七夕だから、と言って笹と短冊を用意しなくなったのはいつ頃からだっただろうか。
織姫と彦星が年に一度天の川を渡ることで逢瀬の願いが叶う、というロマン溢れる話に対して、現実的な目線で突っ込みを入れてしまうような、そんなつまらない女に私はいつの間にかなってしまっていた。
「そんなこと考えてるから彼氏に愛想つかされたんでしょ」
世の人間が、久しぶりに羽根を伸ばすことができる規制なしの大型連休に浮かれていた頃、私は結婚を視野に入れて交際していた恋人にあっさりと振られてしまった。
彼とは同棲もしていた。
大きな喧嘩もなく、お互いの良し悪しを寛容的に受け入れながら年単位で生活をしていた私たちは、このまま一緒に生活していくんだろうなぁと本気で思っていたので何の前触れもなくあっさりと家から出ていってしまった彼の背中を私はただ見つめることしかできなかった。
「でもさぁ……私、何も言われてこなかったんだよ、これまでずっと」
GWから暫く茫然自失の状態で仕事生活を続けた私は、祝日のない6月を半分ぐらい過ごしたとある何気ない休日に、土日だけしか休みないってしんどいなぁと何気なく呟いた一言に返してくれる人間が誰もいない現実にようやく気づかされたのだ。
急に広く感じる部屋。
二人で寝ていたシングルベッドには1つだけになった枕が雑に転がっているだけ。
洗面台にはもう一月は使われていない所在なさげな歯ブラシが残されている。
彼は消耗品以外の私物を綺麗さっぱり持ち出して出ていったので、彼の生活の痕跡はもうほとんど残っていない。
私はこれまで、どうやって生きてきたんだろう。
ずっと彼と一緒に生きてきた、その日々を走馬灯のように思い返す。
私の生活にはずっと彼の姿があったのに、この家のどこを探しても彼の姿はない。
彼が出ていってから一度だって湧いてこなかった悲しみがあふれ出して涙が止まらなくなっていた。声を出してえんえんと泣きはらしたのは高校生の時以来かもしれない。思えば、彼と出会ったのは高校時代だったな、と思い出してまた一層悲しみが深まった私は床に崩れ落ちて泣き続けた。
昼から夜まで飲まず食わずで泣き続けた私は翌日仕事に出られなかった。欠勤の連絡さえ出来なかった。
今まで欠勤なんてただの一度もしたことがなかった私は、ドシンプルに何か事件か事故に遭ったんじゃないかと大真面目に心配されていたらしい。これが本当に幸いだった。全く連絡がつかない私を案じて、縁あって同じ企業に就職した高校の時にクラスメイト、今ではかけがえのない友人の一人だと思っている会社の同僚が午後休を取ってまで様子を見に来てくれたのだ。
そこで初めて、私は失恋したことを他人に話した。彼女は私の話をただずっとうんうんと聞き続けてくれていた。私の口は止まることを知らず、ただ延々と急に振られた、彼がいない、いなくなった、寂しい、生きていけないかもしれないという旨の言葉を言い続けていたらしい。私が黙ることにはすっかり日が落ちていた。
彼女は私が落ち着いたのを見計らって会社に連絡。私の有給を代理申請してくれた。それから暫くの間、彼女は退勤後に私の家に立ち寄ってご飯を一緒に食べてくれた。
そんな生活を1週間ほど続け、私はようやく彼のことを割りきって捉えられるようになった。そうして何とか出勤できる程度にまで回復した。そして世間が七夕の話題で賑わっている今日、私は彼女へのお詫びを兼ねて、休日のヌン活を楽しんでもらっている。
「何も言われないって、それって裏を返せば諦められてるってことだからね」
「そうかもしれないけど、さぁ……」
どちらにせよ、諦めるにしたって段階があると思うし、何も言わないと何も伝わらない。つまりコミュニケーションを取ってないことと同じだ。
「さすがに態度にも出さなかった、なんてことはなかったんじゃないの?長かったんでしょ、あんたら」
「うーん」
本当に付き合いだけは吃驚するほどに長かった。何せ高校卒業前に付き合い始めて大学へ進学しても別れることなく、社会人になっても私たちは私たちのままだった。
「そういう無関心さが良くないんでしょ、ちゃんと彼のこと見てあげてた?」
見てた、と即答はできなかった。
私は彼のことを、知っているようで、その実は全然知らなかったのかもしれない。
口癖だとか、生活の習慣だとか、食べ物の好みだとか、そういう長くいればわかるようなことはわかる。でも彼が普段何を考えてるのかとか、どういう人となりなのかとか、内面的なところは今となってはわかっていなかったと言わざるを得ない。学生恋愛をしていたあの頃の方が、彼のことを知りたいと思っていたし、そのために色んな話をしていた。探ったり、直接聞いたり、人伝てだったり、SNSを見返したり。
でも、大人になってからは本当にしなくなっていた。彼がそこにいるということが当たり前になってしまっていて、そういう彼のために時間を使うということを後回しにしていたのかもしれない。学生の時と今では考え方や価値感、から何から何まで違っていてもおかしくはなかったのに。彼は彼のまま、変わっていないと思い込んで決めつけていた。
でもたぶん、彼はそうじゃない。社会に出て仕事を初めて、自分よりも年上の大人たちと数多く関わり経験を得て見た目も中身も変化していく私のことをずっと見ていたんじゃないだろうか。だから誕生日やクリスマスのプレゼントもちゃんと私が貰って嬉しいものを選んでくれていたし、デートの場所も外したことは無くてずっと楽しめていた。
そうやって、彼はずっと私のことを見てきた。だからこそ、彼を昔のままだと、学生のころと変わらないと決めつけて接していた私にギャップを感じてしまったんじゃないだろうか。
社会人としては大人になったかもしれないけど、私は彼に対してずっと子どものまま甘えていて、それで……。
「ま、あんたって昔からそういうとこあるもんねぇ……人からどう見られているかに凄い無頓着。その分嫌われないように色々気を遣って立ち回ってたんだろうけど」
対面に座る彼女はマカロンを掴みながら、肩を竦めて一言告げた。
「一番大事な身近な人がおろそかになっちゃったわけだ」
私は大人のフリを精一杯頑張っている子どもでしかなかったということだ。
「とは言ったけど、そんな立ち回りを恋人にされたらそれはそれで冷めるけどね」
彼は本当に学生という立場を卒業して私と対等に向き合ってくれていたということなんだろう。それも恋人贔屓の特別サービス付きで。
でも私はそのサービス期間も逃してしまっている。
「……1年に1回しか逢えない織姫と彦星のことがさ、羨ましいなって今日初めて思った」
「アタシは絶対イヤだけどね、そんな奴残りの364日の間に何するかわかんないし」
「浮気とか?」
「それもそうだけど、そんな薄っぺらい関係つまらないでしょ」
「……あぁ、そういう、こと?」
「そーそー、そういうこと」
いつの間にかケーキスタンドに盛り付けられていたデザートは全てなくなっていた。
私があれこれ考えているうちに星河が平らげたのだろう。
「まぁ次からは向き合い方を変えてみることね」
「そうだね」
もし、新しい恋愛を始めることがあれば、同じ轍を踏むわけにはいかない。
もういなくなってしまった彼を見習らって、私は将来出会うかもしれないその人とは喧嘩してすれ違ってでも、もっと深く分かり合える関係を作っていければいいな、そう思う。
「少し大人になったわけだし、イチから恋愛する気持ちで楽しめるんじゃない?」
「えー、暫くはいいよ、正直まだ全然引きずってるし」
そう思えば、彼の背中をただ見送ってしまった私は本当に馬鹿なことをしたと思う。あの時の私にまだ、彼の背中を追いかけるだけの執着心があれば、と。
「そっか、泣くほどなのね」
「え……?」
どうやら、私の涙腺は知らない間に壊れてしまっていたらしい。
いや、多分違う。正常なのは涙腺の方で、狂っていたのはどちらかというと私の頭の方だ。
「……うん、今更後悔してきた、かも」
「うんうん、それならよかった安心したわ」
満足気に2回頷いて、彼女は残っていたミルクティーを飲み干して急に立ち上がった。
「じゃ、あとはがんばれ」
そういって荷物をまとめだす。
「えっ?星河帰るの?この後一緒に映え写真撮りに行くんじゃ」
ヌン活をキメたあとはインスタ映えのする写真でも撮ろうと、バズればいい男から声かけてもらえるかもよ、という話を持ち掛けてきたのは星河だった。だから男受けする服を着てくるように言われて久々に気合を入れてメイクも何とか形にしてきたというのに。
「そうねぇ……それは選手交代ってことで!じゃぁねー」
昔の携帯ってどこで役に立つかわからんもんねー、とすれ違い様に星河が小さく呟く声が聞こえた。
私は何が何だかわからず呆気にとられながら、店の扉をあける彼女の背中を見送った。
「…………え?」
店の外に出た星河が、誰かに軽く挨拶をしている姿が見えた。
なんとなく雰囲気が違うような気もするけど、私が一番自信をもってこの人だと断言できる。
本当に長い時間を一緒に過ごした人が、星河と入れ違いで店に入ってきて真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。
距離が縮まったことで、なんとなく違う雰囲気の正体に気づいた。
高校の卒業式、その後に卒業記念で出かけた私はお互い恰好良く見せようと張り切っていた。その時のままではないけれど、雰囲気がとてもよく似ている。そんなファッション、学生の時までしかしてこなかったのに。
そんなことを考える私も、その時の私にとてもよく似たコーディネートをしていた。というか、私が見た目に気合を入れたときはこういうガーリーフェミニンのファッションにしかならないだけで。
ふと今日が何の日だったのかを思い出した。織姫と彦星は1年ぶりの再会をこの後果たすのだろう。でも私たちの再開は1年どころではないだろう。もっと前、10年ぶりぐらいになるんじゃないか。
懐かしいな、と思いながらそれと同時に、変に新鮮だなと、私はそんな風に思っていた。