ゲストハウス猫波荘は、一階がバーと物品貯蔵庫になっていて、二階にフロント代わりのレセプションと、共用のリビングスペースやキッチンがある。
お客さんもスタッフも自由に使えるようになっているから、僕も仕事の手伝い以外の時間はこのあたりにいて、観光地を回りたい旅の人の相談に乗ったりとか、時にはお喋りに混じったりとか、リビングを根城にしている猫達と遊んだりとか、好きに過ごすことが多かった。
僕はともかく、意外だったのは、人と話すのは苦手なはずの美沙ちゃんが、こうやってお客さんとコミュニケーションを取る場に現れたことだった。
レセプションの隣にはスタッフ用の小さな事務室があるから、そこで作業や宿題をしててもいいはずなのに、美沙ちゃんはよくリビングにいる。
案の定お客さんに声を掛けられる事もあるので、思わずフォローに入ろうとした僕は、ヒデさんにそっと肩に手を置かれ、視線の先を見守りながら思わず驚いた。
ガチガチになりながらも、美沙ちゃんは話し掛けてきた人達と、身振り手振りを交え、時には簡単な手話まで使いながら、会話を試みようとしていたからだ。
「I lost my voice(私は声が出ません)」と書かれた画用紙のカードを最初から用意していて、それだけではなく、よく尋ねられそうなことをちゃんと絵や各言語で説明した手作りのカードを、何か尋ねられる度エプロンのポケットからさっと取り出し、お客さんに見せている。
さすがに雑談の類は筆談だが、こういう場所に集まる旅人は、異国で言葉が通じなくても気にしない人がほとんどだから、大袈裟なジェスチャーやスマホの翻訳なんかを使って力押しすると割と何とかなるようで、だんだんちょっとしたゲームみたいになる。首を傾げて慌てていた美沙ちゃんも、彼らの意図を理解できた時には、僕がこの宿の外では見たことのなかった大輪の笑顔を浮かべていて、思わず目を惹きつけられた。
(笑ったり、するんだ……)
皆がそれぞれに美沙ちゃんと手を取って話をしたり、彼女が猫達をじゃらす様子に感嘆の声を上げたりするのを見て、僕は彼女の持つ表情の豊かさに気付いた。
一人でいるところや、静かに過ごしているところを見ている間は、彼女は外に顕れる感情が虚で、自分から他人に関わりに行く事はないタイプなのだと、勝手に思い込んでいた。
でも、それは違う。
彼女は、自分自身を伝えるツールを惜しみなく使っている。それがたまたま声ではないだけで、外の世界と繋がりたい・誰かと話したい気持ちは、きっと僕と変わらない。そんな風に思えた。
(繋がりたい、か)
そうか。結局はそう思ったから、きっと僕もここにいることを選んだんだな。
自分でも自覚していなかった気持ちを眺めながら、パソコン横の紙を補充して美沙ちゃんの姿を眺めていると、ポーラとボールで遊んでいた彼女がふと顔を上げて、不思議そうにこちらを見た。
首を傾げたその仕草だけで、どうかしたのか、と問い掛けたいのがわかる。
「いや……美沙ちゃんて自己肯定感高いんだな、と思って」
自分の卑屈さに思わず苦笑しながら零すと、彼女はポケットに入っていたスマホを、カタカタと打った。
『私みたいな人間は、声が出ない事に罪悪感を抱えてる生き方の方が、イメージに合ってるってことですか?』
「え、や、ごめん。そういうつもりじゃ」
『すみません、怒ってる訳じゃないんです。でも普通に書くと、スマホの字じゃニュアンスが伝えづらいですね…』
そう言った美沙ちゃんは、首を傾げて考えた末に、汗の滴の絵文字を追加で送信してきた。あまり絵文字や顔文字を使う子じゃないけど、苦肉の策だったようだ。
『本当にごめん、そういうつもりじゃなくて。
でも、正直に言うと少し意外だったかな。美沙ちゃん、僕の前ではずっと緊張してるみたいだったから。ここで知らないお客さんと話すのも苦手かと思ってた』
『猫波荘は慣れてるからいいんですけど、あの夜は外で人も少ない場所で、急に男の人に囲まれたのにびっくりしてしまって…
その緊張を引きずって、愛理さんにもずっと変な態度を取ってしまったから。
ここで会った時も、嫌な奴だと思われてたらどうしようって』
『あはは、そんな事ないから心配しないで。いつもあんな風に体が強張ってるんだったら大変だと思ってたから、よかった』
僕の文字をしばらく無言で眺めていた美沙ちゃんは、ふとスマホをしまって、冷蔵庫を指差した。何か飲むかと聞きたいらしい。
そのくらいなら僕もわかるから、一緒にティーブレイクにする事にして、冷えたポットを取り出した。僕はアイスコーヒー、美沙ちゃんは麦茶。
からん、と氷が音を立てる、模様の入ったガラスの綺麗なグラスをコースターに乗せて、木材の椅子に座りながら、美沙ちゃんがスマホでの会話を再開した。
『本当は、いつも緊張してます。知らない人と話すの苦手で。何年か掛けて、ゆっくり慣れましたけど、最初はお客さんの声を近くに聴いてるのもダメで。リビングに座ってるだけでお腹痛くなっちゃって』
『それなのに、こんなに頑張って話そうとしてるの? そのカードも手作りだよね』
『ヒデちゃんとかカウンセラーの先生が、アドバイスくれたんです。これに、あらかじめよく聞かれそうな事を書いておけば、慌てなくて済むし外国のお客さんにもわかりやすいんじゃないかって。ついでに、絵とか描いたり写真も貼り付けたりして。作ってたらなんか楽しくなって、いつの間にかいっぱいできちゃいました』
写真がファイリングされたアルバムを、美沙ちゃんが見せてくれる。そこには、歴代の彼女の勲章がいっぱい挟まっていた。クレヨンやペンで手書きしたもの。ワープロで印刷したもの。絵だけのもの。素材も、普通の画用紙から色紙、千代紙まで。色とりどりな美沙ちゃんの個性を映したみたいで、僕は指先でなぞりながら、思わず目を細めた。
「……君はすごいなあ」
『いえ、そんな。でも、これを作れば作るほど、怖い気持ちがなくなっていくような気がして。何の準備もないことで話すのは怖いけど、それも少しだけ、できるようになってきましたし』
美沙ちゃんを見ていると、国境や言語を飛び超えるのは、大変に見えて実はとても簡単なことなのだと、思えてくる。
ある程度は家や学校で言葉を学び、職場でも必要に駆られて勉強は続けてきた僕だけれど、その源にある一番大切な気持ちを、僕は声を持たない彼女を見て、本当に久しぶりに思い出したような気がした。
「それに比べて僕ときたら。ちょっと外国語を話せるくらいで鼻にかけたりして。ダメダメだぁ、恥ずかしい」
『いえ。あんなに流暢に何ヶ国語も話せるのは、普通にすごいです。並大抵の努力ではできませんから』
「でもさあ、そのくせしんどくなって、社会から逃げてきた人間だしさぁ……」
管を巻くつもりはなかったのに、思わずエアコンの効いたリビングで机の上に突っ伏すと、少し迷ったような掌が、切ったばかりで軽くなった髪の上に、ふわりと乗った。見上げれば、美沙ちゃんが向かいの席から頭を撫でている。どこか猫にやるような仕草と似ているのは、気のせいだろうか。
片手で器用にスマホを打ちながら、美沙ちゃんはメッセージ画面を僕に見せる。
『私も、自分のことはダメな人間だと思ってました。中学の時はちゃんと学校にも行けなかったし。
喋れないから、気持ちを伝えられないから。普通のことが普通にできないせいで、いつも誰かの足を引っ張ってて、生きてるだけで迷惑な人間なんだって』
「美沙ちゃん……」
『でも、ここにいる人達とか、ヒデちゃんとかを見てたら、自分のことダメだと思ってても、別にいいんだなって思えて』
今は人気のないリビングを、美沙ちゃんは見回す。お洒落なペルシャ風の絨毯が敷いてある、共用スペースのローテーブル。猫達が悪戯をした跡なのか、絨毯の一部はボロボロにほつれていたけど、それさえ木目の床に馴染んでいい塩梅に味を出していた。
傍にある爪研ぎ板で、伸びをしたレイがバリバリ爪を研いでいる。
『ほんとに、色んな人が来るんです。大体はみんな明るく笑って、観光や遊びに行ったりするけど、じっと黙ってここに座ってる人とか、持ってきたギターを鳴らしながら、ずっと泣いてる人とか。
そういう人達に何があったのか、会ってから別れるまで、何もわからないこともあるけど。特に訳ありでも、そうじゃなくても、色んな人生があっていいんだって、ヒデちゃんが言ってました』
美沙ちゃんがいつからここに通うようになったのかは知らないが、そうやって様々な他人の人生に触れる事で、感じ取ることがあったのかもしれない。
少しリラックスした様子のレイを眺めるともなく眺めてから、美沙ちゃんは続きを綴った。
『だから、愛理さんはダメじゃないと思います。
私は「すごくダメ」じゃなくて、「ダメでもまあいいか」って感じだけど』
「ふふ……そうか。でもね、美沙ちゃんもダメなんかじゃないと思うよ」
『じゃあそう思っておくことにします』
そう言って、空になったコップを前に立ち上がった美沙ちゃんは微笑んでくれたけど、きっと彼女は僕が言わなくても、ヒデさんや色んな人から、少しずつ緩やかな肯定をもらってここまで歩んできたのだろう、と思った。僕の方が慰められてしまうほどだ。
レイのところまで行った美沙ちゃんが、猫じゃらしに興味を示す彼の遊び相手をしている。その横顔は、「レイも触らせないからダメな猫って訳じゃないよね」と、そう言っているかのように見えた。