「なるほどね。僕が見返したいと思ってる、か。なるほど……」
次の日。私は愛理さんに、自分が曲作りの過程で思ったことを、洗いざらい話してみた。
ゲストハウスのリビングにあるテーブルにキーボードなんかを広げていると、物珍しがった旅のお客さんが、次々と覗き込んでくる。大きなリュックを背負い、手を振って新たな地へ旅立っていく彼らを、手を振って見送りながら、愛理さんはキッチンの汚れた布巾を回収していた。
それらを洗い物籠に放り込み、小さな掃除機でカーペットの毛玉を吸い取りながらも、耳はしっかりこっちに向いていたらしい。
愛理さんが、あやめさん達にどういう感情を燃やしているのか、知りたいということ。わざわざTraditional Lilyの曲を避けるぐらいということは、そのぐらい楽しかった思い出を思い返すのが本当は辛かったんじゃないかということ。自分にとって、幸せな記憶と辛さの両方をもたらす音楽というものを、本当は見返してやりたい気持ちがあるのなら、それを曲の中で解放していけばいいんじゃないか、ということ。でも、その感情ばっかりに捉われたくもないから難しいのだ、ということ。
「なんか、どんな曲にしていったらいいのかが、私の中でも方向性纏まらなくて、ぐちゃぐちゃで」
鍵盤の前に伸びる私の前に、掃除機の音から逃げてきたポーラが現れて、いつも通りボタンとキーボードをめちゃくちゃに踏みながらとんでもない和音を奏でている。猫はうるさいのが嫌いなはずなのに、音が出ることを面白がってるみたいだ。メルはとんでもないというようにキャットウォークの上に逃げ出して、顰めっ面をしている。レイもキャットウォークの上にいるけど、こっちは端の方に寄って、時々ポーラの音に合わせながらぴぴっと耳を動かしていた。猫にも、音楽の好みがあるのかもしれない。
掃除を終えてゴミを捨ててきた愛理さんは、頭の三角巾とエプロンを取り去りながら、楽しそうに笑って私の隣に座りながら、こんなことを言った。
「あのね。『どうでもいい』って思う時点で、美沙ちゃん的にはどうでもよくない事なんじゃないかって思うんだよね」
「あ……うう……」
その通りすぎるので、思わず言葉に詰まって、私は俯いた。
愛理さんがこんな事になってて、一番悔しいのは、多分愛理さんではなく私なのだ。しかも、その過去に私は欠片も関係がないし、私は愛理さんの人生における登場人物ってわけでもないのに。どうしても、自分の身に置き換えて腹を立ててしまう。「私だったら」悔しいって、思ってしまう。
ここ二週間で膨らんでいた自信が、一気に萎んでいくような気がした。
「ごめんなさい。なんか私、『愛理さんの思いを声にしたい』なんて偉そうなこと言ったのに、全然できないかも」
「いい、いい。別にそれでいいんだよ。何かに囚われずに手放したいって気持ちと、絶対に負けたくないって気持ち、同時に持ってても別にいいと思う。むしろそれは、人間としては自然じゃないかな」
癖で肩をすぼめると、愛理さんの手がふわっと私の前髪の上に乗った。そのまま私の頭を何度か撫でた愛理さんは、両肩を押して背筋を伸ばそうとしてくる。
「さ、もっと堂々と胸張って。いい姿勢でいないと、いい空気も入ってこないでしょ」
「そうですね」
上半身の姿勢を正されて、私は深呼吸してから改めてキーボードと向き合った。
地獄のような音を奏で続けるポーラを、大笑いで抱え上げて膝に乗せながら、愛理さんは側にあったタブレットを片手で引き寄せる。
「あのさ、行き詰まったら、お話から考えてみるのはどうだろう。誠みたいに」
「お話ですか?」
「それが長すぎるっていうんなら、和歌でもいいんだけど。ほら、『泡心中』だって、万葉集をモデルにしてたでしょ。七夕を詠った歌くらい、日本最古の和歌集にもあるんじゃないかな」
たしかに、ありそうだ。上手く取り入れられれば、いいオマージュにもなる。
私は、愛理さんが何かワードを打ち込んでネット検索するのを、隣で見ていた。歌番号を調べた愛理さんが、私のタブレットに入っていた電子書籍のリーダーを開いて、スクロールしながらページを捲る。古典の成績はダメダメだし、普段全然本は読まないのに恥ずかしいことだけど、翠涙が歌に使ったからというその理由だけで、私は電子版の万葉集をタブレットの中に持っていたのだ。ネットで調べた記事と、少し古い電子書籍の訳語を、愛理さんは見比べている。
「見て。こっから先は全部七夕を詠んだ歌みたい」
「なんか、周りにある歌に出てくる単語が、秋風とか萩の花とか、秋っぽい言葉ばかりですね」
「ああ、昔の七夕は旧暦だからね。新暦に直すと八月七日。その頃の日本は、暦的には秋だよ。七夕も本当は秋の季語なんだ」
「へえ」
意外な豆知識を愛理さんが教えてくれた。全国的に酷暑日なんてものが設けられてしまう今の日本の状況からは考えられないが、それだったらよっぽど涼しさを感じられる行事だっただろう。
「『汝が恋ふる 妹の
「相手の気持ちがわからなくて不安だとか、せめて向こう岸にいるなら一言何か言って欲しいみたいなフラれた感じの歌もありますけど、基本、会いたいとか恋しいとか別れが嘆かわしいとか、そういう歌ばっかりじゃないですか?」
「そりゃ、七夕だからね。今も昔も、日本人の考える事はそう変わらないでしょ」
「そういうラブストーリーは要らないんですよ。そもそも、二人が会えなくなった理由だって、互いに恋にかまけて仕事をサボるようになったからっていう自業自得じゃないですか」
「んな身も蓋もない」
「もっとこう、向こう岸まで渡ったら誰も待っていなかったみたいな、インパクトのある話はないですかね……」
思わず苦笑しながら、愛理さんは鼻先で匂いを嗅ぐポーラを撫でてやりながら、私が捲る画面を見て、ふと気付いたように言った。
「へえ、面白いなあ。船に乗って会いに行くのは、彦星ばっかりなのか」
「どういうことですか?」
「七夕って中国から入ってきた話なんだけど、元ネタでは年に一度、天の川の上に飛んで橋を作ってくれるカササギ達の背中を歩いて、織姫が彦星のところに歩いてくることになってるんだよね。ただ、中国の古典にあるその設定は、万葉集には取り入れられてないみたい。日本じゃ、彦星が船に乗って織姫のところに会いに行くことになってるんだよ。ほら」
秋風のさやけき夕 天の川 舟漕ぎ渡る
天の川 川の
……たしかに、彦星が自力で船を漕いで天の川を渡って来るみたいだ。巷で聞く七夕のストーリーは「織姫と彦星が年に一度会う」みたいなぼんやりした感じだから、どうやって会いに行っているのかあまり考えた事がなかったけど、二人で同時に橋の両端から歩き出して真ん中で会うとか、同時に川の両岸から船を漕ぎ出して中間で会うとか、そんな感じかと思っていた。
川幅xメートルの天の川の両端から、織姫は時速yメートルで、彦星は時速zメートルで同時に出発すると、二人が出逢うのは何分後になるでしょう。これじゃまるで数学の問題だ。
そこまで想像して、私はグラスの麦茶を一口飲みながら言った。
「でも、なんか理不尽ですね。織姫の側は待ってることしかできないし、彦星の側は待ってるか待ってないかわかんなくても、苦労して船を漕がなきゃいけないなんて」
「ま、今みたいにLINEとかないからねえ」
「一年会わずにいる間に、お互い心変わりしちゃったらどうするんですか? 自分はもう好きじゃないのに、相手が待ってるかもしれないからっていう理由で機を織り続けたり牛を飼い続けたりする一年なんて、ものすごく悲惨だと思うんですけど」
「美沙ちゃんさっきから超辛辣じゃない? ふふっ、でも、そういう見方も面白いなぁ。星の寿命は、僕らの一生なんて百分の一秒にも満たないように思えるくらいうんと長いんだろうけど、僕たちはそんなに長い間、生きてなんていられないもんね。与えられた時間は大切にしていかないとって気持ちは、わかる気がするよ。……たとえそれが、辛い別れに繋がることになっても」
何かを愛おしむような光を目に浮かべた愛理さんは、けれど不意に無邪気に笑って、画面を指差した。
「だったら、美沙ちゃんだったらどうやって変える? この二人のお話を。たとえば、そうやって互いへの未練で離れるに離れられない織姫と彦星がいたとして。互いのことは好きでも嫌いでもない、ただ好きだった期間が長すぎて、あるいは周りから『七夕といえば織姫と彦星だ』って信仰を集めすぎてて、別れるには踏ん切りがつけられないでいる。そういう背景だとしたら」
「この『渡し守』って、船を漕いでこちら岸から向こう岸まで、お客さんを渡す船頭みたいな人のことで合ってますか?」
「うん? ああ、そうだね。本当だ、彦星が漕ぐパターンだけじゃなくて、船頭の漕ぐ船に乗るパターンもあるんだな」
珍しそうに和歌を覗き込む愛理さんの隣で、私も頬をくっつけて画面を睨んだ。
渡り守 舟早渡せ 一年に再び通ふ君ならなくに。
渡り守 舟出しいなむ 今宵のみ逢ひ見て後は 逢はじものかも。
一年に二度会ってくれる彦星ではないのだから、早くこちら側に船を渡しておくれと渡し守に織姫が呼びかける歌。今晩限りの逢瀬だとしても、来年また会えない訳ではないのだから、もう出発しようと渡し守に彦星が呼びかける歌。他にも、彦星が帰ってしまわないようにと、織姫が渡し守の櫂を隠してしまった歌もある。
だから、私は言った。
「私だったら、この渡し守になって彦星を誘拐します」
「ぶっ」
隣で麦茶を口に含んだ愛理さんが、吹き出しそうになっていた。水をかけられそうになったポーラが、大慌てで膝から飛び降りて避難している。口元を拭った愛理さんが、なぜか赤い顔になっていた。
「だ、大胆だね……」
「だって、楽でしょう、お互いに。彦星にとっては、船頭は多分、交通機関の運転手ってだけで全然知らない人だし。そういう全く関係のない人だったら、今まで悩んできたこととか、本当はこれからどうしたいのかとか、話しやすいんじゃないですか」
「……なるほど?」
そう考えると、何か急に目の前が開けてきたような気がして、私は用意しておいたコード進行を少し弄り、キーボードを弾いた。キャットウォークに寝ていたメルが、ぴくりと耳を上げて顔をこちらに向ける。
「僕も、それ聞いてちょっと思いついた詞の構成があるんだ。そっちに書いていいかな」
「その言葉を当てるんだったら、音の流れ的には多分こっちの方が」
どこかで、オールを水の中に突っ込む波音が響いた気がした。
きっとこれからだ。愛理さんが走らせるペンの音を聞きながら、私は座礁船が動き出す予感に、胸を躍らせていた。