僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day30.握手(前編)

 美沙ちゃんの歌声初お披露目ライブが終演を迎えた後の、バー「猫の眼」。

 残った有志で、ちょっとしたお疲れ様パーティーが開かれていた。ゲストハウスのお客さんも、何なのかよく分からないながらノリで混じっていたりするので、狭い会場は人が入れ替わり立ち替わり、とても賑やかだ。ヒデさんや琢真たちが注文してくれたケータリング料理、あやめや幸たちの持ち寄ってくれた差し入れのお菓子が、通常営業モードに戻ったバーのテーブルにはところ狭しと並んでいる。美沙ちゃんの作った曲や翠涙の曲が、BGM代わりに音量を落としてスピーカーから流れている中を、みな自由に立食形式で行き来しながら、食事やおしゃべりに興じていた。

 

 その一角で、人々の間に立つ深緑色のワンピース姿の人間を、僕は見つめた。

 シンプルなデザインで、そこまで華美な感じはしないけど、腰からAラインに広がる裾は、幾つになっても君に似合っている。自分はこれを着るに相応しい人間なのだと、いつの間にかそんな頼もしい自負さえ感じられるようになった背筋の伸ばし方で、シャンパングラスの中の飲み物を揺らしていた彼女は、ふとうなじを照らす眩いライトの下で僕を振り返ると、グラスを置いてゆっくりこちらへ歩いてきた。

 

「……久しぶり。愛理」

「うん。久しぶりだね」

 

 アップにした栗色の髪に、イヤリングを揺らしながら、あやめが微笑んだ。

 コロナの前にルームシェアを解消して以降、あやめとは会っていない。Traditional Lilyのライブにも行ってない。電話で話した事くらいはあったけど、まともに顔を合わせたのは、もしかして五年ぶりくらいじゃないだろうか。

 たかが五年、されど五年。感染症による社会の変容や自粛の中、お互い目まぐるしく変わったところもあれど、何故か全然、久しぶりって感じはしなかった。

 それどころか、僕は目の前の彼女に、10年以上前に初めて会った時の、まだ大学生だった初々しいあやめを重ねてすらいた。上手く言えないけれど、きっとこれが僕の——鈴木愛理のまなざしが捉えた、吉村あやめの“本質”なのだろう。

 別れる間際は相手の目をまっすぐ見ることすらおぼつかなかった僕が、真正面から微笑んでいるのを見て、あやめの方が照れたように綺麗な指先へと俯いた。

 

「髪型と髪色、変えたのね」

「うん。ま、ちょっとしたイメチェンってやつ。気分を変えたくて」

「それに、ピアスも。なんだか意外。前は怖いって言ってなかった?」

「うん。結局今でも怖いままだったけど……それでもどうしても試してみたかったから、何とかね」

 

 誠の前で大暴れした日のことを思い出して、僕はちょっと苦笑した。

 不安定な思春期を送ったせいで、自傷行為に関する厄介な癖と二重人格が生まれてしまったことを知っているあやめは、僅かに驚いたように目を見開いたけれど、すぐに柔らかく微笑んだ。少し迷ったような、寂しげな色が瞳に浮かんでいる。その“空気”を察するのが、僕は嫌だった。僕がすごく鈍感とかならともかく、察せてしまうだけに、君が上手く僕をコントロールしようとしているように感じていた。

 君も僕も、顔色伺いが得意なところは、昔から似ていたはずだったのに。

 どうして、君だけが先に行ってしまったのだろう。どうして、君とは上手くやっていけなかったのだろう。

 でも、それも今、考えるだけ栓の無いことだ。

 

「曲……すごく、よかった。私は愛理みたいに言葉が豊かじゃないから、上手い言葉で感想を伝えられないんだけど……とにかく、すごく感じるものがあって。体の奥底まで、あの子の……曲に携わった全員の、情念が入り込んでくるみたいな。嬉しいとか悲しいとか、ズバリ言われてる訳じゃないのに、目の前に見えてる風景が……全部なんだって、思った」

「それはよかったよ。まぁ、僕はそんな大した働きをした訳じゃないんだけど。でも、感情を文字や小説以外で伝えるって、僕にとってもすごく新鮮な体験だった。あやめや皆はいつも、こんな感覚を味わってるんだね」

 

 ふと、自分からするりと滑り出てきた言葉に、自分でもびっくりした。

 絶対に、理解なんかしてやるものかと、思っていたはずなのに。君を奪っていった音楽のことなんて、知りたくなかった。いつまでも、耳を塞いでいたかった。けれど、僕は僕の音楽を理解することで、いつの間にか少しだけ、憎んでいたはずの君の世界とも、繋がっていたらしい。

 瞳を潤ませたあやめが、僕の顔をじっと覗き込んだ。

 

「ねえ。……私ずっと、愛理のこと傷付けてた?」

「……」

「間違ってたらごめんなさい。私……私、自分が自分の生きたいように振る舞えば、その過程で必ずこの世界の誰かを傷付けてしまうのは、どうしても避けられない事なんだって、今は思ってる。……思ってて、割り切れてたつもりだったし、その分の覚悟は背負えてるつもりだった。でも今日の歌を聴いて、もしかして私は全然……わかってなかったんじゃないかって思ったの。愛理の痛みも、愛理があの頃、本当に私に対して伝えたいと思ってたことも」

「あのさ。お互い様だよ。僕だって君を傷付けた。

君は広い世界に出て行くことに躊躇がなかったし、僕は日和って安定を望んだ。どこか君のことを……自分と違う道を行こうとしたからって、下に見るようなことばかりしてたのを、今では悪いと思ってる。だんだん君が、僕の思惑を外れていって。そのくせ、君の方が自力で、人の注目も賞賛も浴びる仕事をしてる。僕は、僕のできなかったことを成し遂げた君を、妬んでただけだ」

「そんなの、私だって同じじゃない。百%の力で背を押してくれないからって、愛理のことを味方じゃないみたいに思ったり、あなたらしくもないって責めたりして。……離れてみてわかったの。本当は私なんでしょう? 愛理のことを、“愛理じゃない人間の形”に縛っていたのは」

 

 泣き虫な君の頬を、盛り上がった涙が滑り台みたいに零れ落ちていく。

 苦笑いを浮かべながら、僕はきめ細やかな頬にそっと触れた。

 

「僕は、僕だよ。僕らしいと言われる僕も、そうじゃない僕も。この自分でいるってその時に決めたのは、僕自身だ。君のせいじゃない」

「でも……」

「離れてみて、お互い自分らしく輝いていられるなら、それでよかったんだ。

可笑しいよね。昔は僕の方が、世界中あちこち旅して畏れ知らずだったはずなのにさ。逆になっちゃったみたい、僕ら」

 

 人生、何があるかわからないものだ。

 だからあの時、あやめに初めて好きだと告げられた時も、恋人以上になりたいと望まれていた時も、なんだかんだで彼女の傍にいる事を選んだ自分に、呆れながら自嘲していた。いつか痛い目を見るぞって。

 でも、実際こうして関係が深まるにつれて、上手くいかなくなって別れて。それ見た事かとか、やっぱりダメだったって、自分に対して思うかと思ったけど……そうはならなかった。ただ、お腹の底に空いた穴を吹き抜けるような寂しさと悲しさが、残っただけだった。

 たかが自分の傍にいた人間一人、しかも暮らすうちにストレスすら感じるようになった相手を失ったくらいで、生命力も何もかも奪い尽くされたみたいな腑抜けになる自分が、嫌だった。こんな自分ではなかったはずなのに、と思うことすら嫌で、狼狽して。一人でいるうちは矛先を全部あやめに向けたまま、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、色んな人を巻き込んで傷付けて、川底に激しく身を打ちつけながら擦り減る石みたいにして過ごしてきた。

 それはすごく——苦しい時間だったと思う。けれど、苦しかったねと自分に言ってやることすら、僕はできなかったのだ。レイと出逢うまでは。

 そんな僕の感情を知らないはずのあやめは、けれど知ってもいるような寂しげな微笑をどうにか浮かべながら、涙で揺らめいた柔らかな茶の瞳を僕に向けた。

 

「愛理は……今でもきっと、私のこと、憎んでるわよね」

「憎んでるのかって言われたら……言ったろ。僕は初めて会った時、君がアメリカのアパートで目の前に現れたあの瞬間から、ああ苦手な奴が来たって思ったんだ。

僕の物書き部屋に勝手に踏み込んできた君の、好意と憧れを履き違えた友達ごっこにうんざりして、君の顎先を引っ捕まえたあの時から……僕の分身みたいな君の相手なんか御免だって、ベッドに引き摺り倒したあの時から……僕はずっと君が嫌いだ。大嫌いだ。

嫌いになったのが、時間を掛けて大好きになって、それからまた嫌いに戻った。それだけの話だよ。でも」

 

 止めどなく涙を溢すあやめを、僕は狭いバーの片隅で、ホワイトボードの影に隠れるようにしながら抱き締めた。

 「嫌い」という感情は、好きと同じくらい厄介だと思う。敢えて言葉にしなかったけれど、初めて君に会った時に感じた「嫌い」と今の「嫌い」は、同じに見えて全然違うものなのだから。

 

「でも僕は、もうそんな揺れ動く天秤みたいに、いちいち感情を定義づけるのはやめたいんだ。君を嫌いな僕も、君を好きな僕も……全部僕だ。そして僕は今、君の目の前にいる。それだけでもう十分なんだって」

「愛理……」

「勝手でごめん。でも、美沙ちゃんが歌ってただろう。今の僕ができるのは、離れてても君を想いながら生きることだけだ。それは結婚とか交際とか、わかりやすい形での示し方ではないけれど、生涯君と、君の歌を忘れずにいることも、僕にとっては愛だと思う」

「そんな……なんで、そんなこと言ってくれるの。今更」

 

 震えるように、ワンピースの袖の下の白い腕で僕を抱き返したあやめの体温は高かった。何度も触れて、この指先も皮膚も感触を覚えている。こんなに時が経っても、今僕の傍にそれがないのが不思議に思えるくらいに。それでも、この温もりは、今は僕のものじゃない。

 涙で光る瞳を上げながら、あやめが幼子のように手で目元を擦る。

 

「私……今でもたまに、たまらなく懐かしくて死にそうになるのよ。海外でも日本でも、何度も一緒に住んだでしょう? 二人でいるところに、幸も押し掛けて来たりして。あの日々を焦がれる気持ちは、全部本当なのよ。

戻れたらいいって、ものすごく思う。私、本当にあの日々が好きだった。愛理となら何とかなるって……上手くいかなくなるだなんて、考えもしなかったの」

「わかるよ。僕もそう思うもの。

本当は、そういう未来もあったのかもしれない。たとえば、僕と君と幸が、三人で一緒に住んで、笑顔で暮らしていく、あの日々の延長線みたいな。僕らがいつも傍にいて、毎日がちょっとドキドキして、お互いを必要不可欠にしながら、支え合って暮らしていく未来が、あったのかもしれない。そうなれたら、一番よかったのかもしれない。

——でもね。もう、ないんだよ。あの時はあったのかもしれないけど、今はもう、それはどこにもない未来なんだ。」

 

 喉が引き攣るような声を上げて、嗚咽を押し殺しながら僕の肩に顔を埋めていたあやめは、不意にしがみついたままで言った。

 

「……愛理。私のこと、赦さなくていいからね」

「馬鹿。『赦さなくていい』なんて言葉を、軽々しく口にするんじゃない」

 

 僕の思いもがけず強い口調に、あやめは驚いたように顔を上げた。

 胸の内で弾けた気持ちは、怒りや苛立ちのようでもいて、衝動的に湧いた突き放すような言葉に僕自身がびっくりしたけれど、きっとこれは、以前の僕では吐けなかった言葉だ。

 

「いいか。赦すか赦さないかは、生きてる限り僕が決める。君が勝手に『赦さなくていい』なんて安直な言葉で、僕に押し付けて逃げていい権利はどこにもない。そんな、他人任せで投げやりで、上から目線な言葉に侮辱されるほど、僕は落ちぶれちゃいないよ。僕の知ってる吉村あやめは、そういう奴なのかい?」

「……」

 

 安っぽいプライドではあるけど、捨て切れずに胸の内で燃えて残っているもの。

 僕を対等に見ろ。哀れむな。見くびるんじゃない。

 僕らの歌に呼び起こされた言葉が、胸の内で叫んでいる。

 小さく弾けた火花を抑えつけるように、僕は自分の胸へ拳を当てながら苦笑した。

 

「この痛みは、僕のものだ。赦せない気持ちだってある。でも、どんなに痛くても、迷っても、これを抱えたまま僕は生きる。死んだら、『赦してあげる』ことすらできないんだから。そうだろう?」

 

 ああ。本当に面倒くさい人間だと、僕は思う。

 その拳であやめの胸元を軽く押すと、彼女はようやく、振り切れたように笑った。何も、痛みを抱えるのは僕だけじゃない。譲れない気持ちや、僕の知り得なかった痛みや感情が、彼女にもある。だからこそ自分で、この道を選んだのだ。

 遠くの方で、琢真や飲み友達が手を振って呼ぶのが聞こえた。

 

「さあ、行ってこいよ。僕はもう、失くしたものの重さで君を縛るなんて、したくはないんだから」

「あんな曲作っておいて、よく言うわよ」

 

 あくまで憎まれ口を叩きながら、僕を軽く小突くような真似をして笑ったあやめは、ワンピースの裾を翻しながら、フロアへと歩き出して行った。

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