マイクのスイッチを入れた愛理さんが、カウンターの中で立ち上がって当初の予定通りのMCに入る。一旦、暖簾の後ろから誠さんが差し出してくれたペットボトルの水を口に運びながら、私は愛理さんの羽織らせてくれたシャツを脱いで、腰に巻きつけた。着たままだと暑くなってきたけど、これなら一緒にいられる。
「ええっと……僕は、アイリスといいます。名前は別に覚えて帰らなくてもいいです。
Mishaの曲の、作詞の一部を担当させてもらいました。
……あ、拍手ありがとうございます。この、皆があたたかい名古屋の街で、こうして僕らの演奏を聴いてもらえるのを嬉しく思います」
普段、お客さんと喋る仕事をしていたからか、人前で話すのは苦手と言いながら、愛理さんのMCは随分好評に見える。格好良いはずなのに、なぜかどうにも頼りなくて、人好きのするところが、色んなものを惹き寄せる源なんじゃないかと、私はマイクの傍に立ちながら愛理さんを見つめた。本人は、その魅力に気付いてないと思うけど。
「僕はその……新潟から来て長らく名古屋に住んでたんですが、ちょっと仕事と人生が行き詰まって、鬱になってしまって。このバーと宿を経営してるヒデさんの厚意で、しばらくここに住ませてもらう事になったんですが、その時にMishaと出逢いました。
えっと……それから今日はどうしても顔出ししたくないって言って引っ込んでるんですが、そこのキーボーディストと。三人で、Mishaの声を聴いてもらいたくて、今日のために準備をしてきました」
暖簾の後ろから、あざらしのパペットを出して手を振る誠さんに、お客さんから笑いが巻き起こる。私も思わず噴き出してしまった。多分、倉庫の中にあるものを漁って見つけたんだろうけど、一体どこから出してきたんだろう。
「……Mishaのために、とは言ったんですけど、これから歌ってもらう曲は、僕のためにMishaと、そして名もなき作曲者に作ってもらった曲です。
僕はこの歳になるまで、自分の人生と、それからその中で起こった色んな出来事と、向き合えずにいました。色んなって言っても、そんな大層なことじゃなくて、多分みなさんには経験のあるようなことばっかりです。具体的には言いませんけど、失恋したとか、家族と喧嘩したとか、友達と決裂したとか。そういう、本当に小さな、でも本人にとっては一大事で、棘みたいにずっと抜けずに、忘れられずにいること」
胸に手を当てて苦笑しながら愛理さんの語る言葉に、ヒデちゃんも含めて、何人かのお客さんが深く頷いていた。自分の中の痛みに、きっと誰もが心当たりがある。あやめさんと満月さんは、何かに打たれたように背筋を伸ばして愛理さんを見つめていた。
「今も、向き合って答えが出せた訳じゃない。これからも悩み続けると思う。
けれど、Mishaはそんなあるがままの僕に、向き合った『今』の僕に、“声”をくれました。本当はきっと、こんな場所に立つことも、喋ることも、怖くてたまらないはずの彼女が、僕の“声”になってくれると言った。
……そのことにすごく胸を打たれました。今日はどうか、そんな彼女の勇気を見てあげてください」
頭を下げた愛理さんに、大きな拍手が湧き起こる。
ここにいる人たちは、みんなあたたかい。優しい人しかいない前で歌っているのだから、優しい反応が返ってくるのは当たり前なのかもしれない。現実の世界に出れば、もっと厳しい反応が待っているのかもしれない。
でも、まずはここを第一歩にすると決めた。今は、目の前にあることをやるだけだ。MCの間に程よく冷えた体で、私はマイクスタンドへと進み出た。
ふと、カウンター席に座ったあやめさんと目が合う。気のせいかもしれないけど、ほんの一曲の間にあやめさんの目の色が変わった気がした。穏やかさの下に隠してはいるけれど、ただの聴衆ではなく、一人の人間の獰猛な感情が、目の奥に見え隠れする。
悔しい?——でも、もう遅い。今更絶対に、渡してなんてやらない。
派手に鳴り響くギターのイントロ直後に、いきなり置かれたサビのメロディを、夏空の彼方へ弾けさせるように歌い出す。三曲目の『あの夏には色がない』。無色透明をテーマにした曲なのに、乱れ撃つようなピアノとギターの音色の中には、見えないからこそ鮮烈に輝く感情が潜んでいる。まるで、昔から激しい感情を向け合っていた、誠さんと愛理さんみたいに。
あの日 ビー玉を含んだまま 口付けを交わしたね
飲み込んでいく冷たい味 舌が痺れそうになる
舌先に映った世界を 今もまだ覚えてるかい
透明な窓から出られず 泣いていた
ガラス玉の内側と外側で 僕ら見つめ合っている
あの頃も この今も 透明で色がない
空っぽのまま 大人になってしまったね
それでも傍にいる 傍にいる
僕らの青は 掌の向こうに
蠱惑的な歌詞でも、サウンドは爽やかになるように、改良を重ねた。芯から響くように淡々と歌えるマロンの歌声も、この曲にきっと合うだろう。
けれど今は、私の歌だ。出来るだけ感情を込めすぎないように、歌の向こう側には私じゃなく愛理さんと誠さんが映るように、そう祈りながら一点を見据えて声を放つ。
あの頃の思い出は宙に浮いて、置き去りになって、それでもすぐ隣り合った場所に二人はいる。手を取り合うとか、恋をするとかいう分かりやすい形じゃなくても、ただ大きな感情を抱えて、やり場のない傷跡を抱えて、それでも傍にいられるはず。
気が付けば私は、祈るようにマイクを握りしめていた。溺れるように喉元が苦しくなる。
ガラス玉の残響と反響で 僕ら永遠の夏にいる
あの木々も この蝉も 透明で色がない
空っぽのまま 大人になってしまったね
それでも藍はある 藍はある
僕らの棘は 心臓の向こうに
抉り取った四角に 青い空が見えた
振り翳した銀の凶器と 割れない雫の塊
私の目にも、脳裏にも、二人がずっと手を翳して焦がれていたであろう青が見えた気がした。涙は枯れない。涙の粒は、硬いビー玉のように砕けない。脆く儚いはずなのに、決して壊せない。だってその内側には、閉じ込められた藍が——愛があるから。
「鈴木愛理という存在は“愛”だ」と語っていた、誠さんの声を思い出しながら、最後のサビを歌い上げた。最後の遠ざかるギターの残響を追い掛けるようにして、私は片腕を天井に向かって伸ばしていた。
そこは古びたガレージを改装したバーで、青空も日の光も見えるはずがない。それでも、さっきまで私には見えていたのだ。草いきれの中を、手を繋いで、夏に向かって走る二人の姿が。
吸い込んだ酸素が脳に戻ってきた瞬間、私は拍手の音で我に返った。息を吸っているはずなのに、油断したら窒息してしまいそうだ。
瞬きすら忘れて呆然と聴衆を見渡す私の肩を、とっさにカウンターを飛び出した愛理さんが支えて、水を渡してくれた。
「最高だよ。大丈夫?」
「は、はい……なんとか」
それがこのステージに立って以来初めて出た、私の歌以外のか細い声だった。
次の曲がかなり穏やかめではあるから、大丈夫だと思うけど、三曲歌うだけでこんなに激しく消耗するとは思っていなかった。リハーサルでは平気だったのにな。
私の息が整うまでの間、誠さんが繋ぎで、ぽろぽろと適当に何かをキーボードで弾いてくれていた。こういうところが、愛理さんに昔から如才ないとか天才だとか評される所以なんだろうなと思う。
音が静かになるにつれて、照明がだんだんと暗くなり、私は胸の前で手を重ね合わせた。四曲目は、祈りのバラード。『The last seed』。目を閉じ、星影にそよぐ花々を思いながら、私は唇を開いた。
赦しとか、愛とか
本当はこうしてあげたかった、とか
零れてくものは一瞬である、とか
包み込む、とか 過ちはしてもいい、とか
激しさの中にもわかり合いたい思いがある、とか
本当は包みたかったものが 僕にもある
静かに降る夜の雨とか 子供部屋に寄せる足音とか
花瓶の向こうに思うのは 飾るべき花を
手折って震えたあなたの掌
不思議な感触だった。私は歌っているだけなのに、それを聴いて受け止めてくれている人たちと、どこかで繋がっている感じがする。これが、誠さんの言っていた「言葉にならない」ライブの感じ、なんだろうか。
愛理さんは、こういうのを面と向かって母さんに言うのは無理、と言っていたけど、だからこそ私は曲にしてあげたいと思った。面と向かえなくても、歌なら届けてあげられる。今はここにいない麗香さんまで思いが届くように、と祈りながら、私は愛理さんの作った歌詞に寄り添った。
もう一度育ててあげたかった
たとえ枯れるまでの間でも
覚悟さえあれば 何かが変わったのかな
身勝手な「もしも」は きっと意味ない
それでも声を吹き込みたい しおれ尽きた花に
はたと上げた瞳 降る種子が
「信じてる」って 僕にそう呼び掛けてた
暗がりの中、曲に合わせて揺れていた満月さんの目が微かに見開かれて、涙で潤んだ気がした。
「今はもう大丈夫」と満月さんに言われた言葉を、愛理さんはきっと受け止めてあげたかったのだろう。恋人としては上手く関係の中に留まることが出来なかった愛理さんと満月さんの間にも、きっと愛はあったのだろう。それは、長年しこりを残したままだった、愛理さんと母親の麗香さんの間も同じだったと思う。
同じ花でも 二度とは蘇らない
命は短い だからこそ愛おしい
地を変えて なお咲こうと 強かに陽へ向かう君が
タイトルを『The last seed』にしたのは、この世の誰もが、最初で最後の花の種だからだ。いつかは枯れ、死んでいく。望まぬうちに刈り取られて花瓶に生けられたり、合わない環境で咲くこともあるかもしれない。それでもその度、新しい形で誰かと互いを思い合うことはできる。いつか死ぬ、だからこそ、愛すべきものを愛せる瞬間に、後悔は残したくない。
静かな曲でありながら、愛理さんの綴った歌詞には、そんな感情と、離れた人の背を優しく押したい心が、張り裂けそうなほど綴られていた。それを丁寧に、柔らかい音色で包みながら、私は歌っていく。
静かなピアノと共に、波が引くようにして曲が終わる。客席から、小さく啜り泣く声が幾つか聞こえた。大きな拍手が、小さなお店いっぱいに鳴り響いていた。
「早いもので、次が最後の曲になりました。
この曲だけは、僕もギターとコーラスで、参加したいと思います」
照れたような顔を浮かべた愛理さんが、スタンドに用意していたギターのストラップを肩に掛けながら、私の隣に並ぶと、また小さく拍手が起こった。それを見た琢真さんの「よっ! 待ってました!」という掛け声と、「うるさい」と言い返す愛理さんの応酬に笑いが巻き起こって、湿っぽくなっていた場内の雰囲気が一気に和む。
ヒデちゃんがセットしてくれた二つ目のマイクスタンドの前で、愛理さんは顔を上げた。
「これは僕らなりに、前を向こうって思いながら書いた曲です。過ぎた時間は戻らないし、過去も変えられない。この胸の痛みや悩みが消えるわけでもないけれど、でも僕らには『今』がある。『今』を頑張ったからって報われる保証はないですよね。だけど一生懸命『今』を積み重ねたその先に、自分だけの航路が切り開かれてるって、僕は信じてます。
聴いてください。『Blue Pride』」
愛理さんのコールに合わせて、一気にドラムとギターの音が盛り立てる。琢真さんが知り合いのアーティストさんに声を掛けて生録りに協力してくれただけあって、スピーカーから流す録音とはいえめちゃくちゃいい音だ。
拳を突き上げるお客さん達に向かって、私はスポットライトの中で声を上げた。
世界中の涙が 集まって会議をした
そんな
ひどく暑いねえ こんな蒸す夜空はさ
そう声を掛けた 一人の渡し守
Aメロの途中から、愛理さんがコーラスで入ってくる。手元は簡単なリードギターのフレーズだけだけど、それでも弾きながら歌えるんだからすごい。まだほんの少し照れたようなその声音を、引っ張り上げるようにして私は声を重ねる。さっきまでのバラードとは全然違って、荒くれ者の船乗りを想像しながら、私は「僕」を演じる愛理さんと、掛け合いをする気持ちで歌った。
向こう岸に立つ人に 何が何でも会わせてくれよ
馬車馬みたいに働いた 船賃はここに
桟橋掛けて縋った僕から 船頭金貨を投げ捨てた
そんなに必死でどうすんだい?
行き先が決まってちゃ 勿体無いだろう
サビに向かうにつれ、壮大な天の川を目の前に広げるように、パーカッションの音が波音になってこの小さな箱を包み込んだ。ここは、星屑の宝石煌めく空の川。彦星と船頭をモチーフにした曲。けれど、ロマンチックに渡ろうとしたって、ただじゃ済まない。捻くれた自分自身に笑いながら、私はマイクに声を吹き入れた。
何てことすんだ 怒鳴り返す僕に
問答無用で 船は動き出す
涙の流れる川を あらぬ方へ
塩粒の結晶は ダイヤ100個分の高級品さ
君を縛るあいつへの 置き土産にゃ丁度いい
少し走り気味にはなるけれど、愛理さんとのハモリが心地よく響く。確かに、音楽を作った経験は私の方が多かったかもしれないけれど、今私は、「音楽が憎い」とまで言った人と、そして「音楽で殺したい」とまで思っていた人と、三人で音を通して繋がっている。きっと世界中で、誰も真似できない。
他の人が私たちをどう思うかなんて知らない。でも、今、ものすごく楽しい。そんな気持ちが、マイクの前で弾け飛んで歌になる。もっともっと歌いたい。
二番の歌詞で、船の櫂を投げ捨てた「僕」は、いつの間にか空に川から海に降りていく。地図もなく、自分の手の力で漕がなきゃならない。そんな無情とも言える人生の旅路を思いながら、それでも失えない生きる意志を、そして自分とは違う航路を泳ぐ「誰か」への期待を、マイクの順をパスした先のCメロで、愛理さんは思いっ切り歌い上げていた。
容赦ない海原は ひどく苦しく無限に見えるけど
僕はここにいるから
逆立ちしてみたら見える空に 君も生きてて欲しい
鏡を映したみたいでも 空と海は違うけど
多分 水平線の閉じる先で 繋がってる
ライトを見上げた愛理さんの首元から、ネックレスみたいに汗の滴が落ちる。
気が付けば、他のお客さん達と一緒に、あやめさん達も泣きながら笑顔になっていた。もうあなた達に、愛理さんを可哀想なんて言わせない。そう思って歌っていたはずなのに、最後はどうしてか、やっぱり笑顔になってくれてよかったなんて思ってしまった。
何で僕は居んだ 水を掻いた手は
無我夢中で 船を漕ぎ出だす
理由の知らない海を 思う方へ
走る波を乗り越えりゃ 人の理由付けなど聞こえないさ
いつの間にか僕達は 空から海に旅をした
これからも続く航海を予見させたままで、夜明けの海を前に、爽やかに曲は閉じていく。口笛と拍手の鳴り響く中、私は泣きそうな顔で、観客席に頭を下げた。