僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day22.賑わい(後編)

 遠くから歩きながら見ていても七色の光が美しかったMIRAI TOWERに、私たちは訪れていた。少し前まではテレビ塔と呼ばれていた場所だ。

 

『すみません。荷物もあるのに、猫波荘と逆方向に戻らせちゃって』

「いいよ。一駅だけでも地下鉄はあるんだし、大した距離じゃないんだから、そんなに気にしないで」

 

 愛理さんのナップザックには、誠さんがお土産に要求したペットボトルビールが入っている。帰った頃にはすっかり温くなってるかもしれないけど、冷蔵庫に入れたら何とかなるんだから誠さんには我慢してもらおう。

 今の時期、一階には縁日のようなものが出ていて、様々な雑貨や手ぬぐいが売られている。私たちは、貸し出しの提灯を二人で一つずつ持ちながら、豊かな色彩に彩られた店先を見て回った。

 

『これ、いい匂いですね』

「アロマは猫のいるところには置けないだろうけど、可愛いよね。この造花とかもさ」

『メル達に一瞬でおもちゃにされちゃいそうですけどね』

 

 本物の火を使っていない、プロジェクションマッピングの機械を中に入れた提灯は、スニーカーとサンダルの足元に、淡い花びらのような光を落としていく。開いた朝顔のような丸い光と模様が、くるくる回ってコンクリートの上に広がっていくのを、私たちは立ったままでしばらく眺めていた。

 

「……綺麗だね」

「……」

「美沙ちゃんのサンダル、銀色だから丁度光の色が乗り移ったみたいに見えるね」

 

 微笑んだ愛理さんに返事ができないまま、私は頷いて、きゅっと繋いだ掌を握った。

 そういえば、オクトーバーフェストの時、期間中に浴衣を着て行くとオリジナルグッズがもらえるとか何とか聞いた気がする。夜でさえ、スカートを着ていても今すぐ冷房の効いた室内に逃げ帰りたいくらいなのに、あんなぐるぐるに何枚も布を巻いた浴衣を着るなんて考えられないと思っていたけど、こんなに淡い光が散って幻想的な提灯を眺めていられるんだったら、浴衣ぐらい着てくるんだったと私は後悔し始めていた。

 普段は真っ黒だった服を、ほんの少し変えた。黒いスニーカーはやめてシルバーのサンダルにしたし、Tシャツだって白にした。小さな違いだけど、愛理さんは私の心境の変化に気がついただろうか。

 そう思って見上げた私に、愛理さんは照らし出される灯りの中、柔らかな笑みで応えながらタワーの方を指差した。

 

「折角だから、中入っていこっか」

 

 エレベーターで、展望フロアまで上がる。MIRAI TOWERには最上階にある屋外の展望フロアと、その下にある屋内のガラス張りのフロアがあって、私たちは上から順番に回ることにした。

 

「うっわ、空気ぬるっ!」

 

 フェンスで囲まれた屋上に出ながら、思わず愛理さんと笑って顔を見合わせてしまった。こういうところは、夜景も綺麗だしデートっぽくていい雰囲気を感じるところなのかもしれないけど、それが台無しになりそうなほどに蒸し暑い晩だった。

 遠くまで見渡せる、賑やかな街の灯り。屋台の群れを見ている間には近場の眩しさを感じる楽しさがあったけど、展望台に上るとこの街全体が、眠れない心のざわざわを抑えるようにして、揺れているのがわかる。

 よく見ると、フェンスにくっついた幾つものきらきらした塊が、風に吹かれて揺れていた。ハート型の南京錠のようだ。金色のモニュメントがその近くに建ててあって、暗い中でも順番に写真を撮ってる人たちがいる。

 

『「恋人の聖地」…こんなのがあるんですね』

「ふふ。僕も昔、付けに来たことあったなぁ。あやめに誘われて」

 

 えっ、と思いながら振り返ると、楽しげな愛理さんの顔に、懐かしさと寂しさが同時に過ぎったような気がした。

 

「僕の趣味じゃなさそうって顔してるね。確かに柄でもないんだけどさー、当時は浮かれててなんとなく。僕が言い出したんじゃないし、あやめに仕方なく付き合って……なんて言い訳してさ」

『すみません! 私無神経でしたよね。そんな思い出の場所に連れて来て』

「そんな、まさか。美沙ちゃんが気にするようなことじゃないよ。……でも、美沙ちゃんは、僕が思い出に抉られているところが見たいんだろう?」

 

 星を映しそうな瞳が、身を屈めて私を覗き込む。普段の愛理さんの目は、じっと見つめるとほんの少し青い色をしている事を私は知っているけれど、ここまで暗い場所で見ると、さすがに深い闇色だ。

 

「ごめん。少し意地悪だったね」

『いえ、そんな…』

 

 小さく笑って、先に目を逸らしたのは愛理さんだった。私は、逃げていると思われたくなくて、ただその目を見つめ返していたから。

 

『確かに、愛理さんの抉られた傷を、見たいのかもしれません。この目に映して、それで心を音符に変える。実験みたいなものだから、私すごく残酷なこと言ってますね。ドSなんです』

「ふふっ、ドSって。そんなことないよ、君は優しい。これが君なりの向き合い方なんだって、僕はわかっているから」

 

 優しいと思えるのは、愛理さんに優しい心があるからだ。私はきっと、愛理さんを追い詰めた人にここまで優しくはなれない。凶暴な音が、胸の中でずっと渦巻いてしまう。

 それを一旦、客観的に引き剥がして見てみようと言っていた誠さんの言葉を思い出して、ようやく暴走させずにいられるのだ。

 愛理さんの傷を謳う前に、私自身が、この景色みたいにキラキラした気持ちと、黒いクレヨンで塗り潰したみたいな気持ちで、ぐしゃぐしゃになってしまいそうだった。

 提灯を片手に持っていた愛理さんが、もう片方の手を繋ぐ。そのまんま下の階へと降りて、目の前にガラス窓が飛び込んできた瞬間、愛理さんは思わずといった調子で手を繋いだまま走り出した。

 

「うわ、すごい……! 前に来た時ってこんな風になってたっけ!?」

 

 愛理さんが目を奪われるのも無理はなかった。全面に開いた夜の眺望、そこに重なるように光の花火が咲いている。

 ガラス窓の手前に一面、こちらを歓迎するように並んで咲いているのは実物の花だが、その上側に上がっている色とりどりの花火は、プロジェクションマッピングだった。

 鮮やかな青、緑、紫。本物の花火では夜空の中で判別するのが難しそうな図柄や色が、くるくると回転して光の海を舞っている。まるで翠涙が奏でる音楽と同じように、幻想の世界が外の夜空と併さり、現実に侵食していた。

 そして、ガラスに映る景色と火花は、まるで天井の境界線で綺麗に折り返したようにして、真上の鏡に反射する。ガラス窓の上が斜めの鏡張りになっており、どういう仕組みか知らないが、同じ景色が逆さまになってそこには映っているのだ。目の前に立って眺めていると、万華鏡を覗いているようだ。

 

『夜の海に浮かぶ、蜃気楼みたい』

「素敵な表現。いいね。美沙ちゃんのセンス、僕ほんとに好きだよ」

 

 蜃気楼っていうのは、海と空気の温度差と、光の屈折で起きる現象だ。夜の海でなんて起こりようもないし、起こったとしても見えるはずがない。それでも、愛理さんはこの表現が好きだと言ってくれた。

 見えないはずのものでも、現実にはあり得なくて存在しないものでも、信じれば本物になる。この花火と同じように。

 私は、音楽を通して何を本物にしたいのだろう。

 少し喉が渇いたので、売店でレモネードを買って、私たちは窓際の席に移動する。そこにもまた同じように、触れられそうなほど近くの窓に、弾ける光の粒が映っていた。

 

『すごい綺麗ですね。当たり前の言葉しか出なくて悔しいけど』

「そうだね。実際ほんとに綺麗な景色を見た時なんてそんなものだなあ。詩人みたいな言葉なんて出てこないや」

『さっき、思ってたんです。愛理さんが感じてきた「本物」を、今の愛理さんにとっての真実を、私が声にしたいって。誠さんは、元からそれを題材にするつもりみたいでしたけど』

 

 驚いたみたいに、愛理さんが私を見る。

 外側に少しカールした、茶色の髪。私にとっての愛理さんは、この姿だ。だけど、愛理さんが感じる自分、消せない過去の自分がどんな姿形であっても、私はそれを取り出してみせる。他の人に比べてどんなに出遅れてても、私にしかできない音で、「今」の愛理さんと一緒に。

 私は、冷房で少しひやりとしている愛理さんの手を、隣で重ねるように握った。

 

『だから、嘘つかないで教えて欲しい。痛い事でも、醜い事でもいいから。曲を作るために、私にくれるものはそれだけでいい』

「僕は、美沙ちゃんに嘘なんてついた事はないよ?」

『知ってます。だからこれからも、愛理さんの中の「ほんとう」を曲げないでください。それが誰かを傷付ける結果になったとしても、恐れないで伝えてください』

 

 ああ、どうして私はいつもこう、生真面目で意固地になっちゃうんだろう。

 どうしても、思ったことを正直な言葉以外で伝えられない。そのくせ、本当に口に出したいことは、喉からも指先からも出てこないみたいで、いつももどかしい。

 この手の温度の中を、言葉が文字になって流れていったらいいのにな。でも、そしたら私の浮ついた気持ちもきっとバレてしまう。それは困る。

 微かに、愛理さんの手が温もりの下で身じろぎした。

 

「じゃあ、一個正直に、思ってることを言うね」

 

 突然そう言い出した愛理さんに、体が強張った。子供みたいなガキが偉そうに説教するなとか、私相手にロマンチックな気分になんてなれるはずないとか、そういう事を言われるだろうか。

 

「あのね……さっき上で美沙ちゃんに言ったことは本当だよ。やっぱり僕、昔の行いを思い出して傷付いてた。甘々な思い出やら若気の至りの一つや二つ、失くしたって平気だって当時は思ってたのに、やっぱりいなくなるとキツくてさ。

でもやっぱ……傷付いてる自分が情けなくって。だからって同情なんてまっぴらごめんだし、あの子を取り戻せば幸せになるなんて風にも、周りには思われたくない。

……“あの子と”幸せだった僕はもういないんだよ。でも、それでいいって思ってる」

「……」

「僕ずっと、下手に自分と元カノを取り持とうとする周りに、苛立ってたのかもね。取り持つまではなくても、昔のよしみなんだから仲良くとか、たまには近況報告とか連絡ぐらい〜っていう圧力が、共通の友人から掛かったりするじゃん。余計なお世話じゃない? 僕が抱えた傷とか痛みをさ、なかった事にするなよ。仲良くするかしないかは、僕の勝手でしょ。別に連絡取って飯行こうが、一生避けて絶縁しようが、僕の自由じゃん」

 

 目を丸くする私の前で吐き捨てた愛理さんは、ふと我に返ったように苦笑してから、汗をかいたプラスチックのコップを指先で触った。

 

「物や人がなくなるのも、変わっていくのも、怖いことだよね。……でも、壊れてなくなったからこそ、今僕はこうして君に出逢えた。そうでしょ?」

 

 びっくりして、私はレモン色の水面を見つめていた顔を上げた。壊したことを、なくしたことを、後悔なく言い切る愛理さんを、私は出逢って初めて見たような気がした。

 どこにいるかもわからなくなる程の、幻のような光の海で、愛理さんは柔らかく微笑んだまま、じっと私を見ている。

 

「今の僕を嫌いな人間とか、前の僕の方がよかったって人間も、いるのかもしれない。でも、美沙ちゃんのおかげで、僕は誰に何を思われようと『今』を生きててよかったって、思えたんだよ?」

『私ですか?』

「そう。知り合いに会う度、変わってく自分に、ちょっとは罪悪感があった。思い出の地を回ってる時も、切り捨てようとする自分を、過去の自分が苛んでくるみたいだった。

でも今はむしろ、こうやって新しい景色を、変わっていく街を美沙ちゃんと一緒に見られて、僕は嬉しい」

 

 そんな風に思ってくれていたなんて、知らなかった。私の瞳に映る自分自身に言い聞かせるように、愛理さんがテーブルの上でひっくり返した手を私の指先に絡めながら、語りかけてくる。

 

「あのね。何かが壊れても、それは僕の内側や過去には組み入れられてて、いつまでも追い掛けてくるんだよ。切り捨てる事はできたとしても、変わったつもりになんかなったとしても、『消える』わけじゃない。でも、それでいい。

猫波荘に来て、美沙ちゃんやみんなが、『ダメでもいい』『進み続けていい』って教えてくれたおかげ」

 

 小さく、ありがとう、と愛理さんが切なげな瞳で呟いた。

 私は、本当は知っている。

 私は愛理さんにとって出逢ったばかりの人間で、思いも時間も今は蓄積がなくて、だからこそ新品のノートみたいに、書き込みやすくて話しやすい、そんな関係なんだってこと。長く付き合えば付き合うほど、それは変わっていくのかもしれない。

 いつか。

 自分が愛理さんにとって、傍にいられないほど辛い思いをさせてしまうようになった時、私もまた、愛理さんにとっては過去の人になるのだろうか。

 でも、「今」を一緒に生き続けられるなら、それでいい。私にとっての命は、全てを掛けた輝きは、光って消える花火のように、今この瞬間だけだから。

 

「……」

 

 思わず、口を開く。レモネードを飲んだはずなのに、乾きっぱなしの口はカラカラで、喉は相変わらずこんがらがった見えない糸で絞められている。どんなに背筋を伸ばしても、喋ろうとした瞬間、息はお腹の中まで入ってきてくれない。

 今、もし声が出せたら。

 どんなに人混みの中にいてはぐれそうでも、絶対愛理さんに、私の気持ちを届かせてみせるのに。

 今日、何度思ったかわからない歯痒さが、掻きむしりそうなほど胸に広がった。

 そんな焦燥を知らない愛理さんを、私はいつも、横か後ろから見つめ続けることしかできない。

 

 私は、満開の花に囲まれながら、両手を包むように喉元に当てた。

 まだだ。

 ここの下に、いる。私の声は、消えたわけじゃない。

 ただ怪物みたいに、じっと、唇が開く瞬間を待っている。

 暗闇の中で目を開けて、息を潜めて、機会をずっと伺っている。

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