「はいっ、これ、愛理ちゃんとマコちゃんの分のお給料ね!」
ある日、仕事の後でスタッフルームに呼ばれた僕と誠は、手渡された封筒に思わず顔を見合わせた。封筒まで猫の柄なところに、ヒデさんの猫好き具合が現れている。ひんやりした空気の対流する小部屋の机では、新作のアクセサリーが風にちらちら揺れていた。
「えっ。いやいやいや、僕の分はいいよ!? 住ませてもらってるんだし、部屋代と光熱費で相殺のはずでしょ!? そうじゃなくても、ヒデちゃんには色々お世話になってるのに」
「ぼくもですよ。むしろ急に押し掛けて働かせてくれって、ヒデさんの方が負担になってるでしょう。愛理はともかく、ぼくは日雇いみたいなもんですし」
「も〜。二人とも細かいところは気にしなくていーのっ! それだけしか渡せなくて申し訳ないけど、アタシの気持ちなんだから取っといて。元々、愛理ちゃんはうちに来てただゆっくりしてくれればいいって言ってたのに、自主的にお手伝い始めてくれたんだから。頑張ったことには報酬が発生して然るべきでしょ?
それにマコちゃんも。こっちが頼んでなかったことまであんなに一生懸命申し出てくれたのに、タダ働きなんかさせたらバチが当たっちゃうわ。そのうち東京に帰っちゃうのが勿体無いくらいよぉ」
恰幅のいいヒデさんは、鍛え上げられた逞しい両腕で僕らの肩を交互にバンバンと叩いた。誠の呼び名は、すっかりマコちゃんで定着したようだ。可愛がられている。
「ま、お小遣いだと思って。二人とも真面目なんだし、たまにはぱーっと好きなモノやお洒落にでも使っちゃいなさいな。大人にだって息抜きしたい時はあるでしょ?」
「お小遣い……ねぇ」
ありがたく気持ちを頂くことにした僕は、封筒の端を歩く黒猫の柄をじっと見つめた。今後のことは決めていないけれど、もし神宮前の家に引き上げて住むんだったら、これから先もレイのお世話用品や猫グッズは要るのだろうし、そうでなくても収入が不安定な今、お金は貯めておくに越したことはない。
でも、それはそれとして、確かに今、欲しいものならある。
ヒデさんに頭を下げた後、僕と目が合った誠は、不思議そうにその淡い瞳を眇めた。
***
「ピアスの穴を開けたい?」
「うん」
休憩時間に、僕にそう告げられた誠は、この付き合いの長さでもなかなか見られないほどの、間抜け面を晒していた。ポテチのカスを口の端にくっつけたままあっけに取られた誠の顔なんて、あまり見たことがない。
「はあ……まあ、高校の時に開けたっきり放置してるんだったら、もうとっくに塞がってるとは思うけど。けどそれ、本当にぼくが開けるんでいいの?」
「一人だとうまく手に力が入るかわかんなくて怖いんだよ。ボディピアスならともかく、耳たぶに開けるだけなら病院とかスタジオで頼むほどでもないし」
という訳で、その日の午後。
僕と誠は、上前津の駅前から歩いて、前津通りの周辺をふらふら物色していた。夕方からはまた仕事があるので、今の時間行くしかないんだけど、明らかに人が出歩いていい気温ではなく、誠は日焼け予防のだぼっとした白シャツを肩に引っ掛け、既に溶けそうになりながら軒先に寄りかかるようにして歩いていた。この分だと、店に辿り着く前にナメクジになってしまうかもしれない。眉目端麗で秀才な誠でも、夏の日差しと温度には普通に弱いらしかった。
「むり」
「ご、ごめん……」
「ていうか、ファーストピアス開けるだけなら、そのへんのドンキなりドラッグストアなり一人で行きなよ。種類なんてそんなたかが知れてるでしょ。買って来てくれたらいくらでも開けてやるのに、なんでぼくまで……」
「だって、そうじゃないと誠の分僕が買えないし」
「はい???」
暑さのせいで幻聴でも聞いたのか、みたいな顔を、誠が汗に濡れた眉毛を歪めてこっちに向けてきた。
まあ、こっちだって暑さからは一秒でも早く逃れたいので、せいぜい早足になろうと急ぎながら、僕はじりじりした太陽の下で苦笑を浮かべる。
「折角だから、お揃いにしないか。一応、同じユニットというか、期間限定だけど組んで活動してるんだし。あと、仲直りのしるしに」
「え、何急に。怖いんだけど……友達ごっこでもしたくなった? ま、でも、スズは昔からお揃いとか好きだったもんなぁ。ぼくもクマも、修学旅行でお守りとかストラップとかいっぱい買わされたし」
「え、何それ。先にお揃いの持ち物にしようって言ってきたのはユイでしょ? 鉛筆とかシャーペンとか」
「出た大ホラ吹き。なんでもかんでも一緒じゃないと気が済まなかったのはスズの方じゃん」
「ユイだって、わたしに真似されたら嬉しそうにしてたくせに!」
遠い昔に置いてきた自分が喋っているような感覚を覚えて、僕ははたと口を押さえた。隣を歩く誠が、耐えかねたように笑っている。
「何でもいいから、早く行こ。このままだと汗で溶けて水溜りになっちゃう」
「う、うん」
掴まれた手を繋いでから、ピアスショップに辿り着くまではほんの一瞬の間だったけど、僕は懐かしい感触を思い出していた。
ようやく飛び込んだ一軒の小さなお店は、キンキンに冷房が効いて天国のようだった。壁一面にあるガラス窓のショーケースには、ところ狭しと色んな種類のピアスが並んで、何もわからない僕はただぽかんと見上げるばかりだ。
「とりあえず、今はスズのを買うのが先だろ」
そう言って、誠はファーストピアスのコーナーにすぐ目ざとく気がつくと、僕の方を手招きした。確かに、セルフで穴を開けられるピアッサーの種類は、そんなに多くはない。幾つか穴の大きさによって種類が分かれているだけで、どれもチタン製やサージカルステンレス製など、耳にトラブルが起きにくい素材で出来ているらしかった。
「へえ……今はピアッサーもこんなお洒落で安全そうな奴出てるんだ」
「ね。ぼくらの時は苦労したよなぁ。学校でバレないように、透明ピアスとかわざわざ探してさ。あれほんとは素材が樹脂だから傷口に良くないんだけど」
当時、自分でピアス穴を開けられるピアッサーは、高校生の子供がお小遣いで両耳分買うには、少し贅沢な買い物だった。お金持ちである事だけがほとんど唯一の利点と言ってもいい実家に暮らしていた誠と友達だったおかげで、この秘密は成り立っていたのだ。
「僕の時は誠がほとんどお小遣いでピアッサー買ってくれてたけどさぁ、猛者な子画鋲とか使ってなかった? あれは痛そうだった」
「ろくに穴も塞がってないうちから、セカンドピアスに変えちゃったりね」
「よくあの頃、僕ら無事でいられたよなぁ」
元より親や学校にバレないように開けるものだから何かあっても病院にかかるなんて選択肢はなかったのだけど、幸い化膿して大事になった覚えはないので、本当に当時の運が良かったとしか言いようがない。
誠は、手慣れた様子で店主にノギスを借り、僕の耳たぶの厚みを測ってくれた。それに合わせて、ポストの長さを選ぶのだ。
「昔も8mmの使ったから、同じでいいんじゃない。あんまり長さ短いと、皮膚に埋没しちゃうことあるし」
「よく覚えてるね」
「誰が開けたと思ってるのさ」
そう言われて、あとは好みでピアッサーを選ぶだけだったのだが、そこから先で意外と僕は時間を取ってしまった。
「あー……このエメラルドグリーンいいなぁ。けど、五月だとあやめの誕生石だよね? 別れた彼女の宝石付けてるのはなんか未練たらしいみたいでちょっとアレかな……自分のは二月だけど、アメジストはあんまり自分に合う気がしないんだよなぁ。同じ紫系だったらタンザナイトとか、青系だとサファイアの方が……でも十二月とか九月生まれの知り合いあんまりいないし。うーん」
「じゃーぼくが選んだげましょーか? ただの銀のボールピアスとかで」
「え〜! それは嫌だ〜! ちょっと待ってよぉ」
さっさと勝手に買われそうになるので、思わず学生時代の反応が出てしまう。
そんなに種類がある訳でもあるまいに、いつまでもブツブツ独り言を言っている僕に業を煮やしたのか、誠はとうとう身も蓋もないことを言い始めた。
「……あのさー、変に拘ってないで好きな色選べば? 誕生石ったって、それカラーモチーフなだけで別に本物の石って訳じゃないでしょ。さすがにピアッサー込みでその値段じゃ天然石はあり得ないよ」
「……それもそうか」
裏面を見たら、ちゃんと「ヘッドに付いているカラーストーンは人工石です」と書いてあった。確かに、いくら小さいとはいえこんな値段でルビーやサファイアがぽんと売ってるはずがない。
結局、好みだけでアクアマリンの色を選んだ僕が、まだエメラルドと迷っているところを見て、誠は別の棚を指差した。
「そんなに迷ってんなら、ぼくが代わりにそっち付けようか」
「えっ」
「元カノの色だから迷ってんでしょ。だったら、スズが何も気兼ねなく付けれるようになるまで、ぼくの耳に置いていけばいい。今のスズには要らないものなんだから」
相変わらず歯に衣着せぬ物言いだと思ったが、涼しげな目をして、もみあげの辺りをかき上げた誠は耳元を見せつけた。今日は、シルバーのフープピアスとイルカのピアスが夏らしく輝いている。
「ほら。ぼくならまだ穴余ってる」
「でも、お揃いなのに本当にそれでいい?」
「別にいいよ。エメラルドグリーン、好きな色だし。ぼく、アクセサリーにはそういう思い入れ持たないタイプだから」
僕にとっての大切な思い出の象徴を、過去に僕に焦がれた人間が代わりに引き受けるというのは、どういう気持ちなのだろう。
蠱惑的な微笑からは、相変わらずその考える事は読み取れなかったけど、過程はどうあれ乗り気になってくれたので、僕は似たデザインのボールタイプのピアスを、誠の耳に選んだ。本当は大須の方にも色々アクセサリーの店がある事を知ってたし、もっと見てまわりたかったが、この暑さの中では他の店を何軒も梯子する気にもなれず、今回は同じ店の中で気に入ったものを即決だ。