まるで世間話のようなノリだったけれど、ぶっ飛んだ話題に僕はどきりとした。
初めて名城公園で会った時、まるで黒猫がそのまんま人間に姿を変えたかのような、真っ黒い服装と警戒心の強い姿を見て、実はこの子はレイが人間になったんじゃないかなんて、考えたものだった。
結局、ここで再会して名前を知って、この子は猫なんかじゃなくて普通の人間だとほっとしたけれど、それでもLINEのアイコンは猫だったし、猫みたいに喋らないしで、途中まで自分の馬鹿げた空想と疑いを捨て切れずにいたのだ。
けれど、美沙ちゃん本人にそれを言ったわけでもあるまいに、そんな心を読んだようなことを聞くなんて、まさか本当に、と狼狽える僕の前で、美沙ちゃんは淡々と続ける。
「私、本当は猫なんですよ。あの晩、夜道で助けてくれた愛理さんをどうしても傍で見守りたくて、夏の太陽にお願いして、一ヶ月の間だけ人間に変えてもらったんです」
「い、いやいやいや」
「声を引き換えに、変化の魔法をもらいました。毛皮と毛艶と引き換えに、人としての過去と両親をもらいました。尻尾と引き換えに、人間の体をもらいました。もう七月が終わったので、変化の魔法で人間から猫に戻らないと、私は消えちゃいます」
嘘にしては、設定が込み入りすぎている。
ごくり、と唾を飲んだ僕の前に、美沙ちゃんが立った。つま先とつま先が近付いて、僕を下から覗き込むように背を屈めた美沙ちゃんが、表情の読めない黒曜石のような瞳で、じっと僕を見上げてくる。
その時、初めて気がついた。今日の美沙ちゃんは全身、真っ白なワンピースを着てるってことに。今から空に帰る天使みたいだ。
「でも、愛理さんのおかげで一ヶ月の間に声を取り戻したので、おしゃべりができた代わりに、変化の魔法はなくなっちゃったんですよ。このまませめて猫の姿に戻ってこの世界にいられるようになるためには、私のお願いごとを成就させるしかありません」
「ま、まっ……!」
ずい、と見上げたまま詰め寄られて、僕は思わず壁の方へ一歩後ずさった。
身長162センチの僕よりも、美沙ちゃんの方が背は10センチぐらい低い。近寄られても顔と顔が近付くことはないのに、なぜか暴れる心臓を押さえながら、僕は陶磁器のように綺麗なその肌から、一生懸命距離を取ろうとしていた。
そんな僕を逃さないというように、澄んだ瞳がじっと見つめている。何の期待も意図もなく、ただ熱意を湛えてキラキラと陽の光に輝いている目は、鏡のように僕の姿を反射していた。
「私は、愛理さんに恩返しすることができたんでしょうか。本当は、助けてくれた分のお礼ができればそれでよかったんです。でも、本当はその前から、ちょっとだけ欲張りになってたのかもしれません。このまま、この人と一緒に生きていけたら面白そうだなって。私に飼い主なんて似合わないんですけどね。なかなか素直に言えなかったけど、楽しかったですよ」
「美沙ちゃん……」
くるりと、夕顔みたいな丸い裾のスカートを翻して、橙色の色彩を帯び始めた窓辺の光を浴びながら、美沙ちゃんは無邪気に笑った。リビングの床に立っているそこだけが、絵画の中のワンシーンを切り取ったみたいだ。
「でも……ふふ。不思議ですね。猫に戻ってこうやって言葉でお話することがなくなると思っても、あんまり悔いが残った気がしないんです。信じられないくらい、素敵な思い出ができたから。愛理さんと誠さんと出逢えて、あんな風に歌を、愛理さんの大切な人たちや、世界中に届けることができて。本当に夢みたい。
声が戻ったら人間じゃいられなくなるよって神様に言われても、やっぱり後悔なんてないです」
普段はにかんだような照れ笑いが多い彼女にはなかなか見られない、満面の笑顔。
それが余計に、本当に最後なのだということを表しているような気がして、僕は唾を飲み下したまま、彼女の姿を見つめ続けた。
「愛理さんは、私がただの黒猫に戻っても、私たちの間にあった『言葉』を信じてくれますか?」
「当たり前じゃん! ていうか、」
これが嘘なのだとしても、彼女がこんな芝居を打つ理由はわからない。けれど、嘘でも本当でも、もしこれがお別れなら、僕には他に言うべきことがあるんじゃないか。目の前で形にならない言葉を留めるように、僕は日の中で片手を伸ばした。
「僕は……その。たとえ猫になっても、君のことを……」
「……」
「……ねえ、美沙ちゃん。さすがにこれ、嘘だよね?」
泣きそうになって思わず問うと、明るい日差しでキラキラする黒髪の下から、美沙ちゃんはさっきまでと全く変わらない表情とテンションで、けろりと言うと肩をすくめた。
「嘘に決まってるじゃないですか。愛理さんって本当に騙されやすい人ですね」
「だと思ったけどおおお!!! 普段冗談言わない君が、そんな真剣な顔で話なんかしてきたら、信じようって気にもなるじゃん!」
ただでさえ、僕の身の回りってちょっと変な事が起こりがちなのに。まあ、これはまた別の話なんだけど。
ほんの一瞬の出来事とはいえ、心臓に悪すぎて呆然としてしまった僕を、美沙ちゃんはお詫びするようにぎゅっと抱きしめて、反対に椅子に座らせながら苦笑した。
「だって……そのぐらい真剣に話さないと、愛理さん真面目に聞いてくれないかなって」
「何を?」
「……何をなんでしょうね。私にもよくわかんないです」
誤魔化している訳でもなく、本当にわからないと言った様子であっさり言ってのけた美沙ちゃんは、ちらりと歯を見せてから椅子の脚へと視線を投げた。
「けど、愛理さんもレイも、きっとこの夏が終わる頃には猫波荘から出て行っちゃうんだなって思ったら、寂しくなって。うちが近いんですから、会おうと思えばいつでも会えますけど……なんだか愛理さん、自由になったらどんどん遠くまで行っちゃう気がして。それに私が文句言う筋合いはないんですけど、ただ寂しくなるなって、心の整理のつけ方を考えてただけです」
「そのことなら心配要らないよ。僕、ヒデさんにここで住み込みで社員にさせてくれって、さっき交渉してきたところだから」
そう告げると、切なげに俯いていた美沙ちゃんの瞳が、わかりやすくぱあっと輝いた。今は嬉し涙でも帯びたかのように、瞳が軽く潤んでいる。
「そんな……そんな素敵なことってありますか?」
「まあ、戦力になれるように精一杯頑張るよ。さすがに誠がいた時ほど百人力にはなれないと思うけど」
「じゃあ、じゃあ私、これからもここで、愛理さんと会ったりお話したり、曲を歌ったりしてもいいんですか?」
「もちろん。話してもいいどころか、名古屋の民としても、猫波荘のスタッフとしても、美沙ちゃんの方がうんと先輩なんだから、これからも色々と教えてもらわないと。改めてだけど、これからよろしくね」
あの日、僕がいないところでこっそりヒデさんと興奮を分け合っていた美沙ちゃんと同じくらい、溢れそうな嬉しさが満開になった声だった。
ああ、そうだ。その声が聞きたかったんだよな。喜びの声も、悔しさに唇を噛むところも、拗ねている顔も、本気で怒っている目の色も。目に見える顔や耳に聞こえる音だけじゃない、君が生み出す全てが、生きている君の豊かさを伝えてくれる“声”。
それを見ているのが、僕はとても楽しい。今もこれからも、成長を見守るのが楽しみだなんて言ったら、老婆心がすぎるだろうか。
大人になるまではあっという間だ。人がいつ大人になるのかは知らない。成人年齢に達した時だという人もいるし、ここだという精神的成熟を迎えられた時だという人もいる。けれど、学生という長いようで短い時代を駆け抜けるのは、本当に一瞬だ。それだけは言える。貴重な瞬間に、もしかけがえのない宝物を得ることができたら、その輝きを浴びた君はどんな大人になっているのだろう。
目を細めた僕は、飛び跳ねそうな美沙ちゃんの頭を撫でてから、目を細めた。
「それに多分、遠くに行っちゃうのは君の方だろう?」
誠が美沙ちゃんに、ライブの後で声を掛けていたことは知っている。
東京に出て歌手としてデビューしないか、と。もし真剣に考えてくれるならば、自分が翠涙を脱退して美沙ちゃんと組み、作詞やプロデュース面でバックアップすることも辞さない、とまで誠は言ったのだ。誠がどれほど美沙ちゃんの歌声に入れ込んでいるのかということと、その本気具合が伺える。
アーティストといえば上京が基本だし、最近では若くしてアイドルや歌手として活躍している子も、珍しくはない。上手くいってもいかなくても、若い時の挑戦はあらゆる意味で人生の財産になる。
本人がその気ならと、僕は背を押すつもりで言ったのだが、しかし美沙ちゃんは、きょとんと僕を見上げたままで首を傾げた。
「私、東京には行きませんよ?」
「えっ」
「だって、ここが好きですし。そもそも高校生のうちは勉強に集中したいので、少なくとも卒業するまでは、仕事のこととか歌のこととか、考えるつもりありませんし。
それに、愛理さんはこれからも名古屋にいるんでしょう? 私は愛理さんの傍を離れたくないので」
ちょっと待ってくれ。最後の理由が聞き捨てならないっていうか、結構重たい。
思わず僕は、美沙ちゃんの両肩に背を置いた。
「え、あの……勉強に専念したいって気持ちはわかるし尊重するけど、僕のことは別にどっちでもいいんだよ!? なんていうか、そうやって人に合わせて決めるって、美沙ちゃんも苦手なんじゃない!? 僕がいるからって理由で、やりたい事諦めたり、進路考えたりとかそんなことしなくても」
なんでこんなに慌てているのかわからないけど、そう、言うなれば僕のせいで人生を棒に振って欲しくないっていうか。こんなこと傲慢だろうに、僕のためにって言われたら、僕は自分という存在が軽率に美沙ちゃんの人生を左右しているような気がして、必死になった。
けれど、ふわりと花開くように微笑んだ美沙ちゃんの答えは、ずっと大人だった。
「そんな気負わないでください。本当にやりたいことが出てきたらその時考えますし、それで県外に出た方がいいって思ったら私はちゃんとそうしますから。
でも、今は私のやりたいと思ってることと、一緒にいられる理由が揃ってるので、別にそれでいいんじゃないですかね」
「でも……」
「愛理さんは色んな場所に旅に出てたかもしれないし、若い頃に色々経験しろっていうのはわかるんですけど、だからって地元を離れずにできることや自分の為すべきことを見つけていく生活が、何も頑張ってないだなんて私は思わないんですよ。
自分が納得してそうできているなら、私はそうしたいんです。大切な人や大切な場所の傍を離れなくても、できることっていっぱいあると思うから。歌もそう。
だって、別にどこにいたって、どんなに大切に思っていたって、人と人とはいつか必ず会えなくなるでしょ。それだったら『なるべく傍にいたい』っていう今の思いに忠実に応えることだって、立派な夢だと思う」
美沙ちゃんは、一緒に駆け寄ってきて膝元に頭を擦り付けるメルとポーラの体を、代わりばんこに優しく撫でた。
昔の僕だったら、それは守らなければいけないものに縛られて、自分を殺す生き方だと思ったかもしれない。けれど、猫と一緒にこの猫波荘で生活してきた美沙ちゃんにとっては、他の何を差し置いてもメルやポーラ達が一緒にいる暮らしこそが、夢そのもので幸せなのだろう。
しっかりした考えを持ちながら、迷いなくそう言い切れる彼女に、僕はあらためて感心して、そして凄い子だと思った。
「あ、でも……誠さん、東京に来るなら案内するって言ってくれたから、今度会った時に一緒に遊びに行こうって約束しましたよ。
ディズニーとかスカイツリーとか、楽しそうだし。他にも、現地の人が知ってる美味しいお店とか、誠さん連れてってくれるみたいだから」
「ええ! 何それ僕聞いてないけど!? ずるいよ二人とも!」
「愛理さんも行きます? 三人だともっと楽しそうですよね」
「むぅ……なんで誠は、美沙ちゃんにだけ声掛けてそんなデートみたいな真似を」
「いや、愛理さんに遊ぼうって言うのが恥ずかしかっただけじゃないですかね、あの人は」
本当にそんな気もするけど、誠のことだから油断はできない。あんな狼人間みたいな奴に、美沙ちゃんを二人っきりで任せられるか。
勝手に僕が息巻いていたら、ふとテーブルに乗せていた肘に、ふわりとした感触が当たって我に返った。すぐ傍に、レイがずでんと横になっている。体がデカいくせに、窓辺のテーブルで堂々と四肢を投げ出して、相変わらずのふてぶてしさだ。
メルを抱っこしながらポーラを肩に乗せるという器用な真似をしていた美沙ちゃんは、不思議そうに言った。
「今日は、逃げていきませんね」
確かに。今まで、布団越しに近くに寄って来たり、一時的に膝や腹を踏んで人の上を移動していったことはあるけど、触られるのが嫌いなレイが、こんな手の傍でじっとしていた事はない。
心地良い気温の中、猫には少し眩しすぎるんじゃないかと思える日差しの中で、あっちを向いているレイの背中に、そっと手を翳す。まぁどうせ逃げられるだろう、と思ったけど、僕の掌は久方ぶりすぎる短毛の感触に、ふわっと吸い込まれた。
「……え」
思わず、声が出た。美沙ちゃんも猫を乗せたままであんぐりしている。
拾って来て一ヶ月。
初めて、レイがまともに体を触らせた。人間嫌いだった、あのレイが。
調子に乗って背中を撫でていると、迷惑だというように太い尻尾をばしばし振り回される。そのままふわっとした尻尾で手先をぺちんと叩くと、レイは欠伸をしてキャットウォークの方に行ってしまった。
美沙ちゃんの元を降りて追いかけて行くメルとポーラを見送りながら、僕らは何度も顔を見合わせる。
「レイ……触れましたね」
「うん。ちょっとだけだったけど……奇跡みたいだ」
「よかったですねぇ、愛理さん。やっぱり、あの子はのんびり人との距離を縮めたかっただけで、心の傷を癒す時間と準備が欲しかったんですね」
心から嬉しそうに言って、美沙ちゃんが自分のスカートの上で両手を握り締める。
光に晒された、自分の左手を僕は見た。触れた毛の感触と温みが、生き物の心臓の鼓動が、まだこの手に残っていた。目には見えないけど、確かにあったもの。
それは、美沙ちゃんがここにいるという事実や、僕らのこれからの人生という航路が遥か遠くまで続いていくということを、レイが僕のために証明してみせてくれたようで。その小さな贈り物を噛み締めるように、僕は優しく目を閉じて、左手をぎゅっと固く結んだのだった。