僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day5.蛍

「久しぶり、千穂さん」

「久しぶりねぇ、愛理ちゃん」

 

 栄の大通りに面したガラス張りの美容院で、僕は案内された椅子に座った。

 ビルの中の店舗だけど、白を基調とした内装は綺麗だし、通り側の窓からは明るい太陽の光がいっぱいに入ってくる。ゆるめにウェーブさせた、メッシュ混じりのダークブランドをお洒落なシュシュで結った千穂さんは、相変わらずその年齢を悟らせない美魔女感を湛え、鏡の中の僕に微笑んだ。

 

「ほんと、久しぶりだわ。なんだか、高校卒業前に愛理ちゃんが家出して、地元を出てった時を思い出す」

「あの時ほど病んでないつもりなんだけど、僕……。まあ、確かに今は休職中だけどさ」

「前はショートにしてたから、一ヶ月に一回くらいは必ず来てくれてたでしょ? 半年くらい音沙汰なかったから、どうしたんだろうと思ってた。ご時世とかコロナのこととかもあるから、気軽に連絡はしなかったけどねえ」

 

 そう言いながら、千穂さんが僕の肩に散髪用のケープを引っ掛ける。この瞬間が魔法みたいで好き。

 僕の地元は新潟だけど、千穂さんはそこで僕の母親が行ってた美容室の見習いをしていて、その頃から僕の髪を任せてた。

 転居を重ねても、引っ越して違う都市に住んでも、縁が重なる美容師と顧客っていうのは相当珍しい関係だと思うけど、なぜか千穂さんは僕の生活圏の近くを仕事場にしている事が多いのだ。それこそ、僕が海外に住んでいた頃まで、美容師修行にやって来るほどだった。

 だからもう、顧客と店員を通り越して、ちょっとした友人というか、同士みたいな関係になっている。

 それでも、しょっちゅう連絡し合う仲ではないのが、また不思議なところなんだけど。

 

「……千穂さんって、僕のストーカーだったりしないよね?」

「あっはは、まさかあ。どっちかって言うと保護者みたいな? 子供の頃からずっと見てるんだもん。こ〜んなに大人になってもさあ、私の目から見たら、やっぱり愛理ちゃんは愛理ちゃんだよ」

「うう、はずかし……」

「今日はどうする? いつもみたいに短くする?」

「千穂さんにお任せするよ。なんかこう……いい加減、年相応に似合う髪型にしなきゃかなって、最近思うし」

 

 肩の力を抜いて、僕は笑った。

 指先で僕の髪を挟んで弄っていた千穂さんは、小さく唇を尖らせながら、電飾の灯りに照らされた鏡の中の僕に問いかける。

 

「う〜ん……『しなきゃいけない』って事はないと思うけど、それなら私が合うと思ってるボブにしてみていい? 大人ミディアムみたいなやつ」

「手入れがしやすいやつなら、何でも」

「愛理ちゃんはぱっつんばっかりで、丸みのあるボブスタイル嫌がるじゃない。でも私絶対似合うと思うのよね、ふんわりしたエアリーなボブ。思い切ってサイドを短めにしてみるとか……ウルフカットも捨て難いねぇ」

 

 腰のポシェットに手を当てた千穂さんが、僕以上にウキウキしているように見えるので、僕まで釣られて笑ってしまった。いつも僕が同じ注文しかしないので、全く提案を拒否しないのが新鮮らしく、千穂さんは楽しそうだ。

 

「あ、そうだ、長さ少し残しとく? ショートでも少し長めにしといた方が、夜会巻きとか団子はしやすいでしょ? 肩につかないぐらいにしとこっか」

「うーん、そうだね。そうしよっかな」

 

 仕事を今後どうするにせよ、汎用性は高いに限る。大体の相談がまとまったところで、千穂さんは机に置いてあったヘアスタイルの冊子を閉じた。今にも腕まくりをしかねない勢いだ。もうしてるけど。

 

「よーし! じゃあそういう感じで……」

「あ、あ、あの、ちょっと待って」

「ん、どした? ひょっとしてお手洗い?」

 

 僕はふと、話の流れで口を滑らせてから後悔する。別に嘘をついてトイレに立ってもよかったのに、変に間を作ったせいで本当に用事があるみたいになってしまった。千穂さんが不思議そうに、僕の顔を見下ろしている。

 きまり悪くなって、僕は頭を振った。

 

「……いや。やっぱりいい。どっちでもいいっていうか、何ていうか。ごめん、本当は予約の時に言うべきだった」

「何よぉ。施術はお客様のなりたいスタイルになってこそなんだから、別に急ぐ必要ないし、納得できない事があるなら遠慮なく言って? 今なら何でもできるよ」

「あのさ……髪染めるのって、今日でもできる?」

 

 ますますもってきょとんとする千穂さん。

 次の瞬間、目を輝かせて両手を合わせながら、彼女は頷いた。

 

「えー! もちろん! やだ、あんまりお客様の事をどうこう言いたくないけど、愛理ちゃんがヘアカラーを!? ついに!? ちょっとこれ長年髪を弄ってきた人間からすると感動するわあ。ごめんなさいね」

「いや、その……別に、そんな大興奮することじゃ」

「うんうん、そうね。私愛理ちゃんのその黒髪も大好きだし。本人がそれでいいと思ってるなら全然いいけど、遊びで色変えるのも正直全然アリだと思う」

「ちょっとはやってみようかと思ってたんだけど……正直、最近白髪も目立ってきたしさ。でもあんまり下手な色にしたくないし。調べたけど、よくわかんなかったから」

「抑えめの色味でも、日本人の地毛に比べたら随分明度上がるし、雰囲気も変わるのよ。待ってて、今カラーサンプル持って来るね」

 

 すかさずカラーチャートと髪のサンプルを店の奥から持って来た千穂さんと相談して、色はアッシュブラウンになった。

 ブラウン系。僕の元恋人も、焦茶色の髪だっけ。だからと言って何か未練があって選んだとかではなく、プリンになっても目立たなさそうで、部分染めも楽そうで、雰囲気だけは手軽に変えられて、その上飽きがこなさそうだったから。ラベンダー系とも迷ったけれど、茶髪なら顔色も明るく見せられると、千穂さんが勧めてくれた。

 それまでだったら気にしただろうけど、正直もう、いいかなって。捨てるに捨てられなかった皿を餌用にレイヘ譲ったように、簡単に職を休んでしまったように、それまで頑固に持ち続けていた拘りが、ひらりと自分の内側から剥がれ落ちていく。

 「手放す」ことで自分の内側に風が吹き込んでくる感覚が、千穂さんの手で新たな色を塗り込まれていく度、久しぶりに全身に澄み渡った。

 時間を置いて、シャンプー台に身を預けると、千穂さんの手が容赦なく頭皮を揉みほぐしていく。

 

「人にしてもらうシャンプーって、なんでこんなに気持ちいいんだろうなあ」

「ほんとだよね。私も、美容師やってても他人にしてもらいたくなるもん」

 

 何気ない会話で笑い合いながら、ブローで髪を乾かした千穂さんがハサミを握る。職人の証。鈍く光る銀色の相方。

 顔の横でハサミが動く気配を感じながら、僕は新たな髪色に少し似た、かつて共に住んでいた恋人のロングヘアを、目を閉じて思い出していた。

 あの髪が好きだった。動くたびに微かに漂う香りと、柔らかに揺れる毛先が好きだった。

 蛍の光みたいに、ちらりほらりと瞼の裏を舞った思い出は、彼女だけじゃなくて、それまで彼女と共に出逢った人達や、様々な出来事を映し出していく。

 頑固者の僕にとって、彼女の考え方や在り方は新鮮で、普通に暮らしているつもりでも、一緒にいるだけで新しい風をいつももたらしてくれた。そんな風に、刺激と充実に満ちた日々が、なんだかんだずっと続くものだと、そう思っていた。

 ふと目を開ければ、そこは美容院の一室で、ヘアスプレーや独特の香りの中で、一房、二房と、髪の束が白っぽい木の床いっぱいに落ちていくところだった。

 

 もう、君はいない。変わらないものはない。なぜなら君も、僕が「手放した」ものの一つだったから。

 むしろ、「気にしていない」ことを証明するようなつもりで、この色を選んだのかもしれなかった。

 僕の気持ちに、判断に、もう君は介在しない、と。

 そう自覚的にならなければいけないのは、悔しくはあるけれど。でも鏡の中の姿を認めた時、僕は初めて嫌いだった自分に、誰かを憎み恨んで、それゆえ己すら見失ってしまうどうしようもない自分に、はじめて手を差し伸べてあげられたような、そんな気がしたんだ。

 

「どうかな?」

「……これ、ほんとに僕?」

 

 ケープをさっと払われ、後ろまで合わせ鏡で見せられて、ベタだけどそんな言葉しか出なかった。

 アッシュブラウンの髪は、少しくすんだ落ち着きと自然さを保ちながらも、以前よりははっきりと明るくなっていた。

 今までと同じ前下がりではあるけれど、髪をかき上げればはっきり耳が見えるほど、サイドの髪は短い。素肌が透けるほどのシースルーバングで、おでこのあたりも随分涼しげになっている。

 なんというか、控えめに言って、別人。

 

「これだとおっきいイヤリングとか似合いそうだよね。スタイリングも、まあそのままでもいいけど、愛理ちゃん意外と癖っ毛だから、思い切って外ハネにしちゃった。朝巻くだけだから簡単だよ」

「う、ぅあ……うわあ……会った人全員にわかってもらえなさそう。てかどう考えても僕のイメージじゃないとか言われそうだよ!?」

「そんなん言う奴に言わせときゃいいのよ。それより気に入った?」

 

 とん、と千穂さんが両肩に手を置く。

 気に入るか気に入らないかでいえば、もちろん頷かざるを得なかった。年相応にって思ったはずが、反対にうんと若くなってしまったような気もしたけれど……前は絶対やらなかったはずの髪型が、不思議と嫌じゃない。

 まだまだ前を向ける。今だけは、そんな気がする。

 階段の下まで見送ってくれた千穂さんに、僕は言った。

 

「ありがとう。千穂さんのハサミは、やっぱり禊、だね」

 

 街路の生ぬるい風が、新しく軽くなった毛先を揺らしていく。

 変わってしまったものも、変わらないものもあるけれど、千穂さんの腕は今でも健在だ。僕をまっすぐに見返しながら、千穂さんが言った。

 

「ヘアチェンジは、いつだって魔法なの。『こんな風になれるわけない』、『こんな自分になっちゃいけない』って呪いを外して、誰だっていつだって、好きな自分になっていいって事を教えてくれる。

禊とか生まれ変わりとか、本当はそんな大袈裟なことじゃないんだよ。今日の自分は、昨日の自分とは別人だから。この世界に生きてる人は、みんなほんのちょっと、それに気付いていないだけ」

 

 夕暮れの中で微笑んだ千穂さんの目は、大人びていて、僕には見えない遠くを見透かしているような気がする。近いようでいて、未だに謎を抱えている千穂さん。きっと彼女にも、僕には知らない物語があるのだろう。

 

「でもね、それを決めるのは、いつだってお客様本人だから。私はそれをお手伝いしてる、ただの美容師」

「なるほど? シンデレラを変身させる魔女のおばあさんってわけね」

「やだ、ちょっと書かないでよ、小説にこんなこと」

「どうかなぁ。千穂さん結構いいネタ提供してくれるし」

 

 長話をするのも何なので、早々に手を振って、僕は大通りを歩き出した。

 今なら、過去の痛みと一緒に封印したピアス穴を、もう一度開けてみてもいいかもしれない、と耳元に触れながら。

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