灰になるまで   作:ギガマツタケ

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第一話 快楽の豹

 夜の街は、軽かった。

 

 ネオンの色。

 酔った声。

 スマホの通知音。

 香水と煙草と排気ガスの匂い。

 

 その全部が、黒川愛衣にはちょうどよかった。

 

 重たいものは嫌いだった。

 

 長い説教。

 細かい規定。

 真面目な顔。

 先のことを考えろという言葉。

 

 そういうものは、全部つまらない。

 

 楽しい方がいい。

 気持ちいい方がいい。

 面白い方がいい。

 

 それだけで十分だった。

 

 愛衣は、駅前のガラスに映る自分を見た。

 

 二十一歳。

 

 明るい茶髪。

 派手な服。

 露出の多いトップス。

 すらりと伸びた脚。

 

 夜の光を受けて、肌が少しだけ艶を帯びて見える。

 

 通りすがりの男達が振り返る。

 

 それも、嫌いではない。

 

「……ほんと、みんな分かりやす」

 

 愛衣は笑った。

 

 人間は、目で欲しがる。

 

 欲しい。

 触れたい。

 近づきたい。

 自分のものにしたい。

 

 その目を向けられるのは、気分がよかった。

 

 けれど同時に、退屈でもあった。

 

 人間は弱い。

 

 触れれば壊れる。

 噛めば悲鳴を上げる。

 少し力を入れれば、簡単に灰になる。

 

 それでも、たまに当たりがいる。

 

 使徒再生に耐え、オルフェノクとして覚醒する人間。

 

 それを見つけるのは、宝探しに似ていた。

 

 成功すれば面白い。

 失敗しても、それはそれで灰になるだけ。

 

 どちらでも、退屈よりはいい。

 

 真咲の声が頭に浮かぶ。

 

 無断選定は禁止。

 使徒再生対象は報告。

 実行後は残滓処理。

 行動記録を提出。

 

「分かってるって」

 

 愛衣は誰に言うでもなく呟いた。

 

「ちゃんとやるし」

 

 その“ちゃんと”が、榊原真咲の意味するものと違うことを、愛衣は気にしなかった。

 

 夜は長い。

 

 少しぐらい遊んでも、問題ない。

 

   *

 

 路地裏に入ったところで、三人の男がいた。

 

 柄の悪い男達だった。

 

 一人は壁にもたれて煙草を吸っている。

 一人はしゃがみ込んでスマホを見ている。

 一人はコンビニの袋から缶チューハイを取り出していた。

 

 その近くで、スーツ姿の男が怯えた顔をしていた。

 

 会社員だろう。

 

 年齢は三十代前半。

 鞄を胸に抱え、壁際に追い詰められている。

 

「だからさあ、金だけ置いてけって言ってんの」

 

「聞こえねえの?」

 

「いい歳してビビってんじゃねえよ」

 

 三人の男が笑う。

 

 会社員は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

 愛衣は、それを少し離れた場所から見ていた。

 

 いい感じ。

 

 乱れている。

 欲がある。

 暴力が近い。

 死にも近い。

 

 こういう人間の方が、面白い。

 

 愛衣は足音を立てて近づいた。

 

 三人の男が振り返る。

 

「ねえ」

 

 愛衣は笑った。

 

「楽しそうじゃん。混ぜてよ」

 

 男達の目つきが変わった。

 

 さっきまで会社員を脅していた顔が、今度は愛衣の身体を舐めるように見る顔になる。

 

「おいおい、いい女じゃん」

 

「何? 遊んでくれんの?」

 

「そっちから来るとか、分かってんじゃん」

 

 愛衣は笑う。

 

「分かってるよ。そういうの、好きそうだもんね」

 

 煙草を吸っていた男が近づいてくる。

 

「お前さ、ここがどこか分かってんの?」

 

「路地裏」

 

「そうそう。誰も助けに来ねえとこ」

 

「へえ」

 

 愛衣はわざと首を傾げた。

 

「じゃあ、何してもいいんだ?」

 

 男達が笑った。

 

 会社員は、目を見開いていた。

 

 混乱している。

 

 なぜこんな場所に、こんな女が来たのか。

 なぜ笑っているのか。

 なぜ怖がっていないのか。

 

 それが分からない顔だった。

 

 愛衣は、その視線も嫌いではなかった。

 

「じゃあさ」

 

 愛衣は、ジャケットに手をかけた。

 

「もっと面白くしよっか」

 

 ゆっくりと、上着を脱ぐ。

 

 男達の表情が、さらに緩む。

 

「マジ?」

 

「うわ、最高じゃん」

 

「お前、分かってんな」

 

 愛衣はトップスにも手をかける。

 

 会社員は、顔を背けようとして、背けられなかった。

 

 恐怖。

 混乱。

 そして、その美しさへの反応。

 

 それらが、ぐちゃぐちゃに混ざっている。

 

 愛衣は笑った。

 

 服を脱ぐ。

 

 一枚ずつ。

 

 夜風が肌に触れる。

 

 人間だった頃の羞恥は、もう遠い。

 

 むしろ、この瞬間が好きだった。

 

 人間の皮を脱ぐ準備。

 

 獲物の視線を集める合図。

 

 襲う前の、自分だけのルーティン。

 

 愛衣は、最後の布を落とした。

 

 路地裏に、女の身体が立つ。

 

 三人の男達は、もう会社員のことを見ていなかった。

 

 全員が愛衣を見ていた。

 

「やべえって」

 

「お前、本当に――」

 

 男の声が途中で止まった。

 

 愛衣の瞳が、灰色に濁ったからだ。

 

 白い肌の輪郭が歪む。

 

 背中が波打つ。

 肩が盛り上がる。

 腕に、灰色の外殻が浮かび上がる。

 爪が伸びる。

 脚が獣のようにしなる。

 頭部には、豹を思わせる鋭い意匠が形成される。

 

 パンサーオルフェノク。

 

 路地裏の空気が、一瞬で変わった。

 

 欲望のざわめきが、悲鳴へ変わる。

 

「な、なんだよそれ!」

 

「化け物……!」

 

「ふざけんな!」

 

 愛衣は笑った。

 

 怪物の喉から、女の笑い声が混ざって響く。

 

「ねえ」

 

 パンサーオルフェノクは、一歩踏み出した。

 

「当たりだったらいいね」

 

 最初の男に飛びかかる。

 

 速かった。

 

 男が逃げるより先に、愛衣の爪が肩を掴む。

 

 使徒再生。

 

 パンサーオルフェノクの因子が、男の身体へ流れ込む。

 

 男は絶叫した。

 

 身体が震える。

 血管のような灰色の筋が肌に浮かぶ。

 骨が軋む。

 喉が鳴る。

 

 だが、変わらない。

 

 オルフェノクにはならない。

 

 数秒後、男の指先が崩れた。

 

「え……?」

 

 手が灰になる。

 

 腕が灰になる。

 

 肩から首へ、灰化が走る。

 

 男は最後まで何が起きたか分からない顔のまま、路地の床へ崩れた。

 

 灰になった。

 

 愛衣は首を傾げる。

 

「あー、残念」

 

 軽い声だった。

 

「オルフェノクにならなかったか〜」

 

 残った二人が逃げ出そうとする。

 

 愛衣は笑って跳んだ。

 

 二人目。

 

 背中から捕まえる。

 

 使徒再生。

 

 男は一瞬だけ体を反らした。

 

 しかし、やはり覚醒しない。

 

 身体が灰色に変わり、膝から崩れていく。

 

「やだ、やだ、やだ――」

 

 声も途中で灰になった。

 

 三人目は、缶チューハイを投げつけてきた。

 

 缶がパンサーオルフェノクの装甲に当たり、中身が弾ける。

 

 愛衣は少しだけ不機嫌そうにした。

 

「それ、冷たいんだけど」

 

 男が腰を抜かす。

 

 愛衣は近づき、しゃがみ込む。

 

「ねえ、君はどうかな」

 

 爪が男の胸元に触れる。

 

 使徒再生。

 

 男の身体が震える。

 

 目が見開かれる。

 喉が膨らみ、腕が痙攣する。

 

 しかし、それだけだった。

 

 覚醒しない。

 

 皮膚が灰になり、口から声ではなく白い粉がこぼれる。

 

 数秒後、三人目も灰になった。

 

 路地裏には、三つの灰の山が残った。

 

 愛衣はそれを見下ろす。

 

「三連続ハズレかあ」

 

 退屈そうに言う。

 

「今日、運悪いかも」

 

 会社員は、壁際で震えていた。

 

 逃げることもできず、声も出せず、ただ愛衣を見ている。

 

 女が怪物になり、三人の男を灰にした。

 

 その現実を、脳が処理できていない。

 

 愛衣はゆっくり振り返った。

 

「じゃあ」

 

 パンサーオルフェノクが近づく。

 

「次、君ね」

 

 会社員は首を振る。

 

「や、やめ……」

 

「大丈夫」

 

 愛衣は笑った。

 

「当たったら、楽しいよ」

 

 その爪が会社員へ伸びる。

 

 その時だった。

 

 路地の入り口に、電子音が響いた。

 

 愛衣が振り向く。

 

 暗がりの向こうに、黄色い複眼が光っていた。

 

 黒と金の装甲。

 無機質な立ち姿。

 感情の読めない仮面。

 

 カイザ。

 

 愛衣は少しだけ目を細めた。

 

「何?」

 

 カイザは答えない。

 

 ただ、路地の奥へ一歩踏み込む。

 

 その存在だけで、空気が変わる。

 

 さっきまで愛衣が支配していた夜が、別のものに塗り替えられていく。

 

 会社員は、その場に崩れるように座り込んだ。

 

 助かったのか。

 

 それとも、別の何かが来ただけなのか。

 

 愛衣には分からない。

 

 ただ、一つだけ分かった。

 

 邪魔をされた。

 

「今、いいところだったんだけど」

 

 パンサーオルフェノクが低く唸る。

 

 カイザは無言で構えた。

 

   *

 

 戦闘は、路地裏から始まった。

 

 愛衣は速かった。

 

 獣のように壁を蹴り、地面を滑り、爪を振るう。

 

 人間相手なら、一瞬で終わる。

 

 オルフェノク相手でも、多くは彼女の速度についてこられない。

 

 だが、カイザは違った。

 

 最小限の動きで避ける。

 

 拳を叩き込む。

 

 蹴りで距離を潰す。

 

 感情を見せず、ただ正確に、愛衣の動きを止めにくる。

 

「っ、何なのあんた!」

 

 愛衣の爪がカイザの胸をかすめ、火花が散る。

 

 カイザは揺らがない。

 

 愛衣は笑った。

 

「でも、ちょっと楽しいかも」

 

 路地の壁を蹴り、背後へ回り込む。

 

 爪を振り下ろす。

 

 しかし、カイザは振り向きざまに拳を入れた。

 

 愛衣の身体が吹き飛び、ゴミ置き場へ叩きつけられる。

 

 缶が散らばる。

 ガラス瓶が割れる。

 灰が舞う。

 

 愛衣は立ち上がった。

 

 まだ笑っている。

 

「痛いじゃん」

 

 けれど、その笑顔に少しだけ苛立ちが混ざっていた。

 

 カイザはベルトへ手を伸ばす。

 

 電子音が鳴る。

 

 Exceed Charge.

 

 愛衣は、その音の意味を知らなかった。

 

 だが、本能で分かった。

 

 危ない。

 

 逃げるべきだ。

 

 でも、愛衣は逃げなかった。

 

 逃げることより、目の前の刺激が勝った。

 

「やってみなよ」

 

 パンサーオルフェノクが地面を蹴る。

 

 同時に、カイザが拳を構えた。

 

 金色のエネルギーが右拳に集まる。

 

 グランインパクト。

 

 次の瞬間、カイザの拳が愛衣の身体へ叩き込まれた。

 

 衝撃。

 

 音が消えた。

 

 世界が、白く弾けた。

 

 その瞬間、彼女は思い出した。

 

 車。

 

 ヘッドライト。

 

 昼だったのか、夜だったのかも分からない。

 

 制服。

 鞄。

 横断歩道。

 眠そうな運転手の顔。

 

 何かが迫ってくる。

 

 避ける時間はない。

 

 身体に衝撃が走る。

 

 ああ。

 

 そうだ。

 

 前に死んだ時も――

 

「こんな、感じ……」

 

 声になったかどうかは分からない。

 

 次の瞬間、パンサーオルフェノクの肉体の内側から青い炎が噴き出した。

 

 胸から。

 背中から。

 肩から。

 腹部から。

 

 グランインパクトの衝撃に耐えきれず、肉体が内側から爆ぜる。

 

 血肉ではない。

 

 灰だった。

 

 外骨格が砕ける。

 爪が粉になる。

 豹のしなやかな脚が崩れる。

 美しい獣の輪郭が、一気に灰へ変わる。

 

 愛衣の灰は、派手に周囲へ飛び散った。

 

 路地の壁へ。

 濡れた地面へ。

 三人の男だった灰の上へ。

 会社員の革靴の近くへ。

 

 黒川愛衣は、灰になった。

 

 夜風が吹く。

 

 さっきまで笑っていた女の気配は、もうない。

 

 カイザは、しばらくその場に立っていた。

 

 何も言わない。

 

 やがて、路地の奥を一度だけ見て、背を向けた。

 

 会社員は、まだ震えていた。

 

 その足元には、四つ分の灰が混ざっていた。

 

   *

 

 スマートブレイン本社地下特別フロア。

 

 NOCTURNE専用ラウンジ。

 

 七つの席のうち、一つが空いていた。

 

 黒川愛衣の席。

 

 真咲は端末を開いた。

 

 現場処理班からの報告。

 灰化残滓の回収記録。

 監視カメラの断片映像。

 カイザ出現情報。

 

 すべてを確認する。

 

 それから、灰化確認報告を入力した。

 

 NOCTURNE構成員灰化報告。

 

 対象:黒川愛衣。

 個体名:パンサーオルフェノク。

 性質分類:快楽。

 灰化確認。

 

 交戦相手:カイザ。

 推定必殺技:グランインパクト。

 

 最終行動:無断対象接触、および使徒再生実行。

 覚醒不成立個体、複数灰化。

 

 残存構成員:六名。

 

 備考:規定違反あり。

 追記:なし。

 

 送信。

 

 真咲は、しばらく画面を見ていた。

 

 それから、愛衣の席を見る。

 

 いつもなら、彼女はそこに座っていた。

 

 スマホを触りながら、退屈そうに足を揺らしていた。

 

 報告会が長いと文句を言っていた。

 

 その音がない。

 

 足を揺らす音。

 スマホの通知音。

 軽い笑い声。

 

 どれも、もうない。

 

 真咲は、その記憶をすぐに処理した。

 

 黒川愛衣。

 

 灰化確認。

 

 残存構成員、六名。

 

 記録上、それだけだった。

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