時間はあっという間に流れ、本格的な夏の到来を告げたと思っていた七月も、もうすぐ終わるというある日。
僕らは、美沙ちゃんのライブに備えて一階のバー「猫の眼」の設営に入っていた。
カウンターの横にあるスペースにあったテーブルと椅子を一旦バックヤードに撤去して、丸椅子を客席代わりに並べ、ステージ代わりとなるスペースにはスピーカーや配線を並べていくというのだから、小規模とはいえなかなか大掛かりだ。
更には、天井のパイプ管からスポットライトのようなものまでぶら下がっている。それを脚立に登って取り付けていた主が、頭の上から僕に向かって喋りかけてきた。
「ったく、愛理さん達も人使い荒いよなあ。誠さんに頼まれたから色々と用意はしたけど、設営は無償奉仕なんですけど、俺」
「感謝はしてるけど、協力してくれるって決めたんだったら口じゃなくてさっさと手を動かしてくれないかな、手を」
「手作業が必要だからこそ口を動かさないとやってらんないの! 俺口動かしてないと死ぬタイプだから!」
無茶苦茶な事を言いながら、ライトの角度を調整した琢真が、脚立を降りてくる。カウンターに置かれた照明のスイッチを誠が捻ると、ライトの光量が膨らんだり萎んだりと、小さなバーにステージさながらの演出が出来上がった。
「うん。いいね。本当は色とか変えられるともっといいんだけど」
「無茶言わないでくれる!?」
「今までTraditional Lilyで、鍵盤だけじゃなく種々の雑用までこなしてきた君なら楽勝だろう、琢真くん。同業者のよしみだと思って」
「それ手伝ったら、あんたのゴーストライター疑惑週刊誌に売ってきていい?」
「音楽雑誌ならともかく、そういう低俗な雑誌にぼくの矜持をバラしやがったら殺す」
「冗談だっつの! 怖い人だな!」
何度か共同で仕事をしたことがあるらしい誠と琢真は、軽口を叩き合いながらも、真剣に会場の音響や照明の調整をしていた。誠が最初、いい助っ人が名古屋にいるからとキーボードやらアンプやら次々に借りて来て、いざ顔を合わせたらその助っ人とやらが琢真だった時にはびっくりしたけど、よく考えたら、TLも事務所の本社は東京だし、東京を拠点とする翠涙と接点があってもおかしくはない。
袖を引っ張る気配を感じて振り返ると、そこには美沙ちゃんが大判の方眼紙を持って立っていた。ポスカや絵の具で色を添えて仕上げられたプログラムが、大きく書いても尚どこか可愛らしい美沙ちゃんの筆跡で書かれている。手作り感満載だ。
「うわ、それついに完成したんだ。すごい力作だね」
「ちょっと気合い入れ過ぎましたかね……」
「いや、これで丁度いいくらいでしょ。美沙ちゃんはセンスいいね」
「でも、ここの部分とかは愛理さんに塗ってもらいましたし」
海面や海の動物達が描かれた賑やかな大判紙を、美沙ちゃんははにかんだ笑みを隠すようにして持っている。僕は移動式のホワイトボードを転がすと、見やすそうな位置を美沙ちゃんと探し、ガムテープを使ってそれを貼り付けた。
本当は方眼紙じゃなくて無地でよかったんだけど、ヒデちゃんの知り合いが職場の発注ミスで大量に余らせていたというものをタダで譲ってもらったのだ。節約できるところは節約するに限る。
「にしても、東海の方じゃこの紙『B紙』って呼ぶんだよなぁ。僕、こっちに住むようになるまで全然知らなかったよ」
「え。むしろ何て言うんですか?」
「……大洋紙?」
「ええーーーーーー!?!?」
「ちなみに、富山出身のあやめはガンピって呼んでた。二人で、昔やった夏休みの宿題の話した時とか、延々と単語が噛み合わなくてね」
琢真がいるからか、今日の美沙ちゃんは耳元でおしゃべりモードに入っているが、それでも小さな声でそう叫んだので、耳の中がなんだかこそばゆい。
こんな話を、思い出として平然とできるようになったのも、今ここにいる彼女達のおかげかもしれないと感慨に浸っていたら、足元をカリカリ掻く気配で我に帰った。
「にゃー」
「ん? どうしたんだい、メル」
真っ白な体を撫でようとすると、メルはくるりと背を向けて、玄関の方を向く。するとバーの入り口に、保冷袋を掲げた見知った顔が、ぶんぶん手を振っている姿が見えた。
今となってはあの金髪はなりを顰め、ミモレ丈のスカートですっかり落ち着いた年相応の格好になってしまっているけれど、品の良さの中にも洒落た気配を隠さない長年の友人を、僕は快く出迎えて扉を開けた。
「
「久しぶり〜! ごめん、なかなか来れなくって! これ、差し入れ! 途中でアイスもなか買って来たんだ。あんた好きだったよね? あと、うちのお寺の檀家さんから超大量にゼリーもらったからそれも〜」
「いいの? 僕までそんな大事なものもらって……」
「いーのいーの。この時期は果物とかゼリーとか超いっぱいお裾分け貰うんだもん。あんまり食べすぎると、あたしのお腹がしゃばしゃばになっちゃう」
悪友時代の派手な金髪にピアスが多少懐かしくもなるけれど、今は栗色に髪を染めている幸のあっけらかんとした笑顔は、昔から変わらない。
ウェーブがかったハーフアップを揺らして店内に身を滑り込ませた幸は、地面に立ったまま見上げてくるメルを見てにっこりした。
「すごい賢い猫ちゃん。話には聞いてたけど、今あたしが来たの見てアイリスを呼びに行ってくれてたみたいだったよ?」
「ふふ。幸が僕の知り合いだって、猫の勘でわかったのかもね」
傍にいた誠たちに、気楽な感じで頭を下げた幸は、その場で食べたい人間にすぐさまアイスを配っていた。琢真はともかく、初対面なはずの誠や美沙ちゃんにもさりげなく声掛けしていくそのコミュニケーションスキルは、昔から相変わらずだ。
残りのゼリーをありがたく頂戴して冷蔵庫にしまいに行ってから、僕は幸にお冷を差し出した。カウンターに座った幸の隣に、僕も腰掛ける。
「ありがと。なんか、ほんとごめん。結局あたし、大事な時にあんたに何もしてあげられてなかったみたいでさ……」
「時々、連絡くれたり話聞いてくれたりしてたじゃないか。十分だよ。幸のせいなんかじゃない。大体、お寺に嫁いだらそう簡単に家を出てくる事も難しいだろ。毎日あんなに、時間も問わず掃除とか法事とかで忙しそうで」
「けどさ〜! アイリスも悪いんだからね!? あたしがそんな風に忙しいからって遠慮して、あたしが声掛けるまではひとっつも自分から連絡寄越さないじゃん! それで久しぶりに声聞いたら、今度は鬱になって仕事休んでるし! 本当にびっくりしたんだからね!?」
相変わらずの賑やかな声と半分叫ぶような叱責に、僕は苦笑して手を振った。
アメリカのホテルで僕が研修生として働いていた時代からの友人である幸は、数年くらい前に結婚して、今はお寺の側にある二世帯住宅に住んでいる。今は、昼夜問わず入るお葬式への応対や、お寺そのものの広報や、ご近所の人から持ちかけられる相談事などで、忙しく過ごしているらしい。
お坊さんと結婚すると聞いた時は正直驚いたし、散々放蕩癖のあった娘が戒律の厳しそうなお寺での生活なんて、本当に大丈夫なのかと部外者ながら心配にもなったが、昔からやたら適応能力の高さを誇る幸は、僕からしたら狭苦しく感じる環境でも、自分なりに上手くやりがいや息抜きを見つけて楽しんでいるようだ。
「旦那さんは元気?」
「なんか最近夏バテがひどいって言ってる〜。本堂とか冷房ないからクソ暑いしね。まあ、差し入れが飲むゼリーとかチューベットとか、食べやすいものばっかりでまだ助かってるけど、あれだけじゃさすがに栄養偏るわよ」
「幸が作ったりしてあげてるわけ?」
「ん〜、作ることもあるけど、基本向こうのお母さんのお裾分けに頼りっきりなこと多いかな〜。私は出前とかで外注しても別に怒られないよ。料理下手だし。どう考えてもお金払って届けてもらった方が、手間なく美味しいご飯届くじゃん。最近は」
「ま、台湾とかじゃ外食文化が主流だもんなあ」
「うわぁ、旅行で行ったん懐かしいね」
そんな風に世間話をしていると誠に呼ばれたので、僕は自分が使う楽器と音響設備の確認に赴くことにした。その代わりというように、作業を一段落終えた美沙ちゃんが僕の座っていた椅子に座るのを見て、僕はちょっと物珍しさに目を見開いたのだった。