仮面ライダーツルギ・INTERLUDE 影星トロイメライ   作:春風れっさー

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第六話 三日月クレッシェンド

『いきなりだと流石に怪しまれるのです』

『そう……少し間を空けるのが丁度良いのです。折角のレア物なのですし』

『一週間後、また次の休日に誘うのです』

 

 お姉ちゃんからそう命令されて、一日が経った。

 朝起きてしばらくしてからも、ぼくの頭の中には霞が掛かったかのようだった。

 昨日碌に眠れなかったことが、一つ。

 そしてもう一つは、言われたことがショック過ぎたから。

 

「ぼくが、御剣くんを……」

 

 シーツをぎゅっと握り締める。強く握り過ぎて指先が痛む。でもそんな痛みすら、自罰的に求めた。

 

「……殺さなきゃ、なんて」

 

 ぼくが囮となってライダーを誘い、お姉ちゃんが仕留める。それがいつも通りの狩り。

 その狩りに、御剣くんたちを差し出せという。

 

 初めて恋をした人、御剣くん。

 優しくて、涼やかで、キラキラ輝いている人。

 そんな人を、ぼくは……。

 

「できるワケが、ない」

 

 ……無理に決まってる。家族以外で初めて大切と思えたような人だ。そんな彼のことを殺すなんてこと、できるワケがない。

 御剣くんとの思い出は楽しくて、温かくて。

 胸の中にじんわりと広がるからこそ、切なくて痛い。

 

「でも……」

 

 だからといって、お姉ちゃんに逆らうことも、無理だ。

 今までずっと命令を聞いてきた。お姉ちゃんは怖くて、正しくて、絶対で。

 それを違えたことなんてない。だからこそ、ライダー狩りにも協力してきたのだ。

 人を――殺すなんていう、恐ろしいことにすら従った。

 

「どうすればいいの……」

 

 自問自答しても、答えはでない。

 カーテンから差し込む朝日を浴びながら、ベッドの上で蹲る。そうすれば、画期的な答えが閃くんじゃないかと期待して。

 ズキズキ痛む胸が苦しいだけで、何も思いつかなかった。

 

 その日ぼくは、初めてお店を定休日以外で休んだ。

 

 

 ※

 

 

「……あ、来てる」

 

 しばらくして。

 ようやくベッドから起き上がる気になったぼくは、スマホを取り出してメッセージを確認した。

 昨日ぼくが送った『急用を思い出したので帰ります』の一文。そこに御剣くんが返信をくれている。

 

『そうですか。お疲れ様です』

『今日は楽しかったです。またいつか、遊びに行きましょうね!』

 

 無邪気で、何の疑いもない、優しい言葉だった。

 いっそうに胸が苦しくなる。昨日からずっとそればかりで、心臓を覆うように広がる痛みは鎮まることがちっともない。

 もういっそそのまま潰れてしまえばいいのに。

 

 ……のそりと起き上がる。

 別に、何か理由があったワケじゃない。

 ただ、このままずっとベッドの中に引き籠もっていると、本当に気が狂ってしまいそうな気がしただけだ。

 

 顔を洗って、髪をとかして。

 もちろん、昨日みたいに真っ直ぐにしようとは思わない。

 アレはただ、御剣くんに可愛く思われたいだなんて下心の表れで……。

 そして今のぼくに、そんな資格なんてない。

 

 着替えて、最低限の身だしなみは整える。

 けど、その後のことは考えられなかった。

 洗面台で、ただ鏡を見つめる。

 

 お店を開ける……いや、もう時間は過ぎてしまっている。

 ご飯を食べる……食欲なんてない。

 出かける……何処に?

 

 という具合で。

 ぼくはやる気もなく、ただただボーッとしていた。

 

「……御剣くん」

 

 呟く名前は、重くて苦い。

 罪悪感が一杯で、ジャリジャリと泥の味がしそうなくらいに。

 

 楽しかった。

 出会ってから何もかもが。

 顔を合わせた回数はたったの数回だ。向こうからしたら、ぼくは友達未満かもしれない。

 けど、それだけでぼくの人生には色が付いた。

 

 助けてもらった。誘ってもらった。歌を褒めてくれた。

 様々なギフト。ぼくにとっての初めてだらけ。

 誰かと話して、誰かと出かけて、笑い合う、そんな当たり前の喜び。

 その日が来るのを待っているだけでも心は弾んだ。想うだけで頬はほころんで、自然と笑顔になった。

 考えるだけで、嬉しくなるようなことがあるなんて。

 ネガティブなことばかりを考えるぼくは、生まれてから初めて知った。

 

 御剣くんはぼくにたくさんのモノをくれた。

 彼にとっては、なんてことのないモノかもしれない。いや、間違いなくそうだ。

 でもぼくにとっては……。

 

 初恋。その意味も、単語も、もちろん知っている。

 世の乙女をときめかせる現象。子どもが乙女となり、そして女性へと花開くために必要な過程。

 ラブストーリーの定番。そして、至上の命題の一つ。

 

 けど、それは物語の中だけの物。

 絵画で眺めるどこか遠くの景色のように、この目で直接見ることも、触れることすらないと思っていた。

 お姉ちゃんの影でしかないぼくにとっては無縁だと、ずっと。

 

 でも、触れた。

 温かくて、切なくて、苦しくて、でも手放せない気持ち。

 ずっとこの胸の痛みを感じていたい。そう思わせてくれる、初めての心。

 

 だというのに。

 ぼくは彼を、裏切る。

 まだ、何もしていない……けど、お姉ちゃんに命じられた以上、それは確定事項のようなモノだ。

 

「なんで? なんで……」

 

 誰もいない部屋。独りごちるぼくの言葉は、誰にも届かず溶けていく。

 それはまるで、人知れず朽ちていく傷口にも似ていて。

 溢れては無為となり、固まって、ゴミとなる。

 

 だけどそのゴミを、拾い上げる人がいた。

 いや、もしかしたら人じゃないのかもしれないけれど。

 

「知りたいですか?」

「!? ア、リス……」

 

 声を聞き、顔を上げた先にいたのは、洗面所に置いてある姿見に映る少女の姿だった。

 セーラー服を纏い、悪戯げに笑う美しい少女。

 アリス。

 

「なんで……」

「別に、今日が初めてじゃないでしょう?」

 

 そう……そうだ。アリスが神出鬼没なのは今に始まったことじゃない。今までも何度も鏡の中へ現われ、お姉ちゃんと穏当とは言えない会話していた。

 だけど、ぼくが一人だけの時に、しかもぼくに対してだけ話しかけるのは初めてのことだった。

 

「それよりも、一つ聞きたいことがあるんですよね」

 

 鏡の中でアリスは宙空に腰掛けていた。ただそれだけで可憐なその姿は童話の中にいる不思議な少女のようだった。あるいは……魅惑の魔法で人を誑かす、悪魔か。

 

「貴女、燐くんと会ってたんですね」

「え……!?」

 

 予想外の人物から、予想外の名前が出て、ぼくは硬直してしまった。

 おかげで惚ける暇すらなかった。……元より、隠し事が得意な性格じゃなかったけれど。

 ぼくのリアクションを見てアリスは、頭が痛いと言わんばかりに額を抑えた。

 

「うっかりしていました、私としたことが……。姉の一星ちゃんはともかく、貴女はどうでもよかったので放っておいたらこの始末です」

「御剣くんを、知ってるの……?」

「……はい。知ってますよ。貴女よりも、ずぅっと」

 

 アリスの双眸が、こちらを射貫く。

 それには底知れない感情が宿っているように見えた。

 ぼくなんかが想像もできないような……いや、あるいは人間では理解が及ばないような。

 まるで数千年の確執、怨念が降り積もったかの如き……情感が深く荒れ狂った、嵐の海のような眼差しだった。

 

「ひっ……!?」

「……ああ、ごめんなさい。少し苛ついちゃいました。貴女如きなんて、どうでもいいんですけど」

 

 アリスは宙空から降り立つと、周囲の反射を伝ってぼくへと歩み寄ってくる。コップに、すりガラスに、映り込んでは姿を消しながら。そして最後には、ぼくの目の前にある鏡へと。

 ドレッサーのように開かれた鏡、その三面から、アリスは囲うようにぼくを覗き込んだ。

 

「でも」

「あ!? う……!?」

「燐くんを巻き込む……そんな話を聞いたら黙ってはおけないんですよ」

 

 三つに別たれたアリスの姿。六つの瞳がぼくを糾弾するように射貫く。まるで断罪人を批難するかのような。

 

「なん、で……!?」

 

 辛うじて疑問を絞り出す。

 何故、アリスはそこまで燐くんを気にするんだろうか。

 

「……貴女が気にすることではありません。さて、どうしましょうか」

 

 アリスが細い指をタクトのように振るう。すると、鏡の奥から蠢くようにモンスターが姿を現わした。

 レイヨウ。赤いトカゲ。人型の上半身がついた大蜘蛛……。

 異形の化け物たちはぼくをジッと見つめてくる。それはまるで、待てと言われてエサをお預けされている犬のようで。

 ミラーワールドの女主人たるアリスに操られているのは、明らかだった。

 

「っ……!」

「彼らを嗾けて、嬲ってあげましょうか。それとも、私の手で直々に終わらせてあげましょうか」

 

 そういってアリスの指先が次に向けられたのは、膝の上に置かれた一つのデッキ。鮮やかな桜色をしたそれを、とん、とんと小さく叩く。

 アリスも、ライダーだったの? ……駄目だ。色々とありすぎた所為で理解が追いつかない。

 けれど、一つだけ分かることがある。

 アリスはきっと、怒っている。

 ……御剣くんのために。

 

 それは、不思議なくらい腑に落ちた。

 やっぱり御剣くんは特別なんだ。

 唯一の男のライダーという宿命を背負っているだけじゃない。あの優しさが、色んな人を惹き付けるくらいに眩しいんだ。

 運命に見紛うほどに、白くて眩しい光。

 ぼくみたいな凡庸な人間が、惹かれてしまうのも無理ないくらいには。

 

 御剣くん。

 ぼくに、色んなことを教えてくれた人。

 初めて他人の優しさに触れた。連れ出してくれた。……恋を芽生えさせてくれた。

 それは今まで、全ての関係が家族の内で完結していたぼくにはなかったこと。

 お姉ちゃんという大きな存在の影になるしかなかったぼくに、初めて射し込んだ光。

 温かくて、眩しくて……切なくなるくらい、痛い。

 灼かれるくらいに。

 

 ぼくの長くはない人生の中でも、一瞬のように短い時間しか関わっていないのに。

 きっと彼の人生の中でも、ぼくなんか取るに足らない存在なのに。

 ……きっとぼくは、どうかしてしまったんだろう。

 

「御剣くんのことが、好きなの?」

「ッ!」

 

 そしてそれはきっと、アリスも同じ。

 転がり出すように自然と出た言葉だった。

 息を呑む気配。それとほとんど同時に鏡から飛び出す、異形の腕。

 レイヨウのモンスターの片腕が、ぼくの喉を掴んで締め上げる。

 

「ぐ……かはっ」

「余計なことを。貴女に……貴女如きに、何がわかるっていうんですか!」

 

 苦しい。息が、血が、万力のような力で潰されて塞がれそうだ。

 あと一歩でも力が込められれば、変身すらしていないぼくの首はへし折られてしまうだろう。

 

 生殺与奪の権を握っているのは、無慈悲で残酷なる女王、アリス。

 だけど。

 だけど……何故だろう。

 

 彼女の表情は、今にも泣き出してしまいそうな少女に見えた。

 

「か、はぁっ……!」

「決めました。貴女は今、ここで私が……!」

「お、なじ……だ」

「……なんですって」

 

 止まってしまいそうな呼吸。それでもぼくは言葉を絞り出す。

 

「同じ、だ。アリスも、ぼくも……」

「っ!」

「ひかり、が。綺麗で……伸ばしても、届かないって、分かってるのに……」

 

 光に触れた。

 星とか、太陽とか、そういうのではない。きっとそうやって分かれる前の……根源的な光だった。

 ただ、白かった。そして眩しかった。

 (こころ)へ焼きついてしまうほどに。

 

「伸ばさずには、いられなかったんだ……! 自分が影だって、分かってるのに……!」

「黙りなさい……黙りなさい!」

 

 影は、光が作る陰影だ。

 つまりは、同じ光ということである。

 絵の具の赤と青と同じように、分類としては変わらない。

 

 それでも光と影では、違いすぎるほどに違う。

 きっとそれは、鏡に映った虚像も同じだ。

 光が作り出した風景なのに、誰もそれを光だとは思わない。

 

 だから、手を伸ばしても同じにはなれない。

 人を殺めて、汚れてしまったぼくは、アリスは。

 

「手に入れちゃ、いけないんだ……! そんなこと、誰からも許されない……」

「黙りなさい!」

 

 悲痛な叫び。それに呼応するように、鏡の奥で何かがざわめく。

 モンスターたちの更に背後。よく見えないけど、何か、太くて長いものが。植物の蔦めいた存在が蛇のようにのたうっていた。

 彼女の心のさざめきを表現するかの如く、蔦はザワザワと蠢く。

 

 恐ろしい光景だった。きっとアレは、何よりも強い。

 この場にいるどのモンスターよりも。いや、生涯で見てきたどの存在よりも……悍ましかった。

 モンスターは怖いけど、それはいわば野獣的な恐ろしさ。

 だけどあの蔦は、それとは全く違う……例えるなら、夜の森のような。

 比べるのも烏滸がましい、存在格が違うもの。触れたら最後、きっと生きては帰れない。

 見ているだけで肌が泡立つような、本能的な薄寒さを覚える、ナニカ。

 

 そんな存在すらも従える、アリスという化け物。

 だけど、それでも。

 

 ……泣きそうな表情でスカートを握る彼女は、ぼくと重なって見えたんだ。

 まるで、鏡に映っているかのように。

 

「何が、触れてはならないですか! 例え何を言おうとも、貴女が燐くんを貶めることには変わらない……!」

「分かっ、てる。だから……」

 

 だから、なのだろう。

 ぼくの唇は、残り微かな力で言葉を紡ぎ出していた。

 

「だから──お願いが、あるんだ」

 

 

 

 

 

 

 一週間後。

 つまり、お姉ちゃんに御剣くんを騙して呼び出すよう命じられた日。

 

 ぼくは、お姉ちゃんに言われた地点に立っていた。

 

 そこは自動車の処理場だった。

 周囲には廃車たちが、洗う前のお皿みたいに無造作に積まれている。

 持ち主を乗せて、文句も言わず、何年も何年も走り続けた彼らが迎えるにしては、寂しすぎる光景。

 墓場というのは、それが相応しいのかもしれないけれど。

 

 お姉ちゃんがここを選んだのに、情緒的な理由はないだろう。

 車には、必ずミラーがあるから。

 

 砕かれた鏡が地面に落ちていた。

 見つめる先にはバラバラに映ったぼくの顔。

 まるで悪い暗示のように。

 ……お姉ちゃんと違って悪夢めいた妄想ばかりするのが、ぼくの悪い癖の一つだ。

 

「おや、早いのですね」

 

 顔を上げる。そこには廃車の山の上に女王の如く座る、お姉ちゃんの姿。

 亡骸の玉座。死体の頂点。それはお姉ちゃんに相応しい居場所なのだろう。

 踏みつけに。犠牲に。生贄に。

 何もかもを利用して、成り上がろうとしてきたのが、お姉ちゃんという女王さまだ。

 

「……うん」

「ちゃんと呼び出したのです? こんなところに来る言い訳をちゃんと用意できたのです?」

「できたよ。その……いい人、だから」

「ふぅん。それは間抜け、と言った方が正しいのです」

 

 ピクリ、と体が反応する。

 どうやら、ぼくの心は片思いの相手を悪く言われるのが嫌らしい。

 意外と根性がある、と我が事ながら感心して、内心だけで苦笑する。

 

「……お姉ちゃん」

 

 その心の勢いのまま、口を開いた。

 

「なんなのです?」

「やっぱり、やめにしない?」

 

 爪を見ていたお姉ちゃんの目がこちらに向けられる。

 その目はぼくとは違って、とても冷たかった。

 

「……何を言ってるのです?」

「御剣くんを狙うの、やめてほしい、の」

 

 つっかえつっかえになりながら言う。慣れていないことに、体が拒否反応を示しているみたいだ。

 そう。

 

 ぼくは今、初めてお姉ちゃんに反抗しようとしていた。

 

「御剣くんは、すごくいい人なの」

 

 初めて会った時、助けてくれた。

 自分が砂に塗れるのにも構わず、見ず知らずで鈍臭いぼくのために。

 なんの特にもならない。

 それでも誰かのために何かできる。それが御剣燐という少年だった。

 

「優しくて、穏やかで……」

 

 怒っているところなんて想像もつかない。

 楽器店で語らって、本当に安らいだ。

 水族館で話して、心の底からときめいた。

 彼の優しさが、穏やかな性格が、ぼくの心を溶かしてくれた。

 

 光だった。

 星、とか。月、とか。太陽、とか。正義だとか、断罪だとか。

 そういう分類が、野暮になるくらいに。

 きっともっとずっと、根源的な光なのだ。誰もが心の奥底で憧憬を覚える、いつか抱えていたに違いない。

 

 白い光。

 

 眩しくて。温かくて。消えてしまいそうになるくらい、暴かれて。

 焦がれて、縋ってしまう。

 

 だから勇気をもらえる。

 ……何かしたいって、思える。

 

「だから……ぼくは、ぼくの所為であの人を死なせたくない」

 

 おかげでぼくは……こうしてお姉ちゃんに意見できている。

 考えることを止めていたぼくに、そのやり方を思い出させてくれた。

 

「お願い。どうか、考え直して」

 

 姉妹喧嘩……にもならないかもしれない。

 でも、ぼくの精一杯。

 それを乗り越えた言葉だった。

 

「お願い、します」

 

 ぼくは……その場で、土下座した。

 膝をついて、頭を土につける。服が汚れるとか、そんなことは気にならない。プライドとか屈辱とかはハナから頭にない。

 ぼくにできる、最上級のお願いだから、する。

 

 でもそれ以上に、頭を下げたかった。

 お姉ちゃんの顔が、怖くて見れないから。

 

 叫ぶように懇願する。

 

「他のことなら、何でもするから!」

「……二星」

「これからはもう何も言わない! お姉ちゃんがやれって言ったこと全部やる! 嫌なことも、怖いことだって全部全部! もう一生逆らいません! だから、だから……!」

「二星」

 

 地面を見ながら叫んでいたぼくは、いつの間にかお姉ちゃんが廃車の山から降りて近づいてきていたことに気づかなかった。

 肩に手を置かれたことで、ようやく目の前にいることに気づく。

 

「二星。顔を上げるのです」

「お姉ちゃん……?」

「ええ。ええ。二星のことはよぉく分かったのです」

 

 お姉ちゃんの声音は、今までの人生で一番優しかった。

 頭を上げると、お姉ちゃんの目は糸のように細められていた。

 

「ちょっとビックリしたのです。今までこんなことなかったのですから」

「う、うん……」

「でも、それだけ」

「え、じゃあ……!」

「ええ。考えてあげてもいいのです」

 

 やったぁ!

 その言葉にぼくは内心でガッツポーズをする。

 まだ考えると言ってくれただけ。でもその言葉を引き出せただけ、すごい進歩だ。

 後でもしやっぱりやると言っても、その度に反論すればいい。これだけは曲げられないんだから。絶対絶対押し通すつもりで、なんだったらホントに姉妹喧嘩になったって。

 そうすれば、きっと……!

 

 心の中で誓うぼくを他所に、お姉ちゃんは話を少し変える。

 

「でも二星。さっき言ったことに偽りはないのです?」

「さっき言ったこと?」

「ええ。“何でもする”の言葉に」

 

 なんだ、そんなこと。

 

「当然、するよ! 何だって、どんなことだって!」

 

 それで御剣くんが助かるのなら!!

 

「そう……よかったのです」

 

 お姉ちゃんは微笑んで、ぼくの言葉に応えてくれる。

 それが嬉しくて、嬉しくて。ぼくの心はずっと高揚しっぱなしだった。

 

 だから気づかなかった。

 足元の割れた鏡には映っているのに。

 後ろ手で掴んだ、臙脂色のデッキケースには。

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