僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day3.文鳥

 翌日。

 検索の結果、幸いなことに近所に動物病院がある事を知った僕は、おそるおそる電話を掛けた。

 人間の病院にも言えることだが、動物の病院なんてなおさら当たり外れがわからない。右も左もわからないまま相談したが、電話に出てくれた受付の人はとても親切で、僕が猫を飼ったこともなく拾ったのが野良猫だと知るや、なんとキャリーケースの貸し出しまで申し出てくれた。

 それから数十分後。一旦キャリーバッグを病院から持って、引き上げてくるところまでは順調だったのだが。

 

「ほら、大人しくして。いい子だから」

「ウウウウウウウ」

 

 昨晩と今朝の旺盛すぎる食欲により、すっかり元気を取り戻した黒猫は、自分を捕獲しようとする人間相手に決死の抵抗を図る、完全な聞かん坊と化していた。

 いくら痩せてるとはいえ、そこそこ体の大きさがあるし、足腰の筋肉はかなり堅強だ。腕の中で暴れられると手が付けられないし、そもそも近寄らせてもくれない。触ろうとするとものすごい勢いで唸るし、近寄っただけで部屋の隅っこに逃げていく始末だ。

 

「昨日はあんなにいい子だったじゃないかぁ。僕が命の恩人なの忘れてないか?」

「フシャアアアアア!」

 

 途方に暮れて話し掛けても、いけず猫は毛を逆立てて唸るばかりである。抵抗する元気すらなかったのだと思うと、これはこれでよかった気がするが。

 

「お前、それ以上抵抗すると、本当に名前いけずにしちゃうからな」

 

 さっきから話を聞いているのかいないのか、猫は僕が追いかけ回さないうちは、僕のベッドを占領してぺろぺろ前脚を舐め、大欠伸している。人のパジャマを敷いて堂々と寝ているくせに、いざ捕まえようとすると、縦横無尽に部屋の中を走り回って大騒ぎだ。

 まあ、猫の立場からすれば、普通に考えて嫌だよね。人間都合で、狭くて暗い入れ物に閉じ込められて病院に連行されるなんて。行ってもあまり愉快な目には遭わないだろうし。

 でもさあ、それはそれとして、ちょっとぐらい言う事聞いてくれてもよくない?

 

 病院の予約の時間が迫っている。寝癖すら直せていないボサボサの頭で、『猫 キャリーバッグ 入れ方』で検索しようとした瞬間、いきなりスマホの画面が真っ暗になって着信が表示され、思わずびっくりして落としそうになった。

 驚きはしたけど、発信源に心当たりはある。この間連絡先を交換したばかりの相手だったからだ。スマホを耳に当てると、紛れもない男声が響く。

 

『もしもし〜? 愛理ちゃん?』

「うん。ヒデさん、だよね」

『やだもぉ、店にいる時みたいにヒデちゃんでいいって言ってるじゃないの〜』

「わかってるんだけど、なんかその場のノリみたいなものがあるっていうか」

 

 女言葉の割に厳つく野太い声音に、僕は思わず苦笑する。聞き慣れちゃうと、これが普通に感じてくるんだから面白いもんだ。

 ヒデさんは、僕がたまにお邪魔するバーを経営する主人。正真正銘のオカマで、本人もそう名乗ってる。バーと言っても深夜や明け方まで営業しているそれではなく、ヒデさんが開業しているゲストハウスの一階で、旅の人と地元の人が酒とつまみを手にちょっとした交流を行えるような、曜日限定の小さな店だ。

 何かのきっかけでふらっとその店に立ち寄った時に、ヒデさんや飲み仲間とは親しくなった。

 

「それで、なんか用事だった?」

『この間うちの子がちぎっちゃった愛理ちゃんの文鳥のストラップ、直せたから連絡しとこうと思って。ホントごめんねぇ、うっかり目を話した隙に……』

「それでわざわざ? 電話なんてくれなくても、今度飲みに行った時でよかったのに。そんなん気にしなくていいよ。野生本能逞しい猫の目の前で、これ見よがしに鞄からぶら下げてた僕が悪いんだし」

 

 あまりに申し訳なさそうにするので、僕は笑いながら片手を振った。

 ヒデさんは、ゲストハウスで二匹の猫を飼っている。白猫のメルと、ハチワレ猫のポーラ。僕が電車を乗り換えてまでしょっちゅう飲みに行っているのは、言わずもがなここの猫達が目的であるところもあるのだけれど、やんちゃっ子のポーラが、この間僕のショルダーバッグから提げていた文鳥のストラップを、おもちゃ代わりに引きちぎってしまったのだ。

 ストラップと言っても、ふわふわしたぬいぐるみなので結構な大きさがあり、おまけに鳥の形をしているもんだから、ポーラにとっては狩猟本能を刺激する絶好の獲物だったに違いない。酒の席が進み、ふと気が付いたら土間に無惨に転がっていたぬいぐるみの文鳥と、それをちょいちょいつついて遊んでいるポーラを見て、ヒデさんの方が悲鳴を上げたぐらいだった。あの時のことを想像すると今でもちょっと面白い。

 

「元々ちょっと紐もボロくなってたし、直してもらえてむしろ助かるよ」

『あっ、それに関しては期待してくれちゃっていいわよ? 新しいストラップは、紐にビーズと飾り玉も通してすっごい可愛い感じにしたんだから』

 

 案外、それを黙っていられなくなって電話してきたのかもしれない。ヒデさんは手先が器用で、よく手工芸のアクセサリーも作っている。

 今度引き取るのを楽しみにしてる、と会話を畳みかけ、ふと僕は気が付いた。絶好の逸材がここにいたことに。

 

「あの……ヒデちゃん。猫って、どうやったらキャリーバッグに入るの?」

『キャリーって……あらぁ、ニャンちゃんがそこにいるの?』

「うん。ていうか、僕が飼うって決めたわけじゃないんだけど、昨日雨に濡れてたのを保護してて」

 

 とりあえず病院に連れて行きたいのだと説明すると、猫と聞いただけで嬉々としていたヒデさんは、僕の奮闘ぶりを聞いて笑いながら、方法を教えてくれた。

 

『愛理ちゃん、洗濯ネットって持ってる? その子が入りそうなぐらいの大きさのやつ』

「え? うん、ワイシャツの洗濯用に使ってたのがあったはずだけど……」

 

 スマホを耳に当てながら、洗濯機の上の棚からネットを引っ張り出すと、ヒデちゃんは言った。

 

『それを、そ〜っと猫ちゃんの後ろから被せて。まぁ、あんまり抵抗するようなら真正面からでもいいわ。不思議なことにねぇ、洗濯ネットに入ると暴れなくなる子って結構いるのよ。ぐるぐる巻きにされると安心するみたい』

「えっ、そうなんだ」

『その子、愛理ちゃんの布団の上で寝てるんでしょ? だったら愛理ちゃんが嫌われてるって訳じゃないと思うから、もし洗濯前の服を入れてるネットがあれば、それを使ってみれば?』

 

 そう言われて、洗濯籠の中に放り込んであった、使用前のネットに僕は手を伸ばした。他の服の下敷きになってただけだけど、多少は僕の匂いがついているだろう。

 

『どうしてもダメってなったら、アタシが捕まえに行ってあげるわよぉ。安心なさいな』

「うん、本当にいざとなったら頼むよ……」

 

 仕事で忙しいだろうにわざわざ僕の家まで呼びつけるのも気が引けるが、頼れる人間がいるのはありがたいことだ。

 意を決して、僕は洗濯機の置いてある洗面所から、布団の置いてある洋間へと戻った。

 

「さて、今度こそ大人しくしてくれよ」

 

 洗濯ネットを構えたままベッドににじり寄る。と、毛繕いをしていた黒猫は顔を上げて耳をピンと立てたが、僕が持っているネットを見るや、それ何? と言わんばかりに近づいてきた。

 

「……んっ?」

 

 思わず驚いて、袋の端っこを離す。様子を見ていると、なんと猫は自分から、洗濯ネットの中に興味を示して入ってきた。

 

「ええ……」

 

 今までの奮闘劇は何だったのか、と思うぐらいあっさりした捕獲だった。ともあれ、僕は猫の気が変わらないうちにとネットごと抱きかかえ、キャリーバッグへと走った。多少みゃおみゃお鳴いて暴れられたが、ネットに入っているので引っ掻かれる事も噛みつかれる事もなく、あえなくお縄になる。入り口を閉めてみたら意外と大人しくなったので、やはり見慣れないものの中に入るのが怖かっただけのようだ。

 

「やれやれ、まったく」

 

 10分遅れで家を出発し、僕はようやく動物病院に向かった。

 受付で渡された「神宮前アニマルクリニック」と書かれた診察券には、何の因果か、番の文鳥が可愛らしいイラストで描かれていた。

 

「そういえば、猫ちゃんのお名前、どうしますか?」

 

 カルテを作成しながら、にこやかに応対してくれたスタッフに尋ねられ、僕はキャリーを抱えたままふと固まった。ヤバい。全然考えてなかった。

 

「あ、もちろん、まだ飼うとお決めになられた訳ではないでしょうし、飼い主様のお名前で一旦ご登録することもできますが……」

 

 慌てたようにスタッフが説明してくれる。その場合、病院に来る度に僕の名前が呼ばれる事になるだろう。人間の病院なら普通かもしれないけど、ここで呼ばれるのは動物の名前だと考えると、それはなんか恥ずかしい……気がする。

 それに何より、いつまでも名無しの権兵衛じゃこいつが可哀想だ。

 僕はちらっと、キャリーの暗闇の中で伺うように光る、榛色の目を見た。

 頭の中に閃いた名は、出逢った時の外見にはまったく似合わないというか、なぜそんな言葉が思い浮かぶのだろう、というものだった。

 でも、雨と泥に塗れた体、サーチライトの中で見た、あの瞬間から。

 多分僕は、君のことを——ただ縋るように、目に飛び込んだ一筋の閃光のように。そんな風に、思っていたのだろう。

 ひとつ息を吸って、僕は受付のスタッフに向かい、口を開いた。

 

「レイで。——鈴木レイで、お願いします」

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