短編1話完結。
美しい川が血で染まったと語り継がれる。姉川の戦い。戦乱は続き、さらに多くの血が流れ、やがて、すべては時代に押し流される。
泰平が近付く。姉川はその清流を取り戻していた。
戦場跡地の谷底を歩く。踏みしめる足の力強さは、実はさほど長身でもない体格を、大柄で屈強に見せた。老齢を感じない鎧姿。歴戦にして不敗、傷ひとつ負わないという伝説も自然と受け入れられた。
無傷の誉れ。徳川の守護神。東国無双。本多忠勝は、江戸幕府による乱世の終息を前に、いまだ健在の威圧感でいる。
壊れた旗が落ちていた。もう読めない家紋は、見間違えるはずがない。生涯をかけて守り通した、徳川の三つ葉葵。
刻まれない歴史がある。この谷底で、徳川は朝倉の仕向けた妖怪と戦った。忠勝達は、人ならざる力に押されながらも、徳川家康を退避させ、果敢に戦い進軍を阻んだ。
小さな勝利を積み重ねる。長い時間をかけて、家康は戦火を消していく。
心残りだった。
戦いのあとも消えないもの。続くもの。たびたび記憶を振り返る。終わらせたかった。だから今、忠勝は姉川に来た。蜻蛉切を手に握る。あの日と同じ槍。
姉川の戦いのあと、怨霊の噂が流れた。戦死した武者が、あやかしとなって人を襲う。徳川と織田が差し向けた討手により、調伏されはしたものの、霊魂は今も姉川の谷底に迷う。
無念だけが残っている。身は妖怪になろうとも、滅びようとも、魂は人間であり、侍のまま変わらない。斬るべき者が斬らなくては、思いは断ち切れない。
冷え込んだ姉川の空気まで圧する忠勝。呼応して、氷の風が舞い散った。霊石の不吉な輝き。妖気に吸い寄せられていく。
氷塊から削り出された彫像のような巨体。さらに大きな氷の太刀が現れた。片方だけの腕で大太刀を持ち、肩にかつぐ。
姉川では霊石を使い妖怪になる。怒涛の勢いで徳川軍に切り進んだ。一時は忠勝も命を落とす寸前だった。その武勇、その忠義。真柄直隆は、敵方である本多忠勝からも認められていた。
忠勝は蜻蛉切を構える。中段の一直線が、直隆を指した。直隆が生前から愛用した業物、太郎太刀は、持ち主に合わせて氷と妖気を帯びた。抜き身のまま、いつでも振り回せる。
「……斬る」
直隆の口から、冷気に混ざってこぼれ落ちる。
「斬る。我が太刀に、斬れぬもの……は、ない。届くまで、斬る」
遠い日の思い。抱えたまま姉川に置き去られた。直隆の戦いはまだ続いている。直隆の姉川が終わらない限り、忠勝もまた終わらない。直隆は進み忠勝は止める。
「斬らせはせん」
「斬……る。……斬る」
忠勝の背が光る。神鹿が身をひるがえした。幼少より忠勝を見守っていた守護霊。長年に渡る武辺の果て、ついに通じ合えた。
「言葉は無用。武で語れ!」
神鹿が蜻蛉切に降りる。槍は九十九武器となり、まるで雷光を手にしたかのようだった。構え直し、足を踏み出す。太郎太刀の間合いに入る。直隆の腕が動こうとした刹那、忠勝は一気に突進した。
かつては弾かれた、渾身の突き。直進する雷は直隆の胴を撃ち抜いた。吹き飛ばされ、よろめく。忠勝は駆け出して追いかける。姿勢を立て直した直隆は、前方を大太刀で薙ぎ払った。
太郎太刀を蜻蛉切で受ける。再び隻腕を振り上げた直隆は、頭上で大きく振り回し、忠勝を押しつぶすように斬りつけた。大太刀の氷が吹雪く。
「剛健。なれど見切った」
忠勝は円を描く回転で受け止める。青嵐が吹雪の終わりを告げる。直隆はのけぞり、忠勝は跳躍した。垂直に叩き下ろす。人間なら両断したであろう槍は、氷塊の体躯にも深く入った。
直隆はひざをつく。妖怪の表情でも、苦しんでいる様子が見て取れた。全身から黒い煙が浮かぶ。谷底一面に広がり、太陽すら隠そうとする。夜よりも暗い闇。
垂直に持った蜻蛉切を、姉川の大地に突き立てる。忠勝が叫んだ。
「常闇は武にあらず!」
神鹿が浮かび上がり、祓う。不浄な闇が消えた。直隆はわずかに力を取り戻し、立ち上がる。槍を持ち直した忠勝は、直隆に密着すると、下段から石突で打ち上げた。
氷の巨体が宙に吹き飛ぶ。無双富嶽。落下する直隆に合わせて上空を突く。串刺しにした直隆を地に叩きつけた。
起き上がれない。直隆を動かす霊石の力が、もう残っていない。歩いてくる忠勝に気付いた。構え、残心して、槍を下ろす。
「あの日は誠に申し訳ない。代わりの者に戦わせるとは、見苦しい」
姉川の戦いで直隆に追い詰められた忠勝は、織田の救援により一命を取りとめる。谷底で怨霊となった直隆とも、忠勝は戦おうとせず助けを求めた。
「徳川は負けるわけにはまいらんのだ。どうか許されよ」
直隆の無念は、忠勝の無念。姉川の戦いは、戦国乱世が幕を下ろそうとするころ、ついに決着した。冷たい、それでいて清涼な風が吹く。姉川も次の時代に移り変わる。
直隆は赤い目で忠勝を見る。左手に布を巻いていた。
「気になるか?」
戦いのさなかでは気付かなかった。忠勝も手元に目を落とす。複雑な感情が混ざる表情は、兜の下に隠れている。
「戦ではない。刃物を扱いを間違えた。数日前の話よ」
生涯を通じて、忠勝は戦場で傷を負わなかった。にわかには信じがたいが、疑う者はいない。
「それがしも長くはない、ように感じた。殿の天下はもうすぐ成る。あの日に受けた太刀の手応えだけが、惜しくなってな」
崩れ、散りゆく、真柄直隆。本多忠勝の姿も薄くなり、神鹿の光が失われようとしていた。
ともに武士として戦いたかった。叶わない願いは、最後に刃を交わせられた。
「次は常世で相まみえようぞ」
思いが重なる。二人の思念が同時に消えた。武によって生きてきた者は、武によってしか死ねなかった。