僕と猫。   作:大野 紫咲

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Day7.酒涙雨

 結論から言うと、「Misha」と僕は連絡を取り合うまでもなく、思わぬ形で再会を果たすことになった。

 

 奇妙な女の子を助けた翌日のこと。

 今日はそんなに宿が混雑していない日だったのもあり、僕はゆっくりと寝坊して、座敷部屋に差し込む日の光を堪能していた。古い部屋だけどウィンドウエアコンもちゃんと付いてて、快適に過ごすには申し分ない。布団にくるまったままゆっくりと寝返りを……打とうとした僕は、腹に凄まじい一撃を受けて盛大に呻いた。

 

「ごふっ」

 

 布団越しでも目を覚ますに十分な打撃。涙目を開ければ、棚の上から僕の腹に飛び降りたレイが、布団の側で不満げに唸りを上げる。

 それで思い出す。僕が襖を開けてやらないと、レイは猫用朝食会場である寮の一階まで降りられないことを。

 

「ああ……ごめんごめん。朝ごはんだったね」

 

 飼い主がぐーすか惰眠を貪っているうちに延々と空腹を放置されて、さぞご立腹だった事だろう。クリティカルヒットを受けた腹を摩りながら襖を開けると、レイはあっという間に廊下に飛び出して行った。

 時刻は九時過ぎ。この時間なら、もうメルやポーラは本棟のリビングに移動している頃だろうか。

 ヒデさんが、もうそろそろ同じ建物内でレイとメル達を合流させてみてもいいのでは、と言っていた。試しに同じ部屋に放してみても、今のところレイが一方的に警戒しているだけで虐められるような事はないし、ずっと狭い場所にいるのはレイにとってもストレスかもしれない。

 人間用の食事は、スタッフルームで摂ってもいいけど、本棟の一階にも自由に使えるキッチンやセルフの朝食が用意されているので、そこで目玉焼きでも作るかと思いながら、僕は着替えだけして、取り急ぎレイのご飯を計りに乗せた皿へざらざら注いだ。

 ご飯の量は、猫の体重に合わせて決まっている。毎回計るのも面倒だけど、一応これも飼い主の勤めなので、これはヒデさんに任せず自分でやるようにしているのだ。

 

「おいしいかい?」

 

 相変わらずがふがふ食べるので、少しずつ毛並みも良くなってきた気がする。今日も健康そうだと様子をチェックした後で、僕は自分の顔を洗い、歯を磨いて身支度の続きを終えてから、本棟に続く勝手口のドアノブに手を掛けた。

 すると、普段は自分から外へ出たがらないレイが、食事を終えて僕の足元にやって来た。

 

「ん? あっちへ行きたいの?」

 

 触ろうとすると相変わらずにゅるんと身を翻して避けられてしまうが、向こうへは行きたいらしい。一応扉に猫用のドアもついてるんだけど、レイが嫌がった時に他の猫が入って来ないよう今は閉じられていたので、出られなかったようだ。

 通路に出られるよう隙間を開けると、レイはひくひくと外の匂いを嗅ぎ、歩いて本棟の裏口へ入って行った。丁度、換気のために戸が開きっぱなしになっている。

 自分から猫のコミュニティに入っていくなんて、成長したな……と謎の感慨を覚えながら、自分もレイの後について階段を登り、従業員用の入り口からキッチンスペースに入る。

 すると当然そこにいると思っていたレイが、すらりとした人間の美少女になっていて、思わず目を疑った。

 

「れ……」

 

 いや、ちょっと待て。

 そんな事が、つい昨日もあったような。

 見覚えのある黒ずくめの女の子が、キッチンで泡のついたコップを持ったまま、目を擦る僕を見ていた。黒目がちの大きな瞳の女の子は相変わらず表情が読みづらいが、小さく開いた唇を見るに驚いているようだ。

 シャツワンピースの上にしていたエプロンで手を拭いた女の子は、そのポケットからゆっくりスマホを取り出すと、文字を打った。ぽこん、という音と共に僕のスマホが振動する。

 

『お姉さん、どうしてここにいるんですか?』

『いや聞きたいのはこっちの方だけど?!』

 

 それが、あの夜別れて以来、正真正銘Mishaからの初LINEだった。挨拶でもお礼でもなく。

 しかも急にLINEしてきたもんだから僕も動転してしまって、僕は喋ればそれでいいはずなのに、うっかり文字で返信してしまった。

 僕たちが静かに大騒ぎをしているところへ、買い出しに行っていたヒデさんが不思議そうにやって来て言った。

 

「あらぁ。美沙(みさ)ってば、もう愛理ちゃんとお話してるの? 珍しいわねぇ、LINEまで交換してるなんて、ひょっとして知り合い?」

「美沙……ちゃん?」

「愛理ちゃんにもいずれ紹介しようと思ってたのよぉ、この子もしょっちゅううちに来てるから。美沙っていうの、アタシの姪っ子よ」

 

 なんと。ヒデさんの親戚の子だったか。

 自己紹介の流れを察していたのか、ヒデさんに肩に手を置かれながら、彼女は既にスマホに指を滑らせていた。再び、僕の手元にメッセージが表示される。

 

『梶浦(かじうら)美沙(みさ)といいます。

よろしくお願いします』

 

 ご丁寧に、ふりがな付きの括弧まで。

 僕も、それに倣って返事を打ち込む。

 

『僕は鈴木(すずき)愛理(あいり)。よろしく』

『だからLINEの名前がIRISさんなんですか?』

『まあそんなとこ』

 

 よかった……ほんとに人間だった……

 初対面以来、初めてまともに交わした相手への印象が「猫じゃなくて人間で安心した」なんて、だいぶ笑える話だ。

 思わず苦笑を浮かべる僕の方を、黒猫ちゃんこと美沙ちゃんは淡々と眺めていた。

 

「会ったことあるなら知ってるかもしれないけど、美沙は声が出せない子でね。主に裏方を手伝ってもらってるけど、ここにはよくいると思うから。仲良くしてやってちょうだい」

 

 朗らかに笑うヒデさんの掌を背中に当てられた美沙ちゃんは、にこりともしないでぎこちなく頭を下げる。

 スマホで見る文面からそんな無愛想な感じはしないのだけど、表情を作るのが極端に苦手そうな子だった。

 僕が朝食を摂る間も、黙りこくって共用机で宿題か読者をしているので、どうも話し掛けづらい。普通に会話を交わすならまだしも、いちいち手を止めてスマホを打たせなくてはならないと思うと、何となく申し訳なくて話し掛けるのが憚られてしまう。

 部屋の壁際では、テレビ上のキャットタワーを占領して昼寝中のメルを見上げたレイが、地上で絶賛威嚇中だ。

 

「うー、みゃう」

「お前、新入りのくせに先住猫に向かってよくそんなふてぶてしくなれるな……」

 

 メルの方から鼻先をくっつけて挨拶に来てくれるのに、それすらレイは追い払う始末だった。対するメルは、下界からの吠え声を気にする節もなく、棚から尻尾を垂らしてぷらぷらしている。

 確か、メルは女の子だったはず。ご自慢の真っ白な毛を丹念に毛繕いしながら、お淑やかな姉御といった風情で先輩風を吹かせている。

 

(メルって、大人っぽいよなあ……)

 

 そう思いながら見上げていると、ふと向かいの美沙ちゃんが、顔を上げてこちらを見ていることに気付いた。

 すぐ俯いて宿題に戻ってしまったけれど、アバターを猫にするぐらいだし、彼女も猫は好きなんじゃないだろうか。もしそうなら、話のきっかけにぐらいならないかな。

 それとなく、彼女の文房具や鞄の猫グッズを観察し、雑誌を開きながら、僕はそんな事を考えていた。

 

 その日の夜。

 一日がつつがなく終わり、ゲストハウスの二階にある洗濯物干し場に、僕は出ていた。小さいけれど二階も三階も屋根付きのベランダがあって、洗い物がすぐ干せるのが宿泊客にも好評だ。

 空は靄のような雲に覆われていて、今にも雨が降り出しそうな湿気が鼻をつく。手元に開けたノンアルコールビールが半分なくなる頃には、案の定小雨が降り出して、僕は夕涼みながら流れていく街の灯りと空模様を観察した。

 

「今年も、織姫と彦星は会えそうにないなあ」

 

 逢瀬が叶わなかった二人の流す悲しみの涙を、酒涙雨(さいるいう)というらしい。

 旧暦が途絶えてしまった今の日本では、七月七日というと豪雨台風シーズンの真っ盛りで、彼らの会える機会はめっきり減ってしまった。僕も、ここ数年はまともに七夕の天の川を見た事がない。

 ちりんと、首元の鈴の音がした。脱走防止用のネットを張られたベランダに、扉の隙間からメルがとことこ出てきて僕の隣のチェアに座る。そのまま空を見上げるように、澄んだ青と黄色の瞳を向けてじっとしているので、湿気を嫌がる猫にしては珍しいこともあるもんだと、僕は不思議がった。

 

「あんまり端に寄ると濡れちゃうよ?」

「んみぃ」

 

 片手で額を撫でると、あまり鳴き声を上げる事のないメルが小さく鳴いて、掌の下で目を細めた。

 そのまま撫で続けてふと振り向いた僕は、ベランダ扉のすぐ後ろ側にぬっと立っていた人影に飛び上がりそうになった。

 

「……」

「……っわ! びっっっっくりした!」

 

 どんなに小柄で猫に似てても、さすがに人間大のサイズだと僕も驚く。暗くなってきた時間帯だと尚更だ。

 からからとガラス扉を開けた美沙ちゃんは、僕の反応を頭の上から爪先まで観察するように見ると、さっとスマホに俯いた。

 

『驚かせてしまったようでしたらすみません』

「あ、い、いや、大丈夫……」

『さっき部屋の掃除をしてて、終わったら愛理さんがここにいるのが見えたので。

何してるんですか?』

 

 美沙ちゃんの方から話し掛けてくるとは思わなかったので、僕は少し意外に思いながら、隣にずれてスペースを開ける。

 ビールの缶を傍に置いてから、僕もスマホを持った。

 

『いや、特に理由はないんだけど……何となく星見でもしようかと思って。

でも生憎の天気だったね』

『そうですね。夜には止むみたいですけど、明日も雨予報ですし』

『それにしても、猫にも星を見たくなることとかあるのかな。こんな雨なのに、メルが出てくるなんて』

 

 しんとした夜の中に、カタカタとスマホのクリック音だけが響く。

 僕らはお互いに手すりに寄り掛かってスマホを触っていた。美沙ちゃんは、僕の言葉を受けて、しばらくの間暗闇で発光する画面を見下ろしている。そして、隣で身繕いするメルをちらりと見てから、もう一度指を滑らせた。

 

『多分、天の川を渡って来るのを待っているんだと思います』

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