買い物を終えてから、僕は寮棟にある誠の部屋に上がり込んだ。どっちの部屋でも良かったんだけど、誠がピアスの穴を開ける時に必要なマーキングペンや消毒用のジェルを持っていると言うので、それをもらうついでに行くことにした。
「あれ、ここの部屋ベッドなんだ」
「そ。昔からベッドで慣れちゃってるから、ベッドがいいって我儘言ったら貸してくれた。他の部屋より手狭だから人気ないらしいんだけど、普段の仕事はリビングかスタッフルーム貸してくれれば十分だし。よっぽど集中したい時じゃないと、ここには籠らないから」
僕より小さな六畳間なのに、面積の大半を二段ベッドが占拠してしまっているせいでとても狭く見えるが、使われていない上の段は物置にできるので、そこを上手く収納スペースとして利用しながら、誠は小綺麗に生活を営んでいるようだった。僕と同じで、荷物は少ないようだ。本格的にここへ住むとなれば、確かに狭いだろうが。
「そこ、座ってて。えっと、ペンは確かこのへんに……」
半分ほど二段ベッドを登った誠が、ぽいぽいと上から引っ張り出した道具をこちらに投げ入れてくる。それらを慌ててキャッチしながら、僕は友人の姿をぼんやり眺めて、独り言のように呟いた。
「この歳になって、君も僕も、二段ベッドを使うことがあるとは」
「まったくだ。元々客室にあったものを解体して持って来たらしいから、大人二人が乗っても壊れないとは思うけどね」
「僕、一人っ子だから羨ましかったんだよなぁ、二段ベッド」
「臨海学校とか合宿とか行く度に、クマと三人でどこのベッド使うか喧嘩になったよな」
「わたしより先に、誠が下の段に寝転がっちゃって」
「はいダウト。我先にと、ぼくの背中踏んづけてまで上の段がいいってよじ登って行ったのスズの方だろ。そのくせ、夜は寝れないからって勝手にぼくのベッドまで潜り込んできて」
「えー、そうだっけー?」
「そうだよ。二段ベッド使う意味ないんだったら私もそっちで寝たかったって、朝になったらクマに滅茶苦茶叱られた」
くすくすと下の段で肩を並べて笑い合っていたら、本当に合宿に来ているみたいな気分になってきた。ごろりと寝転がって両腕を枕がわりに敷き、木目の天板を見上げながら、誠が言った。
「あーあ。こんなに普通に話せるんなら、なんでもっと早く会っとこうって、思わなかったんだろうな。もう四十代だ、お互い」
「多分、わたしもユイも、今じゃなきゃダメだったんだよ。お互い、別々の人生を歩いて、色んな経験をして。それがなかったら、今のユイとわたしになってないし、今のユイとわたしじゃなかったら、こんなに和やかに話せなかったのかもしれない。すごく長かったけど、でも、必要な時間だったんだって思う」
「……そうだね。多分、タイムマシンがあって卒業後からやり直せるとして、今まで遠回りした分を全部すっ飛ばして最短距離でここまで辿り着けたんだとしても、今みたいな風にはきっとならないんだろうな。そういうのって、自分じゃ選別できないものとか、無意識の影響を無限に受けてるだろうから」
諦めたようにそう言い、ゆっくりと身を起こした誠の頬に、僕は片手で触れた。向こう側に見える窓は、外に背の高い木の影が見えて、手を振るようにその枝が揺れ動いていた。
「それに、ユイが否定しないでいてくれたら、わたしにとってあの頃の思い出は、いつまでもあの頃のままだよ? “わたし”が愛理の心にいるみたいに、たとえ時間そのものはテープみたいに切り離されて、それ以上増えることも変わることもなかったんだとしても、その中にある密度は変わらない。たった今あった事みたいに、頭の裏に蘇らせて語ることができる。苦しかったことも楽しかったことも、少しくらいは記憶違いがあるかもしれないけど、それもいいじゃない? こうやってわたし達の間で語り直す度に、おんなじ思い出でも、また新しい物語になるんだよ。きっと」
きょとん、と僕の顔を見ながら話を聞いていた誠は、やがて力が抜けたようにふっと笑うと、僕の額を人差し指で押すように軽く小突いた。
「……相変わらず、人を誑かすのがお上手なようで」
「えっ、僕なんか変なこと言った?」
「なんでもない。君のその二重人格、思ったより随分と我が強いんだな」
「……今のは、僕が喋ったつもりなんだけど。もうだいぶ融合して治ったと思ってたんだけど、案外しつこいなぁ、これ」
故郷の思い出や執着を捨てたい一心で、過去の記憶を分離させ生み出してしまった“スズ”は、自分の弱さや痛さに触れられる度に僕の中から顔を出す。まあ、もうかなり和解してほとんど普段は消えているのだが、ひょっとしたらこれとも、一生の付き合いになるのかもしれなかった。
僕に向き合うようにして陣取りながら、誠がペンに手を伸ばす。
「さて、そろそろやるか」
ベッドの縁の方へ座らせた僕の前へ跪くと、誠は耳たぶへ、一つずつペンで印を付けた。一応鏡を見せて確認させてくれるが、僕としてはそんなにちゃんと見なくても、全部おまかせでいいぐらいの気持ちだ。
「ねえ、昔みたいにベッドに押し倒してくれない? 怖いんだけど」
「はあ? 打つ側からしたらそっちの方が暗くて見辛いしこええわ。ただでさえ二段ベッドの下暗いんだから、ここで勘弁してよ。いい大人でしょ」
無情に言いながら、ギリギリまでベッドの端に僕を引っ張り出した誠が、耳元に消毒用のジェルを塗りこんでいく。耳への刺激が少ないよう作られているのか、思ったよりはすーすーしない。が、緊張感は増す一方だった。
「む、むりむりむり!」
「顔背けない! じっとする! すぐ終わるから!」
「ひゃああああ」
情けないとか、言わないでほしい。大人になるまで全然経験せずにいると、こんなにピアスが怖くなると思っていなかった。思わずぎゅっと目を瞑ってしまったが、あまりに僕の体に力が入り過ぎているのか、全然誠が動いてくれる気配がない。
「う……っ、こ、こわい……っ」
「はぁ……しょうがないなぁ」
盛大なため息が漏れたかと思うと、誠はそのへんに積まれていた布団と枕を瞬く間に積み重ねて、その上へ乱暴に僕をぼすっと押し倒した。
突き飛ばした上から馬乗りになる誠の華奢な体躯から体重が移動して、ベッドが微かに軋む。手に光るピアッサーを掲げたまま、誠は冷たい目で僕を見下ろした。
「時間ないんだからさっさとしてよ。それとも何? 犯されたいの?」
思わず凍り付きそうになる身体の上に、ふわりと薄い胸板が乗って、まるで猫が尻尾で揶揄うように動かした指先が、剥き出しの耳をなぞった。ぞわりとした感触が全身に走る。
「っ……」
「ふうん……なるほどね。こういう風に虐められたかったから、わざわざぼくの部屋に誘い込んで連れ込ませたわけ? ほんと、悪い子」
「や、め……っ」
アーチ状の軟骨をなぞられると、それだけで腰から震えが込み上げるようだった。嫌悪とは別の高揚感。さっきから、本当はずっと気付いている。痛いのが嫌だと言いながら、傷付けられる事にひどく興奮していることも。冷房は効いているのに、喉元や太ももの上を、暑さのせいだけじゃない汗が伝っていくことも。
ふうっ、と軽く息を吹きかけられただけで、ひやりとした消毒液の冷気が襲う。流し込まれた吐息と感覚で、声にならない声を上げる僕の脚を、逃さぬように両股で挟みながら、誠が呼びかける。
「愛理、こっちを見て?」
涙でぼやけた視界を開けたら、すぐ間近に誠の顔があった。あの時よりも燻したような色合いが増した黄金のような前髪と、光の乱反射する浅瀬と同じ色の瞳。見ているだけで、触れ合っているだけで、確かにあの時は幸せだった。心の奥深くまで、誰にも知られない秘密を纏って、熱い炎の中で一つに溶け合っていくような。
「っ……」
体温が近い。奪われた唇に脳裏が焼けるその瞬間を思い起こしながら、身構えたその時。僕は、耳元でばちんっと鳴り響く大きな音に我に返った。
「ギャーーーーーーーッ!?!?」
「煩い! 今抜くから暴れんな!」
驚いて声を上げてしまったものの、誠の言った通り、喉から迸った悲鳴の割には全然痛くも痒くもなかった。が、それでも不慣れな体への衝撃に心臓はばっくんばっくん音を立てている。
「よし、大丈夫。通ってる」
ピアッサーを確認した誠が、静かにそれを引いて抜き取る。部品が外れて微かに揺れた耳たぶに、じぃんとした痛みが走った。
「んんっ……!」
「ちょっと! 抜くだけでいかがわしい声出すの本当にやめてくれる!? 痛がらないように勢いつけて貫通させただけじゃん、処女でもあるまいに!」
その言い方の方がよっぽどいかがわしいと思ったが、誠があれよあれよという間にセッティングしたおかげで、右耳のそれは左耳の時よりも早かった。というか、放心状態のうちに終わった。
寝転がってくたりとしているところに手鏡を投げ捨てられ、それを掲げて見れば、耳元に二つのアクアマリンのピアスが光っていた。
「あ……あの、ありがとぉ……よかった、すごく」
「ほんと信じらんない……猫でももうちょっと静かだぞ」
猫にピアスなんかした事ないけど、と心底呆れた顔で言いながら、誠は床にあぐらをかいて僕の買い物袋から自分用のピアスを出し、包装を毟っていた。本当は後で軽くラッピングでもしてあげようかと思ったんだけど、ここまで来るともう情緒もへったくれもない。
物入れの上に置いた小さめの鏡を覗き込みながら、器用に付けた誠の耳元に青緑の石が光る。彼女の目の中も、光の加減によってはこんな輝き方をするのではないかという、綺麗な川底のような澄み渡った翠が、想像通りよく似合っていた。
「……ま、愛理のファーストピアスが外れる頃に、また買いに行ってもいいか。その頃には、暑さも随分ましになってるだろうしな」
「え。また遊びに来てくれるの」
角度を変えながら鏡を覗く姿に、僕は顔を上げた。
ファーストピアスの穴が安定するまでには、最低でも一〜三ヶ月かかる。
その頃の僕がどうなっているかはわからないけれど、とりあえず、また会うのを嫌だと思わない程度には、誠の側から歩み寄りを見せてくれたということだろうか。
三ヶ月後と言えば十月。まさかそんなに先の約束ができるとは、と思いがけない言葉に口元を綻ばせながら、僕はできたばかりのピアスを、手鏡の内側に覗き込んだ。
※ピアスなどの体に穴を開ける「医療行為」を、家族や友人など医者以外の第三者に依頼するのは本当は犯罪です(^p^)よい子は真似しないでね(^p^)←