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〇
八月の頭に、私は住処にしていた高架下を追い出されてしまった。D.U.の再開発の一環で工事をするから私のようなホームレスは邪魔になる、というのが立ち退きを要求してきた男が言っていたことだった。
私としてはその高架下に特別な思い入れもこだわる理由も無かったからすぐに荷物を纏めてそこを出ようとしたのだけれど、私が立ち退く準備をしている間、その男はとても申し訳なさそうにしていた(自販機で私に水を買ってきてくれもした)。未成年で家の無い生徒はキヴォトスでは珍しいし、そういう生徒は大概の場合、ブラックマーケットにも居場所を見つけられないはぐれ者だから、ここを追い出したら後で私が困ると予想したのだろう。住む場所ならまた見つけますとだけ言って、私は河川敷の夏草をかき分けてそこを後にした。
その時私は私の分の荷物だけでなく、前の日の夜に漁船に乗ってしばらく帰ってこないことになっていたミサキとヒヨリの分の荷物も持っていたし、雲一つない快晴だったせいで暑さが酷かった。お陰で数十分歩いただけで立ち眩んでしまって、倒れ込むように近くにあったベンチに座り込んだ。
D.U.において(ブラックマーケットを除けば)私のような人間が住む場所を見つけるのは簡単なことではない。私は仕方なくスマホを取り出して、先生に助けを求めた。ものの数分で彼が迎えに来てくれたから、幸い熱中症で救急搬送はされずに済んで、とりあえずは荷物を降ろせる部屋にあやかることができた。
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「ありがとう、先生」
私は三つのリュックサックを床に置いて言った。
「大丈夫だよ。今日は当番の生徒ももう帰ったから」
橋の下を追い出された経緯を説明すると、彼は難しい表情をした。うーんと低く唸って、視線を窓の外に向けた。
「しばらくD.U.は、そういう生徒達にとって居心地が悪くなるかもしれない」
「サッちゃんもどこかでこうなってるかも」
私は今どこかで必死に生きている親友のことを想像した。
「シャーレに泊めてあげたいけど、サオリは嫌がるよね」
「そうだね」と私は言った。
彼女はあの一件について相当な負い目を感じているし、これ以上先生に迷惑をかけるのをとても嫌がっているから、その提案を素直に受け入れるとは思えなかった。
「ミサキとヒヨリは?」
「二人は昨日の夜に別れて、今は海の上にいるよ。漁船のアルバイトだって」
「いつ頃帰ってくるの?」
「早くて一週間って言ってた」
「そっか」
彼は窓の外の小さな雲を眺めながら何かを考えているようだった。
「どうしたの?」
私が聞くと、彼は振り向いて言った。
「明日からしばらくシャーレを空ける予定なんだ。だからどうしようかな、と思って」
「いきなり来ちゃってごめんね。少し休んだら出て行くよ」
私がそう言うのを遮るように彼が続けた。
「そうだ、アツコも一緒に行く?」
「どこへ?」
「トリニティ自治区にある、古城」
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トリニティ自治区の湾上に小島が浮かんでいて、遥か昔その上に城が建てられた。名前はモン・サン=ミシェル。礼拝堂や要塞として使われた歴史があるが、今はその機能をすべて失い、トリニティの観光名所になっている、というのが彼から聞かされた古城の話だった。
「その城の地下で何かの研究が行われていたらしいんだ」と彼は言った。
倉庫として使われていたはずの地下に不可解な荷物の搬入履歴があったことを示す書類が見つかって、それの調査に呼ばれたのだという。
「でも、トリニティも大ごとになるとは思っていないみたい」彼は顎を指でなぞりながら言った。
「そうなの?」
「重火器の搬入ではないみたいだし、そもそもこの研究自体、数年前に終わっているみたいなんだ」と彼は教えてくれた。
「ふうん」
「表向きは調査になっているけど、これはエデン条約の一件の謝罪を込めた旅行のプレゼントなんだって。そんなこと、気にしなくていいのに」
「ねえ、それ」と私は言った。「私が着いていってもいいの?」
せっかくの旅行なのに、私がいると十分に羽を伸ばせないのではないだろうか、という心配があった。そうでなくとも私はトリニティから追われている身だし、いくつか面倒な不都合が生じる気がした。
「そうだな、誰かに護衛を頼もうと思っていた所なんだ」彼はそんな私の心配を他所に頬を緩めて言った。「頼まれてくれる?」
「……うん。いいよ」
出発は今から約十五時間後の朝で、何はともあれご飯を食べに行こう、と彼は言った。お腹が空いているでしょう?
実際私はお腹がしきりに鳴っていた。
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話が前後するけれど、先生と古城に行くことになった日の前の夜に、ミサキとヒヨリはあの高架下の住処を出て漁船に乗った。夏休みの学生を対象としたアルバイトを見つけたのだ。本当は私も行く予定だったけれど、三人はいらないとなって私だけ留守番になってしまった。
古城に行くことになったから留守番はできなくなってしまったけれど、留守番をするほど立派な住処ではなかったし、荷物もそれほど置いてある訳ではなかった。遅かれ早かれ出て行くはずで、それが早まっただけだ。私達に帰る場所がないなんていつものことだった。二人に一報入れておいて、次の住処については古城から帰ってきた後に決めよう、と思った。
橋の下は追い出されちゃったから、また良い場所を見つけたら連絡するね。
既読は付かなかった。今頃海の真ん中にいるのだろうから当たり前だけれど。
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洋食のお店でご飯を彼にご馳走になっている時に、その古城の写真を見せてもらった。観光名所とだけあって、御伽噺に出てくるような城の写真がいくつも、あらゆる時間帯で美しく切り取られていた。
「綺麗な場所だね」
「いつか皆で行きたいね」と彼は頷いて言った。
私はその島に皆で行く光景を想像してみた。ミサキは興味が無さそうで、サオリは申し訳なさそうにしそう。ヒヨリはせっかくならとお土産をねだりそう。
「そうだね」と私は言った。
いくつ服を持っているのかと聞かれたから、私は二着と答えた。同じものを二つ、この間までは川で洗濯して着回していた。それから下着は、と話し始めると彼が焦って遮ろうとした。
「下着は上と下で三着持ってるよ」
「それは言わなくて良かったのに」
「ふふ、ごめん」
「じゃあ、この後服を買いに行こう」と彼が言った。
でも私はお金を持っていないし、これ以上彼に何かを貰うのは気が引けたから断った。すると彼は護衛を引き受けてくれた分から出す、ということにしてしまって、強引にこの後ショッピングモールに行くことを決めてしまった。やれやれ、と私は思った。
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ショーウィンドウの向こうには綺麗な服で着飾ったマネキンが置かれていて、異世界とこちら側を隔てる境界のようなガラスに半透明の私の姿が映っていた。
「アツコはどんな服が好き?」
彼に聞かれて、私は自分が好きな服について考えてみた。好きな服? 横にあるマネキンはどれも同じように素敵だけれど、好きかと聞かれるとはっきりとした答えは出せなかった。
思うに、私は服の好き嫌いを判断できるほど服の種類を知らない。
「分からない」と私は正直に答えた。「先生が好きな服を教えて。それにする」
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彼はとても真剣に私の服を選んでくれた。彼は三日分の意匠の違う服を持ってきて、私にそれらを持たせて試着室に押し込んだ。半袖だったり、目立つ色だったりするのは私なら避けていただろうけれど、着替えて彼に見せると悉く褒めてくれるものだから、私はその服のことが好きに思えるようになっていった。
結局彼は、私が試着した服を全て買ってしまった。古城に行くのは二泊三日の予定だったから、毎日新しい服を着られることになる。嬉しくもあり、同時に申し訳なさがあった。
その後で彼は私にお金を渡して、下着を買っておいでと言った。これは選んでくれないのと私が聞くと、彼の目が宙を泳いでいた。冗談だよと返して下着をいくつか見繕って買った。
「他の皆には、今度埋め合わせするね」
「そうしてあげて」と私は言った。
私だけ貰ってしまうのは不公平で、すっきりとしなかった。
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ショッピングモールを出てシャーレに帰る頃には、夕方になっていた。染料を流し込んだような鮮やかな夕焼けが空に広がっている。目を開けているだけで、瞳が橙色に染まってしまいそうな美しい色だった。烏が鳴いていて、電線が風に揺れている。
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その日はシャーレに泊まって、出発は明日の朝を予定していた。シャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かした。
シャーレの居住区にはいくつかのベッド付きの部屋がある。キッチンも椅子も机もあって、D.U.の一等地でこれだけのアパートを借りようと思うとかなりの額がしそうな良い部屋だ。しばらく住まないかと彼に打診されたことがあるけれど、私達が断った部屋だった。
また明日、と言って彼と別れてから部屋に入ると、私はその部屋の中の異常な静寂が気になった。高層ビルの一角で同じ階層には誰もいないのだから当たり前だけれど、いつも排気ガスの音がする場所で眠っていたせいで耳が音の不在に慣れなかったのだ。
ベッドに横になって眠ろうとしても、疲れているはずなのに眠りは一向に訪れなかった。ベッドで眠り慣れていないせいだ。床で横になった方がいくらかましだとすら思えた。
しかし床で眠ろうとしても結果は同じで、仕方なく私は椅子に座って月を見ることにした。退屈凌ぎになるのはそれくらいだったし、スマホを開いて海の上の二人に連絡を送る気にはならなかった。薄ら雲の向こうでぼんやりと、月はゆっくりと動いていた。
「死んでいないだけ」
いつか。いつだったろう、一年くらい昔だと思う。ミサキが言っていたことを思い出した。彼女がそう言っていたのも、眠れなくて起きていた、月がぼんやりと浮いていた日のことだった。
どんな経緯で彼女がそう言ったのかは覚えていないけれど、彼女は自分のことを死んでいないだけ、と評していた。
自分は死んでいないだけで生きていない。彼女が言うにはそういうことだったけれど、私にはその違いが上手く理解できなかった。つまり、死んでいないことと生きていることの違いとその線引きについて。それについて彼女に聞いてみても、答えてはくれなかった。
そういったことを思い出している内に段々と眠気がやってきて、私は覚束ない足取りでベッドの上に倒れ込んだ。そこからどうやって眠ったのかは覚えていなくて、気が付けば朝になっていた。時計は今まさに六時半になろうとしている所で、ほとんど同時に、彼がドアをノックした。
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必要なものといっても、私には着替えの他にほとんど何の持ち物もなかった。その着替えも彼に貰ったものだ。予備の実包なんかは怪しまれるから、彼に借りたキャリーケースに着替えと一緒に入れた。荷物はその小さなキャリーケース一つにまとめて、着替えを終えて彼の所へ行った。
「うん、似合ってるよ」
彼が選んだ半袖の白いシャツと、苔色の長いズボンを着ていた。動きやすいし、暑くなくて機能性もある。
「ありがとう」
色々言いたいことはあったけれど、言葉にしようとすると上手くまとまった形を取ることができなくて、私はそれ以上何も言えなかった。彼はにっこりと笑って日焼け止めを渡してくれた。それを塗って、私達はシャーレ前の駅から電車に乗った。
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車窓から流れていく景色は、どこで切り取っても夏であることが分かるくらいに明るく、鮮明な色をしていた。D.U.からトリニティまで海の下をくぐる長距離列車に乗り、トリニティの一番大きな駅で乗り換えた。古城までは直接電車が繋がっていないから、一番近くの駅で降りて橋を歩くのだそうだ。
太陽が昇っていくにつれて、夏はその暑さを増していった。最寄りの駅で降りると、既にそこから古城が見えた。写真で見るよりもずっと良かった。まずホテルのチェックインを済ませることにして、私たちはその長い橋をゆっくりと歩いていった。
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「えっ」
彼は頓狂な声を漏らしてフロントマンの顔を見た。申し訳ありませんが空き部屋はございません、とフロントマンは丁寧に繰り返した。
「ご予約のお部屋はございますが、それとは別にもう一つ部屋を取るのは、少なくとも本日中は出来かねます」
「困ったな」と彼は言った。
「部屋が無いの?」
彼は頷いた。
「まさか満室とは思わなくて。予約しておけばよかった」
「私は一緒の部屋でもいいよ」
「でも」と彼は言った。「ベッドは一つしかないし、それに色々と不味い」
「色々?」と私は聞いた。
どういうことが言いたいのかは大体分かっていたけれど、彼があえて曖昧にした部分を言葉にして聞いてみたかった。いたずらとして。
「まあ、色々」
「でも他に部屋はない」と私は言った。
「うん」
「じゃあ他に方法もない」
「そういう訳でもない。この島には他のホテルもある」
「それじゃあ何かあった時に駆け付けられない。護衛なんでしょ」と私は言った。
「……分かった。ええと、すみませんが、別の部屋の空きが出来たら教えて下さい」
彼はフトントマンの方に向き直って言った。
「かしこまりました」
フロントマンはそう言うと、彼に一枚のカードキーを手渡した。307号室、というのが、私達が三日間泊まる部屋の名前のようだった。
「ありがとう」彼はそう言うとエレベーターの方へ向かって行った。
「ねえ」と私はバックヤードへ戻ろうとするフロントマンを呼び止めて言った。「部屋に空きができても、秘密にすることはできる?」
「かしこまりました」フロントマンは微笑んでそう言った。
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長く歩いていたせいで、一度座ると再び立ち上がるのは中々難しかった。私は安楽椅子に腰かけて、フロントで貰ったこの島のカイドブックを読んでいた。
この島のおおまかな地図が絵になって描かれていて、その横にこの島で起きた出来事が年表になっていた。奇妙なきっかけで城が建ち、戦争に使われ、血が流れた歴史だ。
「城の地下に調査へ行くのは明日の予定だから、今日は色々と見て回ろう」
「うん」と私は言った。
橋からホテルに歩いただけでも、見事な景色が広がっているのが分かった。普段過ごすD.U.の路地裏のように、暗くてじめじめとしていない。この街は太陽の寵愛を真正面から受けて存在していた。
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キャリーケースから必要なものだけを出して部屋を出た。といっても、彼も私もポケットに収まる程度のものしか持ち出さなかったから、旅行客というよりも現地の住民のように見えるかもしれない。
やはり言葉にしておくべきだと思うのだけれど、私は彼のことが好きだった。
好き、と一口に言っても色々な種類があるらしくて、私の好きが一体その中のどの辺りでどのように位置するのかは上手く掴めなかったけれど、少なくとも彼に好意的なのは間違いない。
私は恋をしたんだろうか。言葉の原義的な意味と、私の感情を見比べてみてもやはり分からなかった。私はそういったことをするために必要な言葉の意味を知らな過ぎたし、私自身のことも知らな過ぎた。恋をするとは一体どのようなことなのだろう? 斜めに差す夕陽のようなものなのだろうか。
話をその小さな島に戻す。私はそうして好きな人と、綺麗な八月の街を歩いた。露天商がアンティークの小物を売っていて、その向こうの屋台では何かの飲み物を売っていた。暑かったせいで汗をかいて、白いシャツは少し透けてしまった。
「何か欲しいものはある?」と彼は私に聞いた。
「ううん」と私は首を横に振った。「見てるだけで楽しい」
真ん中の広場で楽器を演奏している人たちがいて、その周辺では力強いアコーディオンの音色を聴くことができた。私達は丁度太陽が真上くらいに来た辺りで通りかかったレストランに入って、そこで昼食を取ることにした。
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「ねえ、先生」
食後に水を飲んでいた彼に言った。
「先生は、生きていることと死んでいないことの違いは分かる?」
「死んでいないこと」と彼は不思議そうに繰り返した。
そしてその後で少し考えるような素振りを見せた。
「なんとなくは」と彼は答えた。
「何が違うの?」私は純粋な興味でそう聞いた。
「なんというか、上手く言葉にできない。でも違う。例えがあるといいんだけど……」
彼はそのまま小さく唸りながら考えていたけれど、結局また今度答えると言って席を立った。彼にもそういうこと──つまり、何かを言おうとして言葉に詰まること──があるのだな、と少し安心した。
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「あの花、綺麗だね」
彼は道の先の店に置かれたプランターを指して言った。その店に限らず、この島の至る所には様々な種類の花が咲いている。
「カトレア」と私は言った。
彼が綺麗と言ったのは赤いカトレアだった。前に何かの本で読んで、その時に名前が綺麗で覚えたのだと思う。
それから島をぐるりと一周して、私達はホテルまで戻ってきた。東側に窓が付いている部屋はすっかり暗く、海面が西日を反射するのが明るく見えた。宝石を見たことはないけれど、こんな輝きをする宝石もきっとどこかにはあるのだろう。
ホテルの夕食を済ませた後で、彼はお風呂に入る順番についてどうするか聞いてきた。私にしてみればどっちでもいい話だったけれど、彼は結構重大な話をするような感じで言うのが可笑しかった。
「先に入りたい? 後がいい?」
「どっちでも」と私は答えた。「一緒でもいい」
「それは良くない」と彼は言った。「色々と良くない」
色々? とは聞かないでおいた。
私が決めないと彼が困ってしまいそうだったから、私は先がいいと言ってバスルームに入った。彼から貰った服を脱ぎ、しわがつかないように丁寧に畳んだ。
シャンプーはミルクティーみたいな匂いがして、その匂いは泡を流した後も髪に残った。良い匂いが自分からすると、少し自分が綺麗になった気がして気分が高揚した。
パジャマと呼べるものを持っていないことを彼に言うと、寝る時はバスローブを着ていればいい、と言われた。下着とバスローブだけの恰好はいくらか頼りないように感じられたけれど、寒くはなかったし、着てしまえばそれほど悪いものでもないように思えた。
彼を呼ぶために部屋に戻ったとき、彼は安楽椅子に腰掛けながら本を読んでいた。私がお風呂から上がったことに気が付くと、ゆっくりと腰を上げて立ち上がった。
「じゃあ、お風呂入らせてもらうね」
「うん」
彼がバスルームに入っていった後、私も彼に倣ってその椅子に座った。生憎読むような本を持っていなかったから、朝貰ったガイドブックをもう一度読む。
そういえば、あの城の地下で行われた研究というのは、一体何の研究だったのだろう。私は血が流された城の地下で行われていたことについて考えてみた。大ごとにはならない、と彼は言っていたけれど、彼はどこまで知っているのだろう。
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彼は私がベッドで寝るように言った。私は眠り慣れている硬い床の方が良かったし、本来彼が眠るはずだったベッドを奪ってしまうのが嫌で断ったけれど、彼はそれでもベッドで眠った方がいい、と言った。
「先生はどこで寝るの?」
「ソファがある」
「ベッドで寝ればいいよ、二人で」
ホテルのベッドは頑張れば三人でも眠れそうなくらい大きかった。私は寝相が良い方だと思っていたし、実際に、死んでいるのかと思った、とミサキは眠っている私を見て言っていたことがあるくらいだ。だから大丈夫だと彼に説明したが、彼が気にしているのはそういう部分の話ではないようだった。
「嫌?」と私は聞いた。
「そういう訳じゃない。でも色々と不味い」と彼は言った。
「私は嫌じゃないし、秘密にする。それならいいでしょ?」
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結局、二人ともベッドで眠ることにした。少し間隔を空けて接触しないようにする、というのが彼の納得できる落としどころだったようだ。私は窓側を向いて彼と背中合わせで横になった。
「ねえ、先生」
私が言ったが、返事は返ってこなかった。代わりに小さい寝息が聞こえてきた。
私は寝返りを打って、彼の方を向いた。頭を揃えて横になっているのに私の足先は彼の膝の辺りまでしか届いていなくて、背丈の違いをありありと見せつけられた気分だった。そして彼の物言わぬ後ろ姿を見ている内に、穏やかな眠りが私を微睡の中に突き落とした。
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次の日の朝、私は彼よりも先に目を覚ました。ベッドは二人分の熱で暑くなっていて、窓から入ってくる夏風がいくらか涼しかった。時計を見るとまだ朝の五時半だったが、外は明るくなっていたし、窓の外を見下ろすと既に外に出ている人もそこそこいた。D.U.に比べてこの街は早起きで早寝なのだ。
昨日に比べて灰色の雲が多かった。私は彼が起きてこない内に、キャリーケースから新しい着替えを出して、バスローブを脱いでそれに着替えた。真白のワンピースはひらひらとしていて動きやすさには欠けたけれど、可愛い服だったし、彼が選んでくれたというだけで愛しかった。
しばらく椅子に座って、彼の姿を眺めていた。呼吸に合わせて掛布団が上下していて、耳をすませば小さな息の音も聞こえる。死んでいるようには見えなかった。そうしている内に時間が過ぎて、彼が目を覚ました。
「おはよう、先生」
「おはよう」と彼は瞼を擦りながら言った。
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真夏とは言えど、すぐ傍に海があるお陰で涼しい風が吹き続けている朝だった。窓から潮風が部屋の中に流れてきて、少しだけ花の匂いがした。この街の至る所に咲く花の混じり合った匂いだ。
「綺麗、お姫様みたい」
朝食にホテルのレストランに行く前に、彼は私の姿を見て言った。
「お姫様?」
「ラプンツェルみたいな」
私はラプンツェルというお姫様のことは知らなかったけれど、それがどういう意味なのかは何となく想像できた。
「ありがとう」
私はそれしか言えなかったけれど、彼には私の言いたかったことが伝わったようで、目じりを下げて見せて、それから部屋を出た。
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城までの道は長く緩やかな階段で繋がっていた。分厚い雲が陽射しを遮っていたけれど、街は蒸し暑い空気に包み混まれていたから、城門の前に着く頃には彼の背中にシャツが汗でぴっしりとついてしまっていた。
警備の生徒に彼が訪れる話は伝わっていて、かなりスムーズにその城の中に入ることができた。彼が私のことを護衛だと説明すると彼女達は特に疑いの目を向けることも無く私の同行も認めた。
城には地下に続く階段が一つだけあり、私達はその石壁の階段を伝ってそこを降りた。靴音が反響し、その下にそれなりの広さの地下空間が広がっているのが分かった。
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随分と長い廊下だった。悩み事のように陰鬱で薄暗い螺旋を、実に一分も歩いていた。これだけ深ければ地上で爆発が起きたとしてもその影響は受けないだろうから、元々はそういう意味を持って作られたのかもしれない。
地上にあった蒸し暑さはどこかの地点ですっかり無くなってしまって、空気は乾いた冷たさを持ち始めた。光も、彼と私が持っている二つの懐中電灯の頼りない明かりを除けば何も無かった。熱や光といった生命の全てが失われたような場所だった。
ようやく階段が終わると、地下牢のような場所に出た。
「ここで研究が行われていた」と彼が言った。
彼の声はしばらくその狭い部屋の中で木霊してから、黒い石の壁に染み込んでいった。
部屋をぐるりと照らした彼が何かに気が付いて、懐中電灯を置いて壁の突起を引っ張った。ガコン、と大きな何かが外れる音と共に、部屋の中が眩しい光に包まれた。私は反射的に目を隠し、目が慣れてから彼が開いたそれを見た。
「窓だ」
そこには出窓があった。ガラスで閉ざされていて、外側は水汚れで曇ってしまっているが、狭い部屋に光をもたらすには十分な大きさの窓が、牢屋のような場所とは不釣り合いに存在していた。
彼はその出窓に不思議そうに身を乗り出した。左右を見渡して、それから納得したように私の方を向いて言った。
「切り立った崖に窓が彫られてるんだ」
「そっか、それで地下に窓が」
部屋の中が明るくなったことで、その部屋に散らばるいくつかの遺物に気が付いた。落ちて割れた花壇、じょうろと、園芸用のはさみが打ち捨てられたように地面に落ちていた。そして角が崩れてしまっている古い机の上に、場違いな顕微鏡が一つ置いてあった。
ここで一体何を研究していたのだろうか。私にはよく分からなかった。園芸用品と顕微鏡との間に上手く繋がりを見いだせなかった。
「青い薔薇を作ろうとしていたんだって」彼は机の上から小さな袋を摘まみ上げて言った。
「知ってたの?」私は彼の目を覗き込んで聞いた。
「うん。言わない方がワクワクするかと思って」
彼も私の目を見て笑った。
「青い薔薇」。
そういえば見たことが無かった。パンジーもアネモネも青い花があるのに、薔薇にだけ無いのは、考えて見れば不思議な話だった。不平等で不公平な話にも思えた。
「そう、青い薔薇は自然には咲かないんだって。だからこうして作るための研究がされた」
「成功したの?」
「分からない。研究をしていた人たちはどういう訳かやめてしまったみたいで、資料も残っていない」
「それは?」と私は彼が小さなプラスチックの袋から取り出したものを指さして言った。
「種、かな。もしかしてこれが」
「青い薔薇の種?」
「かもしれない。残されているのはこれだけみたいだ」
彼は手のひらに乗せた小さな種を不思議そうに眺めながら言った。
「ねえ、それ」と私は言った。「シャーレで育ててもいい?」
「勿論」と彼は言った。
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調査はそれで終わって、私たちは日が暮れない内にホテルに引き返した。彼に関して言えばいくつか報告書を書いたりしなければいけないらしいけれど、それらは私の与り知らない部分だった。
その日の五時から大体七時くらいまでの間、私は飽きもせず斜陽が照らす海を見ていた。その間彼は報告書を書いたり、タブレットを操作したりしていた。
海が真っ黒になってから、二人で夕食を食べに行って、その後でお風呂に入ったけれど、私の関心はそういう現実的なことから遠く離れた、あの青い薔薇かもしれない種が本当に青い薔薇を咲かせるのか、という所にあった。ちゃんとスプーンで掬ってスープを飲んだのか、そもそもスープを飲んだのかすら、思い出せないくらいだった。
〇
バスローブに袖を通して、昨日の様に彼と背中合わせでベッドに横になった。
「先生」
「……どうしたの」
彼の返事には小さな遅れがあった。もう眠りに落ちる寸前で邪魔してしまったような気がして申し訳なかった。
「何でもない、ごめんね。おやすみ」
「うん、おやすみ」
十分くらい後でもう一度呼びかけてみたときには返事はなくて、穏やかな寝息を立てていた。私は彼の方を向いて、体を捩って彼の背中を抱いてみた。私より一回り大きくて、私と同じミルクティーみたいなシャンプーの匂いがした。
〇
キャリーケースの中には水色のワンピースが残っていて、バスローブを脱いでそれに着替えた。
その島から帰る日は曇り空だった。青空を灰色の分厚い雲が覆い隠し、海は鈍色に光っていた。今にも雨が降り出しそうで、しかし湿度は高く蒸し暑かった。
「今日の服はどう? 似合ってる?」
ホテルを出る前に彼に聞くと、彼はいくらか恥ずかしそうに言った。自分から言うのと言わされるのでは、心持ちの違いがあるのだろう。
「可愛いよ」
彼は照れ臭そうにこめかみを掻きながら言った。
「お姫様みたい?」
「お姫様みたい」
「ラプンツェルみたい?」
「ラプンツェルのイメージカラーじゃないかも。どちらかと言うとシンデレラ?」
私はそのお姫様の名前も知らなかったけれど、お姫様のようだと言われるのは嬉しかった。ラプンツェルでもシンデレラでも、そこに大した違いは無かった。
2
〇
古城から帰った後で、薔薇の種まきの季節になるまでその種は乾燥したシャーレの倉庫に置いておくことにした。ほとんど誰も立ちよらないそこは、種を保管しておくには丁度いい場所だった。
それからしばらくは忙しい日々が続いた。D.U.の再開発は思ったより広範囲で行われていて、お陰で住処を見つけるのは以前よりずっと難しくなった。それでも何とかやりくりしている内に夏が終わり、秋が更けて、冬に落ちて、春が来た。
三月の終わりに私は彼に呼び出されてシャーレを訪れた。プランターに園芸店で買ってきた土を入れて、保存していた薔薇の種を埋めた。
「青い薔薇が咲くのかな」
「咲くといいね」と彼は言った。