僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day24.ビニールプール(前編)

 その日僕は、金山にあるメンタルクリニックへの通院の日を迎えていた。今のところ、薬もちゃんと効いてるようだし経過も順調だ。睡眠の質や生活時に感じる気分の変調などを医者に聞かれながら一緒にチェックしつつ、最近やっている音楽活動についても、一応は報告しておいた。あまりに僕が次から次へと色んなことに取り組み始めるので、一ヶ月前の僕の状態を知っている医者としても、それは目覚ましい変化だったらしい。あくまで無理をしないようにという条件付きではあるけど、好きなことであるならと応援してくれた。

 

「僕も一回、そのお店に行って聴いてみたいなぁ。鈴木さんが詞を書いた曲」

「あはは、できてないうちからハードル上げないでくださいよ」

 

 そんな事を笑って話し合える程度に、心がかなり上向きになっているのを、自分でも感じていた。

 神宮前に近い方角まで戻って来たし、ついでに家に寄って夏物の服をもう何枚か持って帰ろうかな、などと考えながら、会計をしに病院の受付まで戻った時だった。待合の椅子の列に、見覚えのある姿を見上げて僕は思わず声を上げた。

 

「あれ……?」

 

 オクトーバーフェストで見た時と同じ、眩い銀のストラップサンダルに黒い膝丈スカート。袖がレースになったお洒落目の紺っぽいシャツを着ていた美沙ちゃんが、僕の声に反応して顔を上げた。別にここで実感することでもないけど、初めて会った時に比べて、驚きの表情がぐっと豊かになったな、と思った。

 

「美沙、知り合い……? あら」

 

 隣で本を読んでいた保護者らしき女性が、美沙ちゃんの視線の先を追って僕を見、目を丸くして驚いた顔になる。が、それは僕も同じだった。

 

「えっ……!? え、あれ、先生……?」

「鈴木さんもこちらの病院だったんですね。ごめんなさい、猫波荘にお邪魔することがあれば、改めてご挨拶しようと思ってたんですけど……私、美沙の母です」

 

 パーマで波打つ髪をアップにして、頭を下げるその姿に、いつもレイを診察してくれている白衣の女医さんの姿がぴったり重なった。今日は動物たちと触れ合う時に着ているジーンズやズボン系の服装ではなく、かなり清楚な服装をされているので、すぐには気付かなかった。

 

「あ、や、いえ、こちらこそ……き、気付かなくてすみません。美帆(みほ)先生ってみんな呼んでるから、僕もその、名前気にしたことなくて。うわぁ、全然知らなかった」

「いいえ、元々は美沙が黙っててって言ったものですから。クリニック名にも苗字が入ってるわけじゃないですし。わかりませんよね」

 

 朗らかに笑って、美帆先生がたおやかな指を目の前で振る。確かに「神宮前アニマルクリニック」だし、お医者さんの名前まで覚えなくても診察にあまり支障はないから、この女医さんが「梶浦さん」だということは完全に僕の念頭から外れていた。ましてやヒデさんや美沙ちゃんと何か関係があるだなんて、考えもしなかった。

 

「えっ……と、じゃあもしかして、美沙ちゃんの家って僕んちのめちゃくちゃ近くなんじゃ!?」

「はい。動物病院のすぐ裏手が自宅ですから」

 

 代わりに笑顔でそう答えてくれたのはお母さんだった。いつもLINEではお喋りな美沙ちゃんはと言えば、親に友人を紹介する時特有の恥ずかしさがあるのか、真っ赤になって指先をもぞもぞさせながら固まっていた。その最中に僕が病院の会計に呼ばれたりして、現場は更なる大混乱だったが、なんとか鞄に財布をしまい、落ち着いてクリニックの外に出てくるのを、親子は待ってくれていた。

 

「すみません、なんか待たせちゃって」

「いえ、いいんです。この子が待っていたいと」

 

 赤らんだ頬でお母さんの袖を握っていた美沙ちゃんは、スマホを操作して僕の画面に何かメッセージを送ってきた。

 

『愛理さん、もしこの後暇だったら、うちに寄っていきませんか?』

「いつも火曜日が休診なんですが、今日は午後からリモートで学会の研修があるので、臨時でお休み頂いてるんです。お茶ぐらいしかお出し出来ませんけど、私のことは気にせずごゆっくりしてもらえれば」

「え、むしろ突然行ってご迷惑じゃないです? 二人が大丈夫なら、僕は是非お邪魔したいです、けど……」

 

 地下街の往来の中で、こくこく頭を動かした美沙ちゃんが、両手で僕のスマホを持つ手をぎゅうっと握るのを見て、僕は思わず笑ってしまった。お母さんも、その様子を微笑ましそうに眺めている。

 それから、道中のお店でおやつにケーキと焼き菓子を買い、僕は主にお母さんの方とお喋りをしながら、初めて梶浦邸にお邪魔した。動物病院の敷地の裏側に、普通の住宅と変わらない綺麗なお家があって、外から見えるサンルームの中には、人工芝とキャットタワーが見える。

 ガラス窓の嵌ったアンティーク調の扉から通されたリビングは、吹き抜けがあって天井が高く、ファンと空調のおかげで心地良い温度だった。にゃー、という鳴き声と共に、ちりりんと鈴の音がして、見覚えのある姿が広いリビングを横断しながら駆けてくる。さらに見知ったもう一匹が、ソファの上で身繕い中だった。

 

「あれ? 君達も来てたのかい。ポーラ、それにメルも」

「午前中は病院を開けてたので、ちょうど定期検診に。秀美(ひでみ)が忙しい時は、迎えが来るまでこうして遊んでるんです」

「なるほど、それであのキャットタワーなんですね」

 

 この家で今動物を飼っているというわけではなさそうだが、広々している上に綺麗に片付いてるし、ここなら多少預かるくらい何の問題もないだろう。

 紅茶を美帆さんが淹れてくれている間、美沙ちゃんは落ち着かないのか、自分もケーキを箱から出して皿に乗せたり、デッキにCDを入れて音楽を流してみたり、そわそわと部屋を歩き回っている。やがて、サンルームに入れてある空のビニールプールに出たり入ったりして遊んでいるポーラを見ていた美沙ちゃんは、台所の中に入ると、お母さんの耳に小声でそっと何か囁いていた。

 

「え? ……あら、いいわよ。でも、先におやつを食べてからでもいいじゃない? 床、濡らさないように気を付けてあげてね」

 

 笑顔の美帆さんにこくこく頷いていた美沙ちゃんは、お盆に乗せたケーキを僕のところまで運んでくる。後から美帆さんが運んできてくれた紅茶は、ポットもカップもソーサーも上品で、紅茶といえばマグカップとティーバッグがあればそれでいい僕の淹れ方とは大違いだった。前に美沙ちゃんが作ってくれたフルーツティーといい、センスの良さはこのお母さん譲りなのかもしれない。

 

「ありがとうございます、いただきます」

 

 静かに手を合わせた美沙ちゃんも、僕の前で絨毯に座ってケーキを口に運んでいた。喋りはしないが、綻んだ顔からして美味しいのはよくわかる。お母さんの前だけど、僕がいて緊張しているのか、美沙ちゃんはいつも通り、スマホの画面を通して話している。やがて、美沙ちゃんが空になった皿を運んで台所に立った頃を見計らい、僕は美帆さんにそっと尋ねた。

 

「あの、美沙ちゃんってお家では普通にお喋りしてます、よね?」

「ええ。でも、愛理さんとはなかなか緊張して喋れないからって、私は普段から聞いてましたから、もしかしてそれもあるのかなって……私も愛理さんでよかったかしら」

「あ、美沙ちゃんがそう呼んでるなら呼び方はもう全然それで。そっかー、お家なら少しはリラックスしてくれるんじゃないかと思ったけどなぁ」

 

 そんな話をしていた僕らの元に、美沙ちゃんがガラスの器に乗せた透明な何かをフォークと一緒に運んできた。庭から差し込む光の中できらりと輝くそれは、青と紫のキューブが交互に積み上がった、透明なゼリーのようだ。

 

「わ……すごい」

「美沙が作ってくれたんです。昨日の夜パッドを冷蔵庫で冷やして、上手く固まるかしらって言ってたんですけど、よかったわね」

『ごめんなさい、ケーキ食べた後なのに』

「え、全然。ていうか僕が食べていいの?」

 

 食後のことを考えて、少なめに持って来てくれたらしい。僕らは三人で、盛られたゼリーに舌鼓を打った。水の中に潜っている時見える光の模様のように、フォークに乗せたゼリーはキラキラしている。フルーツとミントの爽やかな味がして、口の中に入れた感じも涼しい。

 

「この色合い、水族館の大きい水槽みたいだな。見た目も綺麗だし、すごく美味しいよ。美沙ちゃん、こんなのまで作れちゃうなんてほんとに器用なんだね」

「私も夫も忙しくて、昔から美沙を一人にすることがどうしても多かったんですが、台所を手伝ってくれる間に料理や包丁の持ち方を教えたら、自分でも作ってくれるようになったんです。いつの間にかお菓子の本まで借りて、教えないうちに私が作れないようなものまで沢山できるようになってて。子供の成長って、本当に早くてびっくりですね」

「美沙ちゃんはすごく、自主性がある子ですから。僕も傍で見てて、飲み込みの早さはよくわかります。きっと、お母さんやお父さんに喜んで欲しかったんだろうな」

「ええ……本当に優しい子。もしかしたら美沙や秀美が何か言ったかもしれませんけど、私、一時期この子のことは上手くわかってあげられなくて。美沙は一生懸命にやってたのに、私は周りからどう思われるかばかり気にして。こんなに家ではゆっくりさせてるのに声が出せないのは甘えてるんじゃないかとか、もう少し頑張れば学校にも馴染めるんじゃないかとか、ひどいことばかり言ってしまったんです」

 

 膝に乗せたメルがゼリーに興味を示して顔を伸ばそうとするのを上手くかわしながら座っていた美沙ちゃんは、それを聞いて微かに頭を振った。その仕草を見ただけで、もうこの親子のわだかまりはとっくに解けてるんじゃないかと思える。

 美沙ちゃんに似た長い睫毛を、美帆さんはそっと伏せた。赤いルビーのような紅茶の水面が、微かに波打って揺れた。

 

「それをね、謝ったからって、いい親になれるとも限りませんけど……でも、この子にはできるだけ自由に育ってほしいなと、今は思うんです。中学時代や高校時代なんて、ただでさえあっという間でしょう。だから、後悔のないようにしてほしくて。心配でつい口出ししちゃいたくなる時もあるんですけどね」

「それは、お母さんだったら当たり前ですよ。うちの親もめちゃくちゃ過保護だったから、そのぐらい心配になるのも無理はないって、今だったら何となくわかります。でも、そんなに一生懸命に見張ってなくても、大丈夫だと思います。美沙ちゃんしっかりしてるし。……て、僕が言うのも、何か変な話なんですけど。すみません、こんなただのフリーターが勝手に」

「いえいえ。美沙からね、愛理さんの話もいっぱい聞いてたんです。同じ名前の方が病院に来る飼い主さんにいるから、まさかねって思ったんだけど、美沙から猫の名前の話を聞いたらもう確信しちゃって。私も一度、ゆっくりお話してみたかったんです。美沙が言ってたのと同じね、喋りやすくてついつい何でも話しちゃう」

「へえ、そんな風に言われてたのか、僕」

 

 僕に合わせてくすくす笑う美帆さんの肩を、美沙ちゃんが慌てて揺すっている。

 動揺と一緒に溢れた声が、今度は僕の耳までちゃんと届いた。

 

「お、お母さん、喋りすぎ。やめてよ、恥ずかしいから」

「あら、本当のことでしょ? このゼリーだって、上手くいったら愛理さんに食べさせてあげたいって言いながら、練習してたもんね」

「も、もう。わかったから、お母さんは早くどっか行って。お仕事でしょ」

「はい、はい。お邪魔虫は退散するわ」

 

 ついには理不尽な理由で堂々と追い払おうとする美沙ちゃんに、お母さんはたまらず声を上げて笑いながら、空になったカップを乗せたお盆を持ち上げた。

 

「それじゃ、私はこれで。家にはいるので何かあれば呼んでください」

 

 僕にそう言ってくれた美帆さんは、軽く頭を下げてリビングを出て行った。

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