にゃん、と見た目相応の語尾を足して、賽銭箱の上に座る黒猫はそう言った。
己の五感がおかしくなったのか、と思った。丑三つ時に一人きりで廃れた神社にいる、という異常な状況が、幻覚と幻聴を生んだのではないかと。
しかし目を擦れど猫はそこにいるし、耳をかっぽじろうが「にゃんにゃん」と明らかに人らしい発音で、無機質な声音で、鳴いている。
「そう身構えるなよ──何も取って食おうってワケじゃない。こんな寂れた神社に来てくれたお礼がしたいだけさ」
「お前は──いや、あなたは神なのか?」
「期待させたならすまないが、残念ながらそうではないよ。ただの神獣さ」
「神獣?」
「神の遣いとか言ったほうがわかりやすいかな? 人と神とを繋ぎ、願いや信仰を伝えるのが主な仕事さ」
「だから俺の願いも叶えてくれる、と」
「ああ。普通ならボクの気まぐれと神の気まぐれとで叶ったり叶わなかったりなのだが、今日に限っては百発百中だ。何せ、最後の大仕事だからな」
猫は、境内を見回す。落ち葉が積もったままの参道、蜘蛛の巣が張った本堂、板張りされた賽銭箱。おおよそ神社として、終わっている姿だ。だからこそ来たのだが。
「この神社は役目を終えた。ボクも神も、そろそろ消える。そのまえに、最後に来てくれた物好きの願いくらいは叶えてやろうってワケさ」
「なるほど」
「遠慮せずとも、なんでもいいぜ。俗すぎたり荒唐無稽過ぎたりしなければ、ある程度は叶えられる。ベタなのは金運アップとか、仕事運や恋愛運、家内安全学業成就辺りか?」
「現物支給は?」
「おいおい、そんなものあるわけないだろう。神を何だと思ってるんだ」
なるほど。あくまで神頼みされるような、概念的な願い限定らしい。まあ大して欲しい物もないから、別にいいのだが。
「……少し考えさせてくれ」
「構わないが、あまり時間はないよ。朝になればボクは消える。それまでに決めるんだ」
長くなるのを察したのか、猫は賽銭箱の上で丸まって、小さく欠伸をした。
「まあ、キミにとってはこの状況自体が願ったり叶ったりだもんね」
少しだけ目を見開くと、猫は「そのくらいわかるさ」といたずらな笑みを浮かべた。
「内なる願いを聞き届けるのが神獣の仕事だからね。そうでなくとも、きみくらい露骨なら気づけたかもしれないが」
「なんならそういうのでもいいぜ。今後もこういう不思議なことが起きますように──みたいなのでも」
それは──ひどく魅力的ではあった。平日の深夜に一人でこんな場所に来る人間にとっては、『何かが起きる』というのは、喉から手が出るほど欲しい権利だ。
「金運なんかより、よっぽど保証できないけどね。こういうのって縁が絡むから」
「縁?」
「出逢うソレに見初められるかどうか。今日のボクみたいに何か理由があるか、あるいは先祖から続く因縁みたいな、そういう何かがないと逢わないだろうね」
それに──気に入られすぎると、連れて行かれることもあるから。
「だから、あまり期待しない方がいい。どれもこれも、おまじないみたいなものだ」
「……俺の内面に関わる願いは、叶えてもらえるか? たとえばポジティブになりたいとか、物覚えがよくなりたいとか」
「それくらいなら大丈夫だよ。スポーツ万能の超人になりたいとか、とてつもなく賢くなりたいとかだったら難しいけど」
「難しいんだ」
まあそんなの、今更叶ったってそこまで嬉しくはない。
「……家族の病気を治してください、とかは?」
「できないこともないが、それこそおまじないみたいなものだぜ? ボクらも力は尽くすが、結局は患者の気力と医者の全力次第だからさ。いま元気な人が長生きできますように、みたいなお願いであれば、縁の巡り合わせで叶うことは多いと思うよ」
幸い、病気の親戚も長生きしてほしい人間もいない。
ただ、たった一つの願いを前に、迷っているのは変わらなかった。俺には何を捨てても叶えたい思いだとか、気にしているモノや、成し遂げたいことなどはない。
数分悩んで、俺はようやく答えを出した。
「よし、決めたよ」
「うん、言ってみなさい」
「俺の願いは──」
本当にこれでいいのかという思いを抱えながらも、俺は言葉を続ける。
「今日ここであったことを、すべて忘れたい」
「それでいいのかい?」
「ああ」
きっとこれは、とてつもなく貴重な経験だ。神獣に逢えることなんて普通はありえないんだろうし、直接願いを聞き届けてもらえる機会なんて、もう金輪際訪れないだろう。それでも、この記憶は封じるべきなんだと思った。
「願いを叶えてもらったら、きっと俺は期待してしまう。またこんな出逢いがあることとか、願ったことが勝手に叶うこととかに」
金運を上げて宝くじを買い漁るとか、ギャンブルしまくるとか──きっとそんな風に、俗っぽく堕落していく未来が見える。
「そうなるくらいだったら、初めからなかったことにした方がいいんだ。有難い申し出なのに、本当に恐縮なんだけど」
「──いや、悪くない」
猫は目を細めて、足に擦り寄ってきた。
「己の弱さを知るからこそ、強くあろうと願う──それこそ、清らかな人間の姿だ。ボクたちがお節介なんかせずとも、キミはいずれ、夢を叶えるさ」
にゃん、と猫が大きく鳴いた。その声は脳内で少しずつ反響して、響くごとに瞼が重くなっていく。
「安心してくれ、眠るだけさ。こんな汚いところで悪いけどね。起きたら、すべて忘れているよ」
「……ああ」
賽銭箱にもたれかかって、目を閉じる。罰当たりかもしれないけど、きっと彼らなら許してくれるだろう。
「ありがとう」
「礼を言うのはこちらの方さ。おかげで、もう少しくらいは見守ろうと思えた」
おやすみ、人の子──微睡みの中で聞こえた声は、泣きそうなくらい心地よく感じた。
「ん……」
鳥の囀りで目を覚ました。
なにかいい夢を見たような気がする。内容は思い出せないものの、人生で一番寝覚めがいい。ぼろぼろの廃神社で寝ていたとは思えないくらいに。
「……なんでこんなところで寝ちゃったんだっけ?」
なんとなくお参りに来たところまでは覚えているんだけど、賽銭を入れてからの記憶が曖昧だ。だいぶ山の中を歩いたし、疲労と眠気で寝てしまったのだろうか。
「にゃあ」
「うわっ!?」
いつの間にか膝の上に猫が乗っていた。寝ているときからずっといたのだろうか。場所に似合わず、相当人懐っこいらしい。
「ちょっとごめんよっと」
「みゃ」
優しく地面において、ズボンに付いた土埃を払いながら立ち上がる。名残惜しいが、そろそろ帰らなければならない。
「きっと、またくるよ」
「にゃん」
鳥居の向こうで猫が小さく鳴いた。振り返って、思わず目を細める。本堂の奥に、気づけばすっかり朝日が昇っていた。