「はぁ……」
「やっぱり、緊張する?」
ライブ本番の夕方。私の肩に、ブルーのチェックシャツを羽織らせてくれた愛理さんが、苦笑いで問い掛けた。
今は、愛理さんの借りている寮の部屋で、備え付けのドレッサーの前に立っているところ。衣装の最終チェックだ。
「緊張しすぎて、なんかお腹空かないや……」
「大丈夫? 美沙ちゃん、朝以来何も食べてなくない? 軽くでも何か入れといた方がいいんじゃない?」
「私もそう思うんですけど、今は食べないでいた方が、このまま体も軽くなって遠くまで飛んで行ける気がする」
衣装と言っても、私服と大した違いはない。濃いインディゴのジーンズに、薄水色のTシャツというシンプルなもの。愛理さんも、上がシャツワンピなだけで似たような感じだ。本当は誠さんが、お揃いのTシャツを作ろうなんて言い出し始めたのだけど、さすがに今から注文しても間に合いそうになかったので、今回は各々持ち寄った青っぽい服を着て、ユニフォームの代わりにする事にした。
下はかなり冷房が効いてるから、という理由で愛理さんが羽織らせてくれた、触り心地の良いブルーの綿シャツは、愛理さん本人の私服らしい。微かに、この宿で使っている柔軟剤の香りがした。それを嗅いだらほんの少し、心臓を締め付けるような痛みが和らいだ。
「うん。美沙ちゃん、スカートもいいけどこういうのもやっぱり似合うよね。勇ましい女戦士っていうか」
「なんですか、それ」
「着れるんだったら、今のうちいっぱい色んなスタイルに挑戦してみるといいよってこと。君の魅力は、可愛さだけじゃない。かといって、格好良さだけでもない。いつだって、凛として前を向いてる美沙ちゃんが好きだよ。……でも、今日はもうそんなに緊張しないで」
鏡の中で強張った私の頬を、愛理さんが笑いながら背後から摘んでみせる。ブルーのアイシャドウを塗って、貝殻のヘアピンを付けてもらった私の顔は、いつもよりほんの少し大人びている。
足元に纏わりついてきたレイを見下ろしながら、ゆっくりと私は一度深呼吸をした。この部屋にいる間、息はちゃんと肺の奥まで入ってくる。バーを貸し切って、何度もリハーサルだってした。でも本番、大勢のお客さんを前に、本当に私はちゃんと、歌うことができるのだろうか。
「脚が震えて、どうにかなりそうなんです……本当は、愛理さんのために歌えたらそれでいいって、お客さんの目線より、シンプルにどれだけいい歌を出せるかって、それだけ考えられれば結果もついて来るはずだって、わかってるはずなんですけど……」
「うん」
愛理さんは、大丈夫とも上手くいくとも、何も言わなかった。ただ、両肩に手のひらを乗せたまま、鏡に映る私の目を見つめ返している。
「僕は……何ていうか、プロじゃないし人前で演奏した機会もほとんどなくて、がんばれなんて安直な言葉でしか、君を励ますことができないけど。ていうか正直、僕の方もコーラス上手くいくのかどうかでビビってて胃の中のもの吐きそうなんだけど」
「……吐くんなら本番前にしてくださいね?」
「でも。一つ、間違いなく言えることがある。僕はずっと、今日の君を楽しみにしてる。こんな僕を、君は誠と一緒に歌にして、水底から引っ張り上げてくれた。こんなに小さな場だけど、僕は僕だって、表現できる場をくれた。僕が忌み嫌っていた、あの日の真ん中で止まったままの音楽を使って。
……初めてなんだ。ライブに来て、何かを聴かなきゃとか、僕の知り合いの曲にどんな反応があるんだろうとかじゃなくて、ただ『楽しみだ』って思えたのは」
ゆっくりと、私は畳の上で向きを変えて愛理さんのことを見上げる。
この人の悲しみ。この人の苦しみ。この人の、これからの人生。
誰も寄り添えなかった時、誰の手も届かなかった時、この歌だけは、たとえどんな痛みを伴っても、傍にいられるように。
「私が——愛理さんの、声になります」
「頼んだよ。僕の声」
肩に手を置いたまま、囁くように言われて、私は瞳を見つめたまま頷く。
そこへ、襖を無遠慮に叩きながら引く音が聞こえてきた。
「おーい。武者奮いの時間終わった? そろそろリハと最終調整に入りたいんだけど」
「武者奮いっていうか、普通の震えだよこれは……」
「冷房の効きすぎじゃない?」
ただ一人、大して緊張もしていなさそうな誠さんが冗談めかしながらしゃあしゃあと入って来て、飛び跳ねるレイにじゃれつかれていた。
間に立つと、誠さんは両方の手で、棒立ちの私たちの背中をぱんと叩く。
「ちょっと。今からそんな葬式みたいな顔してどうすんの。日頃の威勢はどうした」
「あー……なんか僕、本番になった瞬間自信喪失するタイプっぽいんだよね」
「まあ、愛理は昔からそんな感じだよな。でも、美沙まで同じとは意外だったけど」
「っ! 私は……愛理さんがこんな状態なのに、私がしっかりしない訳にいかないじゃないですか。いつも通りのテンションでぶちかましてやります」
「そうそうその意気。円陣でも組んどく?」
アーティストが、ライブに立つ直前の舞台袖とかでよくやってるやつ。自分がやる事になるとは思わなかった。肩を組んだ誠さんが、頭を寄せながら言う。
「ところで、このグループ名何ていうの?」
「Tシャツ作ろうとか言ったくせに、誠は考えてなかったわけ!?」
「いやなんか、適当に英字とか入れればそれっぽいデザインになるかと思って」
「結局最後までグダグダになっちゃいましたね……今から考えてる時間なんかありませんよ」
「え〜〜……じゃあ、もういいや。暑いしさっさと済まそ。ここの三人! 最後までいいライブにすんぞ!」
「おー!」
誠さんがこういう掛け声をやってくれるには正直意外だったけど、そうやって皆を引っ張っていく姿が、なんだか童心に返ったように生き生きとして楽しそうだった。全員が楽しんで活動に携われるなんて、それこそ奇跡でもないと起こらないことだと思うから、私は本当によかったと思う。
この三人で、今日は最後まで走る。
そんな決意を胸に、私は袖を通したブルーのシャツを翻し、部屋を出た。
***
一階のバーに入ったお客さんの顔ぶれは、正直想像以上だった。
琢真さんは前々から手伝ってくれてたから来てくれるんだろうなというのはわかったけど、件のTraditional Lilyのメンバーが、本当に全員集結するなんて思っていなかった。絶対に、自分の仕事とか都合とか優先すると思ったのに。
カウンター席は琢真さん、満月さん、あやめさんの三人のメンバーで埋まっていて、玄関先に出した椅子には学校の友達やご近所さん、それにたまたま今この宿に泊まっているお客さんの姿も見える。何ていうか、あまりにもTLのメンバーがすんなり場に馴染んでいるので、どんなにすごい人達がここにいるのか、既にドリンクで乾杯しながら盛り上がっているみんなは、多分わかってないような気がする。
カウンターの中には、ヒデちゃんの他にお母さんやお父さんの姿もあって、私は両手で頬を押さえながら頭を抱えた。
「恥ずかしいから見に来なくていいって言ったのに……」
「あはは。でも、折角応援してくれてる二人には、聴いてもらえた方がいいでしょ?」
「それはそうですけどぉ……」
階段奥の倉庫のスペースから、バーのすぐ手前まで行った私は、お酒を出しているヒデちゃんとみんなの会話に耳を澄ませた。
「それにしても、東京での番組収録が終わったばっかりだったんでしょお? まさか本当にお誘いしたら来てくれるなんて、おネエさんちょっとびっくりしてるのよぉ」
「ふふ、そんな……名古屋は今でもTLの本拠地だし、それに私はただ単純に、いい音楽があるって言われたらそこに聴きに行きたいだけです。それに、愛理直々の頼みだったから……連絡あった時はびっくりしたけど、気になって」
「本当っすよね。ここで働き始めたと思ったら、今度は音楽までって。うちもめっちゃ気になるんすよ。主に作詞やってるって聞いたけど、愛理さんが自分で手がけた音楽なんて、うち聴いたことないっす」
喋り声は思ったより普通だけど、間違いなくTraditional Lilyのあやめさんの声だ。ステージに立ってライトを浴びた瞬間、客席全部を飲み込む怪物みたいに変貌する声。今は上品に囀っているその声が、興奮気味の満月さんと喋り交わしているのがよくわかる。
いつの間にか、側に寄ってキーボードのセッティングをしていた誠さんが、顔を上げないまま私に聞いた。
「さすがというか、愛理への情に引き摺られて来た人間は、やっぱり愛理の曲と思ってるっていうか、元カノ目あてで来てるみたいだね。悔しい?」
ここは本当に通路なのだけど、これだけ客が入れば店も狭いし、ほとんどは打ち込みで曲を完成させてあるから音が出ればそれでいいということで、誠さん自身は徹頭徹尾ここから姿を現さないつもりでいるらしい。捻くれ者というか、誠さんらしいというか。
身も蓋もない言い方に、私は暖簾の隙間から視線を店内へ送ったまま、小さく呟いた。
「……上等ですよ。私、アウェイの方が燃えます」
「言うねえ。そう来なくっちゃ」
だって今まで、こんなにすごい人達じゃなくても、私を見ようとする人間なんて、ほとんどいなかったのだ。声を出せない私を、学校でさりげなく無視していく人。気を遣っているフリをしながら、都合よく弾き出す人。触れるのが面倒で、遠ざけたままただ見ている人。
そうじゃない、私はここにいると、少しずつ私の言葉で、私の歌で伝え始めるようになって、ようやくここまで来た。この胸にある自信と気持ちは、最近になってほんの僅か芽生えただけの、まだ苗とも呼べないようなもの。
でも、私は振り向かせなきゃいけない。「愛理さん」を見に来た人間を、「愛理さんのただ隣にいるだけ」の、この私が。
店の奥から私と愛理さんが登場すると、BGMがだんだん小さくなって、即席のスポットが私たちに当たる。琢真さんが、カウンター席に座りながら音響・照明係をやってくれているおかげだ。私の隣でスタンドの高さを合わせて確認してくれた愛理さんが、先にハンドマイクをその手に取り、お辞儀をしてから、用意していた原稿を広げた。
「こんにちは。Mishaです。本日は、初めてのライブの場にお越しいただき、誠にありがとうございます。
私は、場面緘黙症という特性上、大勢の人の前で声を出して喋ることができません。そこで、MCという『声』を、ここにいるアイリスに託すことにしました。
普通に喋ることは難しいですが、私は、言葉を歌にすれば届けることができます。今回は、それをみなさんに聴いて欲しくて、発表の場を企画していただきました。最後まで楽しんでもらえると嬉しいです」
事前情報をほとんど何も聞いていなかったであろう満月さんとあやめさんは、如実に驚いたような表情を浮かべている。紙を畳んだ愛理さんは、そのままマイクを私に渡して、自分はカウンターの内側に入って行った。コーラスパートのある曲までは、ただ隣に立っているのもやりづらいだろうと思ったので、私が待っていて欲しいと頼んだのだ。
ここからは、正真正銘の一人だ。一人だけど、一人じゃない。
スピーカーから流れ出す、馴染んだ演奏に心を引っ張られるようにしながら、私は一度うなずいた愛理さんと目を合わせて、思い切り息を吸った。
ガラス片の刃先で 切れるなら切ってみろよ
血を
引きちぎった先に 花言葉一つ
心から抜けない青春の棘
ギターのサウンドは低音の旋律を静かに往復している。それに合わせて飛び出す歌詞は、ナイフのように鋭い。一曲目は翠涙のカバーで『グローリー』。歌詞には一度も出て来ないが、朝顔をモチーフに歌った曲らしい。朝顔は英語でmorning gloryという。gloryは栄光のことだが、翠涙の歌詞はもっと血生臭く、相手を手に入れる事こそがこの世の唯一の栄光だとでもいうように、生々しい執着を爽やかさの中で歌っている。
救え、掬え——巣喰え。
蔦で空けた風穴に あんたはいるんだろう
駆けて、懸けて、蔓掛け登れ。
応えてくれ 鮮やかな日差しに
朝顔の花言葉通りに、相手を食い尽くし我が物にしようとするおぞましさと、必死に蔓を伸ばして相手を引き止めようとする切実さが、絶妙な音のバランスの中で、揺れ動く心のように見え隠れする。けれど私はボーカルの
時々追いかけてくる誠さんのピアノに耳を傾けながらも、周りと音をほとんど気にする余裕がないような状態で、私は一曲目を終えた。既に体が熱い。首元から垂れてくる汗を拭おうとした途端、想定よりも少し大きな拍手が湧き起こった。
いつの間にか、みんなの視線が私に集中していた。息を詰まらせ、この曲のように尖った蔦の切先を、喉元に突き付けてくる視線。悪意も善意も好奇も、全てがないまぜになって押し寄せてくる。足元を波に攫われるような錯覚を覚えて、しっかりしなければと手をぎゅっと握りしめた時、カウンターの中から小さく咳払いの声がした。
「ありがとうございました。今歌った曲は、翠涙の『グローリー』。夏の日差しの強さと思いの鮮烈さを掛け合わせて作った、私たちの大好きな曲です。
今日はもう一曲、この翠涙をオマージュした曲を用意しています。降り頻る雨の涼しさを、近くに感じてもらえたら嬉しいです」
もう一個の小さなピンマイク越しにそう喋ったのは、他でもない愛理さんだ。
たしかここは、二曲通しでMCのない箇所だったはず。いかにも最初から原稿を用意してきたみたいな顔をして喋っているけど、私が立ち尽くしているのを見て、咄嗟にフォローを入れてくれたのだとわかった。
(歌えそう?)
声を出さずに、口パクだけでそう問い掛けてくる。私は小さく頷いて、もう一度目を閉じながらマイクの前で深呼吸した。
胸に当てた指先が、愛理さんのくれたペンダントに触れる。——大丈夫。
曲が流れ出して、私は青く染まった照明の中で顔を上げた。これは、まだ合成音声のマロンを使い始めて間もない頃の私が、翠涙に憧れて手探りで作った曲。私「たち」の大好きな、翠涙に近付きたくて奏でた曲だ。
相合傘の下だから
降り積む雨は 特別になる
ただ隣り合う 肩と肩
制服のリボン きゅっと結んで 背を伸ばす
雫と一緒に挨拶を
私も君も 笑ったね
飛沫を上げる バスの車輪は まだ見えない
まさか今回のこれが、翠涙のメンバーである誠さん本人の手が加わることで、更にブラッシュアップされているなんて、誰も思わないだろう。翠涙の原曲は、青春時代に焦がれた相手への、自分の一方的な感情と眼差しが描写されていた。だから私は、その中でも特に印象的だった雨のバス停のシーンを切り取って、ひとつの曲に引き延ばしてみたのだけど、「それだったら、もう少しラブストーリーのテイストにしてみたら美沙らしいんじゃない」とアドバイスをくれたのが、誠さんだったのだ。
流れる雨音に 耳が覆われたみたいで
すっぽりと雫のカーテンに 世界から置き去られる
このまま頭の中 轟音で砕け散って消えたい
囁く君の声 今は聞こえないけれど
好きも嫌いも声にして 形になってしまうなら
濡れてる体のまま 溶けて落ちたい
ちょっとアンニュイな感じでエレキギターの音色を入れたので、疾走感のある翠涙の原曲からはかなり印象が遠ざかったけれど、これはこれでいい出来になったんじゃないかって思う。背後で弾いている誠さんのピアノの音色が、姿は見えなくても次々に畳み掛けてくる。頭の真上から冷水を浴びているみたいだ。それに負けないように、土砂降りの雨に溶けたいと思いながらも声を張り上げる。
細かいことを考えずに歌い切ってしまったけど、二曲目が終わった時、気が付けばまた私たちは温かな拍手に包まれていた。身内贔屓もあるだろうし、実際はどう思われているかはわからないとはいえ、みんな楽しんでくれているようだ。
バーの玄関口で立って見ていてくれた友達が、片手に携帯を携えたまま親指を立てる。上手く撮れそうなら私のチャンネルのアカウントで生配信してみるって言ってたけど、そちらの様子は今どうなっているのだろう。
「ありがとうございました。僭越ながら——ここでちょっと、僕の身の上話を挟ませてください」