僕と猫。   作:大野 紫咲

36 / 41
Day29.名残(enc.)

「アンコール! アンコール!」

「アンコール! アンコール!」

 

 暖簾の後ろのあるバックヤードまで下がって、ほっと一息つこうとしていた私の耳に、思いもがけない歓声が届いて私は固まった。

 

「わお。ぼくが予想した通りだったね。すごい人気だ」

 

 影から会場を覗いた誠さんが、ひゅうっと口笛を漏らす。小規模のお店の中、見知った顔ばかりとはいえ、その声援と手拍子は熱気を孕んでいて、全身が砂浜にいるみたいに熱くなっていくのを感じた。アンコールを覚悟しておけ、と誠さんに言われて、そんなバカなと思っていたけれど、いざこんな事になると、嬉しさを通り越して慌ててしまう。

 けれど、私よりもっと慌てていたのは、多分愛理さんだろう。

 

「えっ……! あ、あの! 嬉しいんですけど! 本当に今日演奏する曲ってこれしか練習してなくて! なんかあのー、アンコールって言われても、もう一回同じ曲を弾くことに……なっちゃうんですけど」

 

 馬鹿正直にしどろもどろで話しているのが聞こえてくる。

 誠さんと目を合わせた私は、覚悟を決めて一つ息を吐くと、素早くスマホを打った。すぐにポケットの振動に気がついた愛理さんが、メッセージを読み上げる。

 

「えっ……? 『今日のために、アイリスに言わずに用意してきた曲があります。それでよければ、アンコールで歌わせていただきたいです』……??? あっ、あの、そういう事らしいです! とりあえず曲があるそうなので、もう一度呼んでみたいと思います!」

 

 愛理さんには何も言っていなかったので、混乱しているのも無理はない。なぜならこれは、私が誠さんに手伝ってもらって作りはしたものの、本番では全く歌う予定のなかった曲だからだ。

 もう一度、背を押されるような皆のあたたかな拍手に迎えられて、私は緊張しながらもマイクの前で頭を下げる。既に話を通されていた琢真さんが、黙って親指を立てると、パソコンを操作して音源を流してくれた。

 

 波音と、どこか懐かしさを感じるゆったりしたテンポのイントロが流れ始める。

 けれど……何度も聴き慣れた曲のはずなのに、幾筋も集中する期待の視線を真正面から浴びた途端、私は声が出なくなってしまった。

 

「っ……」

 

 様子を察した琢真さんが、慌てて音源を止める。しんとなった空間に、自分の呼吸と心臓の音だけがやけに大きく響く。

 掠れた息の根を発する喉に、指先を当てた。さっきまであれだけ大きな声で出ていたのだから、歌えるはずなのに。泣きそうな顔で顔を上げると、私を待ってくれている様々な人たちの表情と目が合った。

 見守るように優しい目をしてくれている、両親や友人。ほんの少し訝しげな顔で待っている、近隣のお客さん達。ただ、静かな瞳で私を見据えている、あやめさんと満月さん。固唾を飲んだ様子で、祈るように私の方を見つめる愛理さんを、私は泣きそうになりながら、最後に見た。

 

「……」

 

 ここで歌えない、と言っても誰も責めることはないだろう。あの五曲で十分だった。いや……十分どころか、むしろ私がここで歌ってしまったら、邪魔になるのかもしれない。そう思いながら、私はサンダルの足元へ俯いた。愛理さんと出掛ける時、何度も勇気をくれた、シルバーのストラップサンダルが目に映る。

 ここまでの五曲は、全部「愛理さんの人生」になぞらえて用意した曲だ。でも。

 このアンコールは「私たちの」曲だ。私と、誠さんと、愛理さんの、三人の願いを込めた曲。だから、最後まで歌うことを躊躇っていた。求められなければ歌わないと決めて、それでもいざアンコールを受けたら、ライトの下に立った瞬間、この声が湿気った角砂糖みたいに喉で固まってしまった。

 私が——愛理さんのことを、どうしたいのか。どうあって欲しいのか。

 それをこの曲で歌ってしまったら、折角美しい形で閉じた本編のプログラムに、ノイズを混ぜてしまうのじゃないか?

 私がそれを歌ったら、結局はあやめさんや満月さんと——愛理さんを救わなかった人と、同じになるんじゃないか? 愛理さんを理想の姿で縛り付けて、ああして欲しい、こうして欲しいって押し付けて。所詮、こんなの私が気持ち良くなるだけだ。

 そんな事を思ったら、体が冷たくなって、全身が氷の塊みたいになる。どうしても歌えない。

 いつまでも黙っている私のことを、見ている人も段々変に思うだろう。ぎゅっと、見えない視線の蔓で縛り上げられた喉と脚が苦しい。大きな氷の槍を、何本も喉元に突き付けられているみたいだ。

 震えながら、縋るようにスタンドのマイクを握って目をつぶった時だった。

 ちりりん、と場違いなほど軽やかな音が、玄関の方から響いた。

 

「……?」

 

 閉鎖されていたはずのバーの入り口を、お客さん達が不思議そうに振り返る。

 猫脱走防止に立てられたフェンスと、玄関口のガラス扉の間に、背の高い人影が見えて、みんなざわついた。その人は、頭に狼の被り物を被っていたのだ。

 

「え……え?」

「誰?」

「なんか、こういうバンドグループいたよな?」

 

 ひそひそと、笑いと好奇心を交えながら会場の雰囲気が弛緩する。確かに、メンバー全員が被り物をして顔出しせずに演奏するバンドっていうのも、現実に存在する。でも、そうじゃない。だって、首から下はブルーのシャツに紺のスキニー。それは紛れもなく、さっきまで私の後ろでキーボードを叩いてくれていた、誠さんの格好だったから。一階の裏口から、お店の外を走って玄関まで回ってくれたのか。あの被り物も、倉庫の中で見つけて来たのかもしれない。

 息を飲んでいる私たちの前で、棒立ちだった狼人間こと誠さんは、ばっと私の方に向かって何かを掲げた。私が曲作りや調べ物でよく使っていた、タブレットのようだ。ここからバーの入り口まで少し距離があったけれど、そんなに視力が悪くない私には、金網越しでもよく見える。真っ白な画面に、おそらくは誠さん本人の手で書かれた、太いペンの筆跡でたった一言。

 

『SING(歌って)』

 

 それを見た瞬間、心臓の音で破裂しそうになっていた体の内側の圧力がふっと下がって、止まっていた時間が流れ出した。

 そうだ。いつだってそうだった。声が掠れてイマイチだった時も、よく響いた時も、これはちょっと微妙だなって辛辣な評価をもらった時も、今のはいいって笑ってもらえた時も。全部、そこには歌があった。

 歌い出してしまえば、止まれない。それが良い結果になろうと、悪い結果になろうと。だから、私の想いが愛理さんに届くかどうかも、それを聴いた愛理さんが良いと思うか悪いと思うかも——歌ってしまえば、もう何も関係ないんだ。

 だって、メロディーで掛けた橋の先にしか、どんな結果も存在しないのだから。

 立ち止まっていたら、落っこちることはない。けれど、ここで立ち止まっているのは嫌だから、だから私は、マイクを握ったんじゃなかったのか。

 

 私は、指が強張りそうなほど硬く握りしめたままのマイクから、一度両手を離した。手首に付けたままだったヘアゴムで、ボブの後ろ側を括る。ポニーテールと呼ぶには短すぎるけど、気持ちを切り替えるには十分だ。

 いけます、と琢真さんに目で合図してから、もう一度流れ出したイントロを耳に、私は深く息を吸った。歌おう。この水底深く潜る人魚になって、波に乗せて音を届けることだけを考えながら、私は歌おう。そう思った途端、澄んだ音が喉元から流れ出した。

 

  淡空(あわそら)に舞った君の鰭が 虹を描き出した

  追い風抱いた鴎と 遊ぶみたいに

  日焼けなんて気にしないよと 冷えた鋼の鱗が

  ソーダみたいに弾けて 僕に居場所を教えた

 

  船の上しか知らない僕を 連れ出してくれた

  波間に光る宝があること 教えてくれた

 

  ハートビートが響いたら 水飛沫を混ぜ返せ

  泡いマントの向こう側に 翻る心

  胸に詰めた幸せは 星の砂袋みたく重いのに

  この歌はなぜ 軽く遠く響くんだ

 

 サビに入ってから、私は大きく世界に向かって手を振る。愛理さんが、大きく目を見開いているのが見えた。

 この曲は、愛理さんが本編の曲では没にした歌詞をメロディーに付けて作り直したものだった。素敵だったから、どうしても無駄にしたくなかったのだ。

 本当にいいのかな……と思ったけど、誠さんに乗せられて、気が付いたらあれよあれよという間に曲が出来上がっていた。そして、歌い始めてみれば、心はさっきまで怯えていたのが嘘みたいに、うんと自由だった。

 愛理さんに、思う通りに生きて欲しくて、作った歌だった。今まで愛したもののことも、これから愛するもののことも。時の彼方に、もうあなたを閉じ込めたりはしない。船の上しか知らないならば、私が海の中を教えてあげる。

 好きに生きていいよ。私はここで、いつだって叫んでいるから。

 傲慢なほどの思いを抱えながら、私は水底でまっすぐに顔を上げて、歌い続ける。

 

  走り出すエンジン音に この鼓動が重なった

  不器用な帆を励ます 風を追うみたいに

 

  「ありがとう」を憚る僕ごと 飲み込んだ海で

  心に放つ言葉があること 教えてくれた

 

  シンドバッドの行く先は 航海路も知らないで

  踊る踊る渦の中に 千切れ立つ(みさお)

  音に絡む秘密は 貝の唇みたく結ぶのに

  この歌はなぜ 僕は僕と叫ぶんだ

 

 二番のサビが終わって感傷を増幅するみたいに、エレキギターの独奏が響く。

 「自由に生きてほしい」と願うことさえ、誰かを雁字搦めにする呪いなのかもしれない。呪いと書いて「まじない」と読む。愛理さんの心の中を、私は覗き込めない。本当に進みたい道を、望む場所を決めるなんて愛理さんにしかできない。

 それでも、たとえどんな秘密を内側に秘めたあなただとしても、自分を偽らずに生きていって欲しい。この世界であなたの感じる息苦しさを、吐き場のない理不尽で醜い感情を、こっそり教えてもらえた私は、とてもとても嬉しかったから。

 

  泣きじゃくる擦り傷に 塩水が染み入って

  ひりつく痛みの深い奥に 背けたい心

  だけど抱き締めていく これが縺れた僕の姿だって

  君となら荒立つ波も 愛と呼びたいから

 

 誠さんのシンセサイザーが描く神秘的な音の世界で、Cメロを力強く歌い上げたまま、私たちは最後のサビに突入した。

 ふとその視界に映った愛理さんが、両手を口元に当てて堪えきれずに泣いているのが目に入った。その雫さえ、きっと今日の私たちにとっては、永遠を映す水鏡になる。鰭を翻した人魚に導かれて、海の深くへ去っていく愛理さんの姿を想像しながら、私は華々しいトランペットの後奏に包まれたまま、お辞儀をした。溢れるような拍手の音と、口笛の音。足元に確かに、波の気配を感じられた気がした。

 

「っ……Mishaです! 今日は来ていただいて! 本当にっ、ありがとうございました!」

 

 その日のステージで、歌ではなく、初めての“声”が私の喉を裂いて生まれ出た。

 どよめきが巻き起こり、再び拍手が一斉に贈られる。愛理さんは、涙を溜めた目でぽかん、と私を見ていた。その瞳に思わず笑い返しながら、私は汗を拭って、集まってくれた十数名の観客達に向き直る。

 

「あ……っ、い、今の曲は、『fin-ale』という曲です。英語で、魚のヒレを意味するfinに、終わりを表すフィナーレをかけて、こんなタイトルになりました」

 

 時々裏返りそうになるけれど、なんとか喉に刺さろうとする槍を凌ぎながら喋れている。まだだ。まだ、伝えたいことがある。

 言葉が止まってしまわないように、視線の圧力を押し返すつもりで、私はお腹にいっぱい力を入れた。

 

「今日の……ぷ、プログラムの進行は、私と、アイリスと、それからキーボードを担当してくれた方と、三人で決めてきました。空の下には花が咲いて、その花に空から雨が降り注いで……そして、雨が作った川を、天の川から船に乗って進んだ私たちは、最後に海に辿り着きました。

ここまでの旅路に、ご同行くださったみなさん。本当に、ありがとうございます」

 

 一瞬の思い出も、そこに宿る永遠も。思い切って全部を描いて手に入れようと思えたのは、ここにいる人たち全員に私が出逢えたからだ。反発を覚えることも、悔しくて負けられないと思ったこともあるけれど、その全部に、今私は感謝したいと思いながらここに立っていた。

 私はこの歌で、少しでも愛理さんに、人生のはじまりを告げることが出来たのだろうか。何度打ちひしがれても傷ついたとしても、そこで終わったりなんかしない、幾つでも作ることができる「はじまり」を。そう思いながら、私は胸元の青いペンダントに触れる。

 

「……実は今日、もう一つだけ、用意してきた曲があります。

これは、その。私がキーボードの方に手伝ってもらって、アイリスには内緒にしてました。今の曲もなんですけど。

でも今の曲は、アイリスが没にした歌詞を使ってて。けど、こっちは私が自分で書いたから、本当に何も知らないと思う」

 

 ひゅーひゅー、とどこからか囃し立てるような声が飛ぶ。

 完全にネタに上げられた愛理さんは、もう勘弁してくれといった様子で赤くなりながら、照れて顔を覆っていた。

 

「空から始まった旅だから、もう一度空から世界を見下ろせるように。そんな気持ちを込めて、歌いたいと思います。『夢中』」

 

 目を合わせた琢真さんが、曲を流してくれた。

 いきなり歌から始まる曲だから出だしが難しいけれど、私はもう躊躇わない。

 足が軽い。体も。目の前に弾けるプリズムを予感しながら、私は手を翳した。

 

  飛んできた夏風は いつだって僕の足元掻っ攫ってく

  ふわふわって浮いたハートが 青と白のスキマで一回転する

 

  空に舞った時 どうして世界はこんなに広く見えるんだろう?

  ちっぽけな街も人も 翳した掌の下なのに

 

 今までとは一転した、アップテンポで楽しげなメロディに、お客さんの手拍子が始まる。私が見てる世界を描きたい。その中にほんの少し、愛理さんへの気持ちも織り交ぜて。

 サビの中には、コール&レスポンスができる部分がある。英語の歌詞に合わせて、お客さんの中から声が飛んだ。もうラストの一曲だけれど、途中から駆けつけてくれた幸さんが、フェンスの後ろの方から一生懸命ジャンプして手を振り上げてくれている。

 

  掴んだ風船の端 離さないでいてね

  隠れんぼした心は もうおしまい

  SWING! JUMP! まっすぐな気流に乗って

  空へ打ち上がるの もう怖くはない

 

 夢を見るって、本当にこんな気持ちなんだろうか。

 実際に立ってみるまで、空気を肌で感じるまで、私は知らなかった。歌っているのに、ステップを踏んでるみたい。みんなが浮き足立ってるのがわかる。

 

(ああ、終わりたくないなあ)

 

 体はへとへとだけど、この時間がずっと続けばいい。終わってしまったら、また始めればいいってわかっていても、今ここにいる人たちと声を上げて、手を叩いている瞬間が、もう二度と帰ってこないのかと思ったら、こんなにも名残惜しい。

 私の気持ちがプログラムの邪魔になるんじゃないかなんて、もう考えている余裕はなかった。今のこの場所を全身全霊で味わい尽くしながら、ただ大切な人へ伝えたいと思う私の胸の内側で、キラキラした気持ちが反射する。

 

  砂の中の一歩も 雲を掴む一切れも

  きっとちっちゃい 味もしないくらい

  でもそのSTEPが 大それた旅になる

  もう誰にも 文句なんて言わせないから

 

 最後のサビに向かって走りながら、私は来てくれたお客さん達と一緒に飛び跳ねた。きっと今ここは、私だけの空だ。歌が翼を授けることも、歌のおかげで会いたい人にすぐ会えることもないけれど、それでも歌が空を駆ければ、何かと何かが繋がっていく。わくわくした気持ち。酷く傷ついてしまう気持ち。それは目には見えなくても、確かにそこにある。光や空気と同じように、走って触れれば、この身を駆け巡って「自分」にしてくれるのだ。

 

  心臓になら 答えが言える

  何度でも打ち上げよう 私の空に

  虹が見えれば 翼が生える

  “夢中”にいよう いつか ホンモノになるまで

 

 最後の最後、出だしと同じようにボーカルの声で終えるラストは、尾を引くこともなく唐突だった。

 それでも、最後まで歌い切った興奮と、鳴り止まない拍手の残響で、この胸は暴れている。

 胸に光る宝石を両手で押さえるようにしながら、私は今度こそ終幕の挨拶をするために、あらゆる方向に向かって頭を下げた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。