仮面ライダーツルギ・INTERLUDE 影星トロイメライ   作:春風れっさー

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第四話 明星シンフォニア

 異音が鳴り響く鏡映しの世界。その公園で、ぼくは戦っていた。

 

「あぐっ!」

 

 衝撃。盾越しに刃が鈍く煌めくのを目撃する。シマウマ型のモンスターが振り下ろす二撃目を、ぼくはもう片方の丸盾で受け止めた。

 ぼくが変身する仮面ライダー、メイサは防御を得意とするライダーだ。二枚の丸盾、ルナテクターと相手の妨害を防ぐレジストベント。この二枚のカードを上手く使って敵の攻撃を凌ぐのがぼくの戦い方。

 自力での攻撃手段は、無いに等しい。だから誰かの手を借りなくては勝てない。

 

「お願い……!」

 

【ADVENT】

 

 右腕の手甲にある召喚機、ルナバイザーへとカードを読み込ませる。鏡を割る音と共に現われたのはぼくと同じ色をした猟犬だった。

 体型は犬だけど、体躯は牛ほど大きかった。頭の両側からは羊のようにねじ曲がった角がついている。これがぼくの契約モンスター、ルナバウンドだ。

 ルナバウンドは一声吠えると、シマウマのモンスターへと躍りかかった。

 

 爪を振り下ろし、盾と鍔迫り合っていた剣ごと叩き潰す。のし掛かられる形になったシマウマは剣を振って抵抗するが、両角に阻まれて頭には届かなかった。

 そのままルナバウンドは首筋に噛みつき、玩具のようにブンブンと振り回す。

 

「今だ!」

 

【FINAL VENT】

 

 戦いが得意じゃないぼくでも分かる大きなチャンス。そこにぼくは最大火力を叩き込むことにした。

 電子音を聞いたルナバウンドは咥えていたモンスターを高く中空へと放り投げる。そしてぼくが背中に跨がると、後を追うように飛び上がった。

 跳躍したルナバウンドは口から白い光を吐く。それはぼくらを覆い、繭のようになる。光のバリアだ。

 そしてそのまま、突撃。シマウマ型モンスターはより高く跳ね上げられて――高空で爆発四散した。

 

 着地し、ぼくは花火のように消えていく残骸を見送る。

 

「勝った……」

 

 ルナバウンドの背を降りたぼくはその場にへなへなと崩れ落ちた。情けないぼくの姿を横目にした相棒は、無視してモンスターから抜け出した白い光の球体を食べに行く。ミラーモンスターの魂……? のような物は彼らにとってご馳走らしい。

 

「片付いたようなのですね」

 

 聞こえた声に顔を上げると、そこにはお姉ちゃん――赤と黒の仮面ライダー、キオンがいた。

 お姉ちゃんの左手には、何体ものシマウマの首がぶら下がっている。

 

「お姉ちゃん……」

「たった一匹にそこまで苦戦するとは、相変わらずひ弱なのです」

「う、ごめん……」

 

 言い訳のしようもない。ぼくが一体に手間取っていた間にお姉ちゃんは倍以上のモンスターを相手に戦い、勝っていた。後ろには喉を鳴らす一角の猟犬、ソルバウンドが追随している。ぼくのルナバウンドと違ってたらふく食べられたからだろうか、その表情はどことなく満足げだ。

 

「餌やりはこれで充分なのです。帰りますよ」

「うん、分かった」

 

 促され、ぼくらはミラーワールドの公園を後にする。

 今日はモンスター狩りの日だった。ミラーワールドで戦うライダーの敵はライダーだけじゃない。そこに住む異形、ミラーモンスターも対象になる。

 モンスターを倒しても願いに近づけるワケじゃない。でもモンスターは食事を必要としていて、その餌は同じモンスターか……人間だ。

 だからお姉ちゃんとぼくは定期的にモンスター狩りをしている。意外……と言うべきか、お姉ちゃんはバウンドたちに人間を食べさせたことはない。人間を襲わせることは元より、倒したライダーを捕食させることも(そっちは、テンプリングベントでカードにしているからとも言える)。

 お姉ちゃん曰く、

 

『人の味を覚えて牙剥いてきたら大変なのです』

 

 らしい。

 お姉ちゃんは何というか、こういう危機管理に敏感だった。ライダーとの戦いでぼくを陽動にするのも、余計なリスクを背負わない為だ。安全マージンを確実に取って、確実に勝ちに行く。それがお姉ちゃんの戦い方だ。

 今日はお姉ちゃんが敵を多く引き付けたが、それは確実に勝てる相手だったからだ。バウンドたちは、結構強い。並みのモンスター相手にはちょっとやそっとじゃ負けない。だからモンスター相手なら、ぼくも安心して戦えた。

 

「では今日はこのくらいにして、帰るのです」

 

 日が暮れ始めた空を眺めてお姉ちゃんは言った。その言葉にぼくはホッと胸を撫で下ろす。モンスター狩りで一日が終わる。つまり人を殺さずに済む。何よりだ。

 

「でも次に狩りに行くのは……そうですね、日曜日がいいのです。その日ならば出歩いている人間も多いし、ライダーもモンスターも借り放題なのです。そうするのです」

「えっ、日曜日?」

「? どうしたのです?」

 

 怪訝な顔を浮かべるお姉ちゃんに、ぼくはおずおずと手を挙げた。

 

「その……その日は、予定が……」

「予定? お店の都合なのです?」

「えっと、違くて、その……」

 

 ぼくはしろどもどろになりつつも、意を決して言った。

 

「と……友達と! 遊びに……行くの」

「……友達? お前が?」

 

 珍しく驚いた表情でお姉ちゃんが目を見開く。それはそうだ。こんなことを言うのは初めてだった。

 

「そう……だから、また別の日じゃ、駄目かな……って」

 

 遠慮がちに言う。

 もし駄目と言われたらそれは駄目だ。お姉ちゃんに逆らえるワケがない。

 

「ふむ……」

 

 ドキドキと祈るようにお姉ちゃんの次の言葉を待つ。

 

「……ま、いいのです」

「ほ、ホント?」

「急ぎでもないですしね。構わないのです」

 

 はぁ、と息をついた。よかった。

 

「でも、一体誰と行くのです? 二星だけの友人なんていたのです?」

「それは、ええと……」

 

 小首を傾げるお姉ちゃん。

 

「さ、最近できたの。その……とっても、良い子なんだ!」

 

 答えたぼくの声音は、少しだけ弾んでいたかもしれない。

 

 

 

 

 魚が海の波を泳ぐ生き物ならば、人は人の波を泳ぐ生き物なのだろう。

 水族館の通路で川の流れめいて犇めく人混みを見ながら、ぼくはぼんやりとそんなことを思った。

 

 聖山うみの森水族館は聖山市の海沿いに位置する水族館である。流石は地方都市の人気スポットで、休日の今日は人でごった返していた。家族連れに友達同士、あるいはカップル。すれ違う人たちの表情はみんな楽しげだ。

 正直、人の多いところは得意では無い。呑まれて頭がクラクラするとまでは言わないけど、ほどほどに苦手だ。いつもなら大通りだって無意識に避ける。

 けど今は、そんなことがまったく気にならなかった。

 何故なら周りの人を気にする余裕がないくらいに、ぼくの心臓がバクバクいっているから。

 

「わぁ、綺麗ですね」

 

 ウェルカムホールを抜けた先。そこには大陸棚をイメージした水槽と魚たちが展示されていた。水族館と言えばで大抵の人が思い浮かべそうな、暗い廊下と水槽を照らす青白い光の世界。青い海の中を銀に光る魚たちが泳ぎ回り、確かにその光景は幻想的で美しいとぼくも思う。

 だけど隣にいる彼が気になって、半分も入ってこない!

 

 ……ぼくと御剣燐くんは、話の流れで聖山うみの森水族館に遊びに来ることになった。ペアチケットはお礼で渡した物の筈なのに、ぼくが半分使ってしまっている。これでいいのかと言うとよくないのだけど、御剣くんがあまりに自然に提案する物だから通ってしまった。なのでその次の休日、二人でこうして水族館を訪れていた。

 

「この辺りは日本にいる魚たちを展示しているみたいですね。なんか見慣れたイワシとか海藻とかも、こうして見るとすごく綺麗ですね」

「そ、そそそそうですね! 美味しそうです!」

「え?」

「間違えましたぁ!」

 

 素っ頓狂な返事を慌てて訂正する。あぁもう、落ち着けない。それもこれも御剣くんの所為だ。

 今日の御剣くんは当たり前だが私服だった。気取らないTシャツと黒いジャケット。シンプルな格好でアクセサリーなどもつけていない。洒落っ気があまり無い辺りが男の子って感じで、逆にドキマギしてしまう。きっと男友達と出かけるような、いつも通りの服装なのだろう。

 

 一方のぼくは、ちょっといつもより気合いを入れていた。

 セーラー風なオフショルダーの白ブラウスに、紺色のサスペンダー付きフリルスカート。全体的にガーリーな印象で纏めていて、頭にもリボンをつけている。いつも着ているのより大分派手なコーデだ。いつも通りなのはお姉ちゃんとお揃いのブーツくらい。

 あまりオシャレに気をつかわないぼくの持っている中では一番のコーデのつもりだ。……雑誌のモデルそのままの、とも言える。

 だけど普段のぼくではあり得ないくらいに気をつけて整えたファッションだった。髪だって、くせ毛を伸ばしてストレートにしている。お姉ちゃんのヘヤアイロンを初めて使った。

 

 そう、気合いを入れすぎてしまった。

 明らかに空回っている!

 

 だって、だって仕方ない。

 今までぼくはこういう風に人と遊びに行く事なんてほとんど無かった。

 友達がまったくいなかったワケじゃない……けれどぼくの扱いは、基本的にお姉ちゃんのオマケだった。お姉ちゃんを始めとするカースト上位な女子たちの集まりの中に、人数合わせとか、荷物持ちとしてお姉ちゃんに連れられたりとか。そういうのばかりで、お姉ちゃん抜きで誰かと一緒に……という記憶がほとんど無い。というか、皆無だ。

 

 だから初めてなのだ。家族以外の誰かと二人っきりで遊びに行くなんて。

 しかも、異性と!

 

「わ、わぁ。綺麗なお魚ですね!」

「輝渓さん、それヤドカリの水槽……」

「あ、あぁ~……水の中にいるものは広義で見れば全部魚じゃないでしょうか!」

「そうかなぁ……」

 

 常時プチパニックだ。全然集中できていない。今失敗したみたいに、やることなすことが全て的外れな感触がある。

 

「うぅぅ……」

 

 羞恥で顔が熱くなって沸騰しそうだ。どうしてぼくはいっつも……。

 

「輝渓さん、大丈夫ですか? もしかして体調とかが悪かったり……」

 

 挙げ句の果てに御剣くんが心配そうに覗き込んでくる。ぼくは慌ててコクコクと頷いた。

 

「な、何でも無いですよ! ほら、行きましょう!」

 

 たかがぼくのことで心配させてしまうのは忍びない。誤魔化すようにぼくは何でも無い風を装って一歩踏み出す。先に進んで、展示物に目を向けさせようとする。

 けど余所見していた所為か、急に密度を増した人混みの中に呑まれてしまう。

 

「あっ――」

「輝渓さん!」

 

 チビゆえに人の間に飲み込まれそうになるぼくの手を、御剣くんがハシと掴んだ。そしてグイと引っ張られ、御剣くんの隣へ引き戻された。おかげでぼくは人波に攫われることなく済む。

 

「危なかったですね」

「は、はい……」

 

 御剣くんはホッとしたように言った。彼にとって今の行為は、せっかく一緒に遊びに来たのにはぐれては勿体ない……それだけの筈だ。それは分かってる。

 けど、けど……手が……!

 

「輝渓さん?」

「ひゃ、ひゃい……」

 

 掴んだことを忘れているのか、それともはぐれないようにしてくれているのか。ぼくと御剣くんの手は繋がったままだった。

 だからどうしても意識してしまう。剣道でもしているのか、固いタコのできた掌。緊張して冷たくなっているぼくとは違う、平静で温かい体温。無意識だとちょっとだけ痛い、力強い握力。詳細に感じ取ってしまう、彼の手。

 鼓動が爆音を鳴らす。ぼくのノミのような心臓が耳から飛び出そうなくらいに激しく高鳴っていた。クラクラと頭が揺れて、今にも倒れてしまいそうだ。

 

「人が増えて来ましたね……離れないようにしましょう」

「あぅ……はい」

 

 手を放してと言えば済む話。それでぼくは平静に……ちょっとは戻れる。だけど名残惜しさがそのたった一言を拒んでいた。

 このまま繋いでいたい。緊張よりそんな欲が上回る。

 

 でもこのままじゃ心臓が爆発する……!

 そんな風にどうするべきか迷走するぼくの頭上に、ふと青白い光が降り注いだ。

 

「……! わぁ……!」

 

 見上げるとそこには、天国のような光景が広がっていた。

 円筒状にくり抜かれた天井。ガラス張りになった空間を色とりどりの魚たちが泳いでいる。群れを成すイワシに、白い腹と愛らしい口元を晒すエイ。サメまでいる。普段は恐ろしいと感じる形相も、他の魚たちと一緒に優雅に泳いでいれば民衆を守る騎士のようにかっこいい。

 幼い頃に夢見た、理想の海がそこには広がっていた。

 水槽のトンネルだ。

 

「すごいですね」

 

 御剣くんも一緒に天井を見上げている。周りの人たちも同じで、中にはスマホで撮影している人もいた。人が急に増えたのはこれを見る人たちが歩みを止めていたのと、トンネルで狭くなって混雑していたのとで二つの理由があったことを悟る。

 だけどそれも無理ない。誰でも足を止めて見入ってしまうだろう。そう思ってしまうくらい綺麗な光景だった。

 

「すごい、ですね……」

 

 御剣くんの言葉をオウム返ししてしまう。それに気づけないほど夢中になっていた。会話に脳のリソースを使えていない。ぼくの全身全霊をもって、この光景を受け止めていた。

 

「綺麗……まるで夢みたい」

「ですね。本来食い合う関係にある魚たちも、争うことなく同じ水槽の中を泳いでる。平和な……理想郷のようです。……現実じゃ、こうはいかない」

 

 御剣くんが呟いた言葉。その中には一抹の寂しさが混ざっていた。

 確かに、これは人工的に作られた夢の世界だ。サメが近くにいる小型魚を食べないのは、飼育員によって充分な量の餌が与えられているから。それを怠ればこの水槽の中は一変して阿鼻叫喚の地獄と化すだろう。

 自然の摂理をねじ曲げた、だからこそ実現した平和な世界。

 現実ではあり得ない光景だ。

 

「……そう、ですね」

 

 羨ましい、そう思ってしまう。

 だってあの世界では、殺し合う必要はない。みんなが満ち足りて、悠々と泳いでいる。

 ライダー(ぼくら)みたいに願いを賭けて戦うようなことはしない。閉じられた空間、造られた環境。だけど苦しむこともなく、望むこともないのだ。

 夢のお話。奇跡の世界。

 それがどうしようもなく、眩しく見えて。

 

「………」

 

 御剣くんも、同じなのだろうか。

 彼の嘆息のような言葉には何か共感できるような響きがある。

 ぼくと同じように争いの現実を憂いているような。勘違いかも知れないけれど、そんな物を感じた。

 だとしたら、何をもってそんな思いを抱いているのだろうか。

 ……分からない。ぼくは御剣くんのことを知らな過ぎる。

 

 隣を見上げる。

 青白い光に照らされた少年の横顔は、叶わない羨望を抱いているかのようで。

 静かで、溜息をついてしまいそうなくらい綺麗だった。

 

「……あ」

 

 そこで思い出してしまう。

 そういえば、手を繋いだままだった。

 

「あ、あわわ……」

「ん? 輝渓さん?」

 

 ぼくに気付いた御剣くんが天井に向けていた目線をこちらへ降ろす。い、今御剣くんの顔を真正面から見てしまったら!

 心臓が再稼働する。さっきまで忘れてトンネルに見惚れていたのがむしろまずかった。一度静まった血流がまた激しくなって……。

 

「……きゅう……」

「え、輝渓さん、輝渓さーん!!?」

 

 意識が急に遠のいて、ぼくの目の前は真っ暗になった。

 

 

 ※

 

 

「うぅ……ごめんなさい」

「いえ、大事なくてよかったです」

 

 数十分後、ぼくと御剣くんは並んでベンチに座っていた。

 

「どうぞ。好みが分からなかったので、お茶ですけど」

「あ、ありがとうございます……」

 

 御剣くんから自販機で買ってきたであろうペットボトルを受け取って蓋を開ける。喉を通る冷たい感触が心地よかった。

 今いるのは澄み渡った空の下、つまり屋外だ。動物園のようになっている一角で、魚以外の生物が展示されている。ベンチからは少し遠くだけど、ペンギンたちが愛らしく行進しているのが見えた。

 どうやら御剣くんが意識を失ったぼくの肩を支えて連れてきてくれたらしい。外の空気を吸わせようとしてくれたのか。気遣いが申し訳ない……。

 

「平気そうですか?」

「あ、はい。大丈夫です、ちょっと目眩がしただけで……あはは」

 

 まさか興奮しすぎてとは言えない。

 

「そうですか。ではここで休憩しましょうか。僕もちょっと疲れましたし」

 

 そう言って御剣くんも買ってきた自分の分のコーラを開けた。お言葉に甘えて少し休憩しよう。

 涼しい風が頬を撫でる。それに乗せられて耳へ届く声も、やはり楽しげな物ばかりだ。

 

「見てー、お母さん! ペンギンさん!」

「あらホントねー。可愛いねー」

 

 ペンギンを見てはしゃぐ娘と、それを穏やかに見つめる母親の声。幸せそうなそれに、つい懐かしさを覚えてしまう。

 ぼくもお母さんたちが生きていた頃は、あんな風に遊びに行ったっけ……。

 胸を寂しさが去来する。一年間で踏ん切りがついたと思ったけど、まだまだみたいだ。

 

「……御剣くんは、こういうところよく来るんですか?」

 

 寂しさを誤魔化すため、御剣くんに話しかける。

 

「僕ですか? そうですね……たまに家族と来ますね」

「ご家族と……」

「はい。親と、妹と一緒に」

 

 妹、妹かぁ……御剣くんみたいなお兄ちゃんと暮らせたら、楽しいんだろうなぁ。

 

「仲良いんですか?」

「どうなんだろ……昔と比べるとちょっと反抗的になっちゃって。思春期っていうんですかね」

「へぇ、そうなんですか」

「はい。だからたまに兄妹喧嘩とかしちゃいますよ。まぁ、大抵は僕の方が負けちゃうんですけど……」

「ふふっ」

 

 それはきっと優しい御剣くんが譲るからなんだろうな、と微笑ましくなって笑ってしまう。それにして……。

 

「……喧嘩、かぁ」

 

 ぼくは……したことが、あったかな。お姉ちゃんに逆らうなんて、怖くて思いついたこともない。

 お姉ちゃんは気が強くて、譲らなくて……それで、正しい。お姉ちゃんの言うことは、いつも間違っていないのだ。

 ヴァイオリンを弾くお姉ちゃんはいつだって自信満々でミスをしない。お母さんとお父さんが死んだ時、親類の下に行くという話を突っぱねたのも、正しいと思う。

 お姉ちゃんは、いつだって正しい。だから逆らったことなんてない。

 でも……御剣くんの話を聞いて、ふと思ってしまった。

 もし、ぼくに譲れないことがあったら?

 喧嘩するだけの理由があったなら?

 その時は……どうすればいいんだろう。

 

「御剣くんは、どうします?」

「え?」

「もし、妹さんとの喧嘩で絶対に退けない……なんてことになったら」

 

 抱いた疑問が自然と口から出た。しまった、こんなところで言うつもりなんてなかったのに。

 

「す、すみません! 何を言ってるんでしょうね、ぼく……忘れてください」

 

 慌てて取り消す。だけど御剣くんは真剣な表情で考え込んでしまった。

 

「僕だったら……」

 

 ボトルの結露が玉になって滴り落ちるくらいの時間の後、御剣くんは答えてくれた。

 

「まず、話し合いますね」

「話し合う?」

「はい。何が譲れないのか、何が駄目なのか……それを充分に話し合って、お互いに妥協できる点を探します。時間が掛かっても、根気強く」

 

 話し合う。……それは、思いつかなかった。

 お姉ちゃんと話す時はいつも一方通行だ。お姉ちゃんから一方的に命令されて、ぼくからは報告したりするだけ。お互いの意見をぶつかり合わせるような……話し合いなんて、もうずっとしたことがない。それこそ、遡ったら物心つく前とかになってしまいそうだ。

 ただ、会話する。それだけのことすら、考えつかないほど遠かった。

 だけど、そうか。

 そうなったら、まずは話し合えばいいのか。

 

「案外、お互いに思い違いをしているだけ、なんてこともありますしね。……答えになりましたか?」

「はい……はいっ! ありがとうございます!」

 

 うん、ちょっとだけすっきり。姉妹喧嘩の前に話し合う。疑問は解消だ。

 そんなことをする日が来るとは、思えないけど。

 

「じゃあ、よかったです」

 

 そう言って、御剣くんは安心したようにはにかんだ。

 その笑顔を見て、ぼくは急に納得した。

 

 

 ぼくは……この人が好きなんだ。

 

 

 急だけど、すとんと腑に落ちた。

 こんなに心乱されるのも、考えるだけで浮つくのも、御剣くんが好きだから。そう考えると納得してしまった。

 誰かを理由も無く助けられるところ。偏見なくぼくのことを見てくれるような真っ直ぐな瞳。知り合ってからまだ間もないぼくの相談に真剣に乗ってくれたこと。

 好きなところがいくらでも思いついて、ぼくの心に溢れてくる。

 ぼくとはあまりに違いすぎる、遠く遠くの人。憧れ、手を伸ばしたくなってしまうような、男の子。

 ぼくは、御剣燐という少年のことが……。

 

「……そっかぁ」

 

 好きになってしまったらしい。

 

「……輝渓さん?」

「あっ……」

 

 急に黙りこくったぼくのことを、心配して御剣くんが覗き込んでくる。

 

「いえ、ちょっと考え事をしてて、大丈夫です」

 

 小首を傾げるその仕草にドキッとしながら、ぼくは何でも無いと手を振った。

 

 ……好きだと自覚して、それがなんだと言うのだろうか。

 告白する? ただ一回遊びに行っただけで? こんなのはデートですら無い。

 接点を持つ? どうやって? ぼくは彼と同じ学生ですら無い。今日この日が終われば、もう二度と会うことすら無いかもしれないのに。

 それに……ぼくは。

 

「……そんな資格なんて、ないよ」

 

 自分の耳にも届かないくらい小さく呟いて、指先が白くなるくらいペットボトルを強く握り締める。

 ぼくの手は、とっくの昔に血塗られているのに。

 お姉ちゃんに言われるがままに人を殺してきた。攻撃力が無いからぼく自身で手を下したことはない。けどそれは何の言い訳にもならない。

 命令のままに誘導して、メモリアカードを抜き出して差し出して、それでカードにされていくところも黙って見ていた。

 だったら同罪だ。ぼくも……人殺し。

 そんな奴が幸せになる?

 あり得ない。やっちゃいけない。

 だって、そんな当たり前の幸せは殺してきた人たちにもあった筈なのに。

 だから……。

 

「……そろそろ、休憩終わりにしましょうか」

 

 だから、この恋はここで終わりだ。

 立ち上がって、空を見る。青い空はどこまでも澄み渡って、まるで水槽の中みたいだった。

 けどぼくは知っている。この空の下(げんじつ)は、理想郷じゃない。

 命を奪ったぼくが幸福を享受できるほど、幸せな世界じゃないんだ。

 

「御剣くんは、どこに行きたいです?」

「そうですね、僕は……」

 

 立ち上がった御剣くんと並んで歩き出す。

 せめて、せめてこの時間を楽しもう。

 そうしなきゃ誘ってくれた御剣くんにも失礼だから。そう理由をつけて、ぼくは自罰に少しだけ目を瞑った。

 

 

 ※

 

 

 それからぼくたちは水族館を楽しんだ。深海魚展も見て回ったし、ペンギンショーに歓声を上げた。お昼ご飯も一緒に食べて、目一杯堪能してから水族館を後にした。

 聖山の駅前に戻ってきたのは空に茜色が混ざり始めていた頃だった。

 

「今日は楽しかったですね」

「はいっ」

 

 ぼくは頷く。これ以上無いほど楽しかった。多分、一生で一番。

 御剣くんも楽しんでくれたのか、満足げな表情だ。

 

「じゃあ、ここで解散……」

 

 だけど楽しい時間は終わる。

 今日は駅前で集合した。だから解散もここでと決めていた。名残惜しいけれど、これで終わり。

 なので予定通り、御剣くんが解散を告げようと……。

 

「燐?」

 

 した瞬間、声を掛けられた。

 振り返ると、そこには切れ長の瞳をした美人さんが立って、こちらを見ていた。

 知り合いらしい御剣くんだけじゃなく、ぼくも含めて。

 

「美玲先輩!」

 

 やっぱり知り合いらしい。御剣くんが驚いている。

 美玲先輩というらしい美人さんは、その怜悧な眼差しをぼくへと向けて。

 

「誰よ、その女」

 

 そう、冷たい声で問うた。

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