僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day23.静かな毒(前編)

「へえ、よかったじゃないか。楽しそうで」

 

 真昼間から、お土産のペットボトルビールを注いだ誠が、あっという間に冷えて曇っていくグラスを楽しげに眺めていた。自分は暑いから一ミリも出たくないとは言っていたものの、本場のビールを味わえる機会を逃すのはやはり惜しかったらしい。

 

「この贅沢者め」

「いいだろ。君らはゆっくりデートできたんだから」

「いやいや、僕みたいないい歳した女とデートだなんて。そもそも僕相手じゃなきゃ、飲めない酒なんか眺め回すのに付き合わないで済んだんだからさ。美沙ちゃんはもっと、彼氏作って遊園地とか行きたかったんじゃない?」

 

 僕の隣で動揺した素振りを見せた美沙ちゃんは、ぶんぶんっと勢いよく頭を振っていた。気を遣ってくれてるのかもしれないけど、猫が水を振り払うみたいなその仕草が、なんかかわいい。急に髪の毛を振り乱すもんだから、隣で楽譜の上に寝そべっていたポーラがびっくりして、大丈夫か? というように美沙ちゃんを猫パンチでつついていた。

 

「ていうか、そもそもの目的は作戦会議だったわけだし」

「そっちはうまくいったわけ?」

 

 いつも大人しいメルは、今日は珍しく絨毯の上でレイと追いかけっこしながら遊んでいる。ローテーブルの端から、レイがちょいちょいと黒い前足を出して誘っているところに、メルが飛びついて取っ組み合い、ガブガブ甘噛みしている。レイよりも小柄なのにまったく物怖じしないところが、さすが姉御というか。そんな様を微笑ましく眺めてから、僕は息を吸って誠に口を開いた。

 

「こういうのは恥ずかしいけど……僕の感情のフルコースをテーマに、美沙ちゃんには曲書いてもらうことにした。歌詞はまあ、書けるところまで書いて、音合わせとか上手くハマらないところは、美沙ちゃんや誠の手を借りることになると思う」

『愛理さんの話を聞いていて、「忘れたくても置き去りにできないもの」って、一つの主題になるなと思ったんです。お母さんのこととか、あやめさんのこととか、満月さんのこととか。さすがに全部作るのは無理だと思うけど、表現するだけなら、セトリに翠涙のカバー曲を混ぜてもできると思うし。もちろん、誠さんが許可出してくれれば、ですけど』

「ま、確かにそういうの、ぼくらの曲が一番得意分野にしてるジャンルでもあるからな。いいよ、元々そのつもりだったし。金稼ぎ目的じゃないでしょ」

 

 すっと頭を下げた美沙ちゃんと僕に、誠は真剣な目を向けた。

 

「それで? 方向性はそれでいいとして、目指すところはあるのかな。忘れられない過去の鮮烈さを描いて、嘆いて。それで終わりにするつもり?」

『雰囲気としてはそれでもいいんですけど、私は愛理さんが「もっとこの先」へ行くための物語を描きたいんです。うまく言えないけど、立ち直って歩き出す、みたいな…でも、そんな安直な言葉もなんか違うんですよね。そんな綺麗な事じゃなくて、ただ「今」の愛理さんの姿を、みなさんに見せられたらいいなって』

「誰かが違うって言っても、変わったねって言われても、これが今の僕なんだって。そう美沙ちゃんに、昨日話してたんだ。もう、過去のせいで、今の自分を犠牲にしたくはない。それがまた前の繰り返しだって言われても、今だっていつか過去になって後悔するんだって言われても、僕は『今、ここ』から目を逸らしたくない」

 

 憧憬を対象として描く誠とは、対極にくる姿勢かもしれない。人差し指で力強くテーブルを叩きながら、僕が背筋を伸ばして見据えると、あの頃と同じ真っ青をその瞳に宿した友人は、長い金の睫毛を少し伏せ、そしておもむろに椅子から立ち上がった。背を向けた鈍い金の髪が、エアコンの風に微かに吹かれる。その後ろに、空を高く飛ぶ鴎と、海原の幻覚を見たような気がした。

 

「……一つ聞きたいんだけど、愛理の『置き去りにできない』感情に、ぼくも入ってる?」

「入ってる。だから、頼んでる」

 

 椅子の背に手を触れたままだった誠が、ゆっくりと振り返った。年齢が変わっても、見た目が変わっても、時折誰かを拒むような、感情の読み取れないその顔つきからは、生身の誠を、僕は感じ取ることができる。何かが見えるわけではないのに、見えないから確信がある。

 

「一緒に、来てほしい。互いを深く傷つけ合う恋人としてじゃなくて、強い執着で離れ難くなる愛玩動物でもなくて、僕らは、友人だから。人と、人だから。今だったら、きっとそうなれるって、思ってる。

ユイもそう思ってるから、だからここへ来てくれたんじゃないの?」

「……今更、よくそんな綺麗事なんて言えたもんだね」

 

 次の瞬間、誠が長い脚ごとテーブルにダンッと膝と身を乗り上げた衝撃で、たまらずにポーラがその場を逃げ出した。蹴り上げた白紙の五線譜が舞い、喧嘩ごっこ中のレイとメルさえ動きを止め、しんとした室内で、僕の胸ぐらを掴む誠の拳の音だけが、やけに大きくぎりりと聞こえてくる。

 その力と隠された怒りの強さに驚いていると、かなり広いテーブル越しに僕の首元を引き寄せた誠は、テーブルの上からガッと僕の喉元を掴んだ。

 

「言ったでしょ? ぼくは“スズ”を眠らせたくなかったんだって。どうしてかわかる? ぼくを置いて君だけが楽になるなんて、絶対に許せなかったからだよ」

「が……っ、ま、こと……っ」

「ねえ君はさ、ぼくが今になって本当に、あの頃の全部を水に流して綺麗に赦せるようになった、だからこんなに優しくしてくれてるなんて思ったの? 君が苦しめばいいと思って、言葉に毒を吐き続けてきた人間に?」

「けど……っ、ユイは、そのためだけに詞を書いてるわけじゃ、ないでしょ……? 美沙ちゃんみたいに、喜んでくれるファンの子がいて、生きる希望にしてる人たちがいる……そのことに、本当に何も、思わなかったの……っ?」

「ぼくが翠涙に属した目的は、君への復讐。それしかない」

 

 冷たく言い放った言葉と同時に、右手に込められた力が強まる。そろそろ爪の下から血が溢れ出すんじゃないかと思った時、凄まじい鳴き声がした。

 

「うー、ぎゃう」

 

 テーブルに飛び乗ったレイが、誠の剥き出しの腕に噛み付いていた。毛を逆立てて、僕から引き離そうとするかのように脚を踏ん張っている。美沙ちゃんは、そんなレイと誠の手を両方とも引き剥がすべく、泣きそうな表情で僕らの間に割って入ろうとしていた。

 食い込んだ牙の下から血が流れても、少し驚いただけでそれを意にも介さなかった誠は、まるで痛みなど感じていないかのように、ふっと凄惨なまでに微笑んで、僕の喉元にかかる力を少し緩めた。

 

「今まで生み出した音楽の全部が、君への執着なんだよ、スズ。そうじゃなきゃ、あんな詞当てられるはずがない。だって、君を縛り付けられる言葉は、君を青春の波間に引き摺り込んで、君に何よりも突き刺すことができるフレーズのひとつひとつは、あの頃一緒にいたぼくが、誰よりもよく知ってるんだから」

「誠……」

「ぼくには、音を創る才能はなかった。けど、何よりも効率よく静かに回る毒を仕込むには、ぼくは詞を作るのが一番手っ取り早いって気付いたんだ」

 

 言葉には、言霊がある。魂を持った言葉と、魂を持った音が合わさった時、それは何より、誠の望む結果を導き出したのだろう。ぼくだけではなく、誠たちの音楽に共鳴する、たくさんの魂をも巻き込んで。

 満足そうに微笑んだ誠は、一本ずつ順番に、指先を引き剥がすようにして、僕の喉を愛おしげに撫でた。

 

「愛理は、翠涙の曲が好きなんだよね。そうやって聴く度に胸を焼かれて、息ができないほど苦しんで、今度こそ嬲り殺されながら、永遠にぼくの地獄で踊り続ければいい。この音楽に囚われた時、君は本当にぼくのものになる。この世界に音楽がある限り、君はどこにいたって、永遠にぼくの腕から逃れられない。

それは、あの頃よりももっと強く繋がれるだけじゃなくて、何よりも残酷で美しい復讐だと思わないかい? スズ」

 

 言ってることは狂ってるのに、美しい愛を囁かれているようだった。

 誠との思い出は、僕の喉元で、愛を止めて窒息死させる。僕は誰といても、あの夏の日々を呪いのように思い出す。こんなに長い年月が経っても忘れられない時点で、音になんかしなくても、彼女の復讐はとっくに成功していたのかもしれない。

 それでも、思う。その呪いがあったから、悲惨なまでに傷付け合いもした日々があったから、僕は今、誠の手を握ろうとしたのではないかと。辛い日々の象徴としてではなく、これから開く新たな扉として。君も僕も、生まれ変われるのだという証明として。

 

「傷、洗ってくる」

 

 まだ横っちょで唸りを上げているレイに、寂しげに軽く微笑んでから、誠は今度こそ、テーブルを降りると身を翻してリビングを出ていった。ヒデさんに消毒でもしてもらうのだろう。

 嵐が去った中で、うろうろしているポーラと固まっているメルのところに赴きながら、僕は絨毯に座り込んで、メルの顔の筋肉を揉みほぐすように両手でもみもみした。

 

「ごめんね。びっくりしたろ」

『大丈夫ですか?』

「僕は平気。元はといえば、僕が虫の良いこと言いすぎたのがいけないんだし」

『そんな風には、思いませんでしたけど』

 

 隣に座った美沙ちゃんが、引っ掻き傷のついた僕の首元を心配そうになぞっている。

 

「あはは……やっぱり僕がちょっと甘かったかな」

 

 昔なじみだからと、誠がどれほど僕に対して恨みを抱えているのか、考えもしないで、ただ僕らの曲を作ろうと声を掛けた。それも、一番僕らが鬼門にしている昔の話がテーマだ。あんなに怒り出すのも無理はない。結果はどうあれ、自分の気持ちを伝えたことで、誠があそこまで感情を剥き出しにしてくれたことに、僕はせいせいすらしていた。

 誠の出て行ったリビングの扉の方向を眺めていた美沙ちゃんが、ぽつぽつとスマホを打った。

 

『あれって、本当に誠さんの本心なんでしょうか』

 

 思いもがけない言葉に驚いていると、美沙ちゃんは考え込むような顔をしながら、落ち着いて淡々と指先を動かす。

 

『翠涙に入った動機のこと。私にはどうしても、“あれ”だけが誠さんの心だとは、思えないんです。三人で曲を作ってる時の誠さん、本当に楽しそうに見えたから』

「どうだろうね……あいつは昔から、読めない奴ではあるけどさ」

 

 自分のことを棚に上げて言うのも何だが、誠も外面だけはいい人間だったから、表に見えている顔だけが、すべてとは限らない。けれど今の僕は、美沙ちゃんの言に一理あると思ったし、信じたいと思った。

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