仮面ライダーツルギ・INTERLUDE 影星トロイメライ   作:春風れっさー

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第三話 白夜アップビート

 次の日のぼくは、朝からなんだか心が軽かった。

 朝起きて、ご飯を作って、服を着替えてそして今に至るまで。ずっとふわふわと浮ついた気分だ。気を抜けば踊り出してしまいそうな、なんて比喩でしかあり得ないと思っていたけれど、本当にそんな気持ちが存在するんだなと、ぼくは全身で実感していた。そのくらい、気分がいい。

 何故かと言えば、やっぱり昨日した約束がしてくれているのだろう。

 お礼のために、お店に来て欲しい。

 そんな一方通行の約束が、ぼくに生きる活力という物を久々に与えてくれた。

 

「ふんふ~ん♪」

 

 だからぼくは店のカウンターで、鼻歌まで歌い出していた。

 お店――楽器店、アドアステラ。ぼくが両親から受け継いだ、文字通り楽器を扱うお店だ。

 住宅街の端っこに建てられた店舗はあまりいい立地とは言えない。蔦の這った外壁や予算不足でちょっと薄汚れた看板といい、知る人ぞ知る名店みたいな雰囲気をいかにもという風に醸し出している。ただし広さはそこそこだ。二階建てで、下は一般向け、上はハイエンドな高級品を扱うフロアになっている。それでもドラムなどの大型楽器も並んでいると、どうしても狭苦しい印象を受けるレイアウトとなってしまう。品揃えか開放感か。楽器店永遠の悩みどころだ。

 ぼくはそんな店内、一階が見渡せるカウンターでトランペットを磨いていた。

 

「――ほしにたくしたてがみはー。よまれずにきえていくー」

 

 襤褸布で表面を磨き、偶に息を吹きかける。真鍮の光沢が一瞬だけ曇った後、布で撫でるとぼくの顔が映るくらいに綺麗になるのが面白くて好きだ。これを続けるだけで、いつの間にか無心になるくらいには。

 

「それでもとどくぅーよねー。ぼくはいのりつづけてーるよー」

 

 磨いて、吹きかけて、磨いて。一通りそれが終わったら軽く解体して、綿棒で管の中身を掃除する。これは飾っている商品で現役で使っている訳じゃ無いからそこまで汚れてはいなかった。左程黒くなることなく綿棒はその役目を終えた。もちろんマウスピースも忘れずに。

 

「いつかしあわせにあなたが――」

「相変わらず、下手な歌なのです」

 

 そんなぼくに背後から話しかけてきたのは、カウンターの奥から出てきたばかりのお姉ちゃんだった。

 

「わっ、お姉ちゃん!? ……え、もしかしてぼく、歌ってた?」

「歌っていたのです。聞くに堪えない歌を」

「うぅ……」

 

 指摘され、ぼくは顔を赤くして身を縮こまらせた。

 ぼくは歌が下手だ。こればかりはお姉ちゃんと比べて、ではなく、客観的な事実である。実際、中学校では合唱の授業中先生に、色々と指摘された挙げ句に声量を抑えるように言われた。大声でも無いにも関わらず。それはつまり、手の施しようがないくらいということだ。

 

「私の前では止めるように何度も言ったのですにね。気をつけるように」

「はい……」

 

 お姉ちゃんも聞いてて気持ちがいい物では無いらしい。ぼくはしゅんとしてお姉ちゃんを振り返った。

 今日のお姉ちゃんは一昨日のような地雷系の服ではなく、学校の制服を着ていた。見るからに仕立てが良い生地と分かるそれは、藤花学園の物だ。

 

「今日は学校行くんだ」

「折角藤花に特待生として入学したのですから、卒業くらいはしないと箔が付かないのです」

 

 そう言ってお姉ちゃんはバッグの他に背負ったケースを揺らした。

 お姉ちゃんはある分野(・・・・)で天才的な才覚を発揮している。その才能を認められて、藤花学園では特待生として優遇を受けていた。でなければお嬢さま学校で有名な藤花学園の学費なんて払えたものじゃない。

 だからぼくと違って、お姉ちゃんは高校に通えている。……それに思うことが無いことも無いけれど、でもぼくにはこのお店がある。それを捨てて学校に行こうという気には、やっぱりなれなかった。

 でもお姉ちゃんにとって学園生活は、特別楽しい物でも無いらしい。今日もどこか億劫そうだ。

 そのまま通り過ぎようとしたお姉ちゃんはそうだ、と思いだしたように顔だけ振り返って告げる。

 

「なので今日はライダー狩りはしないのです。お前もそのつもりでいるように」

「うん。分かった。いってらっしゃい」

 

 頷きつつ、ぼくは内心でホッと息をついた。良かった、今日は誰かを犠牲にする必要は無いみたいだ。

 店先から出ていくその背中を見送りながら、ぼくはトランペットの掃除に戻った。と言っても、もう後は組み立ててショーケースに戻すだけなのだけれど。

 

 それからは、いつも通りの店番だった。

 先程に述べた通り、アドアステラの立地は劣悪だ。見かけたからフラッと、という展開はとてもじゃないが望めない。ここにお店があると分かってなければ立ち寄れないような場所だ。

 なので、客足は無い。だからぼく一人でも回せる。もちろんお店としては良くないことなのだけれど、店員を雇わなくてもいいのは気楽だった。

 それに客が来なくても、稼ぎ方はある。きょうびどこもネット販売の時代だ。ぼくもその分に漏れず、主力はネット上での売買だ。オンラインでの注文を受け、宅配便にお願いして届いたら取引終了。便利な時代になったものである。

 それでもお爺ちゃんお婆ちゃんはインターネットが不得手であることも多いので、昨日みたく出張買い取りに行くこともあるのだけれど。

 

 カウンターに座りながらノートパソコンでサイトの管理して、時折は電話を取る。その繰り返し。それがぼくの日常。

 代わり映えしないいつも通りの一日。でもぼくは要領が悪い。単調な作業だって必死になってこなさないといけないくらいに。だからぼくは今日も、それなりに忙しく働いた。

 なので気付いた時には、既に午後もいい時間を過ぎていた。

 

「……あ、お昼まだ食べてないや」

 

 時計を見てすっかり午後になっていることを知ったぼくはそのことに気付いたが、腹の虫が静かだったので放っておくことにした。子どもの頃はお昼を抜かれるとただただ損した気分になるだけだったけど、大人になってお金の換算をするようになると、むしろ食費が減って得した気分になるものだ。まぁ抜いた分だけ晩ご飯を食べたりと、どこかで揺り戻しが来るから結局のところは錯覚なのだけれど。

 それでも多少は何かお腹に入れておこうかと、ジュースでも取りに給湯室に向かおうとした時だった。

 お店の入り口が、開いたのだ。

 

「い、いらっしゃいませ!」

 

 慌ててぼくはカウンターに戻りそう言った。先述の通り、客は滅多に訪れない。さっきお姉ちゃんの出て行った扉が次に開くのは、お姉ちゃんが帰ってきたときなんてのはザラなことだ。ぼくは目を丸くして、飛び起きるように背筋をただした。

 扉を開け、お客が姿を現わす。顔を見て、ぼくはまたもや驚愕した。何故なら見覚えがある。つい昨日、出会ったばかりの。

 

「み、御剣くん!?」

「どうも、輝渓さん」

 

 ぺこりとお辞儀するのは昨日出会った少年、御剣燐くんだった。学校帰りなのか聖山高校の制服を着たままで、落ち着いた色調は彼の礼儀正しさを助長しているかのようだった。

 ぼくはカウンターから立ち、彼を迎えに行く。

 

「き、来てくれたんだ。昨日の今日で。いつでもよかったのに」

 

 驚いたのは、そこだ。確かにぼくは明日以降いつでも来て欲しいとは言った。その約束を楽しみに朝からうきうきだった。でも、まさか約束した翌日に来てくれるなんて。

 

「お待たせするのは忍びないなって思ったので」

 

 そう言ってどこか申し訳なさそうに眉を下げる彼に、ぼくは感動してしまった。気をつかわれたのなんて、何年ぶりだろうか。涙すら滲んできそうだ。

 

「そうなんだ……え、えっと、取り敢えず座って!」

「あ、はい。お邪魔します」

 

 ずっと立たせておくのは申し訳ない。ぼくは店の隅へと御剣くんを案内した。そこは楽器関連についてのお客の相談を受ける為の場所で、テーブルと椅子がある。ぼくはそこへ御剣くんを座らせ、ぼく自身は飲み物を取りに行くべくカウンターの奥へと引っ込んだ。

 大慌てでコップを取り出し、さっき飲むはずだったオレンジジュースを注いでいく。ジュース……い、いや、子どもっぽくとも他にお客にお出しできるような物はない。お姉ちゃんの茶葉に手をつけたら折檻が待ってるし。

 

「お、おまたせしました」

 

 ぎこちない笑みを浮かべて席に戻る。待ち時間に御剣くんはお店の中を興味深そうに見回していたようだったが、ぼくの言葉に気付くと頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

「いえ、粗茶……粗ジュースですけどっ」

 

 動揺を表に出さないように努めながらジュースを配膳する。手が微かに震えている所為でテーブルに置く際に少し中身が揺れたが、零さずに済んだ。内心でホッと溜息をつきながら、ぼくも御剣くんの正面に座る。

 それから、少し沈黙。ホストであるぼくから話を切り出さないといけないと気付いたのは、すぐだった。

 

「「あ、あの」」

 

 話し出そうとして、被ってしまう。

 

「「ど、どうぞ」」

 

 こっちも。

 

「えっと、輝渓さんからどうぞ」

「いえ、御剣くんから!」

 

 それからぼくたちは半ばパニックになって譲り合った。互いに話の主導権を押しつけ合った結果、ぼくは僅差で勝利する。

 御剣くんが店内に目を向けながら口を開く。

 

「……綺麗なお店ですね」

 

 不意の一言。一瞬意味が分からず呆けてしまう。それからジワジワと何を言われたのか理解した。

 褒められた。お父さんとお母さんから受け継いだ、このお店を!

 

「そ、そうですか。汚いところですけど、そうですか。……えへへ」

 

 内装を褒められたことなんてなくて、照れ笑いが漏れてしまう。そんな気持ち悪いぼくに嫌悪感を示すこともなく、御剣くんは更に続けてくれた。

 

「ええ。見やすく展示されてますし、ゴチャついているように見えて歩きやすそうです。間取りが考えられていると思いました。それに……」

 

 展示された楽器に御剣くんは目を合わせる。あっと声を出しそうになった。それは奇遇にも、さっき掃除していたトランペットだったのだ。

 

「とても楽器を大事にされていることが伝わってきます。僕はあんまり詳しくないですけど、それでも汚れているという印象は受けなかった。古びてはいても、丁寧に扱われている……このお店を見ているだけで、輝渓さんの人柄が分かるようです」

「そ、そんな……へへ」

 

 ゆるゆると口角が緩んでしまう。そんな風に言われたことなんて、一度もなかった。

 褒められたのなんて、いつぶり……あぁ、そうか。

 懐かしい気持ちになって、目が潤む。

 

「ありがとうございます。……お父さんとお母さん、喜んでくれるかな」

「え? ……その、ご両親は」

 

 言いつつ、御剣くんにはその先が何となく予想できているようだった。それもそうだ。両親がいるのなら、こんな気弱な若輩者が店長をしている筈もない。

 

「一年前……いえ、二年前になるんですかね。二人とも交通事故でポックリと」

「そう、なんですね。すみません、聞いちゃって」

「いえ、もう区切りはついてますから」

 

 実際、忘れられてはいないけど引き摺りすぎてもいないのだ。

 二年前、ぼくが中学生の時、お父さんとお母さんは事故に遭って死んだ。二人の運転する車が玉突き事故に巻き込まれ、運悪くトラックの間に挟まれてしまった両親はぺしゃんこになって帰らぬ人になった。人の形を失った遺体を前にしたその時にぼくを襲ったショックは、流石に酷いものだった。

 胸にぽっかり穴が開いたような、というのも生温い。全身を千々に引き裂かれたような悲しみ。家族を突然、しかもこんな酷い形で失えばそうもなると、今もぼくの心で一番客観的な部分が言っている。

 流石のお姉ちゃんだって、その時は青ざめていた。ぼくみたいに泣き喚いてはいなかったが。

 それでぼくらは孤児になったワケだけれども。

 

「遠い親戚に引き取られる予定だったんだけれど、お姉ちゃんが拒否して。ぼくも二人が遺したお店をどうにか続けたかったから……二人で生きていくことにしたんです」

 

 お姉ちゃんはこれを機に、誰にも縛られない生活をしたいようだった。これ幸い……とは、違うだろうけど。

 ぼくも二人が育てたアドアステラを手放したくはなかったから、お姉ちゃんに追随した。結果高校には行けなくなったけど、後悔はしていない。こうして両親の形見を守れてるのだから。

 それに、今、褒めて貰えた。

 苦労が報われる気持ちだ。

 

「偉いですね」

 

 ほら、また。

 御剣くんはきっと褒め上手だ。

 

「えへへ、ありがとうございます」

 

 今日だけで何日分笑ったのだろう。そんなことを考えてしまう程に口角が上がりっぱなしだ。

 

「それで、お姉さんが?」

 

 御剣くんは今の会話で気付いたように言った。

 

「あ、はい。聞いたことがないですかね、輝渓一星って」

「えっと……あっ! もしかして天才ヴァイオリニストの……」

「そう! それです!」

 

 さっき御剣くんは音楽に詳しくないと言っていたけど、それでも知っていたみたいだ。

 彼の言う通り、お姉ちゃんは天才ヴァイオリニストである。

 繊細な指捌きと凪のように揺るがない音運び。お姉ちゃんは世界中の聴衆を魅惑するヴァイオリンの天才だ。日本だけではなく世界でも評価されていて、高校生ながら既にコンテストでいくつも入賞している。まさに世界へ羽ばたく天才児だった。

 

「母がファンなんですよ。熱心に応援していて……一緒にローカル番組のインタビュー見せられたことがあります。『聖山で生まれた音の星』って」

「あぁ、そんなこともありましたね……」

 

 あの番組のインタビューを受けたお姉ちゃん、終始愚痴ってたな。『質問の内容がつまらない』とか『そもそもローカルテレビなんてオワコン出ても意味ないのです』とか。放映後をチェックして『私の演奏シーンの使い方がなっていないのです』とかも言ってたっけ。お世話係としてマネージャーの真似事をしていたからよく憶えている。……もちろん、イメージダウンに繋がるそんな裏事情は晒さないけど。

 

「そんな一星さんがお姉さんなんですか」

「はい、双子の。……おかげで小さい頃からよく比べられて。『じゃない方』呼ばわりも珍しくなかったり」

「それは……大変ですね」

「仕方ないです。実際、お姉ちゃんと違ってぼくは落ちこぼれですから」

 

 自嘲する。

 お姉ちゃんは天才で、幼い頃からその才覚を露わにしていた。小学生の全国コンクールでは余裕の優勝。それからずっと注目の的だ。

 一方のぼくに音楽の才能は欠片もなかった。覚えが悪くていつまでも弾き方を習得できないし、覚えてもテンパって音を外すし。それに音痴だ。

 音楽の神様に愛されたお姉ちゃんと、うち捨てられたぼく。どっちが落ちこぼれかは一目瞭然だった。

 お父さんとお母さんはそんなぼくも変わらずに愛してくれたけど、それ以外の人たちには小さな時からよく比べられたっけ。用事があるって呼び出されて向かうと大抵が勘違いで、『天才じゃない方』扱いをよくされた。

 だから慣れてる。今更何も思わない。

 

「落ちこぼれって、そんなことないですよ」

 

 けど否定されるとは、思ってもなかった。

 

「へ……」

「別に音楽の才能が絶対ではないと思います。それに誰もが世界的な才能を持っているとは限りません。僕だってその……具体的な取り柄とかあんまり思いつきませんし」

 

 そう言って御剣くんは苦笑する。

 そんなことはないと思う。この短時間で御剣くんのいいところはたくさん見つけられた。思いやりできるところとか、褒め上手なところとか。ぼくなんかより、ずっとずっとすごい人。

 

「だから輝渓さんだって、素敵な人ですよ」

 

 そんな人が屈託なくぼくを肯定してくれる。

 天にも昇る気持ちだ。

 

「ありがとうございます、えへへ」

「それで、輝渓さんの方のお話はなんでしょう」

「え? ええと」

 

 有頂天になったところで本来の目的を思い出す。そうだった、ぼくは御剣くんにお礼をするためわざわざ呼び寄せたんだ。

 

「あっ」

「?」

 

 だけど、ぼくは気付いてしまった。

 

 お礼、何も用意していない……!

 

「ええっと、その」

 

 ぼくの馬鹿! いやいつも馬鹿だけど、今日のはいつにも増して馬鹿だ。

 お礼の約束をしただけで浮かれて、肝心のお礼を忘れるなんて。

 

「き、昨日のお礼なんですけど……」

「はい。いえ、全然いいですよ。何もしてませんし」

「そんなワケにはっ!」

 

 御剣くんは謙遜して断ろうとしてくる。ここでぼくが何も用意していないなんて言ったらそのまま帰ってしまいそうだ。そんなことをするワケにはいかない。昨日はぼくのケースを取り返すべく体を張ってくれたんだ。お礼は是非にでもしないと。

 何か、何か渡さないといけない。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 ぼくは席を立ち、カウンターに向かった。そして内側にある引き出しを漁る。引き出しの中には雑多な物が詰め込まれており、その中には未使用品もあった。その中に渡すのに適した何かがないかと必死に探す。

 クッキー一個。お茶請けにもならない。金券。生々しいか。リコーダーの中身を拭くあの棒(クリーニングロッド、マクガイバーというのは嘘だ)。楽器をやらない人にはいらない。

 どうしよう、碌な物がない。

 ここは開き直って店の中にある楽器を何でも一つプレゼントでもするか……と考え初めていた時、通帳の間に挟まっていた物に気付いた。

 

「これは……チケット?」

 

 それは海を思わせる青い背景にデフォルメされた可愛らしいペンギン、そして『聖山うみの森水族館 お二人様入場券』と書かれた紙片だった。ペアチケットだ。

 これは確か、そうださっき話したインタビューで取材費と一緒にオマケで貰ったんだっけ。ぼくたちが双子だから一緒に遊びに行けるようにという配慮なのだろう。人間以外の生き物がさして好きじゃないお姉ちゃんは『イルカの鳴き声を聴いて何が楽しいのですか』なんて言って捨て置いたのを、捨てるのは勿体ないからとぼくが貰ってそれ以来すっかり忘れていた。こんなところに仕舞っておいたのか。

 丁度いい。恩人にあり合わせの品物を渡すのは忍びないけど、手ぶらで帰らせるわけにはいかない。今度改めてお礼する為にも今はこれを渡そう。

 

「みみみ御剣くん!」

「ど、どうしたんですか」

「これを、どうぞ!」

 

 慌てた所為で声が裏返ってしまったが、ぼくはチケットを彼に差し出した。受け取って御剣くんは首を傾げる。

 

「水族館のチケット、ですか」

「はい、是非! ご家族とか、恋人とかとご一緒に」

 

 ペアチケットはそうやって使う物だから、と言ってしまったのち、ぼくは気付いた。

 御剣くん、彼女とかいるのだろうか。

 いや、いるかもしれない。だってこんなに性格がいいのだもの。世の中の女の子たちが放っておかない。残念ながら今時の青春事情という奴にぼくは疎いけど、きっとそうに違いない。

 そう思いつくと、なんだか胸の中がモヤモヤとした。

 

「恋人――」

 

 御剣くんが口を開く。どうなんだろうか。いるのか、いないのか。

 というか、いたらなんなのだろう。ぼくは何を気にしているんだ。御剣くんとぼくは学校すら同じでない、まったく関係ない人間なのに。

 自分の心が分からず、余計にモヤモヤする。

 そんなぼくの目の前で、彼は続ける。どっちだ。

 

「――なんて、いないですけど」

「そっ……そうですかっ」

 

 安堵。いや、なんで安堵なのだろう。

 これじゃまるで……いや、今はお礼の話だ。

 

「取り敢えず、これを差し上げます! 次はもっといい物用意しますから!」

「いや、いいですって。でもこれ、どうしようかな……」

 

 御剣くんはチケットを手に悩んでいるようだった。確かに彼女さんとかがいなければ使い道に困る代物だろう。失敗だったかもしれない。まぁ最悪は、金券屋とかに売ってもらえればそれでいいのだけれど。

 

「う~ん……あっ、じゃあ」

 

 何か思いついたように御剣くんは言う。その視線は……ぼく?

 

「あの……?」

「一緒に行きませんか?」

「へ?」

 

 一緒に? 誰と?

 ……ぼく?

 

「え、ええええええええええええええ」

 

 楽器店アドアステラ。

 いつも通りの我が家に、初めて聴くような音が響く。

 それはぼくの叫びだった。

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