灰になるまで 作:ギガマツタケ
NOCTURNE専用ラウンジには、七つの席があった。
今は、そのうち二つが空いている。
黒川愛衣の席。
篠原琴音の席。
愛衣の席には、もうスマホの通知音はない。
琴音の席には、もう眼鏡を直す仕草はない。
残った五人は、それぞれの席にいた。
白石小春は、膝の上で両手を擦り合わせていた。
さらさら。
さらさら。
静かな音だった。
けれど、その音がラウンジの空気に妙に残る。
真咲は端末から顔を上げた。
「白石さん」
「はい」
小春は柔らかく微笑んだ。
「何でしょう」
「手を止めてください」
「あ……すみません」
小春は素直に手を止めた。
だが、数秒後にはまた指先が触れ合っていた。
さら。
さら。
本人に自覚はないのだろう。
あるいは、自覚していても止める理由がないのかもしれない。
真咲は端末に視線を落とす。
黒川愛衣、灰化確認。
篠原琴音、灰化確認。
残存構成員、五名。
小春は、その画面を見ていた。
「榊原さん」
「何でしょう」
「愛衣さんと琴音さんの灰は、回収されたんですか?」
ラウンジの空気が止まった。
奈々が煙草の箱を回す手を止める。
千尋が小春を見る。
麗華が目を細める。
真咲は表情を変えなかった。
「灰化残滓は現場処理班が回収しました」
「全部ですか?」
「可能な範囲で、全量回収です」
「混ざっていませんか?」
「何とですか」
「他の人の灰と」
小春は真剣だった。
その目には、悪意がない。
ただ、心から気にしている。
「愛衣さんの灰と、路地裏の人達の灰。琴音さんの灰と、大学の人の灰。ちゃんと分けられたんでしょうか」
千尋が小さく息を呑んだ。
「小春さん……」
「だって、混ざったら分からなくなってしまいます」
小春は両手を見つめる。
「誰だったのか。どんな人だったのか。最後にどんな形だったのか」
「灰化残滓は記録対象です」
真咲は言った。
「個人の感傷で扱うものではありません」
「感傷じゃありません」
小春は静かに答えた。
「残したいだけです」
「禁止されています」
「はい」
小春は頷いた。
しかし、その声は二年前と同じだった。
承知ではある。
納得ではない。
「白石さん」
真咲の声がわずかに低くなる。
「あなたの店舗で販売されている雑貨について、再調査を行います」
小春は微笑んだまま、瞬きをした。
「私のお店ですか?」
「はい。灰化残滓の私的加工および販売の疑いがあります」
「そんな」
「加工済み石鹸、小瓶入り装飾品、香り袋。過去の回収記録と照合が必要です」
「榊原さん」
小春は困ったように笑った。
「うちのお店は、そんな怖い場所じゃありませんよ」
「怖いかどうかは問題ではありません」
「綺麗な場所です」
「問題はそこではありません」
「優しい場所です」
「白石さん」
「失くなったものを、ちゃんと残してあげる場所です」
真咲は沈黙した。
小春の声は柔らかい。
けれど、その柔らかさの中に、もう戻れないものがある。
麗華が静かに口を開いた。
「小春さん。あなた、それを本気で言っているのね」
「はい」
小春は麗華を見る。
「麗華さんは、残したいものはありませんか?」
「残したいもの?」
「綺麗なもの。大事なもの。なくなってほしくないもの」
麗華は少しだけ笑った。
「私は、灰になる前に見られたいわ」
「そうですか」
小春は穏やかに頷いた。
「私は、灰になった後も残したいです」
奈々が低く笑う。
「やっぱり、やな集まりだね」
千尋が小春へ手を伸ばしかける。
だが、真咲が先に言った。
「水瀬さん。接触は控えてください」
千尋の手が止まる。
小春はその手を見て、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「大丈夫です。私は大丈夫ですから」
そう言って、小春は立ち上がった。
「白石さん。どこへ行くつもりですか」
「お店です」
「本日は外出制限をかけます」
「少しだけです」
「許可できません」
「もう少しだけ」
小春は自分の小さな布袋を持った。
「集めたいものがあるんです」
真咲が立ち上がる。
「白石さん」
小春は振り返らなかった。
「行ってきます」
柔らかな声だけを残して、ラウンジを出ていった。
*
白石小春の店は、表通りから少し外れた場所にあった。
小さな個人経営の雑貨店。
白い木製の扉。
生成りのカーテン。
窓辺に並ぶ小瓶。
紙包みの石鹸。
香り袋。
ドライフラワー。
手作りの小物。
何も知らない人間が見れば、穏やかで清潔な店に見える。
実際、店内には優しい香りが漂っていた。
石鹸の香り。
乾いた花の香り。
薄い甘さ。
そして、その奥にある、かすかな灰の匂い。
小春は店の奥へ入り、棚の上に置かれた小瓶を一つ手に取った。
中には、白い粉が入っている。
灰。
誰だったのかは、もう分からない。
けれど小春には、それで十分だった。
この人は、消えずに残っている。
捨てられずに済んでいる。
小春は小瓶を光にかざした。
「綺麗ですね」
瓶の中の灰が、わずかに揺れた。
愛衣の灰は、どこへ行ったのだろう。
琴音の灰は、ちゃんと残っているのだろうか。
現場処理班が回収した灰は、保管される。
分類される。
報告される。
必要がなくなれば、廃棄される。
それでは寂しい。
灰は、最後の形なのに。
小春は布袋を開いた。
中には、空の小瓶がいくつか入っている。
小さくて、透明で、蓋のついた瓶。
灰を入れるにはちょうどいい。
「もう少しだけ」
小春はそう呟いた。
「少しだけなら、きっと」
*
夜の商店街は、閉店後の静けさに包まれていた。
シャッターの下りた店。
薄暗い街灯。
遠くの自動販売機の光。
誰かの足音。
小春は、布袋を持って歩いていた。
白いワンピースの裾が、夜風に揺れる。
表情は穏やかだった。
素材を探しに行く。
それだけだった。
人間を殺しに行くという意識は、小春には薄い。
使徒再生をする。
耐えられれば、オルフェノクになる。
耐えられなければ、灰になる。
どちらにしても、最後の形は残せる。
それは、悪いことではない。
小春は、路地の角で一人の男を見つけた。
酔っている。
年齢は四十代くらい。
スーツはよれている。
手にはビニール傘。
電話口で誰かに怒鳴っていた。
「だから、うるせえって言ってんだろ!」
男は通話を切り、壁を蹴った。
小春は少し離れたところから見ていた。
怒っている人。
荒れている人。
壊れかけている人。
灰になると、どういう色になるのだろう。
小春は近づいた。
「大丈夫ですか?」
男が振り返る。
「あ?」
「具合が悪そうでしたので」
「何だよ、あんた」
「近くでお店をやっています」
「店?」
「雑貨屋です」
男は小春を上から下まで見た。
白い服。
柔らかい表情。
警戒心のなさそうな声。
男の顔つきが変わる。
「へえ。こんな時間に一人で?」
「はい」
「危ねえよ。変な奴に絡まれたらどうすんだ」
「そうですね」
小春は微笑んだ。
「でも、大丈夫です」
両手をゆっくり擦り合わせる。
さらさら。
さらさら。
「あなたも、きっと綺麗に残りますから」
「は?」
小春の瞳が灰色に濁る。
白いワンピースの輪郭が歪む。
柔らかい肌の下から、羊の骨格を思わせる白い外骨格が現れる。
頭部には湾曲した角のような意匠。
全身を覆う装甲は、柔らかさと異様な白さを併せ持っていた。
シープオルフェノク。
男は叫ぶ。
小春は静かに手を伸ばした。
使徒再生。
男の身体に灰色の因子が流れ込む。
男は地面に膝をつき、激しく震えた。
骨が軋む。
喉が鳴る。
目が見開かれる。
だが、覚醒しない。
小春はじっと見守っていた。
「大丈夫ですよ」
男の指先が灰になる。
「怖くないです」
腕が崩れる。
「ちゃんと、残しますから」
男は言葉にならない声を上げ、灰となって地面に崩れた。
小春はしゃがみ込む。
布袋から小瓶を取り出す。
灰を丁寧に集める。
指で、少しずつ。
「少し粗いですね」
小春は瓶の中を見て呟いた。
「でも、綺麗です」
瓶に蓋をする。
一つ目。
*
二人目は、駅近くの裏道にいた若い女だった。
泣きながら電話をしていた。
恋人との喧嘩か、仕事の失敗か。
理由は分からない。
小春には、それほど重要ではなかった。
悲しい人は、綺麗な灰になる気がした。
小春は声をかけた。
「泣かないでください」
女は驚いて振り返る。
「誰ですか……?」
「大丈夫です」
小春は微笑む。
「悲しいものも、ちゃんと残せます」
使徒再生。
女は覚醒しなかった。
白い灰になった。
小春は小瓶に入れる。
「これは、少し柔らかい」
二つ目。
*
三人目は、コンビニ裏で眠っていた老人だった。
小春はしばらく迷った。
けれど、寒そうだった。
このまま朝までここにいるより、残してあげた方がいいかもしれない。
そう思った。
使徒再生。
老人も覚醒しなかった。
灰になった。
小春は小瓶に入れた。
「静かな灰ですね」
三つ目。
*
四つ目を集めようとした時だった。
背後で、足音がした。
小春は振り返る。
暗い道の向こうに、黒い装甲が立っていた。
赤いラインが夜の中で光っている。
ファイズ。
小春は首を傾げた。
「あなたも、灰を集めに来たんですか?」
ファイズは答えない。
小春は小瓶を布袋へしまった。
「違いますよね」
ファイズが一歩近づく。
その動きに、殺意のようなものは見えない。
けれど、止める意思はある。
小春には、それが少し寂しかった。
「どうして止めるんですか?」
返事はない。
「捨ててしまうより、ずっといいのに」
ファイズは構える。
小春は両手を擦り合わせた。
さらさら。
さらさら。
「分かってもらえないんですね」
*
戦闘は、商店街の裏道から始まった。
小春の動きは速くない。
愛衣のように跳び回るわけでもない。
琴音のように角度を計算するわけでもない。
だが、近づきにくい。
白い外骨格が、見た目以上に硬い。
柔らかそうに見える動作の中に、不気味な重さがある。
ファイズの拳が入る。
小春の身体が後退する。
だが、倒れない。
「痛いです」
小春は言った。
声は穏やかなままだった。
「でも、痛いのも残りますか?」
ファイズは答えない。
続けて蹴りが入る。
火花が散る。
小春は壁に叩きつけられた。
布袋から、小瓶がいくつか転がる。
瓶が割れた。
白い灰が、地面にこぼれる。
小春の動きが止まった。
「あ」
小さな声だった。
ファイズが近づく。
小春は割れた瓶を見ていた。
「ああ……」
灰が風に散る。
誰だったのか分からない灰。
けれど、小春には大事なものだった。
「だめ」
小春の声が、初めて歪んだ。
「散らないで」
シープオルフェノクがファイズへ飛びかかる。
その動きは、先ほどまでより荒かった。
腕を振る。
角で突く。
白い外骨格をぶつける。
ファイズは受ける。
かわす。
拳を叩き込む。
小春の装甲に亀裂が入る。
それでも小春は、割れた瓶の方へ手を伸ばそうとする。
「集めなきゃ」
ファイズがベルトへ手を伸ばした。
電子音。
Exceed Charge.
ファイズエッジに赤い光が走る。
小春はその光を見た。
綺麗だと思った。
赤い刃。
灰を切り分ける線のようだった。
ファイズが踏み込む。
スパークルカット。
赤い光の刃が、シープオルフェノクの頭部から股下までを一直線に走った。
時間が止まったようだった。
小春の身体に、赤い線が残る。
その背後の壁に、影が映っていた。
シープオルフェノクの影。
そして、その内側に重なるように、小春の人間態の影。
裸の少女のようにも、白いワンピースを失った女のようにも見える影。
その影が、笑っていた。
「あはっ」
小春の声が漏れた。
嬉しそうな、狂ったような、柔らかい笑い。
次の瞬間、シープオルフェノクの身体が左右に分かれた。
切断面から青い炎が滲み、白い灰がこぼれ落ちる。
左右に分かれた肉体が崩れていく。
背後の人間態の影も、同じように真っ二つに分かれた。
右へ。
左へ。
笑いながら。
消えていく。
「きれい……」
それが最後の言葉だった。
白石小春の肉体は、左右に分かれたまま灰になった。
地面に落ちた小瓶の破片の上へ、白い灰が降り積もる。
小春が集めた灰。
小春自身の灰。
それらは風に混ざり、少しずつ区別がつかなくなっていった。
ファイズは、しばらくその場に立っていた。
何も言わない。
やがて、赤い刃の光が消える。
裏道には、割れた小瓶と、白い灰だけが残った。
*
スマートブレイン本社地下特別フロア。
NOCTURNE専用ラウンジ。
七つの席のうち、三つが空いていた。
黒川愛衣の席。
篠原琴音の席。
白石小春の席。
愛衣の席には、もうスマホの通知音はない。
琴音の席には、もう眼鏡を直す仕草はない。
小春の席には、もうあの音はない。
さらさら。
さらさら。
手を擦り合わせる、あの静かな音。
真咲は、小春の灰化確認報告を開いた。
現場処理班からの報告には、識別困難と記されていた。
白石小春本人の灰化残滓。
使徒再生不成立個体の灰化残滓。
小瓶内に保管されていた灰化残滓。
現場でそれらが混ざり、完全な分類は不可能。
真咲は画面を見つめる。
小春は、灰を残したがっていた。
捨てられるより、残る方がいい。
忘れられるより、形になる方がいい。
消えてしまうより、瓶の中にある方がいい。
彼女は本気でそう思っていた。
だが最後には、自分の灰も、誰かの灰と混ざった。
それは彼女にとって、望んだことなのか。
望まなかったことなのか。
判断不能。
記録上、不要。
真咲は入力した。
NOCTURNE構成員灰化報告。
対象:白石小春。
個体名:シープオルフェノク。
性質分類:狂気。
灰化確認。
交戦相手:ファイズ。
推定必殺技:スパークルカット。
最終行動:無断外出、対象接触、使徒再生実行。
覚醒不成立個体、複数灰化。
灰化残滓の一部を小瓶に保管していた可能性あり。
回収対象物:小瓶、香り袋、加工済み石鹸、未分類残滓。
残存構成員:四名。
備考:灰化残滓への執着は、最後まで改善されず。
追記:本人由来の灰化残滓と、保管されていた灰の識別が困難。
送信。
真咲は、小春の席を見る。
いつもなら、彼女はそこに座っていた。
膝の上に小さな布袋を置き、困ったように笑いながら、手を擦り合わせていた。
さらさら。
さらさら。
真咲は、その音を思い出した。
そして、すぐに処理した。
白石小春。
灰化確認。
残存構成員、四名。
記録上、それだけだった。