ノイズがひどい。イヤホンのすきまから怒声と罵声が入り込んでくるせいで気が滅入る。お気に入りの曲もこのノイズといら立ちを消してくれない。部屋を出て、二匹のケダモノを横目にしながら夜に包まれに行く。玄関から足を踏み出すと、ひやり、と夜が触れてくる。熱烈な愛撫を受けて、遊びに連れ立っていく。昼の雨雲がまだ残っていて、黒に斑を作っていた。
少し湿度の残った夜を肺に招いて、ノイズと苛立ちを追い出す。斑の隙間から、夜の恋人が恥ずかしそうに顔をのぞかせている。
足の向くまま、近所の川につく。春と初夏が混ざった八重桜の並木が迎えてくれる。夜の調べを奏でている水達と触れたくて、川べりにおり、青々とした草たちの足を撫でる歓迎方法をすこしこそばく感じながら演奏会の会場に腰を下ろして美しい調べを聞く。隣で夜が歌を歌い始める。すべてが混ざり、調和し、世界を構築していく。
ああ 麗しいとはこのことをいうのだ。きっと今、世界最高のオーケストラの演奏を聴いても、ノイズのようにしか感じられないだろう。それほどに美しく、すべてが完成されている。
突如、演奏会が中断された。まるで真冬に、くるまっていた毛布をいきなり取り上げられたような衝撃と空虚に、頭は追い付かなかった。働かない脳みそをむりやり動かして、その元凶を見る。少女だった。夜を溶かした色のシャツにショートパンツ。背格好は自分とよく似ていた。ただ、それ以外は自分と正反対だった。夜の髪と月の瞳を持った、水の流れのように読めない表情。
「コンバンハ」
星の煌めきのような声。本当に夜の化身のようだった。
「こんばんは」
その少女は夜の幻や川の魔法のように夢現な存在なのだと、いつのまにかたっていた鳥肌が教えてくれた。
「ココデナニヲシテイタ?」
「夜を聴いてたの」
彼女は少し目を細めて問うてきた。私の返答に、少し驚いたような色を見せた彼女。
「ナルホド」
美しい唇がほころんで、また煌めきが零れ出る。
「でも、あなたが演奏を終わらせてしまったの。」
この少女の前では真のことしかはないのだろう。口をついて言葉が零れた。
彼女は虚をつかれたようで、少し目を見開いた。その顔もまたどこか神秘的なものだった。
「ソレハスマナイコトヲシタ。ナラバゲキハイカガダロウカ」
「劇?」
(以下、カタカナ略)
「ワレラの眷属たちが催す余興だ。夜を聴くそなたならたのしめるだろう」
「眷属…あなたは神様なの?」
「神か…それはそなたら人の子が勝手に言っているものだが、そういった意味で言うならば、ワレは神というものなのだろう」
「へえ。そうなの。是非お邪魔したいわ」
彼女はまた薄く、美しく口角をあげた。
「では、ワレの手をとれ」
白く細い、彫刻のような冷たさのある手だった。血管や肌の質感がない腕。人ではな
いのだと感じさせられた。触れると、ひやり、と夜と同じ感触がした。
「目を覆うぞ」
もう一方の手が、瞼に触れた。瞬間、ぐるりと世界が回る。空気が震えて、現世のものではなくなったことが分かった。空気の味が、音が、感覚が、においが、すべてが混ざり、分離し、また一つに合わさる。もう一度世界が回ったような感覚がして、つぎの瞬間足の裏が、柔らかな草地に触れた。履いていたはずのサンダルは世界の狭間にでもおとしてしまったのか、素足になっている。
ぱっと、覆われていた視界が解かれる。
まず飛び込んできたのは、空だった。あたりは夜と朝の狭間のような色で包まれていた。
橙と朱と紫と紺。すべての色が混ざりあい、独立して空を創っている。地面は初夏の、柔らかな緑が飾っている。どこまでも世界が広がっており、どこまでも平面だった。
次ににおいが飛び込んできた。冬と春の狭間の雪と命のにおい。夏と秋の狭間の、プールと熟れた果物の甘いにおい。色々な「狭間」のにおいが鼻腔を満たして、肺を満たす。
「ここは…」
「現世と常世の狭間だ。ああほら、もう宴の用意ができておる。」
彼女が指さした、五メートルほど先には大きな円の舞台と、10個ほどの座席がそれにそって並べられている、劇場のようなものが出現していた。円形の舞台は、真ん中が開いており、その穴の中では朱色の炎が赤々と燃えている。座席にはすでに多くの人影がついており、その周りには古くから神の御使いとされている狼やキツネ、蛇、鴉、兎などが人影を守るように囲んでいた。
「では行こうか。人の子よ」
彼女の美しい横顔に気を取られながら、柔らかな緑のじゅうたんを歩く。歩くたびに濃い緑の香りと豊かな土の香りが立ち上る。だんだん近づいてきた劇場は、思っていた数倍も大きく、明るかった。光源は中央の炎しかないのにもかかわらず、全体が陽光のような柔らかな光に包まれている。そして遠くから見えた人影は、本当に「影」だった。立体の陰のようなものが席についており、椅子が若干透けて見えている。
「あの影は一体何?」
「あれもそなたらのいう神だ。人の子の目では影にしか見えないだろうがな」
「周りの動物たちは?」
「あれはワレラに仕えている者たちだ。力が弱く、畜生の姿でしか顕現できない」
「へえ…」
「さあもう始まる。精霊の耳をもつ少女よ。とくと楽しむがよい」
いつの間にか目の前に来ていた椅子に腰かける。背もたれとひじ掛けのようなものがついており、西洋の王の椅子のようだった。見た目には大理石製のようにしか見えなかったが、座ってみるとつるつるとしていて柔らかく、温かい。座って間もなく、椅子の前に小さな机のようなものが現れた。その上には、見たことのない色や形の薄く発光している果実や酒のようなものが入った器が山のように乗っている。どれも甘く、芳醇な香りをただよわせており、こちらを誘惑してくる。一番手前にあった、紺色のリンゴほどの大きさの果実を手に取り、食べようとした瞬間、本能が待ったをかける。そういえば何かの話で、異界の物を口にした娘が、元居た世界にもどれなくなる、というものがあった。一気に食欲がなくなり、手に持っていた果実を器に戻す。
どこからか笛の音がきこえてきた。次に少し高い音、
低い音、柔らかな音、とどんどん笛の音の数が増えてくる。そこに弦楽器の音、打楽器の音が加わり、神社の催しで聞くような音楽になっていく。
すべての楽器が出そろい、一つの音として完成されたとき、鼓膜が、体が震えた。夜を聴いたときよりも大きな衝撃と感動に、涙がこぼれる。鳥肌がたち、心臓が鼓動を打つ。よく聞くと、夜も聞こえる。目を閉じて、必死に音を理解に押し込もうとするが、できない。ただ圧倒された。
そのうちに、朝が聴こえてくる。新しい、始まりの音。朝日が楽譜を描き、
朱と紺の空が楽器を生み出し、空気が音色を奏でる。朝に浸っていると、昼が聴こえてくる。明るい、活動の歌。咲き誇る草花が歌い、地球上の生命が踊りだす。昼を楽しんでいると、耳なじんだ音が聴こえてくる。厳かな、静寂の音。月が優しく曲を奏で、星が詠う。夜との再会を喜んでいると、音が少し小さくなる。名残を惜しんでいると、曲調が変わり、祭囃子のような音楽になった。
舞台の中央の炎が大きく燃え上がり、動物たちが舞台に上がり、踊り始める。
二匹の鴉が高く飛び上がり、一声、カア、と鳴いた。次の瞬間、羽衣を纏った
美女が鴉の代わりに宙に浮いていた。そのまま玉虫色の羽衣を使った優美な舞が始まった。蝶のように軽やかで、水のように流麗なその舞は、天女を彷彿とさせた。しばらくすると、下で踊っていた動物たちがはけ、一人の天女も舞台上空から姿を消していた。残った一人が、羽衣を外して、舞台に舞い降りた。天女は羽衣をいつのまにか舞台上にあった石におき、そのまま石にもたれて眠り始めた。音楽が小さくなり、今度は管楽器が中心の、ゆったりとした曲調に変わる。すると、一人の漁師のような恰好をした男が舞台上に上がってきた。しかし、よく見るとキツネの耳としっぽが生えている。
(力が弱いから完全な人の姿をとれないのね。神様が言っていた通りだ。)
漁師は、天女を見るなり、驚いたような、照れたようなしぐさをした。忍び足で天女の周りを一周ぐるりとまわり、石の上に置かれた羽衣に気づいた。少し顎に手を当て、考え込むしぐさをしている。と、漁師は素早く羽衣を自分の懐にしまい込んだ。そして炎の陰に隠れてしまう。話の流れに、強烈な既視感に襲われて、その正体を探ると、一つ思い浮かんだ。
(あ、これ知ってる。天女の羽衣伝説だ。たしかこのあと天女が悲しんで、漁師は天女を慰めてちゃっかりお嫁さんにしちゃうんだったっけ。)
思った通り、天女は目覚めて、石の上に羽衣がないと分かると泣き出して
しまった。それに合わせて音楽も、こちらの感情を揺さぶるような物悲しいものになる。つられて泣きそうになっていると、炎の陰から先ほどの漁師が飛び出してくる。パっと音楽が大きくなり、今度は少し弾むような、小気味の良い曲調に変わった。天女はひどく驚いて、泣くのをやめた。漁師は、どうしたのか、とたずねるようなしぐさをしている。天女は身振り手振りで説明している。
(なるほど。話せないから、そのかわりに音楽と身振りで表してるんだ。てことはさしずめ今は『羽衣がなくて帰れない』って説明してるってとこかな)
そんなことを考えていると、劇は展開し、いつのまにか漁師は天女を自分の家に連れて帰り、服を与え、家に泊まることを提案している。そしてどうやら、音楽は天女の感情を主として表現していることが分かった。天女の表情に合わせて曲調は明るくも暗くも変わる。そしてそのたびにこちらの感情も強く引っ張られる。今も、泊まることを提案されて喜んでいる表情に合わせて、曲調は明るくなり、今すぐ万歳!と叫びたくなるような気持ちにさせられている。普通にミュージカルは見たことがあるが、ここまで感情が引っ張られたりはしなかった。眷属といえども、やはり人よりもはるかに卓越したものを出せるのだろう。感心しながら、演者と音楽にすべての意識を向ける。
『三年の時がたち、漁師は天女を妻に迎え、子どももなした。しかしある日、天女が納戸を掃除していると、三年前になくしたはずの羽衣がしまい込まれているのを見つけてしまった。天女は驚き、悲しみ、怒った。海は荒れ、風が暴れ、雷が轟く。漁師と子どもは泣いて許しを乞うたが、結局天女は天に帰ってしまう』
日本の異種婚譚によくある、結婚生活後に正体がばれて幸せが終わってしまう話。この手の話が多いのは、人間も同じだからかもしれない。結婚して、その人の本性が見えてきて、いやになって、離れていく。自分の両親を思い浮かべ、苦笑する。あながち的外れでもないのかもしれない。
感傷に浸っている間に、劇はクライマックスを迎える。ちょうど天女が天に帰ろうとしているシーンだ。音楽は打楽器を主とした荒々しいものに変わっている。荒れ狂う海と空を想起させる激しい太鼓の音と、天女の強い怒りと悲しみをぶつけられているような強い笛の音。音はどんどん大きくなり、天女は舞いながら高く、高く天へ昇っていく。天女の舞は虎のように雄々しく、炎のように荒々しい。いよいよ最高潮まで音と舞の激しさが達する。瞬間、会場が真白い光に包まれる。あまりのまぶしさに目を開けていられなくなる。徐々に、瞼の向こうの光が弱くなっていく。目を開けると、舞台が一変、色とりどりの花や蝶、鳥が舞う、極楽浄土のような景色になっていた。
「きれい…」
思わず口に出すと、隣にいる彼女がこちらを見てほほ笑んだ。
「劇は楽しんでもらえたか?精霊の耳を持つ少女よ。」
「ええ。とても。ありがとう。」
「ならばよい。だが、もう人の子は帰らなければならない。見よ、朝が来ている」
そういってさされた指の先を見ると、開演前まではまだいた夜は恋人とともに眠り、朝が空を染めようとしている。はるか地平線に、黄金色をさらに濃くしたような、美しい日が昇ってきているのが見えた。人間界では見ることのできない美しい光景に目が離せなくなる。
「朝が来るのがなにかまずいの?」
「ワレの力が弱くなり、そなたを人の世界へ返せなくなる。朝は自分の領域に他がいることを嫌う。おそらくそなたは、見つかれば世界の狭間に落とされ、二度と帰れない。それは嫌だろう?」
「まあそうね。名残惜しいけど、帰るわ。とても綺麗で素晴らしい夜をありがとう。」
「また夜を聴きに来るがいい。そなたのような耳を持つ人の子は稀有だ。ワレも百年ぶりに逢うた。楽しい夜だったぞ。」
そういってまた目を覆われる。興奮して火照った顔にぬくもりも柔らかさもないその手を心地よく感じながら、世界を渉る。感覚のねじれがおさまり、足の裏に、硬い地面を感じる。
「さらばだ。精霊の耳の少女よ。」
星のきらめきをきいて、瞼の上から冷たさが消える。目を開けると、見慣れた夜の演奏会場だった。ただ一つ違うのは、空の色だ。空は東の方が朱く染まり、黒は群青に変わっている。斑を作っていた雨雲も今は一つも見当たらない。あちらの世界程ではないが、 美しかった。
裸足のまま、帰路につく。川べりの草たちが、別れを惜しむように足をなぜてくる。足の裏の感触が土からコンクリートに変わった。肺に朝を入れて、夜を解き放つ。空を赤に染めている張本人が顔を出してきた。まだ少し残っていた夜が完全に消える。急に温度の上がった空気を纏いながら、家の前につく。三時間前ほどに寝たであろうケダモノたちを起こさないように、静かに日常を開ける。土のついた足のまま廊下をあるき、そのまま幻を洗い落としに行く。自分の体を流れ落ちる水を目で追い、夜を思い出す。現実味のない、美しい夜。寂寞と陶酔を泡に溶かして、流す。泡はすぐに排水溝に吸い込まれてはくれず、ふろ場のタイルに残っていた。
読んでくださりありがとうございます。私自身、よく家を抜け出して川に行きます。皆さんも是非夜を聴きに行ってみてください。