灰になるまで   作:ギガマツタケ

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第二話 理性の蟋蟀

 黒川愛衣の席は、空いたままだった。

 

 NOCTURNE専用ラウンジ。

 

 七つあった席のうち、一つだけが沈黙している。

 

 そこには、少し前まで愛衣がいた。

 

 スマホを触りながら足を揺らし、報告会が長いと文句を言い、真咲の規定を笑って流し、奈々の言葉に軽く返し、小春の小瓶を「何それ可愛い」と覗き込んでいた。

 

 その席に、今は誰もいない。

 

 篠原琴音は、その空席を見ないようにしていた。

 

 見ても意味がない。

 

 黒川愛衣は灰化した。

 

 パンサーオルフェノク。

 性質分類、快楽。

 

 無断対象接触。

 使徒再生実行。

 覚醒不成立個体、複数灰化。

 カイザとの交戦。

 グランインパクト。

 灰化確認。

 

 報告書としては、それで完結している。

 

 琴音は、端末に表示された灰化確認ログを一瞥した。

 

 対象:黒川愛衣。

 個体名:パンサーオルフェノク。

 性質分類:快楽。

 灰化確認。

 残存構成員:六名。

 

 六名。

 

 その数字を見て、誰かが沈黙した。

 

 千尋だった。

 

 小春は両手を擦り合わせている。

 

 さらさら。

 さらさら。

 

 奈々は煙草の箱を指で回していた。

 

 麗華は何も言わず、愛衣の席を見ていた。

 

 真咲は端末を操作している。

 

 表情は変わらない。

 

 琴音は眼鏡の位置を直した。

 

「黒川さんの件は、想定可能な結果です」

 

 声に出してから、ラウンジの視線が自分に向いたことに気づく。

 

 琴音は構わず続けた。

 

「無断行動。対象選定の甘さ。複数人への連続した使徒再生。現場の制御不足。ライダー出現時の撤退判断の欠如。いずれも失敗要因として明確です」

 

 千尋が少し眉を下げる。

 

「琴音さん……」

 

「感情的に受け止めても、再発防止にはなりません」

 

「でも、愛衣さんは……」

 

「灰化しました」

 

 琴音は淡々と言った。

 

「それ以上でも、それ以下でもありません」

 

 奈々が小さく笑った。

 

「冷たいね」

 

「冷たいのではなく、正確です」

 

「それ、前にも聞いた」

 

「事実だからです」

 

 麗華が静かにグラスを置いた。

 

「正確であることと、何も感じないことは同じではないわ」

 

「感じたところで、判断精度は上がりません」

 

「そう」

 

 麗華は微笑む。

 

「あなたらしいわね」

 

 琴音はその言葉を無視した。

 

 真咲が顔を上げる。

 

「篠原さん」

 

「はい」

 

「本日の単独行動予定を提出してください」

 

「提出済みです」

 

「確認しました。ただし、一部承認できません」

 

 琴音はわずかに目を細める。

 

「理由を伺います」

 

「黒川さんの灰化直後です。ライダー出現頻度の上昇が予測されます。不要な対象接触は控えるべきです」

 

「不要ではありません」

 

 琴音は即答した。

 

「先月から継続観察している候補です。行動傾向、精神状態、孤立度、攻撃性、すべて条件を満たしています。使徒再生成功率は平均より高いと判断します」

 

「判断根拠は」

 

「提出資料に記載しています」

 

「読んでいます。その上で、延期を命じます」

 

 ラウンジが静かになった。

 

 琴音は真咲を見る。

 

「延期する合理的理由が不足しています」

 

「組織の損耗直後です」

 

「だからこそ、成果が必要です」

 

「篠原さん」

 

「愛衣さんは失敗しました」

 

 琴音は、初めて愛衣の席を見た。

 

 空席。

 

 そこにあった軽い笑い声は、もうない。

 

「ですが、それはNOCTURNEの方法論全体の失敗ではありません。衝動型個体の制御失敗です。理性的に対象を選定し、手順通りに実行すれば、結果は変わります」

 

 真咲は沈黙した。

 

 琴音は続ける。

 

「私なら、失敗しません」

 

 その言葉に、小春の手が止まった。

 

 奈々が煙草の箱を指で挟んだまま、琴音を見る。

 

 千尋は何か言いたそうにしたが、言わなかった。

 

 麗華だけが、少し目を細めた。

 

「承認できません」

 

 真咲は言った。

 

「本日の単独使徒再生実行は禁止します」

 

 琴音は眼鏡の奥で、真咲を見つめた。

 

「承知しました」

 

 そう答えた。

 

 声は静かだった。

 

 だが、それは納得ではなかった。

 

   *

 

 大学の図書館は、静かだった。

 

 白い照明。

 整然と並んだ机。

 積まれた参考書。

 キーボードを叩く小さな音。

 ページをめくる音。

 

 琴音は、こういう場所が嫌いではない。

 

 人間が、自分を高めるために努力しているつもりになれる場所。

 

 不安を知識で覆い、劣等感を成績で塗りつぶし、未来という曖昧なものを数値で測ろうとする場所。

 

 愚かだと思う。

 

 けれど、分かりやすい。

 

 琴音は、二階の閲覧席から一人の男子学生を見ていた。

 

 名前は把握済み。

 

 二十二歳。

 理工学部。

 成績は上位。

 対人関係は希薄。

 家族との接触頻度は低い。

 睡眠時間は短く、ストレス値は高い。

 

 周囲を見下している。

 

 だが、自分も見下されているのではないかと常に怯えている。

 

 優秀でありたい。

 選ばれる側でありたい。

 凡人と同じになりたくない。

 

 琴音には、よく分かった。

 

 そういう人間は、折れやすい。

 

 そして、折れた瞬間に何かを越えることがある。

 

 使徒再生に耐える可能性は、低くない。

 

 琴音は端末にメモを残す。

 

 対象候補、観察継続。

 精神的負荷、高。

 自己評価と他者評価の乖離あり。

 選別適性、あり。

 

 送信はしない。

 

 まだ、報告ではない。

 

 観察記録だ。

 

 琴音は席を立った。

 

 対象の男子学生が図書館を出る。

 

 時計は夜の八時を過ぎていた。

 

 大学構内の人影は少ない。

 

 琴音は距離を保って後を追う。

 

 正門ではなく、研究棟の裏へ向かっている。

 

 予測通りだった。

 

 彼は最近、そこで一人になることが多い。

 

 喫煙所でもない。

 休憩所でもない。

 ただ、誰も来ない場所。

 

 人間が壊れる時は、そういう場所を選ぶ。

 

   *

 

 研究棟裏。

 

 外灯は少なく、空気は冷たかった。

 

 男子学生は壁にもたれ、鞄を地面に置いた。

 

 しばらく何もせず立っていた。

 

 やがて、スマホを取り出す。

 

 画面に表示された通知を見て、顔を歪めた。

 

 何かの選考結果。

 

 不合格。

 

 琴音は、その表情を見て判断した。

 

 今だ。

 

「残念でしたね」

 

 声をかける。

 

 男子学生が振り返った。

 

「……誰ですか」

 

「篠原琴音です。同じ大学の学生です」

 

「何か用ですか」

 

「あなたを見ていました」

 

 男子学生の顔に警戒が浮かぶ。

 

「気持ち悪いですね」

 

「そうですね」

 

 琴音は否定しない。

 

「ですが、あなたも周囲の人間をずっと見ています。自分より下か、自分より上かを確認するために」

 

 男子学生の目が揺れた。

 

「何なんですか」

 

「あなたは、選ばれたいんでしょう」

 

「は?」

 

「凡人ではないと証明したい。自分には価値があると確認したい。努力した分だけ、他人とは違う場所へ行けると思いたい」

 

「やめろ」

 

「でも、選ばれなかった」

 

「やめろって言ってるだろ!」

 

 男子学生が声を荒げる。

 

 琴音は動かない。

 

「怒る必要はありません。事実を確認しているだけです」

 

「お前に何が分かる」

 

「分かります」

 

 琴音は眼鏡の位置を直した。

 

「私も、そうでしたから」

 

 一瞬だけ、記憶がよぎる。

 

 高校時代。

 

 机。

 参考書。

 模試の結果。

 蛍光ペン。

 眠気。

 頭痛。

 まだ足りないという焦り。

 

 倒れる直前まで、琴音は思っていた。

 

 まだ終わっていない。

 

 まだできる。

 

 まだ、選ばれる側に行ける。

 

 そして、死んだ。

 

 だが、覚醒した。

 

 選ばれた。

 

 人間ではないものとして。

 

「あなたにも、可能性があります」

 

 琴音は言った。

 

「私が確かめます」

 

 男子学生は後ずさる。

 

「近づくな」

 

 琴音は眼鏡に手をかけた。

 

 ゆっくり外す。

 

 丁寧に畳む。

 

 それを、鞄の上に置いた。

 

 襲撃前のルーティン。

 

 視界がひらける。

 

 人間としての姿勢を、一枚外す。

 

「大丈夫です」

 

 琴音は静かに言った。

 

「これは選別です」

 

 瞳が灰色に濁る。

 

 身体の輪郭が歪む。

 

 細い腕に節状の外骨格が浮かび上がる。

 脚部が異様に発達し、跳躍に適した形へ変わる。

 背中に翅の名残のような薄い構造が広がる。

 頭部には、蟋蟀を思わせる鋭い触角状の意匠。

 

 クリケットオルフェノク。

 

 男子学生は声を失った。

 

 逃げようとする。

 

 だが遅い。

 

 琴音は跳んだ。

 

 直線ではない。

 

 角度を変え、壁を蹴り、対象の退路を塞ぐ。

 

 男子学生の肩を掴む。

 

 使徒再生。

 

 灰色の因子が流れ込む。

 

 男子学生が絶叫した。

 

 身体が痙攣する。

 喉が鳴る。

 腕の筋肉が不自然に膨らむ。

 目が見開かれる。

 

 琴音は観察する。

 

 呼吸。

 皮膚変色。

 骨格反応。

 神経硬直。

 灰化開始の有無。

 

「耐えてください」

 

 琴音は言った。

 

「あなたは、選ばれたいのでしょう」

 

 男子学生は地面に爪を立てた。

 

 だが、覚醒しない。

 

 腕の先が崩れ始めた。

 

 灰化。

 

 琴音は一瞬だけ眉を動かした。

 

「……不成立」

 

 男子学生は、何かを言おうとした。

 

 だが、口から出たのは言葉ではなく灰だった。

 

 顔が崩れる。

 胸が崩れる。

 膝が折れ、身体全体が白い灰となって地面に落ちる。

 

 数秒後、そこには灰だけが残った。

 

 琴音は見下ろした。

 

 静かだった。

 

「残念です」

 

 その声に、感情はほとんどない。

 

「素質はあると思いましたが」

 

 琴音はしゃがみ、灰の広がりを確認する。

 

 回収量。

 風向き。

 現場処理の難度。

 

 報告は必要だ。

 

 だが、まずは撤収――

 

 その時、背後で足音がした。

 

 琴音は振り返る。

 

 暗がりの向こうに、黒と金の装甲が立っていた。

 

 カイザ。

 

 愛衣を灰にした存在。

 

 琴音は、すぐに理解した。

 

 ライダー。

 

 処刑人。

 

 だが、愛衣の時とは違う。

 

 自分は衝動で動いていない。

 

 対象も選定した。

 実行も一人。

 現場も人目が少ない。

 使徒再生の判断にも根拠があった。

 

 失敗したのは対象の素質であり、手順ではない。

 

 ならば、まだ対処できる。

 

 琴音は構えた。

 

「あなたがカイザですね」

 

 カイザは答えない。

 

「黒川さんを灰化させた個体」

 

 沈黙。

 

「無言ですか」

 

 琴音は冷たく言った。

 

「なら、こちらで判断します」

 

   *

 

 琴音は先に動いた。

 

 クリケットオルフェノクの脚力で、一気に間合いを詰める。

 

 跳躍。

 着地。

 再跳躍。

 

 直線的に突っ込む愛衣とは違う。

 

 琴音は角度を使う。

 

 視界の外へ出る。

 足場を変える。

 死角から攻撃する。

 

 カイザの背後へ回り込み、腕部の刃を振るう。

 

 火花が散った。

 

 浅い。

 

 カイザは振り向きざまに拳を打ち込む。

 

 琴音は後方へ跳ぶ。

 

 距離を取る。

 

 観察。

 

 反応速度、想定以上。

 打撃精度、高。

 防御姿勢、安定。

 

 ならば、脚部を狙う。

 

 琴音は地面を蹴った。

 

 低い軌道で滑り込み、カイザの膝へ攻撃を入れる。

 

 火花。

 

 カイザがわずかに姿勢を崩す。

 

 有効。

 

 琴音は続けて跳ぶ。

 

 壁を蹴り、上から急降下する。

 

 だが、カイザは腕を上げて受けた。

 

 鈍い衝撃。

 

 琴音の身体が弾かれる。

 

 着地。

 

 まだいける。

 

 愛衣の敗因は、遊んだこと。

 撤退判断をしなかったこと。

 必殺技への対応を怠ったこと。

 

 自分は違う。

 

 自分なら対応できる。

 

 琴音はそう判断する。

 

 カイザがベルトへ手を伸ばした。

 

 電子音。

 

 Exceed Charge.

 

 琴音の思考が高速で動く。

 

 必殺技。

 愛衣を灰化させたものとは異なる可能性。

 予備動作あり。

 軌道を読めば回避可能。

 

 カイザの足元に、金色のエネルギーが走る。

 

 キック系。

 

 琴音は即座に後退した。

 

 距離を取る。

 左右に跳ぶ。

 壁面利用。

 射線を外す。

 

 これで――

 

 カイザが動いた。

 

 速い。

 

 予測より速い。

 

 金色の光をまとった蹴りが、琴音の移動先を正確に捉えていた。

 

「っ……!」

 

 琴音は軌道修正しようとする。

 

 だが間に合わない。

 

 ゴルドスマッシュ。

 

 カイザの蹴りが、クリケットオルフェノクの胴体へ叩き込まれた。

 

 衝撃が抜ける。

 

 空気が止まる。

 

 琴音の身体が宙に固定されたように見えた。

 

 計算が崩れる。

 

 退路。

 角度。

 跳躍。

 反撃。

 防御。

 

 すべて無効。

 

 金色の光が身体を貫き、その奥で青い炎が灯る。

 

 琴音は地面に落ちた。

 

 膝をつく。

 

 立ち上がろうとする。

 

 できない。

 

 脚が崩れている。

 

 クリケットオルフェノクの象徴である脚部装甲が、ひび割れていた。

 

 そこから青い炎が噴き出す。

 

「……ありえません」

 

 琴音は呟いた。

 

 声が震えていた。

 

「計算上は……」

 

 肩が崩れる。

 

 腕の節が灰になる。

 

 胸部装甲に亀裂が走る。

 

「私は……間違って……」

 

 言いかけて、止まる。

 

 間違っていない。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、結果は出ている。

 

 対象は覚醒しなかった。

 自分はカイザに敗れた。

 愛衣と同じように、灰になる。

 

 理性では、否定できない。

 

 琴音の頭部装甲が割れる。

 

 その奥で、眼鏡を外した人間の自分が一瞬だけ見えた気がした。

 

 高校時代。

 

 机に向かう自分。

 

 まだ足りない。

 まだ終わっていない。

 まだ、やれる。

 

 そう思っていた。

 

 そう思ったまま、倒れた。

 

 そして今も。

 

「まだ……」

 

 琴音は手を伸ばそうとした。

 

 指が灰になる。

 

「終わって……」

 

 言葉は最後まで続かなかった。

 

 青い炎が内側から噴き上がる。

 

 クリケットオルフェノクの外骨格が崩れ、脚部が砕け、翅の名残が燃えるように灰へ変わる。

 

 篠原琴音は、灰になった。

 

 地面には、彼女が置いた眼鏡だけが残っていた。

 

 カイザは、それを拾わない。

 

 何も言わず、夜の大学構内から去っていった。

 

   *

 

 スマートブレイン本社地下特別フロア。

 

 NOCTURNE専用ラウンジ。

 

 七つの席のうち、二つが空いていた。

 

 黒川愛衣の席。

 

 篠原琴音の席。

 

 真咲は、琴音の灰化確認報告を開いた。

 

 現場処理班の報告。

 大学構内の監視映像。

 灰化残滓の回収記録。

 カイザ出現情報。

 

 そして、回収不能物。

 

 眼鏡。

 

 現場に残置された可能性あり。

 処理班到着時には確認できず。

 

 真咲は、しばらくその項目を見ていた。

 

 それから入力する。

 

 NOCTURNE構成員灰化報告。

 

 対象:篠原琴音。

 個体名:クリケットオルフェノク。

 性質分類:理性。

 灰化確認。

 

 交戦相手:カイザ。

 推定必殺技:ゴルドスマッシュ。

 

 最終行動:独断による対象選定、および使徒再生実行。

 覚醒不成立個体、灰化。

 

 残存構成員:五名。

 

 備考:対象選定能力は高水準。

 ただし、自己判断による逸脱傾向あり。

 

 追記:眼鏡の回収、未了。

 

 送信。

 

 真咲は、琴音の席を見る。

 

 いつもなら、彼女はそこに座っていた。

 

 背筋を伸ばし、眼鏡の奥から資料を読み、誰かの発言に冷静な訂正を入れていた。

 

 愛衣と口論する時も、声を荒らげることはほとんどなかった。

 

 今は、その訂正がない。

 

 報告書の誤字を指摘する声も。

 愛衣に向ける冷たい一言も。

 眼鏡を直す小さな仕草も。

 

 もうない。

 

 真咲は、その記憶を処理する。

 

 篠原琴音。

 

 灰化確認。

 

 残存構成員、五名。

 

 記録上、それだけだった。

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