その日。学校が終わってから猫波荘に向かい、愛理さんの部屋に遊びに行こうかなと思っていた私は、同じ階にある誠さんの部屋の前の廊下で二人に鉢合わせた。
ヒデちゃんから、珍しく愛理さんと誠さんが仲良く遊びに行ったなんて聞いていたけど、並んで部屋から出てくるところを見ると、二人の過去を多少知っている私としては、本当だったんだなとちょっとびっくりした。
じーっと凝視すると、誠さんより背が低い愛理さんの方が、若干恥じらうように頬を染めているのは気のせいだろうか。
「……何?」
「いえ、こっちの台詞ですけど」
「いや、美沙に用があるのはぼくじゃなくて、こっちの人だし」
自分から聞いてきたくせに、誠さんは結局愛理さんの肩を呆れた顔で叩いていた。一歩つんのめるように前に出た愛理さんが、何か手に持っていたビニール袋を、おずおずと差し出す。
「こ、これ……その。今日、誠とお揃いのピアスがしたくて、買い物に出掛けたんだけど。僕らだけじゃなくて、美沙ちゃんにも何かプレゼントしたくて。ほら、僕ら三人、仲間みたいなものでしょ。この夏限定の、かもしれないけど。それぞれに乗り越えたいことや伝え尽くせない思いがあって、それを何とか曲にしようとしてる。
だから、なんかこう、メンバーの証みたいなもの、あるといいなぁって……美沙ちゃんの分も勝手に選んできちゃったんだ」
「私に?」
事態に頭が追いつかない私の前で、頷いた愛理さんが袋に手を入れて何かを取り出す。私の前で両手に掛けて見せてくれたのは、チェーンのネックレスだった。
三日月の上に腰掛けた猫がペンダントトップになっていて、尻尾の先に、薄水色の小さな宝石のようなものが付いている。
「ごめん、その……僕らのと似たような色でいいのがないか探したんだけど、本物の天然石だと結構な値段になっちゃって。あんまり高過ぎるものを渡すのも負担になるかなぁって思ったから」
照れたように目を逸らしながら、顔の横の茶髪をかき上げた愛理さんの耳元に、真新しい水色のピアスがきらっと光った。ファーストピアスというやつだろう。私の通っている学校は服装が自由なので、ピアスをつけている友達もいるし、穴の作り方も何となく知っている。
その隣でウインクを返した誠さんは、自分の耳元を指差した。よく似たデザインのボールピアスが、誠さんの耳たぶにエメラルドグリーンの彩を添えている。見ての通り、誠さんはこの宿に来た時からピアスをしていた人なので、だとしたら誠さんに穴の開け方を教わって、今に至るという感じじゃないだろうか。それなら、納得がいく。
まあ、本当に教わったのがそれだけかはわからないが、あまり深くツッコまないでおいてあげよう。
そんな私の追求的な視線をどう思ったのか、愛理さんはますます言い訳がましく小さな声になりながら、ネックレスに俯いた。
「え……っと、ちなみにアクアマリンって三月の誕生石なんだけど、美沙ちゃんって三月生まれってわけじゃないよね?」
「違いますね」
「わあ、やっぱそんなミラクルが起きるわけないかぁ」
馬鹿。そんなこと気にしなくたって、もらえるだけで嬉しいのに。
二人の秘密の間に、私も入れてもらえた。一緒に、同じ場所で音楽を奏でる私のことを、仲間だって言ってくれた。それだけで十分満ち足りた気持ちになりながら、私は微かに触れ合わせた愛理さんの指先から、チェーンを掬い取る。
あ、とか声を上げる愛理さんの前で、私は両腕を頭の後ろに伸ばして、ネックレスの金具を引っ掛けた。ただのTシャツだけど、たまたま紺色のを着ていたから、銀と水色のネックレスはその上でよく映えるはずだ。自分じゃあまり見えないけど。
「どうですか?」
「うん……よかった。すごくよく似合うよ」
「美沙、スマホは?」
もうLINEがなくっても誠さんや愛理さんとは喋れるのだけど、癖で持ち歩いていたスマホを私から受け取った誠さんは、写真を撮ろうとしてくれた。折角だからと私が我儘を言い、狭い廊下に三人ぎゅうぎゅうで並んで、一番背の高い誠さんにインカメで自撮りをしてもらう。
なんでこんなクソ暑い廊下でとか、くっついたら尚更暑いとかみんな文句を言いながらも、三人で撮った何の変哲もない写真は、私にとっての宝物になった。
夜。
日中、暑い最中を出歩いてよほど疲れたのか、電気を消すよりも先に布団に倒れ込んで眠ってしまった愛理さんの隣で、私は窓際に置いてある電子キーボードの前に座りながら、スマホの写真とネックレスを見返していた。
私のネックレスは、アクアマリンに似せたカラーストーンだった。ということは、色的には誠さんではなく、愛理さんとお揃いということになる。けれど、私の石は水色というよりは、もう少し深い青色だ。猫達が間違えて飲み込んでしまわないように、私は巾着袋にそれを入れて、自分の鞄の奥深くにしっかりとしまい込んだ。
もう、この部屋にこうして泊まるのも何度目になるだろう。家にいてもここにいても作曲できるように、ノートパソコンとか本とか、実家にあるもののうち幾つかは、ここに運び込んでしまってある。
中でもこのキーボードは、誠さんが「どうせ本番もステージで使うから」と言って、名古屋でツテのある人に借りて持って来てくれたものらしかった。私は詳しく聞いていないが、他にも音響とか電源とか、権力を駆使してかなり無理を言ってくれているらしい。色々と大丈夫なんだろうか。
ふーっと息を吐いて、私は楽譜の上に置いてある五線譜を捲る。
近くに寄って来ておすわりしたレイは、興味深そうに見上げてはくるけど、メルみたいに楽譜の上を寝床にしないし、ポーラみたいにキーボードの上を歩き回ったりもしないので、かなり優秀な相棒だ。金色の瞳に小さく微笑んでから、私はヘッドホンを装着し、いくつか指先で音を弾いた。
一曲目は
そんな感じで、私は誠さんのお膳立てのおかげもありながら、のびのびと自分の好きな音を奏でて、歌の練習をするだけといった状況だ。一人だとどこまでやれていたかわからないので、短期間にこんな大量に曲ができてくることは、もう人生にないかもしれない。
そのうちの一つが、今私の目の前にあった。夏なので、折角なら天の川や船をモチーフにしてみたいと思ったのだが、ここひとつ、何かが違うような気がしている。
翠涙にも、天の川を歌った曲というのはありそうであまりない。空の星というと莫大すぎて、伝えたいテーマがぼやけてしまうのだと誠さんが言っていた。
「う〜〜ん……伝えたいテーマ、かぁ」
愛理さんと誠さんの間のことについては、主にその二人が担当して曲にすることになっている。だとしたらこの曲は、愛理さんとあやめさんのことを歌った曲になると思うのだが、それを私が余すところなくメロディーにできている自信がないのだ。
二人はもう、甘い関係でもなく、今新たに何かがその間柄に作り上がっているわけでもない。誠さんが愛理さんにやっていたように、愛理さんの側から一方的に届かない想いをぶつけるのだとして、それは一体何になるのだろう。
もっと一緒にいたかった?
楽しい思い出の中にいたかった?
自分だったら、もっと君を幸せにできた?
置いていかずに、ずっと忘れずにいて欲しかった?
……どれも何か、違う気がする。
指が止まり、畳の上に寝転がった私のパジャマのお腹に、レイが乗っかってくる。結構な大きさのレイが、四本足でお腹に立つと一点に集中する圧力がヤバいので、私がうぐっと声を上げる前に寝そべってくれるあたりが優しいのだけど、それでもかなり重い。
「レイってば、暑いよ」
追い払いたければ頭なり体なり触れば、触られるのが大嫌いなレイは逃げていく。でも何となくそうせずに、私は笑ったまま座布団を枕にして、レイのうとうとする寝顔を眺めていた。
触ろうとすると逃げるのに、私の膝とかお腹には平気で乗ってくる。変な猫だ。誰かに構われなくても平気だ、みたいな顔をして、気がついたらいつも、私とかメルやポーラの傍にくっついている。自分から触れているうちは触れられることに入らない、みたいな顔をして、堂々と寝そべっている。本当は「寂しい」って一言伝えて甘えれば、もっといっぱいくしゃくしゃに撫でて、キスしてもらえるのに。そうじゃなくても、誰も遠くになんか、行ったりしないのに。
「でもそれは、猫のルールか」
人間の世界は、もっと面倒くさい。黙ってキスしてもらえても、心がすれ違う事はあるし、走って行って撫でてもらおうとしても、その人が自分を好きとは限らないし、我儘ばっかり言ってたら、気付いたら周りに誰もいなかったりする。
すごく面倒くさい。
でも、そんな世界だから、私は特別な誰かと繋がれることを奇跡だと思うし、生きていて楽しいのだと思う。愛理さんは、どうなんだろう。
私は寝転んだままスマホに手を伸ばして、参考までに、あやめさんがボーカルをやっているTraditional Lilyの夏の曲を、サブスクで聴いてみた。シャカシャカした明るいギターやドラムの向こうに、弾ける太陽が見える。いい曲だ。溢れるような音の群れで全体は賑やかな印象なのに洗練されていて、メッセージ性も伝わりやすい。ボーカルのあやめさんの声は、ここまで騒がしい曲の中にいても全くブレがなく、堂々と周りを引っ張っている。青春真っ只中のような爽やかさと、夏ならではの熱意や勢いを活かした王道ソングだった。これを聴いてライブで盛り上がれない人はいないだろう。
それでも、思ってしまった。
(この人達……たしかにすごいけど、足りない。愛理さんの持ってるものを歌うには、全然、足りてない)
実力が足りないとかじゃない。見えてるものが違うだけだ。
何だろう、この胸の奥底を覆っていく微かな苛立ちは。
あんた達は、今まで愛理さんの何を見ていたんだ。
そう叫びたい気持ちが込み上げる。
こんなにキラキラした歌を歌って、酸いも甘いも噛み分けたような顔で、楽しく生きているのが正義、みたいな熱い言葉で。その歌は、今私の隣にいるたった一人の人間にすら、手を差し伸べなかったじゃないか。
(私は、確かに青二才だけど、他に音楽をやってきた人に比べたら技術も表現力も足りないし、考え方も性格も、子供っぽくて生意気なこと言ってるって思われるかもしれない、けど)
別にTLの人たちは、愛理さんのためを思ってこの曲を書いたり歌ったりしてる訳ではないだろうから、それも当たり前のことで。これはただの、皆が皆の進むべき道を選んだ一つの結果だ。だとしたら尚更、私にできることは一つだけ。そして、その“一つ”に関しては、私はプロの道に立つTLの人たちにすら、負けるつもりはない。
「誰よりも近くで、愛理さんを見つめること」。
いいや、負けるわけには。私が何とかしなくちゃ。
そう思った時、私の耳に二つ分の静かな寝息が届いて我に返った。
(……ううん。違う。そうじゃないな)
すやすやという呼吸音に私も合わせるように、ゆっくりと息を吸う。吐く。
ぷぅ、と鼻から息を吐き出すレイの寝息。すぐ近くの布団で、眠りの淵に落ちた愛理さんが、ぐっすり幸せそうに吐き出している呼吸の音。よくこの部屋で寝顔を見ている私には、目を閉じただけでどんな顔をして眠っているのかが思い浮かぶ。
それを聴いていたら、何だか私はとても瑣末な事に拘っているような気がして、自分を小さく感じた。
(勝ちとか負けるとか、そんなのどうでもいい。私の好きな音を、愛理さんに合わせて放てたら、それでいい)
だって少なくとも、この歌に入った気持ちを、愛理さんと誠さんは知っているから。それを聴いてどう感じたか、きっと伝えてくれるから。
私の歌は、万人を救わなくてもいい。他の人は、ついででいい。
誠さんが愛理さんに対して思いの丈をぶつけていたように、私は愛理さんに寄り添って泳ぎたい。海流を外れて、漂流して、浜辺に打ち上げられたあなたを、私たちの力でもう一度海に返したい。
それで——あわよくばTraditional Lilyの人たちは、元気になった愛理さんを遠くから見て、ほぞを噛んでいればいい。でもそれすらも、私たちにとってはどうでもいいことなのだ。
淡い色相を織りなす海の中を想像すれば、息を吸い込むだけで、肺に酸素が取り入れられていく。今の私は人魚だ。エラ呼吸は、水中の酸素を取り入れて、同時に泳ぎながら二酸化炭素を水中に排出していくものだから、私の中のドロドロも黒い気持ちも、全部が青く透ける水の中に溶け出していって、最後は本当に綺麗なものだけが残る。
海の中は、汚い場所もあって、ゴミだらけの場所もあって、決して楽園だけの環境じゃない。でも、海はとても広い。この不思議な潮水は地球の八割を覆っているから、この中を泳いで行けば、たとえどんなに時間が掛かっても、世界中全部と繋がることができるのだ。
青と翠に透き通って揺らめくカーテンの向こう側を、私は知りたい。まだ、この声を発した先を知らない。私たちのところに、何が返ってくるのか、どこへ誘ってくれるのか。
そこは地獄かもしれないし、楽園かもしれない。でも、私はどんな航路を通ったとしても、最後は楽園以外に行く気はない。人間不幸になりたくないのなんて当たり前かもしれないけど、そうじゃなくても今の私は、一人ではないのだから。
くるくると魚の群れに合わせて踊るうち、頭の中にメロディーが吹き寄せて、次第に意識は水底へと降りていく。
ああ。深い海の色と、夜空の色って、実はこんなに似てたんだな。
訳もなくそんな事を考えながら、レイの温もりをお腹に抱きしめたまま、私はいつの間にかすっかり寝入っていたのだった。