自分の姿に、どこか重なって見えた。
愛理さんも、諦められないのだ。
前に付き合っていた人が、愛理さんの元を離れる時に何を思ったかなんて、私は知らない。けれど、愛理さんの心は、死んでなんかない。その人たちにとって愛理さんが理想の恋人なんかでなくても、たとえ会社で働くことができなくても、作り上げた本や物語が認められなくても、ここで生きていて、もう一度世界に繋がろうと手を伸ばしている。
ふう、と息をゆっくり吐いてから、私は愛理さんの腕をちょいちょいつついて、スマホの画面を見せた。
『でも、私もやっぱり、愛理さんのこともっとちゃんと知りたいです。メロディーで表現するにも、相手の感情や考えてることを知るのは必要ですよね』
「美沙ちゃん……」
愛理さんも、私のことを知ってくれた。
愛理さんがお母さんの前で泣いているところ、誠さんと口喧嘩しているところ、レイに向かって話し掛けているところ、この猫波荘で見える色んな素顔を、私も見つめてきたけれど、それでもまだ足りない気がする。
それを聞かせてもらうのに、私みたいなただの女子高生が、値するかどうかは別として。
戸惑った瞳を優しげに緩ませる愛理さんを、まっすぐ見つめ続けていると、スマホで何かを調べていた誠さんが横から言った。
「まぁ、今日週末だし、あんまり硬いこと考えなくても、親睦深めたいなら二人でお祭りでも行って来たら? ここの近くでビールのイベント、やってるみたいだよ」
ああ、そうか。こういうの、親睦を深めるって言うのか。
いつも人と向き合う時は全力で、その時必要な言葉を的確に全部伝えられるように、選んできた。躊躇なく、余す事なく伝えることに必死すぎて、私の人付き合いには、そういうフランクさが欠けているのかもしれない。だって、私と話すことを選んでくれる人は、そう沢山はいないから。
誠さんの存在は、ぽんと口に飛び込んできた一粒の清涼剤みたいだった。このフレーズも使えないかな、と思いながら、私は目の前のノートにそれを書き留めた。
***
夜七時近くになってから、私と愛理さんは久屋大通公園に向けて出発した。
七時といっても、日が長いこの頃の七月は、なんだかまだ夕方みたいだ。部屋の時計を見上げて初めて、えっ、そんな時間なの、と気付いた私たちは、留守番のヒデちゃんと誠さんに見送られて、慌てて地下鉄の駅へと走った。
こういうのも、夏のあるあるとして曲に使えるのかもしれない、と思いながら、私は愛理さんの後を追い掛けるように、生ぬるい風が地下街から吹き上げてくる階段を駆け降りていた。不思議だ。じとっとした、熱いだけで体温を冷ましもしない名古屋の風が、どうして今日はこんなに、頭のてっぺんから爪先まで魔法を掛けていくように思えるのだろう。
「いやあ、夜なのにすごい人だねえ」
愛理さんと初めて会ったのは、名城公園だった。今日の目的地はそこよりかなり手前の広場だ。久屋大通に挟まれて、縦に二つ並んだ細長い広場が、オクトーバーフェストの会場になっている。
全国各地で行われるドイツビールの祭典で、今年はコロナの影響もあり、四年ぶりの開催らしい。本場のドイツでは十月にやるのでオクトーバーフェストという名前になっているが、日本の場合は夏にやる時も普通にこの名前だ。
賑わいの中で、私は腰に提げたポーチからスマホを掴んだ。
『ていうか、愛理さんお酒はダメなんじゃ…』
「一応、先生に聞いて今日だけ許可もらってきた。毎日飲んでなきゃ、たまにぐらいなら別にいいらしいんだけどね。でも心配だったら飲まないよ。美沙ちゃんをゲストハウスに無事連れて帰るまで、倒れるわけにいかないし」
別に、ここから上前津まで地下鉄で一駅だからそんなに心配しなくていいと思う。一駅分も乗り過ごせないほど酔っ払うとかなら別だけど。そう考えて、私はふと疑問が湧き上がってきた。
『? 愛理さん、通院に行ってきたの、ちょうど一週間くらい前でしたよね』
「うん。だからその時に。本当は、ちょっと前から美沙ちゃんを誘おうと思ってたんだ。今週末で終わっちゃうし、僕イベント探すの下手だから、近場で二人で行けそうな野外のお祭りなんてここくらいしか見つけられなくて」
屋台の列を広場の入り口で眺めながら、さりげなく微笑んで告げられた事実に、頬がぶわっと熱くなった。愛理さん、私と出かけるのに、お医者さんにお酒飲む許可までもらってきたんだ。わざわざ、このイベントのために。
「まあ、僕が誘う前に誠からくちばし突っ込まれると思ってなかったけどね」
今日の愛理さんは、お祭りの中だから喋り声で話しかけてくれる。普段、あまり大勢の人で賑わう場所に来ることのない私にとって、愛理さんの声をスマホなしで聞き取るのは、最初は少し大変だったけど、すぐに慣れた。
歩きながらのスマホだと周りを見られないし、答えるまでの間にラグが発生してしまう事が、ちょっと悔しい。
『こういう時は、声が出たらいいのに。あれ食べたいとか、これ見たいとか、愛理さんに言われたことにも、すぐ反応できる方がいいな』
さすがにスマホを見っぱなしで歩くことは憚られたので、屋台を見て回る間は会話ができない事を覚悟しながら、私は歩き出す前に、子どもじみたワガママを文字にしながら、軽く口を尖らせた。
すると、スマホでそれを受け取った愛理さんは、隣できょとんとした後、スマホをポケットにしまいながら、私に笑いかけた。
「じゃあ、手つなぐ? そしたら引っ張ったり立ち止まったりしてくれれば、すぐ僕が気付けるだろ。いちいち呼び掛けたり、返事してくれたりしなくても、今日は美沙ちゃんに合わせて動くよ。それに、どうしても何か言いたくなった時も、この方が歩きスマホしてる間危なくないし」
ナップザックを背負った今日の愛理さんは、両手が空いている。差し出された手を、私は握った。ゆっくりと歩き出す愛理さんに手を引かれながら、もしかしたらもう二度と、この手を握れないのかもしれない、なんて大袈裟なことを思った。
そんなはずはない。外に出かける時、必要でも必要でなくても、私が握りたいと言えば、愛理さんは手を繋がせてくれるのだろう。でもそれは、一体いつまでで、幾つまでの話だろうか。私が、高校生でなくなったら。愛理さんが、猫波荘を去ってしまったら。あるいは——もし私が、声を取り戻して「普通の」女の子になってしまったら。
いつでも叶えられる「当たり前」は、何か特別なことがなくっても、ある日突然簡単に、私たちの目の前から消える。マイリストに入れていた作品が非公開になったり削除されて、何があったかは覚えていないのに、ブックマークだけは取り壊された跡地のように残っている、そんな感覚に似ている。
誰かと手を繋げる理由があることも、傍にいられる理由があることも、本当は「当たり前」なんかじゃないのだ。それがどれほど嬉しいことなのか、愛理さんはわかっているのだろうかと、私はキラキラした目でビールを物色する横顔を隣から見上げた。
「うーん……全部美味しそうに見える……」
『私ソフトドリンクでいいので、愛理さん先に選んじゃっていいですよ』
「一発勝負だからなかなか緊張するよね。さすがにこのグラスの大きさじゃ、一杯飲むのが限度だろうしさ。美沙ちゃんに選んでもらおうかな?」
『私にビールの味なんてわかるわけないじゃないですか』
思わず苦笑しながら、あちこち歩いて二人で広場を移動する。何軒か覗いたり物色したりを繰り返した後で、愛理さんは結局、サバの大きな看板が出ているお店の隣の、一日百杯限定と言われているビールに決めたらしかった。
丁度久屋広場で生演奏のステージがあるらしいので、そちらの方へ歩いて戻る最中、愛理さんはもうグラスのビールを待ちきれずに口に運んでいる。私の方はサバの丸焼きを両手で持っているので、手繋ぎは一旦解除だ。
「くはあああ、美味い。めっちゃくちゃ久しぶりに飲んだよ、ビールなんて」
ぬるくならないうちにと早足でステージ近くのテント席を陣取った愛理さんは、泡の立ち上る透明な液体を、ぐっと喉に流し込んだ。私は、隣でウーロン茶を飲みながら、愛理さんと半分に分けたサバを食べていた。酒の味はわからないが、サバは脂が乗っていて美味しい。
「ん〜、これもビールと合うね。アルコールと魚介は生臭いから嫌だっていう人もいるけど、僕は結構好きなんだよな。最高」
『そんなに美味しいですか?』
「うん。これ初めて飲んだけど、日本の苦いビールと全然味違うや。すっごいあっさりしてて飲みやすい」
『折角一杯しかないんですから、慌てずにもっとゆっくり飲んだらいいのに』
「わかってないなぁ。ビールっていうのはね、喉越しを楽しむ飲み物なんだよ。美沙ちゃんも、大人になったらきっとわかるから。一口あげようか、なーんて」
大人じゃないのにわかるわけないじゃないか、という気持ちと、大人になるまで待てるわけない、という気持ちで、私は愛理さんがあーんと差し出してきたサバを齧って、ぷいとそっぽを向いた。
私が大人になる頃には、愛理さんはもっともっと大人になってるのに。
ステージに現れたドイツの民族衣装の女性たちが、激しく上下する歌声を響かせている。華々しく響き渡る管弦楽と打楽器の音の中で、手を叩いたり踊ったりする人たちの盛り上がりも熱を帯びてきて、きっとこれもコロナが蔓延した世の中では、久方ぶりに見られる光景なのだろうなと思った。
だんだんテンポが速くなって、手拍子も熱狂も最高潮になる。その瞬間、私は隣で楽しげに手を叩いて眺めていた愛理さんの目の前のテーブルから、ビールのグラスをむんずと奪い取った。
「ああ!?」
周りの人はステージの踊り子さん達と拍手に夢中で、気が付いてなかったと思う。ただ一人、呆気に取られた悲鳴を上げる愛理さんの前で、私はごくっと綺麗な黄金のビールを一口飲み干してから、グラスをテーブルに置いた。たん、と音を立てて睨むと、愛理さんが目を白黒させる。
「え……え、あ、あの、美沙ちゃ……?」
『りんごジュースと間違えたってことにしておいてください』
思いっきり手の甲で唇を拭ってから、誰にともなく言い訳めいた文章を私は打ち込んでおいた。ちょっとした意趣返しのつもりだったけど、自分から一口あげるなんて言ったくせに、愛理さんがものすごく動揺していたのが面白かった。
「や……その、ちょっぴり舐めるくらいだったらどうぞって言いたいところだったんだけど、結構思い切っていったね!? だ、大丈夫?」
『多分平気です。両親とも酒には強かったはずなんで』
それに、泡盛をバカスカ開けて飲んでも平気な母とヒデちゃんの血を一応引いているのだ。一口ビールを味見したぐらいでは、私でも酔わないだろう。
もうそろそろこの気温で茹だるのでは、と思っていたビールはやっぱりちょっと温くて、喉ごしなんてものも私にはよくわからない。ただ苦くて金色のしゅわしゅわがお腹の奥まで流れていくだけ。
でも、たとえるなら、ヤケ酒ってものはきっとこんな気分なのかな、と私は想像しながら首を傾げた。
『あの、愛理さん』
「ん?」
『最後にもう一箇所だけ、行ってみたいところがあるんですけど、いいですか』
もうすっかり日が落ちてそろそろ帰ろうかとなった時、ワガママでそう提案した私に、愛理さんは少し意外そうな顔をしたけれど、すぐに喜んで付き合ってくれた。