はあ、と盛大なため息を吐いて、僕の隣でぐったり肩を落とした美沙ちゃんは、俯いたまま蚊の鳴くような声で言う。
「なんか……母が、すみません。調子のいい人で」
「いやいや、面白いお母さんだなと思ったし、僕は好きだよ!?」
というか、これがもしかして、僕らの初めての「声」の会話なのでは。
時計の音が響く中、膝を渡り歩いてきたメルの背中を撫でて、僕がどきどきしながら待っていると、美沙ちゃんが視線を合わせないままでぽつりと口を開いた。
「……なんか、恥ずかしいなぁ」
「はずかしい? なんで?」
「だって……家まで来てもらって、それでようやく喋れるなんて、カッコ悪い。本当はもっと、特別っていうかドラマチックな感じでお話したかったのに。なんで私、自分のお母さんのヘンなところなんか謝ってるんだろ」
膝を抱えながらいじらしいことを言うので、申し訳ないけど僕はくつくつと笑い出しそうになってしまった。僕の堪えた笑いに合わせて、膝の上のメルが小さく振動している。
「会話のきっかけってそういうもんじゃない? 割と。何だって僕は嬉しいよ。……やっと、声を聞かせてくれたね」
顔を隠す髪にそっと手を触れると、前髪の下から見上げるように、美沙ちゃんがちらりと僕の顔を窺った。
「怒って、ないですか?」
「どうして美沙ちゃんに怒る必要があるのさ」
「だって、愛理さんの前でだけ、ずっと声が出せなくて……」
「出せないものを無理して出せって言うわけにいかないだろ。それに、僕らにはずっとコミュニケーションを取る道具があったしさ。スマホとか、筆談とか、手話とか。それに表情も。声を介していないからって、僕が拗ねる理由どこにもないよ。僕はこの一ヶ月間、誰よりもたくさん美沙ちゃんと言葉を交わしてきた自身があるもの」
そう言うと、近寄ったメルにぺろりと頬を撫でられた美沙ちゃんは、安心したように笑顔になった。
ソファに寄り掛かっているのをいいことに、メルを挟んで距離がいつもより詰められると気付いた僕は、ソファの上側に投げ出した手で美沙ちゃんの肩を抱くようにして、油断した彼女の耳元にそっと囁く。
「……でも、ほんとのこと言うと、ちょっと嬉しいけどね? 美沙ちゃん、いつになったら猫じゃなくて僕に話しかけてくれるんだろうってずっと思ってたよ」
「きっ……きっっっ、聞いてたんですか!?」
珍しくひっくり返りそうな声を出しながら、美沙ちゃんはたちまちその白い肌にぶわっと血を上らせた。
じりっと猫が身を後退させるのと同じように、美沙ちゃんがソファの横側に下がる。
「だ、だって猫と人じゃ違うし! メル達に喋るのは別に緊張しないもん!」
「おや、心外だなぁ。こんなに一緒にいるのに、僕と喋るのは、今になってもそんなに緊張する?」
「そっ、そんなこと……ないです。愛理さんといる時に緊張するのは、多分そういう理由じゃなくてっ、愛理さんがそういう、ドキドキするようなことやってくるからっ」
「ふふ、ごめんごめん。意地悪しすぎたね」
猫が怒ってるみたいにふーふー言いながら喋る美沙ちゃんの肩から手を外して、僕は笑った。ここまで純粋な反応をしてくれる子がいると、どうしても揶揄いたくなってしまうのが僕の悪い癖だ。
でも、こんなしがないじゃれあいにも付き合ってくれる美沙ちゃんに、本当は感謝してる。いい歳した大人がこんなんじゃ、だらしないだけで何のお手本にもならないだろうに。美沙ちゃんは、僕の人生を曲に描きたいとまで、言ってくれるのだから。
「もう……喜んでくれたのはよくわかりましたし、私ももう愛理さんとは話せると思いますけど、あんまり浮かれてたらレイに呆れられますよ?」
「はい、すみません」
「そういえば、さっきお母さんに聞いてみたんです、ポーラに水浴びさせてあげていいかって。愛理さんも一緒にやりますか?」
「ええっ? 猫が水浴び? ……と思ったけどポーラは水遊び大好きなんだったね」
サンルームの横手から庭のホースを引っ張れるようだったので、僕らはメル達が外に出ないように注意しつつ、ホースの水をビニールプールの中に注いだ。ビニールプールと言っても、ペット用の小さいものだ。まあ、本来は猫じゃなくて犬が泳ぐんだろうけど……。
締め切った扉の内側で、ポーラが溜まっていく水を見ながら早く遊びたそうにうろうろ往復している。その側で、僕も快適な室内からホースのキラキラした水を眺めつつ、美沙ちゃんに喋りかけた。
「お披露目ライブのことだけど、大丈夫? あ、いや、何ていうか、君や誠と一緒に曲を作ってくこと自体は、すっごく楽しいんだけど。でも……いざという時に声が出なかったら、一番に傷付くのは美沙ちゃんなんじゃないかって。本番で声が出るって信じてない訳じゃないんだけど、やった事もないことをするのは怖いだろう。やっぱり」
「そうですね。前奏だけ流れて、その後全く歌えずにシーンとなっちゃったらって想像したら、それだけで全身が冷たくなりそう」
「……誠に乗せられた僕が言うのもあれだけど、いきなりそんな無理しなくてよかったんじゃない? 配信サイトとか、生で歌わなくても伝える方法は沢山あるんだしさ。僕たちが声じゃなくて、文字で喋ってたみたいに。その方が美沙ちゃんの心に負担を掛けずに済むなら、僕はその方がいいと思うんだけど」
頑張りに水を差すようで言うのを躊躇っていたことだったが、もし本人が引きたくても後に引けないように思ってるんだったら、これは僕から言い出すべきことだと思った。誠は、良くも悪くも一度やると決めたら止まらない奴なのだ。
僕の隣で一緒に座って水を眺めていた美沙ちゃんは、暑すぎる日向を避けてテーブルの下で昼寝に入るメルを見やってから、もう一度プールの波紋に目を戻した。
プリズムをあちらこちらに反射させる透明な色彩と同じように、澄み渡っているのにどこか落ち着いて、耳が静かに洗われていくようなあの声が、唇から紡ぎ出された。
「前、七夕の夜に猫波荘のベランダで一緒に喋った時のこと、覚えてますか?」
「うんうん。あの時は雨が降ってたよね」
「愛理さんはあの時、『見える言葉と聞こえる言葉に大した違いはない』って言ってたけど、私はやっぱり、ほんの少しは、違っていると思うんです」
思わず隣を見ると、美沙ちゃんも光の中で、僕のことを見上げた。真っ黒に近い瞳は、本当は日本人に特有の焦茶色がその本来の色であることを、太陽光は教えてくれる。
どこまでも純粋な瞳で、彼女は僕を見た。
「愛理さんが語ってくれる言葉が好き。それは、文字でも声でも変わりません。
でもあの時、愛理さんが声で伝えてくれた『友達になろう』は、私にとってすごく特別でした。ずっと胸に響いてて。
それはきっと、あれが愛理さんの音だったから。どんなに綴っても書き留められない、愛理さんの声が運んでくる、言葉だったから」
気が付けば、君の声に惹かれていた。いつのまにか、一生懸命耳を傾けたいと思っていた。僕のことを無条件に許す訳でもなく、断罪する訳でも、適当に流すのでもない。ただありのままの身体を泳がせて、色んな思いの溶け出した色彩の中で優しく受け止めてくれる、水みたいな君の声に。
美沙ちゃんはあの時、僕の何気ない言葉を、本当にぽっと口から出した言葉を、今の僕と同じように、こんな風に切実に受け止めてくれていたんだろうか。
だから、君の瞳はいつも、辛い現実も降り注ぐ幸福も、何もかもを映そうとするかのように、そんなに大きく輝いているのだろうか。
照りつける夏の日差しの中で、僕はそんな風に思いながら、美沙ちゃんの言葉に打たれていることしかできなかった。
「だから、私は自分の声で喋れるようになりたいんです。
この声で、伝えたいんです」
ああ。
君は、僕が思うよりも何倍も何十倍も、勇気のある人だったんだな。
毅然とした声と伸びた背筋が、彼女の凛とした決意を伝えていた。もう、僕が言える事なんて何もない。でもそれは、誰かの手を放そうとする時の寂寞や諦念ではなく、心の中で育った光が溢れようとする瞬間を見届けるかのような、胸躍る感情に似ている。
君の声が、僕の手を取ってくれた。この翼があれば共に飛び立てるのだと、教えてくれた。
頃合いを見てホースの水を止めた美沙ちゃんが、部屋の内側からポーラを解放する。
思いっきりサンルームに飛び出したポーラが、美沙ちゃんのスカートの上まで水を跳ね飛ばしながら、プールの中に頭から飛び込む派手な水音に、僕らは軽くなった心で屈託もなく笑い合った。