美容室に髪を切りに行って、間もなく。
僕と黒猫のレイは、猫波荘に引っ越した。正格には、猫波荘の隣の棟にある寮に、なんだけど。
既に住んでいる従業員たちは、皆他にも掛け持ちでバイトをしていたり、遠方からはるばる人生を見つめ直しに滞在していたりして、色んな目的があるし入れ替わりも激しいようだったが、それだけに皆快く僕らのことを出迎えてくれた。
一階はヒデさんの住居。ここは、隣のゲストハウスと裏口の通路で繋がっていて、脱走防止に通路全体が金網で覆われてもいるので、猫達は二つの居住空間を自由に出入りできる。餌などのご飯は寮で落ち着いて食べられるし、他の時間はそれぞれのお気に入りの場所でまったり、っていうスタイルだ。
レイは、今はまだ僕の座敷部屋に缶詰にされていることが多く、落ち着いた頃合いを見計らっては、キャリーケース越しに先住猫のメルやポーラと対面させてみている。レイはまだ人にも猫にも警戒気味で唸ってるけど、メル達は何度か保護猫と同居した経験がある先輩猫でもあるらしいので、近いうちに仲良く家の中をうろつく姿も、見られるようになる……かもしれない。
何はともあれ、暮らし向きが落ち着いたある日の夜のこと。
僕は歩いて、名古屋城まで散歩に出掛けていた。
なんで今更名古屋城見物なんかしてたのかと言われたら、それはほんの気まぐれというか、偶然の勘違いの産物に過ぎない。僕は、名古屋城の外堀に蛍を見に行くつもりだったのだ。
ゲストハウスに泊まっていた外国人に頼まれて、二階の共用部でもあるリビングルームのパソコンで情報検索していた時に、その記事はふと目に止まった。名古屋の蛍名所・三選。へえ、名古屋みたいな大都市でも蛍を見られる場所があるのか、と思いながら、それが本当に近所の名古屋城を眺められるあたりにあると知って、尚更驚いた。
近くと言っても、ここから地下鉄に乗らずに歩いたら三十分近くは掛かるので、夜になっても服の内側まで汗びっしょりになりそうな、暑さの去らない街を歩いて行く気にはなれず、僕は地下鉄に乗って久屋大通のあたりへ出向くことにした。
が、そこに思わぬ誤算があった。
場所の情報ばかりをチェックしていたせいで、肝心の蛍の見られる時期を気に留めていなかったのだ。
電車のホームで待つ間にもう一度詳しくページを見てみたところ、なんと蛍の飛ぶ時期は遅くても6月中旬くらいまでで、ここまで気温の上がってしまった名古屋ではもう既に見られるはずもない風物詩らしい。
なんとなく夏なら飛んでるんだろうと漠然と思っていただけに、地球温暖化の影響を恨まざるを得なかった。
まあ、こんな熱気と湿気がヤバい夏が夏になるなんて、昔の日本人は想像もしなかったろうからな。
ともあれ、ここまで来て帰るのも何なので、僕は気晴らしに、ライトアップした名古屋城でも眺めて散歩しようと思いながら、地下鉄に乗ったのだった。
本来の目的だった久屋大通を通過し、名城公園で地下鉄を降りる。名古屋城で降りてもお城は今閉門してるだろうし、それだったら公園を歩きながら見物させてもらおうと思った。
名城公園にも池や川があって流れているけれど、蛍が見られるのは、どうもここから見える名古屋城を挟んで反対側にあるエリアらしい。
高架橋の下で蛍が見られるなんてどうも半信半疑だなぁ、と感じながら、僕は自然豊かな公園の芝生や砂利道の上を、しばらく散歩した。
ちょろちょろとした小川の流れの音に耳を澄ませながら、その手前で足を止め、ふと指先でファインダーを作って、僕は目の前の暗闇に佇むオランダ風車を覗き込む。
そういえばここも、まだ今ほどは身軽でない頃、恋人や友人と来た事があったかな。チューリップや花を見に来たんだっけ。
撮ってくれとせがまれれば、照れた顔や笑顔の弾ける先に、何度もスマホのカメラを向けた。内緒で勝手に、横顔を盗み撮ったこともあった。今はもう、LINEのノートに保存してある他はない思い出だけど。
暗がりの中で、回らない風車から手を下ろし、僕は年月の中で風化した、しっかりめのレンガ作りの土台と木の外壁を見上げた。
「……あの時とは、同じじゃない」
声に出して言ってみたら、自分の中にそれはどこまでも、澱のように沈んでいった。
今、僕は僕の目で、この風景を見ている。千穂さんが言っていた。昨日の僕と今日の僕は同じではない、と。だったら、過去の僕と今の僕も、別人のはずだ。
くだらない感傷かもしれないけれど、僕はあの時とは違う景色を、僕自身の心で、楽しめているだろうか。そうだといい。——きっと、そうだといい。僕は、夜風の中で瞼のシャッターに景色を焼き付けながら、囁いた。
太陽が出てないだけマシとはいえ、日中の気温は既に30度を超える夏、それも夜とあって人気は少なかったが、ランニングや犬の散歩に出てきている人たちと、ちょくちょくすれ違う。
女の夜の一人歩きなんてあまり感心されないだろうけど、この辺は近くに役所も多いし、治安はまだいい方じゃないだろうか。公園内の夜の道もかなり明るく、足場に困らない程度にどこも照らされていて、色んな場所に目が届く。木々の隙間から見える名古屋城を眺めてぼんやり立ち止まったり、時折現れる花壇の花に目を細めたりしながら、僕は夜の散歩を楽しんでいた。
道を歩いていると、僕は脇の植え込みのあたりに、見覚えのあるフォルムを発見して足を止める。
「おや……こんなところに猫」
レイと同じ黒猫だ。目が金色の小さな黒猫。首輪をしてないから野良だろう。
まさかこんなところでばったり会うとはな、と思いながら、僕は苦笑して、そ〜っと遠回りしながら猫の側を通り抜けようとした。
案の定、猫はさささーっとさりげなく僕から距離を取り、けれど逃げているとは思えない程度ののんびりした速さで、すたこらと芝生を横断して抜けていってしまう。
相変わらず、猫って突然人の心に飛び込んでくるものだ。何の準備もなく、構えもなく、突然やって来てまた突然行ってしまう。触りたい、眺めたいと思った時には、やって来てくれた試しがない。
追い掛けるつもりはなかったけど、何となく猫の行った方向を目指しながら、僕は公園の出口に向かった。そして面食らった。
さっきの黒猫とそっくり同じ、全身黒ずくめのシャツとスカートの女の子が、公園の入り口にある噴水のところで、学生らしき男たちに絡まれていたからだ。
「……レイ?」
思わずそう呼びかけながら、レイが化けて出たのかと思ってしまって、僕は目を擦ってしまった。
いやでも、レイは今頃猫波荘にいるはずだし。さっきの野良猫とレイとは違うし。大体、レイはオスだ。そもそも、猫が人間に化けるなんて。
でもその女の子は、本当に借りてきた猫みたいに硬直して、真っ黒ずくめの体で鞄を抱きかかえながら縮こまっていた。ワンレンのふんわりしたボブも黒髪で、髪を染める前の僕とよく似ている。
女の子は、頑なに人と目線を合わせようとしない。俯くと長めの前髪で表情が見えないけれど、困っているのは明らかだった。
「ねーねー、ここで立ってるの疲れない? 熱中症なっちゃうよ?」
「オレらただのサークルだし、ここの近くのグラウンドで練習してるだけだから、よかったら自販機でジュースだけでもさ」
スポーツウェアの若い男の子達は、善意なのかナンパなのかイマイチ判別し難かったが、女の子が首を振る事さえなく固まっているので、諦めがつかないでいるらしい。
咄嗟にその子と自分の歳の差を考え、僕は母親のフリをして近付くことにした。
「あの。うちの子に何かご用ですか?」
「あ……お母さんと待ち合わせだったんだ」
「すみませんっ、一人だったのでオレらちょっと心配で……!」
それだけで蜘蛛の子を散らすように、男の子達がお辞儀して去っていく。
しどろもどろになりながら、特にそれ以上しつこくすることもなくグラウンドのある公園の方に駆けていくあたり、もしかしたら本当に部活の練習中にこの子を見掛けて、善意で声を掛けてきたのかもしれなかった。まあ、だとしても明らかに怖がってる子の前で喋り立てるよりは、もっとやりようがあったと思うけど。
「えっと……大丈夫?」
とりあえず何も考えずに手を出してしまったけど、女の子はよほどの緊張しいなのか、まだ目をかっ開いたまま、唇を噛んで俯いて固まっていた。まるでメルやポーラと対面した時のレイだ。
(こういう時のレイって、下手に触れると尚更びっくりして、噛み付いたり毛を逆立てたりするんだよなぁ)
それを思い出し、僕は黙って、濡れていない噴水の縁へ腰を下ろした。すると女の子は、それに倣ってぎこちなくもすとんと隣に腰を下ろす。
僕と目を合わせる事もなく、震えるような緊張感を漂わせて地面を見据えていた女の子は、一度目を閉じて、ゆっくり大きく深呼吸をした。
それでようやく、女の子は金縛りから解けたのを確認するかのように、何度かゆっくりと掌を握ったり閉じたりして動かすと、おもむろにスマートフォンを取り出し、そこに何か文字を打って僕の方へ向けた。
『ありがとうございます』
「……うん?」
まだ震えている桜色の指先と、画面を見比べる。今度は僕の方が事態を把握できずに固まる番だった。
なんでわざわざ……と考えて、ふと思い至る。彼女が固まっていたのは、もしや緊張していたからではなく、耳が聞こえないからではないか、と。
けど、だとしたら僕がここで言葉を発するのは余計に意味がない。そんな僕がどうすべきかと慌てふためく横で、先回りするかのように、その子はまた急いでスマホに文字を打ち込んだ。
『私は、声が出ません』
「……。えっ、と……てことは、僕が今喋ってる言葉は聞こえる?」
『はい』
頷くとかしてくれてもいいのに、彼女は律儀に文字で伝えてくる。
隣に腰掛けたまま、彼女は俯いて、今度は少し長めに文を打ち込むと、僕に見せた。
『お父さんと、駅前のコンビニで待ち合わせしてたんです。でも、仕事で少し遅くなりそうだったから、その間に、一人で散歩がしたくなって。そしたら、あの人達が』
どうでもいいけど、最近の若い子ってめちゃくちゃ打つの速いよね、スマホ。光速にも等しいフリック入力の指先を、僕は目を白黒させながら眺めるばかりだ。
「そっか……まあ、一人で外の空気吸いたい事ぐらいあるよね。ここ静かだし」
「……」
相変わらず黙っていると同意なのか不同意なのかわからない。彼女の方でも、ナンパが途切れたと思ったら代わりにいきなりこんな変な女に声を掛けられて、戸惑っているのかもしれない。
「コンビニってさ、名城公園の駅前にあるファミマのこと? 僕もそこから電車乗って帰ろうと思ってたとこだし、方角同じならついでに送ろうか。別に、そこまで一緒に歩くだけだから」
『ご迷惑でなければ』
少し迷うように、メモ画面の上で指先が文字を生んだ。
彼女が鞄を持って立ち上がるのを待ってから、広い道路を渡り、元来た駅前の方へ僕は引き返す。まだ警戒しているかのように、彼女は一歩引いたあたりを俯いたままついてくる。
もしかして気分でも悪いのかと思ったけど、時々顔を上げて周囲を眺める無表情からは何も見て取れず、何となく尋ねるのも憚られるままにコンビニまで到着してしまった。いざとなればコンビニの店員さんもいるだろうし、親と待ち合わせならこれ以上僕がしゃしゃり出る幕でもないだろう。
「じゃあ、僕はこれで」
せめて無事に帰宅できることを祈って、名乗ることもなく踵を返した瞬間。
風が吹くような微かな力が、シャツの袖に加わった。
「……?」
もしかしたら気が付かずに歩き去ってしまったかもしれないほど、小さな力だった。女の子の指先が、僕の七分袖のチュニックを摘んでいた。
僕が振り返ったのを気配で認めたのか、女の子は俯いたまま、手に握りしめていたスマホをもう一度見せた。
『本当に、ありがとうございました』
「いやいや。僕は大したことなんて……」
『お礼がしたいので、よかったら連絡先を、教えてもらえませんか』
スマホを差し出すように見せた女の子は、ぎゅっと目を瞑ってしまっている。
……どうしよう。
こんな状況で連絡先交換するなんて、若い子を誑かしてるようで何かあれだけども、こんなに一生懸命お願いされたら、逆に断りづらい。
というわけで、結局LINEの連絡先だけ交換して、僕はその場を離れた。冷房の効いた地下鉄で腰を下ろして涼んでから、僕は落ち着いてスマホを眺める。
新しく追加された連絡先には「Misha」と書かれている。アバターには、なんと黒猫の画像。
「名前まで猫みたいだ」
警戒心が強く、触れようとすると怯えて、決して近寄らせない。拾ったばかりで人からも猫からも逃げ回るレイに、なぜかその姿が重なった。
突然飛び込んできた黒猫と、突然現れた猫みたいな女の子。たまたま、なのだろうか。
奇妙な偶然を感じながら、僕は上前津の駅まで、エアコンの風に吹かれていた。