仮面ライダーツルギ・INTERLUDE 影星トロイメライ   作:春風れっさー

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第二話 天ノ川イントロダクション

「はぁ……」

 

 ぼく……輝渓(きたに)二星(ふたせ)の気分は憂鬱だった。

 昼下がりの河川敷を歩きながら重い溜息をつく。心の空が厚い雲に覆われたみたいに気持ちがどんよりとして、気分が上がらない。全身も、筋肉に鉛が浸透しているみたく重かった。

 その原因は、やっぱり昨日のことだろう。お姉ちゃんに付き合わされた、ライダーをカード化する為の戦い。ライダーを無力化し、お姉ちゃんの前に差し出すことの繰り返し。ある種、食事を献上するような作業。それは結局、夜まで掛かった。ライダーを見かけたら戦いを挑んで、モンスターを見つければ餌にして……大変な一日だった。

 ミラーワールドに行って戦ってを繰り返せばどうしたって精神は疲弊する。その上で今日の仕事をしてきたのだから、気分が落ち込むのは当たり前だ。でも仕方ない。それがぼくの日常だ。

 

 ライダーバトル。少女たちが己の願いを賭けて殺し合うゲーム。ある日突然現われた謎の少女アリスによってぼくたちはそんな悪意だらけの祭典に誘われた。

 デッキを渡された日を今でも憶えている。黒衣を纏った妖艶な少女が、鏡の中から二つのデッキを差し出して言うのだ。

 

『どちらが願いを叶えますか?』

『無論、両方なのです』

 

 答えたのは、お姉ちゃんだった。

 人を殺すかもしれないゲームでも、お姉ちゃんはいたく乗り気だった。ルールのあらましを聞いて、ほとんど即答した。現実に人の命が失われる殺し合いでもお姉ちゃんは揺るがない。お姉ちゃんには、そういう強さがある。

 

『願いを叶えるなど、またとない機会なのです。蹴落とし、足を引っ張り、のし上がる。そうした結果誰かが死んだとしてもそれは所詮は他人事。現実でも別に変わりはしないのです』

『お、お姉ちゃん……』

『お前は私の手足として働くのです』

 

 アリスから受け取ったデッキを押しつけて言うお姉ちゃんの命令に、嫌とは言えなかった。ぼくはいつだって言えない。お姉ちゃんの言いなりだから。

 ずっとずっとそうだった。

 小さな頃からぼくはお姉ちゃんの言うことは何でも聞いてきた。お姉ちゃんは優秀で、ぼくは凡人。いや、それ以下だ。引っ込み思案で何の取り柄も無いぼくがお姉ちゃんの命令を聞くのは当然だとお姉ちゃんは言う。ぼくもそれを、心の奥底では認めていた。

 何も無いぼくは、お姉ちゃんに逆らえない。

 言われるがままにミラーモンスターと契約し、ライダーと戦った。時には囮として引き付けて、時には罠のあるところまで押し込んだ。そうしてお姉ちゃんの手にかかり、カードにされていく光景を何度も見てきた。

 消滅していく人たちの断末魔がこびり付いて離れない。

 

 だから勝手に精神を磨り減らして、こうして陰鬱に落ち込む。

 河川敷に吹く風に溜息を溶かしながら、ぼくは独りごちた。

 

「どうしてこうも、弱虫なんだろう」

 

 ぼくはどうしても、お姉ちゃんみたいにはなれなかった。

 それは容姿にも現われている。

 

 眉目秀麗で知られるお姉ちゃんと同じ顔の筈なのに、その印象は似ても似つかない。

 ぼくこと輝渓二星とお姉ちゃんこと一星(ひとせ)は、双子の姉妹だ。一卵性で、顔は似ている。背も同じだ。けれど実際に会って感じる印象と、性格は、まるで真逆だった。

 

 お姉ちゃんは美少女だ。オシャレで、自信家。自分が優れていると信じていて、そして実際、すごい。

 リボンやバレッタで纏められた灰色の髪は右のサイドテール。服装はいわゆる地雷系で、黒が主体の派手な格好が好きだ。チェーンやピアスをこれでもかというくらいしていて、履くのもいかつめなブーツ。そんな人目を引くような格好をしても似合ってるし、気後れもしない。お姉ちゃんはいつだって自信に満ちあふれた人だ。

 表情も目付きは鋭く、見下すような下目向き。メイクもバッチリなお姉ちゃんは街を歩けば声を掛けられるような美少女だ。

 

 一方でぼくは、どうだ。まるで違う。並べば双子だとは分かるけど、同じ顔でもお姉ちゃんらしさは欠片もなかった。

 伸ばしたロングヘアはボサボサのくせっ毛。服は甘めのワンピースで、どうにも少女趣味が抜けきらない。せめて靴はお姉ちゃんと同じ物を履こうと思って色違いにしたけれど、分厚いブーツは服とミスマッチでちぐはぐだ。オシャレなのはチョーカーくらいで、でもそれもお姉ちゃんに言われて付けている物でぼくの成果じゃない。垢抜けようと頑張ってもどうにもならない、無駄な努力の跡が見え隠れするのがぼくの格好だ。

 表情はオドオドして人に媚びるような上目遣いで、目の下には隈がある。それはぼくの性格と、ストレスで染みついてしまった変えようが無い物だ。

 

 お姉ちゃんとぼくは違いすぎるほどに違う。容姿も、性格も、何もかもが。

 同じ双子なのにどうして……なんて言葉は耳にたこができるほど聞き飽きた。周りからの声も、自分の裡から湧き出る声も。

 

 同じになれるなら、きっと。

 ぼくが今抱えている悩みのほとんどは、綺麗さっぱり無くなるのに。

 

「なんて、いつも通り落ち込んでたら、またお姉ちゃんにうじうじしてるって言われちゃう」

 

 いつもこうして一人で悩んで、それをお姉ちゃんに怒られる。学習しないぼくの悪い癖。

 

「……早く帰ろう」

 

 背中の荷物を揺らしながら歩みを進める。家に……店に戻れば、気分は幾分か上向く。早く帰って、大人しくしていよう……。

 

 その時だった。

 

「そこの人、どいてください!」

 

 なんて、一人勝手に落ち込んで俯いていたから。

 その人の慌てた声を聞くまで、何も気付かなかった。

 

「へ?」

 

 顔を上げると、そこには飛び上がったケダモノ。青空を背に四足を目一杯に伸ばした、白と黒のもふもふな毛皮を被った大きな動物がいた。

 首輪をしたそれは、犬。犬種は、シベリアンハスキーという奴だったろうか。愛嬌よりも、オオカミみたいな格好良さが人気な子だ。力持ちな大型犬で、雪の中で犬ぞりを牽いている動画を見たことがあった。

 その子は、ぼくの真正面にジャンプして、

 

「ぼふっ!?」

 

 そのまま、ぼくの顔面にダイブした。お腹の毛皮に埋まって声がくぐもる。洗い立てのタオルで顔を拭いた時を思いだした。でも気持ちいいという感触は一瞬だ。彼――か彼女かは知らないが――はそのままぼくの肩を踏み台に、アスレチックをよじ登るように頭を乗り越えた。

 

「な、なんだ、った」

 

 の、と言葉を続けようとした。したのだけれど。

 

 不幸は三つ。

 一つは紛れも無く、ぼくの不注意でハスキーと正面衝突したこと。

 二つ目は、ぼくが仕事の帰りでギターケースを背負っていたこと。

 そして最後の一つは――ハスキーのリードが、ケースの細くなった部分に輪投げめいてすっぽり嵌まってしまったことだ。

 

「ぐえぇっ!!?」

 

 ぐいと身体を引っ張られる感触。ギターケースの紐がぼくの両肩を締め上げる。潰れたカエルみたいな悲鳴を上げて、ぼくはそのまま後ろに倒れ込む。

 尻餅をついた。響く鈍痛が染みる。けど悲劇はまだ続く。

 残念なことに――女の子なら普通喜ばしいことなのだけれど、その時ばかりは本当に――非常に運の悪いことに、ぼくの体重は、平均より軽かった。

 大型犬であるハスキーには重りにすらならなかったのだろう。ぼくはそのまま――引き摺られた。

 

「あああああぁぁぁぁ」

「うわああっ!? 大丈夫ですか!?」

 

 声を掛けてくれた人だろう。男の子の声だ。びっくりしている。それもそうだ。目の前で人が市中引き回し(誤用)の如く引き摺られれば。けど突然のことにパニックになっているぼくは答えられず、訳が分からなくなってそちらの方をまともに見ることもできない。

 衝撃と目まぐるしく変わる景色と摩擦で熱を持ち始めたお尻とで、ぼくの頭は真っ白だ。何も分からない。猛スピードでどこかへ連れて行かれているということ以外は。

 

「わわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ」

「待って、くださ……捕まえた!」

 

 その時、ぼくの手を掴む人がいた。その感触で、ぼくは初めて目の前に人がいることを認識した。

 さっき声を掛けてくれた人。大丈夫かと呼びかけてくれた人。

 高校生、ぼくと同じくらいの少年は、ぼくの手を捕まえて――。

 

 ここで、不幸は四つあったことを知る。

 数年ほど愛用していたギターケース。今日みたいな日に出かける時にはいつも背負っていた。だからか痛みが激しくて、もう少ししたら買い換えないと、なんて寂しく思ったことを今、思いだした。

 つまり。

 

 丁度、今、限界を迎えた肩紐がぶっちぎれた。

 

「あっ……」

 

 背中から離れていくケース。一方で、引っかかったリードは余程ジャストフィットなのか嵌まったままだ。

 ぼくの黒い箱は、そのままご機嫌なハスキーくんの爆走によって引き摺られていった。

 

「わあああああっ!?」

 

 慌てて立ち上がり、追いかけるぼく。でもぼくという重りを物ともしなかったわんこだ。軽くなった今、スピードを落とす理由は無かった。必死に追い縋るが、追いつけない。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 その時やっと、話しかけてくれた人の顔を見ることができた。

 併走するのは十代後半の少年。私服を着ているけど、高校生くらいだろうか。平凡な印象を受けるけど、よく見ると整った顔立ちだ。その顔はさっきお尻を強かに打ち付けたぼくを心配しているのか、眉根が寄せられていた。

 あの子の飼い主なのだろうか。ぼくはそんな風に考えながら答えた。

 

「ぼ、ぼくは。でもケースが」

「何か大事な物が!?」

「仕事道具が……!」

 

 そう、あれはぼくの貴重な飯の種なのだ。失ったらすぐに路頭に迷うということもないが、無くなったらとても困る。

 それを聞いた少年は表情を真剣な物に変えた。

 

「分かりました、なら僕が!」

 

 言って少年は加速し、ハスキーへと接近する。やっぱり男の子だからか、ぼくよりも速い。

 そして伸ばした手は、ギターケースへと届く。

 のだが。

 

「うわあああああっ!!」

「ああっ」

 

 今度はそのまま少年が引き摺られてしまった。豪快に胴体着陸し、ズザザッと悲惨な音を立てて滑走する。命の危機を感じたのか咄嗟に手を放した少年を、ぼくは慌てて助け起こす。今度はぼくがこれを言う番だった。

 

「大丈夫ですか!?」

「は、はい……でも、ケースが……あれ?」

 

 ギターケースはそのままだ。まだリードに絡まったまま。

 だけどぼくらの足は少年を助け起こす為に止めてしまった。だから犬がそのまま爆走して走り去ってしまったのなら、追いつけずにどこかへ行ってしまっただろう。

 でもハスキーはまだそこにいた。足を止め、舌を出してこっちを見ている。

 

「なんで……い、いやチャンスだ」

 

 疑問が湧くが、それよりもケースの回収が先だとぼくはハスキーへと近づいていく。後もう少しというところまで近づく。だがその瞬間、彼はたたっと駆けて手の届かない距離まで離れてしまった。ただそこでまた止まり、舌を出して振り返ってくる。

 ……まさか。ぼくはもう一度近づく。また逃げる。近づく。逃げる。おんなじ行動。

 これは、明らかに。

 

「た、楽しんでる!?」

 

 というか、遊んでいると思っているのだろう。追いかけっこというか、鬼ごっこだ。ぼくが鬼で、ハスキーくんが逃げる側。逃げれば遊んでくれると思って、つかず離れずの距離でぼくらを弄んでいる。その間も絡まったリードはほどけない。

 

「これじゃケースが……」

 

 いつまで経っても取り返せない。どうしようかと悩んでいると、少年が顔を上げた。

 

「……仕方ありません」

「何か妙案が?」

 

 少年はグッと唇を引き結び、言った。

 

「こうなったらとことん付き合うしかありません! 僕らの体力とあの子が満足するか、どっちが早いかの勝負に付き合うしか!」

「え、えぇ……」

 

 確かにそれしか、ないのかもしれないけど。つまりはハスキーくんが飽きるまでの耐久レースだ。

 

「行きましょう!」

「ひえっ……」

 

 だけどそれしかないのも事実。

 ぼくと少年は駆け出した。

 

 

 ※

 

 

 どれだけ走っただろう。

 気付けば空は茜色に染まっていた。

 

「はぁ、はぁ……」

「ぜぇっ、はひぃ……」

 

 荒い息でぼくらは倒れ込む。その全身は砂にまみれていた。だって砂浜に転がっているのだから、しょうがない。

 ぼくらは結局、川沿いを下って海まで来てしまっていた。ちょっと離れたところでは赤くなった波打ち際でハスキーくんははしゃいでいる。興味があっちに移ったのだろう。

 

「ひぃ……よか、ったぁ……」

 

 それでも瀕死の呼吸をするぼくの手には、ギターケースがどうにか収まっていた。

 

「取り返、せたぁ……けふっ」

「えぇ……よかったです」

「ごめんなさい……たくさん走らせて」

 

 ぼくは隣で膝をつく少年に礼を言った。ケースを取り返せたのは、少年の働きに寄るところが大きい。

 遊んでくれると思っているハスキーくんは距離を詰めると逃げるを繰り返した。その動きは単調で、読みやすい。なのでぼくらは、二手に別れて追い詰める作戦を立てたのだが……。

 結論から言うと、失敗だった。両方から詰められたハスキーくんはどうすればいいか分からずパニックを起こし、ダダーッと勢いよく駆け出してしまったのだ。これを続けるとどこに行くのか分からない。最悪は手の届かないところまで走って行ってしまいそうだったので、結局は後ろから追いかけるしかなかったのだ。

 だから、二人で交代しながら追いかけた。その際、少年の方を多く走らせてしまった。ぼくよりも体力が多いからと言って、自分から請け負ってくれたのだ。

 

 そんな彼の苦労の果てに、ハスキーくんは追いかけっこに飽きてくれた。

 海に興味を惹かれた隙に追いつき、少年がハスキーくんを抱え、ぼくがリードからケースを外した。どうにか取り返したのだ。

 その結果、疲労困憊のぼくたちは砂浜でダウンしているという訳である。

 

「いえ……一応、男ですから……それより」

 

 少年は起き上がって汗を拭い、仰向けに倒れたぼくの上に乗っかりしケースを見た。

 

「ケースの中身は無事ですか?」

「あ、そうだった!」

 

 確認せねば。

 ぼくは疲れた身体に鞭を打って起き上がり、ケースの中身を確かめた。中に張られた緩衝材は、その役目を全うしてくれたらしい。中からは無傷のベースが現われた。

 ホッとして息をつく。

 

「はぁ~……よかった」

「えっと四弦だから……ベーシストさん、ですか?」

「え?」

「仕事道具って言ってたので」

 

 あぁ、そっか。咄嗟にそう答えてしまったのだった。

 仕事道具。それは間違いじゃないけど、ぼくはベーシストではない。

 

「いえ、これは商品(・・)です。売り物ですね」

「売り物? ということは」

「はい。ぼくは楽器を扱うお店を経営してるんです」

 

 ぼくはポーチをまさぐり、小さな紙片を少年に差し出した。

 

「楽器店『アドアステラ』を経営する、輝渓二星といいます」

 

 紙片……名刺を受け取った少年は文字を見て、面食らったように目を見開いた。

 

「店長ですか!? すいません、てっきり同い年くらいかと……」

「あはは、間違いじゃないです。歳は同じくらいだと思いますよ。15です」

「え、僕も15です! え、でもじゃあ高校生……」

「高校行ってないんですよ」

 

 そう答えると、少年はまた驚いたような顔になる。それもそうだ。義務教育が終わるとは言え、実際に高校に上がらず就職する人は今時珍しい部類に入る。普通に高校に上がった子からすれば尚更だ。頭では分かっていても、実感はしづらい。

 しかも店長となれば、尚更だ。

 

 そう。ぼくは店長である。個人経営の楽器店、アドアステラ。その経営者こそがぼくだ。

 ……まぁ従業員がぼく一人な、零細店なのだけれど。

 

「ええと、それで」

「あぁ、僕は……御剣(みつるぎ)(りん)っていいます」

 

 少年、御剣燐くんも名乗ってくれた。

 

「聖山高校の一年生です。よろしく、輝渓さん」

「はい、御剣くん」

 

 ぼくと御剣くんは握手を交わす。同い年だと分かったからか、ぼくの口調は自然と砕けていた。

 奇遇に思う。何故なら『とある出来事』が無ければ、ぼくも聖山高校に通っていた筈だったから。つまり御剣くんはもしかしたらぼくの同級生だったかもしれない人なのだ。そんな共通点が見つかって、嬉しくなる。親近感だ。

 それでも礼は尽くさないと。ケースを閉じ、ぼくは御剣くんに頭を下げた。

 

「ありがとうございます。おかげで商品が取り戻せました」

「いっ!? いや、顔を上げてください、輝渓さん。礼を言われるようなことなんて……そもそも僕があの子を捕まえられなかったのが原因ですから」

 

 そう言って御剣くんは、全ての原因となった波打ち際のハスキーくんの方を見やった。

 

「あ、そうだ。あの子も早く飼い主のところに連れて行かないと」

「えっ、御剣くんのペットじゃなかったの!?」

 

 ぼくは驚愕のあまり顔を上げてしまった。てっきりぼくは、彼の飼い犬だと思ってしまったのだ。

 御剣くんは苦笑しながら首を横に振る。

 

「違います。あの子が飼い主さんからすっぽ抜けて走っていくのを見てしまって……その人がご老人だったので、僕が代わりに追いかけたんです」

「全然関係ないのに……」

「えぇ。でも、まぁ。僕ならどうにかできることでしたから」

 

 そんな風に謙遜する御剣くんだけど、全然そんなことない。見ず知らずのペットを追いかけて、ここまで。普通できることじゃない。

 ぼくのケースだってそうだ。彼の飼い犬だから一緒になってケースを追いかけてくれたのかと思っていた。じゃなきゃ関わる理由がない。でも違った。

 通りすがりの、まったく関係のない人のために彼はここまで走ってきたのだ。

 

(……すごいなぁ)

「え? 何か言いました?」

「い、いえ!」

 

 思わず呟いてしまったのを、首を振って誤魔化す。この時ばかりは、髪を傷める潮風に感謝した。

 代わりとなる言葉をぼくは言った。

 

「えっと、お礼が必要ですよね」

 

 そう。ハスキーくんの飼い主が彼じゃないなら、まったくの無関係だ。そんな御剣くんを走らせてしまったのだから、是が日にでもお礼をする必要がある。

 ぼくがそう申し出ると、御剣くんはブンブンと首を振った。

 

「いえいえ! 僕が勝手にしたことですから!」

「でも、ここまでしてもらったのに何もしない訳にはいきません」

 

 ぼくは引き下がった。それはぼくには珍しい積極性だった。

 いつもなら、する必要があると分かっていても相手に断られたらそれで諦める筈だ。そうですかと取り下げて、曖昧に微笑む。それでお終いだ。

 でも、何故か。

 その時だけは、絶対に諦めないという意志が燃えていた。

 

「でももう遅いですし」

「う……」

 

 だが御剣くんの指摘に詰まってしまう。確かに空は夕焼けに染まり紫色が混ざり始めている。今からお礼というのは、高校生である彼的にあまりよくない。犬も飼い主のところに連れて行かないといけないし。

 

「ええっと、ええっと――そうだ!」

 

 どうしようかと悩むぼくの視界に、彼の手に握られたままの名刺が目に入った。

 

「そこにお店の住所書かれてますよね!」

「あ、はい」

「だったら明日以降! いつでも来てください。今日は定休日で出張買い取りでしたから外にいましたけど、大抵はお店にいますから!」

 

 それがぼくの日常だ。店長であり唯一の店員でもあるぼくは定休日以外店番をしている。今日はこのベースを出張買い取りに言ったからこんな事故にあっただけで、こうして外に出るのは稀なことだ。だからぼくは、いつでも店にいる。

 

「だから来てください! その時にお礼をしますから!」

「いや、僕は……」

「では、これで!」

 

 なおも断ろうとする御剣くんの言葉を遮り、ぼくはケースを抱えて踵を返した。砂浜を登って陸地に乗り上げてから、振り返って叫ぶ。口に手を当て、大声で。

 

「待ってますからー!」

 

 戸惑う御剣くんと、その足元へ近寄るハスキーくん。それを背を向けて、ぼくは走るように帰路へついた。

 

 紐が切れてしまったから両手でケースを抱えながら、ぼくは帰り道を行く。

 冷たくなった風が頬を撫でるのを感じ、それで顔が熱くなっていることに気がついた。

 

(なんでだろう)

 

 顔が熱いことじゃない。理由は分かっている。だから疑問に思ったのはその原因の方だ。

 

(なんであんな無理矢理誘っちゃったんだろう)

 

 自分があんなことを言うなんて、思いもしなかった。遠慮する少年を無理矢理店に誘うなんて。

 意気地無しなぼくが強気に出ることなんて、滅多にない。というか、思い出せる範囲にすらなかった。もしかしたら、初めてのことかもしれなかった。いつもお姉ちゃんの言うことに付き従って自分の意見なんて言ったことの無いぼくだ。史上初でも不思議じゃなかった。

 どうしてそんなことになったか、見当もつかない。こんな勇気がどこから出てきたのか。

 分からない。分からない。分からない。

 でも何故か……嫌じゃなかった。

 

「……早く帰ろっ」

 

 さっきと同じ言葉。だけど声音は、驚くほどに弾んでいた。

 一人になった帰り道を、ぼくは足早に駆け抜けた。

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