あおはるです。
……London Bridge is falling down
Falling down, falling down
London Bridge is falling down
My fair lady……
蒼い月の夜だった。
とても蒼い月だった。
地に広がる紅い溜まり。
それを染める程に、蒼い夜だった。
……速報です。今朝4時44分頃、○○県△△市□□町において、若い女性の遺体が発見されました。遺体は他殺と見られ損傷が激しく、警察は現在身元の判明を急いでいます。この地域では3月より同様の事件が6件相次いでおり、警察はその手口から同一犯の犯行と見て、捜査を進めています……。
◆
どんな夜の後でも、朝は必ず訪れる。四件目の事件が起こったこの日も、いつもどおりに朝は来た。
「おはよう。惠」
いつもと同じ、朝の学校の喧騒。その中で、聞き慣れた声があたしの耳に触れた。亜麻色のセミロングを揺らして振り返る。これも、いつも通り。返した視線の先にいるのは、二本の長い三つ編みが可愛い女の子。その笑顔も、いつも通りだ。
「おはよう。ゆうちゃん」
あたし――
「今朝のニュース見た?」
周りの生徒達を掻い潜り、走り寄って来る夕子。
「うん。またあったみたいだね」
「うん、じゃないよ。今回のあれ、惠ん家の近くじゃない」
「だねぇ。辺りを警察の人とかパトカーとかウロウロしてて騒々しかったよ」
あたしの態度に、夕子が溜息をつく。チャームポイントの三つ編みが、ピョンと跳ねた。
「ああもう!! だからそうじゃないでしょ!! 危ないじゃない!! 大丈夫なの!?」
「大丈夫だって。ちゃんと戸締りしてるし。なんて事ないよ」
「くぅ~~!! 何でそう、脳天気かなぁ!!」
足をバタバタさせて、焦れったがる。彼女は幼い時からの親友だけど、心配性なのがたまに傷だ。でも、その心配も仕方ないかもしれない。ここ数ヶ月、あたし達の街は異常事態にあった。
◆
事は、ある3月の霧深い月夜から始まった。
最初の発見者は、朝の早い新聞配達人。現場は、夜間に人の気が失せる路地裏。そこに、無残に切り刻まれた人体が放置されていた。
被害者は24歳のOL。検死の結果、殺害されたのは前夜の午前一時頃。残業終わりの帰路を狙われたらしい。遺体の損傷が酷かったために、最初は怨恨の線が疑われた。けれど、件の女性に恨みをかう様な事案は見られず。それではと思われたストーカー等の筋の話もなかった。警察は通り魔的犯行の可能性もあると見て、捜査を進めた。
けれど、分からない。
どれだけ調べても、現場からは犯人の痕跡は微塵も見つからなかった。犯行時間も時間。目撃者など、望めるべくもない。捜査は、暗礁に乗り上げた。
そうこうするうちに、第二の事件が起こった。今度の被害者は、30代のホステス。犯行状況は一人目とほぼ同じ。そして犯人の痕跡がないのも、同じだった。
事件は終わらない。一人、また一人と被害者は増えていく。
被害者は主婦や塾講師。学生も混じった
同じ手口。同じ状況。
行き詰まっていく、警察の捜査。
恐怖は、ゆっくりと街を満たしていく。
犯行が、いつも霧の深い月夜に起こる事。被害者が、皆女性である事。そして、手口の残虐性。全てが相まって、いつしか街の人達は犯人をこう呼び始めていた。
――切り裂きジャックの再来、と――
◆
「まぁ、怖いっちゃあ怖いけどね。でも、お陰で夜遅くまで警察や父兄の人達がパトロールに出張ってるから。その面じゃ、普段より心強いけどね」
そんな事を言いながら、手に持った運動靴の袋をクルクルと回す。溜息をつく夕子。
「全然、心強くないよ。事件のうち半分は、そのパトロールの最中に起こってるんだよ? 駄目駄目じゃない!」
「ホント、ゆうちゃんは心配性だなぁ」
「だから、惠が脳天気過ぎるんだってば!!」
あたしが、こうも余裕があるのにはそれなりの理由がある。
犠牲になった
犯人のターゲットからは外れている。
そんな思いがあたしのみならず、同年代の娘達にはあった。実際の所、この事件に便乗してくる変質者なんかの方が怖かったりする。
ちなみに目下のあたしの悩みは、下校時間の安全確保のために部活動が休止されてる事。ああ、身体が疼く。サッカーやりたい。
それでも、夕子は言う。
「年齢層が違うなんて、何の保証にもならないよ! 実際、この間やられた高校生なんか、わたし達と二歳しか違わないんだからね!」
「はいはい。分かったよ」
「だから~! もう!」
延々と繰り返す、堂々巡り。これも、いつもの事。
大雑把な性格のあたしと、心配性で細かい事に気が回る夕子。まるで正反対だけど、逆にそれがピッタリと噛み合う。お互いがお互いを補い合って、あたし達は二人で一人前。分かつ事なき、盟友だ。
昔も。今も。そして、これからも。
いつも通り、戯れ合うあたし達。そして、そこにもう一つの日常が割り込んでくる。
プラン。
唐突に目の前にぶら下がる、毛むくじゃらの物体。
ん? 何だコレ。
一拍の間の後、それがアレだと気づく。そう。この季節、街路樹や草むらでモゾモゾ動いてる
「うっきゃあぁああああ!!」
絶叫。隣にいた夕子が耳を押さえて目をグルグルしていたけど、それどころじゃない。頭をバサバサしながら、ジタバタ走り回る。と。
「アハハハハハハハ!!」
背後から聞こえてくる、軽快な笑い声。涙目で振り返ると、そこには手に玩具の毛虫を持った男子が腹を抱えていた。
「龍樹~!! また、あんたか~!!」
「ハハハ、やめろよぉ!! その顔!! ますます笑っちまうだろ!!」
憤怒の顔のあたしを見ながら笑い転げ続けるこいつは、
小学校からの腐れ縁で、しょっちゅうあたしに絡んでくる。ウザったいったら、ありゃしない。今だって、人の心臓を飛び出させておいて、いけしゃあしゃあとしている。
ムカつく。
「大体なぁ、怖がるんならもっと、女らしい声上げろよな。そんなんだから……ウベッ!?」
鈍い音と共に、盛大に吹っ飛ぶ龍樹。
「フンだ。ざまぁ」
彼を殴打したショルダーバックを肩に担ぎ直して、あたしは鼻を鳴らす。ちなみに今日の授業には国語と英語が入っている。バックの中には国語辞典や漢和辞典、英和辞典が詰まっていて攻撃力抜群なのだ。
ザマーミロ。
「テメェ!! この男女!! 何しやがんだ!?」
「何よ!? 最初にやってきたのは、アンタでしょ!!」
頭からピゥ~と血を飛ばしながら、ズカズカ迫ってくる龍樹。そんな彼を、あたしも迎撃態勢で待ち受ける。
「だからって、ここまでやる必要ねえだろ!! 殺す気か!?」
「フン!! なら死んじゃいなさいよ!! 空気と資源の節約になって、結構な事だわ!!」
売り言葉に買い言葉。このまま不毛な口喧嘩に突入する、あたしと龍樹。これもまた、いつもの事。
「あ~あ。また始まった。惠と中上君の夫婦喧嘩」
傍らで見ていた夕子が、苦笑いしながらそんな事を言う。その言葉に少し頬が火照ったけれど、聞こえない振りをする。つまりはまあ、そういう事だ。
キーンコーンカーンコーン……。
校舎から、ホームルームの始まりを告げるチャイムが響く。
「あ、ほら!! 惠! 中上君! ホームルーム、始まっちゃうよ!!」
口論に夢中になるあたし達に、夕子が叫ぶ。
「あ、やべ!!」
「急がないと!!」
そして、あたし達は三人揃って駆け出す。いつもの様に。
空は青く澄み渡り、天頂には眩い太陽が輝いている。それも、いつもの事。降り注ぎ満ちる、光の中。これが、あたし達の居場所。そう。ここには、この街に潜む闇なんて届かない。この毎日が。いつもの事が。これからも続く。今日も。明日も。明後日も。いつもの様に。当たり前に。続いて行く。
そうに決まっている。
そう、信じている。
信じて、いた。
信じて、いたのに。
それは、壊れた。
あまりにも、あっさりと――。
◆
1888年8月31日から11月9日の約2ヶ月間、ロンドンで5人の女性がバラバラに切り裂かれて殺されるという、連続猟奇殺人事件が起きた。署名入りの犯行予告を新聞社に送りつけるなどの奇行も伴い、劇場型犯罪の始まりとも言われている。犯人は精神病患者から王室関係者までが挙げられたが、結局逮捕には至らず、迷宮入りした。一世紀以上経った現在も犯人は不明。
その犯人を、人々は恐怖の意を持ってこう呼んだ。
――「切り裂きジャック」――と。
◆
学校の、終業を告げるチャイムが鳴る。先にも言ったみたいに、例の事件のせいで、部活動は軒並み休止されている。あたし達生徒は、速攻で帰宅を促される。ゾロゾロと群れ帰る生徒に混じりながら、あたしは溜息をついた。
「あ〜あ、部活やりたいな〜。この戒厳令、いつまで続くんだろう?」
「事件が解決するまでは無理だよ。いい加減諦めなよ。惠」
ぼやくあたしを、夕子が諌める。
「でもぉ〜」
「でももストも、ないでしょう」
まあ、分かってはいるのだ。何だかんだ言っても、今は非常事態。これ以上被害を増やすまいとする警察の懸命さも、
でも、いくら理解出来ても募る不満はまた別問題。道々に見て取れる警察官の姿を見て、あたしはもう一度溜息をついた。
夕子が、困った様に見ている。それに気づいて、あたしは二ヘラッと頼りなく笑って見せた。
「よお、相変わらずしょぼくれてんな」
後ろから、聞こえて来る声。振り返ると、サッカーボールを頭でリフティングしながら歩く龍樹の姿があった。龍樹はあたしと同じサッカー部。チームのエースでもある。あたしも、一対一じゃ絶対勝てない。忌々しい事だ。
「中上君、道路でそんな事してると危ないよ」
そんな龍樹の姿を見た夕子が、すかさず注意する。
「はいはいっと……」
いつも反抗的な龍樹も、夕子には逆らわない。素直にボールを下ろして、両手に持つ。普段、あたしの言う事なんか聞きやしないくせに。癪に障る事この上もない。
「全く、めーわくな話だよな。犯人、早くとっ捕まればいいのにさ」
ブツブツ言う龍樹。思うところは、あたしと同じだ。
「だよね。お陰で、欲求不満もいい所だよ」
相槌を打つあたしを見て、龍樹がポンと手を打つ。
「あ、そうだ。惠、お前、囮になれよ」
「は?」
何を言ってるんだ? こいつは。
「お前が囮になってさ、夜の街を歩き回ればいいんだよ。釣られて犯人が出てきたら、そこをふん縛ればいい」
思わずヒクつく米神。
「あ~ら。それは良い考えですこと。でもね、狙われてるのは若くても高校生からなのよ? あたしじゃあ、ちょ~っと若過ぎるんじゃないかしら~?」
「ああ、平気平気。お前なら、高校生どころか30代でも通用するって」
さらにヒクつく米神。
「あら~、それはそれは。何かしら? あたしが老けてるって言いたいのかしら?」
「よく分かってるじゃねえか。いい子いい子」
そう言いながら、あたしの頭をよしよしと撫でる龍樹。
切れた。限界である。
「んだとテメェ!! 何ならアンタから地獄に送ってやろうかぁ!?」
憤怒の形相で身構えるあたし。けれど、龍樹は涼しい顔。
「大丈夫だって」
「は? 何がよ!?」
「そん時は、オレが守ってやるって」
シレっと、そんな事を言った。
「あぅ……」
一瞬で消える、怒りの炎。代わりに、顔に血が上る。
これだ。こいつはいつも、サラッとこんな事を言うのだ。やり辛いったら、ありゃしない。言葉を失い、黙り込むあたし。多分、顔は真っ赤だ。そんなあたしを見て、龍樹は笑う。
「あはは、何だよ。何、焼き餅みたいな顔なってんだよ」
ケタケタと笑う龍樹。あたしには、返す言葉もない。ああもう、本当にどうしてくれよう。もういっそ、股間でも蹴り上げてやろうか。あたしがそう思いつめたその時。
「あ、いけない!!」
夕子が、突然声を上げた。
「ん?」
「どうしたの?」
「わたし、学校に宿題のプリント忘れちゃった」
そう言って、自分の頭をポカリとやる。
「ええ! 提出日、明日だよ!?」
「うん。わたし、戻って取ってくるね」
踵を返す背に、慌てて声をかける。
「あたしも一緒に行くよ」
けれど、夕子は首を振る。
「大丈夫。二人は先に、帰ってて」
「でも……」
「心配ないって。道には、警察の人や先生達もいるんだし」
そう言うと、夕子はクルリと向き直って叫ぶ。
「中上君! 惠の事、しっかり送ってくんだよ!!」
「え? あ、お、おぅ!」
急に話を振られた龍樹が、慌てた様に頷く。
「じゃ、頼んだからね」
そして、再び踵を返すと夕子は今まで来た道をかけ戻っていく。
「また、明日ねー!!」
飛んでくる言葉。あたしも声を張り上げる。
「うん! また明日―!!」
射し始めた、紅い斜光。その光の中で、夕子が微笑むのが分かった。それが、何だかとても眩しく映ったのは、気のせいだろうか。大きく手を振ると、夕子は背を向けて走っていく。その背を、あたしは何だかとても切ない気持ちで見送った。
「何だろう。ゆうちゃん、何だか変だったけど」
「……気でも、使ってくれたんじゃねぇの」
「え……?」
龍樹の声に振り向くと、いつの間にか辺りに人の気がなくなっている事に気づいた。
「……二人っきりだな」
「え? あ、それは……」
落ちてくる夕日の中で、龍樹の顔が紅く染まって見える。あたしも、同じ顔色をしているに違いない。
「久しぶりじゃね? こういうの」
「う……うん……」
しどろもどろになりながら、答えるあたし。そう。街が今の状態になってから、あたし達は監視と集団行動の中で動いてきた。こんな風に、彼と二人っきりになるのは、本当に久しぶりだ。
意識し始めると、もう止まらない。どんどん、顔に血が集中してくる。
「何、真っ赤んなってんだよ。お前」
そう言って、龍樹があたしの頬に触れた。
「ひゃん!!」
思わず、すくみ上がる。心臓が、トカトカ飛び出しそうだ。
「ま、待って!! 人が見てるって……」
「誰が?」
「誰がって……」
アワアワしながら、キョロキョロと辺りを見回す。辺りには、本当に誰もいない。街中なのに、正真正銘の二人っきりだ。どういう事だろう。いつもなら、必ず監視係の警察官か先生がいる筈なのに。一瞬、そんな疑念が頭を過るけど、そんなものは次の事態で吹っ飛んでしまった。
龍樹が、あたしに向かって顔を近づけてきたのだ。
「ちょ、ちょっと龍樹!! あんた、何考えて……」
「恥ずかしかったら、目つぶってれば?」
「そ、そう言う問題じゃ……」
この状況に、彼も勢いに乗ってしまったらしい。止まる様子が、全然ない。間近に来る、彼の唇。
「~~~~~~~~っ!!」
たまらず、目をつぶるあたし。彼の吐息を、間近に感じて――。
一瞬、日が陰った。周囲を吹き抜けて行く、冷感。身体の火照りが、あっという間に冷えていく。
驚いて目を開けると、龍樹も当惑した顔で辺りを見回していた。
霧だった。さっきまで、温かい夕日に照らされていた街路が、白い霧に覆われ始めていた。
「何……これ……。急に、こんな霧なんて……」
見れば、夕日はとうに沈んで、東の空には蒼い月が昇り始めている。急激に冷えていく気温。あたしはたまらず、龍樹に身を寄せた。
「龍樹……寒い……」
「そうだな。早く、帰ろう」
さっきまでの熱は、すっかり冷めていた。あたしと龍樹は、そろって帰路を歩き始める。ふと、夕子の事が気になった。
「夕子、大丈夫かな……?」
「大丈夫だろ。街には、まだ警備の人達がいる筈だから」
そんな龍樹の言葉に、ためらいながら頷く。
「そう……だね」
この時、あたしの心は酷く萎えていた。家に、帰りたかった。一時でも早く、この場を離れたかった。
「ほら」
龍樹が、手を差し出してくる。迷う事なく、その手を取った。二人の手の間に、微かな温もりが灯る。まるで、さっきまでの熱の残火の様に。それを拠り所に、あたし達は走った。まるで、満ちてくる霧から逃げる様に。
低く唸る様に、風が鳴る。
……London Bridge is falling down……
風鳴りの中に、何か唄の様なものが聞こえた様な気がした。
後に、あたしはこの日の選択を一生悔やむ事になる。あの時、夕子を一人で行かせてしまった事を。
◆
蒼い月の夜だった。
とても蒼い月だった。
地に広がる紅い溜まり。
それを染める程に、蒼い夜だった。
辺りは、濃い霧に包まれていた。
前に差し出した手が見えなくなる程、濃密な霧。その中に、一人の少女が立っていた。
歳の頃は十代半ば。身にまとった服装は黒。身体の線がよく出る、タイトなチェスターコート。裾が大きく後方に広がるその様は、まるで妖鳥の翼の様に見える。長い黒髪を頭の横で纏めたサイドテール。それにまとわりつく水気をしごく様に払うと、少女はそのままやれやれと頭をかいた。
「ちょっとぉ、遅かったみたいねぇ」
鼻にかかる様な、甘い声。それが、ぼやく。
「伊達に迷宮入り果たしてる訳じゃあ、ないわねぇ。まぁ、逃げ足の速い事、速い事ぉ」
独りごちる少女の周りから、霧が引いていく。キョロキョロする視界の中で、蒼い月明かりに染められた風景が明瞭になっていく。
「……にしてもぉ」
見下ろした視線の先。霧の引いたその後。顕になった紅い溜まりを、黒いシューズで弾く。
「しばらく休んでる間に、随分と欲求不満が溜まっていたみたいねぇ。随分と守備範囲が広くなった様でぇ……」
少女の足元には、ジワリジワリと紅い
「もったいないわねぇ……」
憐憫ではない。弔慰でもない。ただ、残念そうに彼女はごちる。
「あと2年生きてればぁ、さぞやいい女になったでしょうにぃ」
言葉と共に、伸びる両手。そっと、持ち上げる。滴る鮮血で手を濡らしながら、彼女の唇にそっと口づけた。
「せめてのぉ、手向けよぉ」
口を濡らす紅を舌で拭い、少女は
「続きの喜びはぁ、来世で教えてもらいなさいぃ」
そう言って立ち上がると、空を見上げる。いつしか霧は晴れ、東の方向が白み始めていた。ふと耳をそばだてると、近くの曲がり角の向こうから話し声が聞こえてくる。おそらくは、夜通し捜査していた警察だろう。ご苦労な事だ。そう思いながら、少女は見下ろして話しかける。
「良かったわねぇ。もうすぐ、見つけてもらえるわよぉ」
朝靄を散らし、一陣の風が吹く。その中で、黒いスカートが翻ったと思った瞬間、少女の姿は掻き消えていた。
「おやすみぃ……。せめてぇ、良い夢をぉ……」
風音に紛れる様に、そんな声が流れる。そして。
「お、おい!! 見ろ!!」
「畜生!! やりやがった!!」
「本部に連絡を!!」
静謐の中に、男達の叫びが響く。
◆
……速報です。今朝4時32分頃、○○県△△市□□町において、少女の遺体が発見されました。遺体は、前日捜索願が出されていた南方夕子さん14歳と見られています。遺体の状況から、同町で3月より続いている連続殺人と同一犯によるものと見られています。これで、この事件の被害者は8件となり……。
信じられなかった。質の悪い冗談だと思った。こんな事、ある筈がないと思っていた。けれど、夢は覚めなくて、現実はただ整然とそこにあった。
事件を受けて、学校は臨時休校となった。当然だろう。生徒が殺されたのだ。のうのうと授業する余裕など、ある筈がない。街中の女性にはより強い戒厳令がしかれ、必要最低限以外の外出、特に夜間の外出は絶対の禁止とされた。
中学生が犠牲になったのは、大きな衝撃だった。犯人の標的は、思っていたよりも広い。その事実は紛う事ない恐怖となって、街を覆っていた。
あたしは、家に一人だった。
パパは仕事。ママは、夕子の家に手伝いに行っている。いくら非常事態とは言え、やらねばならない事はある。姿の見えない恐怖に怯えて、痛々しい姿となった夕子を放っておくなんて事、あってはならない。
そんな事、夕子の家族は許さない。当然、あたしも。夕子の弔いを手厚く行う事。それが、皆に出来るせめてもの抵抗だった。
本当は、あたしも行きたかった。せめても、夕子の顔を見たかった。けれど、それは二人の母親に拒まれた。
ママは言った。真剣な顔で、『外に出ては駄目。お願いだから』と。
夕子の母親は言った。涙を流しながら、『どうか、見ないであげて』と。
どちらの言葉にも、あたしは抗う理由を持たなかった。
だから、あたしはここにいる。
たった一人で、ここにいる。
涙はもう、出なかった。
嗚咽はもう、出なかった。
涙は枯れ果て、喉はカラカラに乾いていた。代わりに湧き出るのは、感情だった。今まで感じた事のない、どす黒い感情。こんなモノが、自分の内にあるなんて知らなかった。普段なら、怖いと思ったかもしれない。こんな感情を持つ自分を、忌避したかもしれない。でも、今は違った。今のあたしの拠り所は、この感情だった。すがりつき、かき抱く。その冷たい熱を感じながら、あたしは一人、部屋の隅で足を抱えていた。
微かに響く音。玄関の戸が、開く気配があった。
パパが帰って来るには、まだ日が高い。ママが帰ってきた? いや、それにしても早すぎる。来客なら、インターホンを鳴らす筈だろう。けど、その様子もない。
なら、誰?
誰かが、上がり込む気配があった。そのまま、廊下を歩いてくる。
あたしの目の前には、一振りのカッターが転がっている。そっと手を伸ばして、手に取る。
階段を、踏みしめる音。
上がってくる。二階に部屋は、二つしかない。物置と、あたしの部屋。
足音が、階段を上がり終える。
ゆっくりと、立ち上がる。手の中で、カッターの刃がカチカチと鳴った。
音が、廊下を歩いてくる。物置の方には行かない。まっすぐ、あたしの部屋に向かってくる。
いいよ。来るなら、来ればいい。おいで。待ってて、あげる。
部屋の前に立つ、気配。
いい子だね。さあ……。さあ……。
ドアノブが、回る。
さあ、おいで!!
ドアが、開いた。
「うわぁああああああっ!!」
「わぁあああああっ!?」
カッターを振り上げたあたしの前で、龍樹が目を剥いてひっくり返った。
「あ、あれ……? 龍樹?」
「あれ? じゃねーよ!! 何なんだよ!? 急に!!」
腰を抜かした龍樹が、半泣きの顔で叫んだ。
◆
「……何しにきたのよ?」
部屋に入ってくる龍樹に、そっけなく言いながら背を向ける。
「いや、その……」
「何? はっきり言って!」
口篭る龍樹。少し、イラっとくる。
「おばさんにさ、お前の事見に行ってくれって頼まれてさ……」
「ママに頼まれたから?」
「い、いや!! それだけじゃなくてさ……」
困った様にガシガシと頭を掻きながら、龍樹は言う。
「その……お前、大丈夫か……?」
「大丈夫って、何が?」
「いやだから、南方があんな事になって……」
その言葉を聞いた瞬間、何かが切れた。
「大丈夫な筈、ないじゃない!!」
突然の激昂。龍樹が、ビクリと身体を固くした。
「死んだんだよ!? ゆうちゃんが!! 殺されたんだ!! 何も悪い事、してないのに!!」
「惠……」
「何で!? 何でゆうちゃんが、こんな事になるの!? こんな目に、合わされなきゃいけないの!? 世の中には、もっと死んで当たり前の奴がいるじゃない!! それなのに、何で!? 何で!? 何で!!」
「おい!! 落ち着けよ!!」
半狂乱のあたしをなだめようとする龍樹。その手を振り払い、あたしはギッと彼を睨む。あたしの視線に、彼が固まるのが分かった。
「……あんたのせいよ……」
「……え……?」
自分でも、ゾッとする程に暗く重い声が出た。彼が、戸惑うのが分かる。
「あの時、あんたがいなければ、ゆうちゃんは気を使ったりしなかった!! あたしと一緒に、帰って来れた!!」
「!!」
龍樹の顔が、悲しげに強ばる。
「あんたよ!! あんたさえ、変なちょっかい出してこなければ……」
違う。こんなのは、違う。こんなのは、ただの八つ当たりだ。だけど、止まらない。止められない。
「どうしてくれるのよ!? ゆうちゃん、死んじゃったじゃない!! どうしてくれるのよ!! どうするのよ!!」
傷ついていく。彼が。龍樹が、傷ついていくのが分かる。それでも、それでも。
「あんたが……あんたが……」
そして、あたしは言った。言って、しまった。
「あんたが死ねば、良かったのに!!」
龍樹は、黙っていた。何も、言わなかった。部屋に、沈黙が降りる。龍樹は変わらず、黙ったまま。あたしの、荒い息だけが響く。
反論して欲しかった。怒鳴り返して欲しかった。何なら、頬を張り飛ばしてくれたって構わなかった。だけど、彼は何も言わなかった。怒りの色を、見せる事すらしなかった。そんな彼に、あたしは背を向ける。
「もう、帰って……」
「……分かった……」
あたしの呟きに、龍樹が答えた。とても、とても悲しそうな声で。彼が、身を返すのが分かった。そのまま、遠ざかっていく足音。あたしは、振り返らない。振り返れない。玄関の戸が開く音。閉じる音。いつしか、あたしは泣いていた。枯れたと思っていた涙が後から後から溢れてきて、ポトポトと足元の床を濡らした。
◆
それから数刻後。日が、傾き始めていた。もうすぐ、夜が来る。あの、時間が来る。パパが帰るには、まだ時間がある。ママはまだ、帰らない。
やるなら、今だった。
部屋を出て、台所に向かう。戸棚を開けて、中を見る。そこには、鋭く光る果物包丁がひと振り。それを手に取り、タオルに巻くと懐に入れた。その足で、玄関に向かう。外に出ると、門の中から外を伺う。通る人は、誰もいない。おあつらえ向きだった。そのまま、道を駆け出す。
分かっていた。
餌が、必要なのだ。
そして、餌ならここにある。一番手近な、餌が。
――待ってて。ゆうちゃん――。
誓う。心の、中で。
――仇、討つからね――。
そしてあたしは、夜闇の落ち始めた街に向かって走り出した。
懐の中の包丁が、鋭く冷たく、キチリと鳴いた。
◆
♪~♪♪~♪♪~♪~♪~♪♪
歌が、流れていた。軽快な調子の、聴き心地の良い歌。
聞いた事はない。
最近流行りの曲じゃない。
ひょっとしたら、どこか外国の歌なのかもしれない。
とにかく、今の街の、恐怖に閉塞した雰囲気を和らげるにはもってこいの歌だった。
そこは、今の状況下にはそぐわない程に賑わっていた。道の真ん中に沢山の人が集まって、大きな輪を作っている。
最初はこの非常時に何事かと思ったけれど、近くに寄ってみて分かった。
歌が、流れている。それに混じって聞こえてくるのは、軽くテンポを刻む靴の音。誰かが、パフォーマンスをしているのだ。
何となく興味が出て、近くに寄ってみた。
集まってるのは若い男の人が多かったけれど、チラホラと女の人も混じっている。どんな非常事態でも、その中で気楽に行動する人達は必ずいる。ここにいるのは、そんな人種だ。平和ボケとでも言うべきか。正直、こんな時にと忌々しく思う。人の事を言えた義理じゃないけれど。
人の間から覗いてみると、輪の中心で踊る人影が見えた。パフォーマンスをしているのは、二人組。両方とも、女の子。そう。驚いた事に、演じているのはあたしとさして年差のない少女達だった。
一人の女の子は歌い手。
格好は綺麗な金色のストレートロングに白いベレー帽。服も真っ白なロングのワンピース。その様は、白い肌と相まって、まるで天使の様に見える。
彼女は後ろに立っている店の外壁に背を預け、小さな口で歌を紡いでいた。口の動きは小さいのに、声量はとても大きい。
周りの人混みの喧騒も、全く邪魔にならない。と言っても、耳障りな喚き声でもない。小鳥のさえずりの様に澄み渡った、とても綺麗な声。下手をすると、プロの歌手より上手いかもしれない。ってか、あたしが知らないだけで、本当にプロなのかもしれない。それくらい、素敵な歌だった。
もう一人の女の子は踊り手。
歌い手の女の子とは対照的に、黒一色で服装を固めている。大きく裾の広がったチェスターコートに、膝よりずっと高いレザーのミニスカート。サイドで纏めた黒髪が、軽やかに身を翻す度に蛇の様に宙を舞う。
全くもって年頃に似合わない服装だけど、その綺麗な風貌とよく合って妖艶な雰囲気を醸し出していた。長いコートと髪を纏って舞う姿はとても美しくて、まるで人を蠱惑する悪魔の様だ。
もっとも、短いスカートとコートの間から白い足が覗く度に歓声が上がる辺り、周りの連中が何処を見てるかは知れたものだけど。
しばし、彼女達の演に見とれていると、周囲が騒がしくなってきた。見ると、人混みの向こうに、停車するパトカーと数人の警官の姿があった。きっと、騒ぎを聞きつけてきたのだろう。
「こら、君達! 何やってる!」
「戒厳令が出てる最中だぞ。帰った帰った」
そんな事を言いながら、警官達が人混みを散らし始める。
「何だよー」
「いい所だったのにー」
そんな不平の声が飛び交う中、警官達は忠実に職務を遂行していく。
あたしだって、こうしてる場合じゃない。捕まれば、間違いなく家に更迭されてしまう。あたしには、やらなきゃいけない事がある。そういう訳には、いかないのだ。
むき出しの肩に蝶々のタトゥーを入れたお姉さんが、警官と揉めている。警官の意識がそのお姉さんに向いてる間に、場を離れる。最後にチラリと振り返ったけれど、そこにはもう、歌姫の姿も舞姫の姿もなかった。
◆
それからしばらく後、あたしは一人で夜の街中を歩いていた。持ってきたカロリーメイトを齧りながら携帯を見ると、午後8時を表示していた。夕子が殺された時間は、もっと早い。つまりは、もう
♪♪~♪~♪♪~♪♪♪~
突然、携帯がなった。ママからだった。黙って、着信を切る。ママからの電話はさっきから何度もあったし、メールだって何件も来ている。けど、答える事は出来ない。帰る事は、出来ない。あたしには、やらなければいけない事があるのだから。そっと、懐に手を入れる。そこに忍ばせた冷たい塊。その感触を、確かめる。
そう。あたしは、教えてやらなきゃいけない。刻んでやらなきゃ、いけない。
懐の中で、冷たいそれがキシリと鳴った。
◆
中上龍樹は、自室の中でふさぎ込んでいた。夕食も食べず。かと言って、何かをするでもなく。ただベッドに突っ伏していた。
(あんたのせいで……)
頭の中で、楠ノ木惠の言葉がリフレインする。それは、彼自身が確かに思っていた事。あの時、自分が余計なちょっかいを出さなければ、南方夕子は楠ノ木惠と離れる事はなかった。そうすれば、南方夕子は死なずに済んだ。
そう。楠ノ木惠の言葉は正しい。全ては、自分のせいなのだ。いくら思い悩んでも。どれだけ己を責めても。時が戻る事はない。分かっている。分かってはいるけれど、心と現実は自分を許さない。
彼に出来る事はただ、自責の念に震えるだけだった。
「龍樹……」
そんな声と共に、部屋の戸が開いた。入ってきたのは、彼の母親だった。
「何だよ!? 今は入って来るなって……」
言いかけた言葉が、止まった。
母親の顔は、真っ青だった。そこには、憂慮と焦燥の色が濃く出ている。
「……何か、あったのか?」
咄嗟に出た問いに、答えが返る。
「今、惠ちゃんのお母さんから電話があって……家に、惠ちゃんがいないんですって……」
「!!」
一瞬で、全身の血が下がる。母親は、続ける。
「夕子ちゃんのご葬儀の手伝いから帰ったら、姿がなかったらしくて……。携帯にも出ないらしいのよ。あなた、昼間会ったんでしょう? 何か、心当たりない?」
言われて思い出されたのは、昼間会った惠の顔。何かを思いつめた様な瞳が、脳裏を過る。
「まさか……!!」
抱えていた枕を跳ね上げ、中上龍樹は立ち上がった。
◆
いつの間にか、霧が出てきていた。とても、とても濃い白夢。ほんの、数メートル先が見えない。月も、星も、外灯の明かりさえもが霞んでいく。
周りには、人の気はない。人のいる所を避けてきた事もあるけれど、それでも街中にいてこの静けさは異常だった。
同じだ。
息を飲んだ。
そう。同じだった。あの時、夕子が刻まれていたあの時間。街に満ちていた、霧と。
無言で懐に手を入れる。包んでいたタオルの中から、隠していた果物包丁を取り出した。
霧は、さらに満ちていく。もう、右も左も分からない。ただ、遠くに霞む月だけが見える。
……London…… Bridge is…… falling down……
歌が、聞こえた。微かに。だけど確かに。
泡立つ背筋。こみ上げる恐怖を、無理やりに飲み込んだ。
……Falling down…… falling down……
歌は続く。気配は、もう間違いない。いるのだ。間違いなく。手にした包丁を一閃させて、あたしは叫ぶ。
「いるんでしょう!? 出てきなさい!!」
答えはない。代わりに、風鳴りを伴って霧が流れる。
「あんたなんか、怖くないわ!! 相手をしてやる!! そして、ゆうちゃんの痛さをあんたにも教えてあげる!!」
……London Bridge is…… falling down……
「何よ!! 丸腰の女の子しか相手に出来ないの!? この臆病者!!」
やっぱり、答えはない。あたしが、もう一度叫ぼうと。
ボタリ。
「!?」
何かが、米神に落ちてきた。
「な……何……?」
拭い取る。生温かい、ヌラリとした感覚。拭った手を見ると、真っ赤な色に染まっていた。
ボタ。
息を呑む間もなく、またそれが落ちてくる。
ボタリ。 ボタリ。 ボタッ。 ボタッ。 ボタッ。
「な……何よ!? 何なの!?」
やがて、落ちてくるものに肉片の様なものが混じり始める。
「や、やだ……!!」
半ば、半狂乱になる意識。それが、言う。見るなと。けれど、身体は言う事を聞かない。赤く染まっていく地面を見る事を拒む様に、視線は上に上がっていく。この上には、確か外灯が一灯あった筈。そこにある、あえかな光。それを求める様に、視線を上げた。
途端、何かがぶら下がった。
赤く滴る臓物。蝋の様に青白い肌。そして、力なく垂れ下がった肩に刻まれた、蝶々のタトゥー。
それが何か。それが誰かを察した時、あたしは初めて、恐怖の悲鳴を上げる。
落ちてくる、半身。ぶちまけられる、大量の臓物と鮮血。
叫び続ける、あたし。
伽藍堂の眼窩が、見つめる。
頭のない上半身を、咥えぶら下げたそれ。
表情のない顔で、ニタリと笑う。
そして、響く音色はあと一つ。
――My fair lady――。
◆
♪London Bridge is falling down
Falling down, falling down
London Bridge is falling down
My fair lady♪
霧夜の中に響く、冷たい歌声。キリキリと軋む歯車の音の様なそれが、キンキンと脳髄に食い込んでくる。堪らず、後ずさるあたし。その前にドチャリと湿った音を立てて、頭と下半身のない身体が落ちた。
飛び散る鮮血が、頬にしぶく。
「ひぃっ!!」
くぐもった悲鳴が、喉を塞ぐ。足から力が抜けるけど、崩れ落ちるのは何とかこらえた。座り込んでしまったら、二度と立てないと分かっていたから。
そんなあたしの前で、血色の塊が落ちる。
揺れる血溜りに、重い水音を立てて降り立ったそいつが、ユラリと立ち上がる。その身の中から、キリキリと何かが軋る音がしたのは耳の迷いだろうか。
……♪London Bridge is falling down♪……
無機質な歌声と共に、翻る血色のマント。高く伸び上がった身体が月明かりを遮って、あたしの周りに暗く影を落とした。
そいつの顔は、真っ白い仮面に覆われている。笑う道化師の顔を型どった仮面。伽藍堂の眼窩の奥で、あたしを見つめる確かな視線を感じた。
……♪Falling down……falling down♪……
歌と共に響く、軋る音。マントの中から伸びてくる、枯れ木の様な腕。その手に握られるのは、鮮血に塗れた大振りのナイフ。その切っ先をあたしに向けて、そいつはキリリと空虚に笑う。
あたしは問う。震える声音で。だけど、心がすくみ上がってしまわない様に。
「……切り裂き、ジャック……?」
……London Bridge is falling down……
答えは返らない。ただ、空虚な歌だけがカラカラと響く。
それでも、あたしは問い続ける。知りたいからじゃない。止まらないために。
「あなたが……ゆうちゃんを……」
滑稽な笑みを型どった仮面。それが、もっと深く笑んだ様な気がした。
……My fair lady……
結ばれる旋律。そして――
コキン。
首が外れた様にひっくり返る、そいつの頭。
「―――っ!!」
ケタタタタタタタタッ!!
止まる呼吸。響き渡る哄笑。満ちる鮮血を飛び散らし、真っ赤な刃を振りかざし、深紅のマントを広げて、そいつはあたしに飛びかかる。
「―――――っ!!」
あたしの悲鳴は、霧の中へと溶けて消えた。
◆
それより少し前、中上龍樹は霧に覆われる街の中を走っていた。
自宅で楠ノ木惠の不明を聞いた彼は、母親が止めるのも聞かずに夜の街へと飛び出していた。明確な心当たりがある訳ではない。そもそも、彼女がこんな時間に行く場所なんて本来ある筈もない。楠ノ木惠の目的。それに、彼は思い当たる事があった。
昼間会った時の、思いつめた顔。そして、今の状況。意味するものは、明白だった。
楠ノ木惠は、討つつもりなのだ。南方夕子の仇を。自分の手で。
「バカ野郎……。自分だけで、どうにか出来るつもりなのかよ……!?」
彼女の短慮さを呪う間もあらばこそ、中上龍樹は街の中を走り回る。学校。通学路。南方夕子が殺害された現場。通常では通らない、街の路地裏。
けれど、いない。見つからない。声を上げても、返事はない。分かっていた事だが、電話をかけても通じない。万事手を打ち尽くし、中上龍樹は途方に暮れる。
「ちくしょう……。あいつ、何処に……」
歯噛みしながら、辺りを見回す。そこに広がるのは、普段見知った筈の街の光景。けれど今、そこは見紛う程に様変わりしていた。
立ち込める、濃い乳白色の霧。それに侵され、周囲の全てが霞んで見える。夜闇と相まって、ともすれば熟知している道ですら取り違えてしまいそうな有様。この中を、楠ノ木惠は一人彷徨っているのだ。
強くなる、焦燥の念。
今、この霧の中を彷徨っているのは自分達だけではない。八人もの人間を殺した殺人鬼がうろついているのだ。間違いなく。奴よりも早く、楠ノ木惠を見つけなければならない。何としても。
額の汗をグイと拭い、中上龍樹がもう一度走り出そうとしたその時、
『駄目だよ……』
背後から、声が響いた。
中上龍樹の足が、ピタリと止まる。
空耳か? 明確に、そう思った。何故なら、中上龍樹はその声を知っていた。とてもよく、知っていた。その声の響きも。その声の主の事も。そして、彼女がもう、この世にいない事も。
気の迷いだと思った。焦燥と、この
『駄目だよ……。中上君……』
「―――――っ!!」
また、聞こえた。そして、感じた。自分の背後に。明確な、気配を。理解した瞬間、背筋が怖気立つ。足が竦む。冷たい汗が、頬を伝った。
『怖がらないで……』
彼女が言う。強く。けれど寂しく、悲しく、彼女は言う。
『何も、しないから……。わたしは何も、しないから……』
悲痛ともとれる、その声音。それが、心を凪いでいく。気配は、確かにもうこの世のものではない。けれど、声に込められる想いは、確かに彼女のもの。その事を悟り、彼もまた言葉を返す。カラカラに乾いた喉から、声を絞り出す。
「……南方……か……?」
気配が、揺れた。まるで、通じた事を喜ぶ様に。だから、確信した。
「南方、なんだな?」
頷く気配。肯定の言葉。考えるよりも先に、身体が動く。
『見ないで!!』
悲痛な叫びが、振り返ろうとした身体を止めた。
彼女が、言う。
『お願い……見ないで……。見ればきっと、君は……』
「南方……」
『今のわたしは、もう南方夕子じゃない……。南方夕子だったモノ……。その形だけを型どった、ただの残滓……』
話す度に響く、ヒュウヒュウと泣く音。そして、風に乗って微かに流れる鉄錆の香。それに、中上龍樹はようやく気づく。
『だから……お願い……』
もう一度の懇願。その声が濡れている様に思えたのは、気のせいだろうか。ただ、その思いは容易に理解出来た。確かに、自分でも望みはしないだろう。そんな姿を、友人に見られる事は。
「……分かったよ……」
だから、中上龍樹は足を止める。疼く心の痛みを、抑えながら。
『……ありがとう……』
嬉しそうな、だけど悲しそうな声。それは、今の彼女がこの世の者ではない事を確かに示す言葉だった。
中上龍樹は問う。彼女ではなくなった、彼女に向かって。
「……南方、お前、どうして……」
『……伝えなきゃ、いけない事があるから……』
「伝えなきゃ、いけない事……?」
何かを問う前に、南方夕子だったものは答える。
『行っては、駄目……。惠の元には……』
「え……?」
思わぬ言葉に、戸惑う。
「何言ってんだよ!! 早く行かないと、あいつも……」
『もう、遅い……』
「!!」
『あの娘はもう、あいつに捕らわれている……』
「な……!!」
血の気が、引いた。
「あ、あいつって、まさか……!?」
『そう……』
彼女は、告げる。冷淡に。
『”切り裂きジャック”と、呼ばれる存在に……』
「――――っ!!」
聞いた瞬間、走りだそうとする。しかし。
「!?」
突然、身体の動きが止まった。何かに束縛される様に、自由が効かない。
(な、何だ!?)
口に出そうとした言葉も、形にならない。ギシリギシリと、身体が軋む。
『言ったでしょ……。行っては駄目……』
背後から響く、この世ならざる声。冷たい冷気が、身を縛る。
(金縛り……!!)
気づくのに、時間はかからなかった。
『何度でも、言うよ……』
背後で動く、気配。
氷を押し付けられる様な感触が、背中を覆う。強く香る、鉄錆の香。彼女が、身を寄せていた。まるで、己が失くした温もりを求める様に。
『行っては、駄目……。行けば……』
甘く、けれど血の香を漂わせる吐息が、耳朶にかかる。
『君も、殺される……』
紡がれた言葉に、再び血が凍る。中上龍樹を愛しげに抱きながら、南方夕子だった存在はなおも囁く。
『アレは、今のわたしと同じ……。この世のモノではない……』
(!?)
『アレは、過去の模倣犯でもなければ、ただの猟奇殺人犯でもない……。いつかの悪夢、数多の命を狩り染めた、狂鬼……』
周囲の霧が、ユラユラと揺らめく。まるで、次に刻まれる言葉を忌む様に。
『”切り裂きジャック”、そのもの……』
夜気が歌う。霧が鳴く。今、この地に確かに在る存在。それに、傅くために。
◆
ケタタタタタタタタッ。
耳朶を塞ぐ、けたたましい笑い声。
鮮血にぬめるナイフを振りかざし、覆い被さる様に襲いかかってくる。迫る白面。鼻腔を塞ぐ、血臭。
後ずさろうとした瞬間、下に溜まった血糊で、足が滑った。そのまま、尻餅をついてしまう。振り下ろされる、ナイフ。すくみ上がる身体。どうにも、ならない。
「うわぁああああああああっ!!」
迸る、悲鳴。
ガツンッ。
鈍い音と衝撃。視界が真っ暗に染まった。
◆
『分かるでしょう……? ねぇ、分かるでしょう……?』
中上龍樹は動けない。その身体は、不可視の力に囚われたまま。強張る背中に、南方夕子だったモノが頬を寄せる。
『今から行っても、間に合わない……』
告げる。冷酷に。冷淡に。歪め様のない、事実を告げる。
『あなたにまで、死んで欲しくない……』
抱きしめられる感覚。冷たい手が、胸を這う。
『わたしはね……』
地の底から湧き上がる様な、昏くか細い声。軋む氷の様に、キシキシと鳴る。
『君の事が、好きだったんだよ……?』
「!!」
冷えゆく心臓が、キクリと疼く。
『本当はね……。羨ましかったよ……? 妬ましかったよ……? 惠の事……』
初めて伝えられる、想い。今となっては、答え様もない。切なる想い。
『だからね、少し嬉しいの……』
けれど、次に紡がれるのは、熱のない凍った言の葉。
『君が、誰のものでもなくなるのが、嬉しいの……』
笑む、気配。冷たく。虚しく。笑む気配。
『だからね、君は死なないで……。生きていて……』
胸を這っていた手が上がる。愛しげに、顎を撫でる。鉄錆の香が、強く香った。
『大丈夫……』
嗤う。この世のものでなくなった声で、彼女が嗤う。
『惠は、わたしが連れて行くから……』
「!!」
瞬間、何かが切れた。
「やめろ!!」
『きゃっ!!』
上げる怒号とともに、解ける束縛。身体に絡んでいた氷の感触が、弾ける気配と共に離れた。
「は、はぁっ!!」
急に取り戻した自由。驚く様に、つんのめる身体。辛うじて、押し留まる。それと同時に、怒鳴った。
「違うだろ!?」
背後で感じる、竦み上がる気配。構わずに続ける。
「違うだろ!? オレ達は、そんなんじゃなかったろ!? 忘れちまったのか!? 忘れちまうのか!? そんな事まで!!」
『………』
「思い出してくれよ!! お前は、そんなんじゃなかったろ!? そんな、爛れた奴じゃ、なかったろ!? お前は……お前は……!!」
上手い言葉など、出てこない。気の利いた口上など、湧きもしない。ただ、ぶつける。熱を。彼女を侵す悲しみを吹き飛ばす様な、熱い思いを。
「お前は、オレ達の南方夕子だろ!!」
『………』
熱い息を吐き、身体を揺らす。そんな彼を、彼女は見つめる。
『……アハ……』
冷たい沈黙が、破れた。
『アハハハハハハハハハ』
彼女が笑った。先までの、冷たい死者の声でなく。彼女が、彼女であった時のその声で。
『アハ、ハハ。ずるいよ。中上君』
嬉しそうに。だけど悲しそうに。彼女は言う。
『そんな風に言われたら、何も出来ないよ……。本当に……本当に、ずるいよ……』
「南方……」
『やっぱり、駄目か……』
潤む声が、呟く。
『君だけはと、思ったんだけどなぁ……』
溜息をつく声。寂しく。優しく。
「……わりぃ……」
中上龍樹のその言葉の意味を、彼女は受け止める。真っ直ぐに。否定する事なく。
『行くんだね……』
「ああ……」
『言ったもんね……。
「約束、したんだ」
『そうだね……』
瞬間、何かが動いた。
「うわ……」
背後から、吹き抜ける風。吹き飛ばされていく、眼前の霧。そして、吹き散らされる霧の向こうに現れる一本の道。
「あ……」
それを見た中上龍樹が、目を見開く。
何故なら、その道は彼がよく知るものだったから。幼い頃から、彼らが行きかい、戯れ合い、追いかけ合った道。本来ならば、真っ先に思い浮かべる場所。なのに。
「忘れてた……。どうして……? この道はいつも……」
『霧のせいだよ……』
「霧……?」
『そう……』
彼の戸惑いに、彼女は言う。
『この霧はね、神域を創り出すの……』
「しんいき……?」
頷く気配。彼女は、続ける。
『神域は、この世とは断絶された世界……。そこに包み飲まれたものは、この世の者には認識出来なくなる……。犠牲者は、皆この中で殺された……。たった一人で……。寂しいままに……』
一瞬、その声音にこもる憎悪の色。それが、中上龍樹の心を穿つ。
『いるよ……。中上君……』
屍蝋の腕が、道の先を示す。その向こうに、望む者がいるのだと。
「惠……」
皆まで聞く事なく、踏み出す。そんな彼に、彼女は問う。もう一度、その想いを確かめる様に。
『行くんだね……』
もう一度、問う。
「ああ」
一瞬の躊躇もない、答え。だからもう、止めはしない。
『まだ、間に合うから……』
囁く。寂しげに。悲しげに。だけど、信じて。
『惠を、助けて……』
頷く。
『死んじゃ、駄目だよ……?』
また、頷く。
『わたしはもう、ここまでだけど……』
一瞬の間。そして、彼女は言う。万感の想いを込めて。
『大好きだったよ……。中上君……。君も、惠も……』
「ああ……」
だから、答える。こちらも、万感の想いをかけて。
「ありがとうな。南方」
一瞬感じる、微笑む気配。走り出す。自分を待つ、少女の元へ。
『こっちこそ……ありがとう……』
ポツリ、囁く。霧の向こうへ消えていく、彼に向かって。自分の想いを受け止めてくれた、その心に。自分の願いを察してくれた、その強さに。そして、最後まで今の自分を見ないでくれた、その優しさに。
『神様……』
そして、彼女は願う。もはや、捧げるものもないこの身体。それでも、たった一つ残った己を賭けて。
『どうか、お守りください……。あの二人を……』
願う言葉は霧に溶け、夜闇の向こうへ消えていく。最期に紡いだその願い、聞き届けたは、神か否か。
後にはただただ、冷たい夜気が漂うだけ。
◆
「はあ……はあ……はあ……」
荒い息をつきながら、あたしは瞑っていた目を開けた。
ガクリ。
「ひっ!?」
目の前に垂れ下がってきた白面に、心臓が跳ね上がった。
けれどそれは、ピクリとも動かない。
「………?」
訳が分からないまま、視線を仮面の向こうに向ける。
飛びかかられた瞬間、咄嗟に突き出した両手。その両手に握った、果物包丁。無造作に振り回した切っ先が、そいつの腹に突き刺さっていた。気づいた途端、その重みが両手にかかる。
「――――っ!!」
感触のおぞましさに、思わず突き飛ばす様に手を離した。ゆっくりと傾ぐ、そいつの身体。
カシャーン。
人間のものとは思えないほど軽い音を立てて、その身は地面に転がった。
はあ……はあ……はあ……。
今だ収まらない動悸。それを無理矢理呑み込んで、そいつの姿を凝視する。
仰向けに転がった身体。その腹に突き立った包丁。ピクリとも、動かない。
「やっ……た……?」
呆然と呟く声。虚空に消える。
「う……ぐぅっ!!」
感じた事もない嘔吐感がこみ上げてきて、胃の中のものを吐き出した。
「う……く……」
あらかた吐いた後、口を拭いながらもう一度そいつに目を向ける。
虚空を掴む様に伸びた腕。ダラリと投げ出された足。地面に広がる、長い髪。そして、何処を見てるかも分からない、白磁の仮面。
どれもやっぱり、動かない。
終わったの、だろうか。それは、あたしが思っていたよりもずっと簡単で。ずっとずっと、あっけなくて。
カクカクと震える足。立つ事なんて、ままならない。辛うじて動く手で、地面を掴む。ズルズルと這う様にして、そいつに近づく。ゆっくり。ゆっくり。少しずつ。
確信が、欲しかった。終わったのだという、確信が。
少しずつ近づいて、投げ出された足に触れようと。
……London Bridge is falling down……
それが、響いた。
「ひっ!?」
ビクリと竦む身体。咄嗟に、後ずさる。
……Falling down falling down……
ああ……。駄目だ……。駄目だ!! 心が叫ぶ。
……London Bridge is falling down……
立たなきゃ!! 逃げなきゃ!!
焦り喚く心。だけど、身体は言う事を聞かない。震える足が、地面の血溜りで滑る。陸に揚げられた魚の様にもがくあたしを嘲笑う様に、歌は続く。
……My fair lady……
終わる歌。戻る沈黙。
あたしが、カラカラに乾いた喉をならした瞬間。
ガクンッ
投げ出されていた白面が直角に起き上がり、あたしを見た。
「――――っ!!」
ケタ、ケタタ、ケタタタタタタタタタタッ。
響く哄笑。デュエットする様に響く、あたしの悲鳴。霧の中に、仲良く虚しく、消えていく。
夜はまだ、終わらなかった。
◆
彼女は、静かに浮いていた。
首も、下半身も。何もかも失って。
悲しく。寂しく。痛々しく。
自分が吐き出した紅い溜りに、プカリプカリと揺れていた。
白を通り越し、青白く染まったむき出しの肩。
何もない、白蝋の肩。
そう。
先刻まで、確かに刻まれていた蝶のタトゥー。
それすらも、消えていて。
何もかもを失って。
彼女は、プカリプカリと浮いていた。
◆
夜の街は、霧に覆われていた。ネットリと濃く、深々と深い霧。右も、左も分からない。あらゆる音は静まりかえり、月の光でさえも千々に霞む白い闇。
その中を、二人の男が歩いていた。その格好から、巡回中の警官である事が知れる。彼らの、片割れが言う。
「酷い霧だな……。こんな夜は、ヤバイぞ……」
もう片方も、頷く。
「ああ。前の被害者達が殺られたのも、こんな夜だ。しっかり、監視しないとな」
「そう言えば、お前娘さんがいるんだろ?大丈夫か?」
「心配ない。女房と一緒に、家に鍵をかけて引きこもる様に言ってある」
「今の所、家の中まで押し込んでこないのがせめてもの救いだからな」
「まったくだ」
そんな会話をしながら、歩いていく警官達。彼らが通り過ぎた少し後。
霧の中から、小さな光がまろび出た。
ユラユラと瞬くそれは、淡く輝く蝶だった。蝶は小さな羽を閃かせながら、霧の中を飛んでいく。ヒラヒラと羽ばたく度に、青く光る鱗粉がチラチラと散る。
やがて霧の中を抜け出た蝶は、そのまま近くのビルを登っていく。ビルの外壁を登り切り、屋上に舞い降りる。
伸びてくるのは、白く細い腕。その先の、白魚の様な指に蝶が止まった。
指の主は、一人の少女だった。艶やかな、長い金の髪。白いベレー帽に、真っ白なロングのワンピース。
見る者が見たら、すぐに察しただろう。
彼女は、先刻街中で行われていた演舞パフォーマンスの担い手。その片割れ。歌を奏でていた少女だった。
彼女は蝶の止まった指を口元に寄せると、花弁の様に揺れる蝶にそっと口づけをした。
泡玉が弾ける様に崩れる、蝶の姿。サラサラと夜風に散る、蒼い燐。それを惜しむ様に見つめる少女。すると。
「見当は付いたぁ?
背後から、そんな声がかかる。振り返る少女。そこにいたのは、転落防止用のフェンスに腰掛ける、もう一人の少女。
唱未と呼ばれた少女とは対照的に、黒一色で纏めた服装。大きく裾の広がったチェスターコート。膝よりずっと高いレザーのミニスカート。そして、サイドで纏めた長い黒髪。
こちらも、先のパフォーマンスを見ていた者ならすぐに分かる。
踊り手を勤めていた、少女。
「
黒の少女――魅鴉は両足をパタパタさせながら、そんな事を言う。
狭いフェンスの上。バランスを崩しそうなものだが、その様子は全くない。踊り手を務めるだけあって、なかなかの運動神経・バランス感覚らしい。
そんな彼女に向かって、唱未がパタパタと手を動かす。
「んん? なぁにぃ?」
一定の法則を持って動く唱未の両手。どうやら、手話を行っているらしい。彼女の手の動きを見た魅鴉がヒュウと口笛を鳴らす。
「あらぁ。そんないい催し物があったのぉ? 残念ねぇ。観劇してみたかったわぁ」
唱未が手を動かす。遊びじゃないぞとでも、言っているらしい。それを見て、魅鴉はククッと嗤う。
「分かってるわよぉ。でもぉ、居場所の見当はついたんでしょお。なら、もう焦る事もないわねぇ」
そう言うと、フェンスの上でゴロリと横になってしまう。
「もうちょっとしたらぁ、事は終わるわぁ。そうしたらぁ、行きましょう」
唱未が、眉根を釣り上げて手を動かす。しかし、魅鴉はあくまで涼しい顔。
「いいじゃないぃ。どうせ、今の犠牲者さん達に義理がある訳じゃなしぃ。それにぃ……」
酷薄に笑む、魅鴉の顔。
「もう少し喰わせた方がぁ、モノの質が上がるぅ。神位も、上がるわぁ。あと二人くらいならぁ、ちょうどいぃ」
唱未が、怖い顔で魅鴉を睨む。それを見た魅鴉が、楽しそうに言った。
「ウフフ。あんたのそう言う顔ぉ、たまんないぃ」
そんな相方の調子に辟易したのか、唱未は溜息を一つついて屋上の縁に近寄る。フェンス越しに見下ろせば、そこにあるのは昏くたゆたう霧の海。その奥にある存在を見通し、唱未は目を細めた。
◆
ケタタタ ケタ ケタタタタタタタタ。
けたたましい笑い声を上げながら、そいつの身体がキクリキクリと動く。もう、悲鳴を上げる事も出来ない。カラカラに乾いた口を金魚の様にパクパクと喘がせながら、ズリズリと這いずる様に後ずさる。
乾いた音を立てて、跳ね上がる。糸が緩んだ操り人形の様に、一瞬地面の上で崩れ落ち、そしてまた跳ね上がる。全く、人間離れしたその動き。
いや、あたしにはもう分かっていた。ただ、それを認めたくなかっただけ。そう。こいつは、ジャックは、人間じゃない。悪夢の中から這い出した、化け物なのだ。
揺れる関節を軋らせながら、ゆっくりと立ち上がる。腹には、あたしが突き立てた果物包丁が刺さったまま。けれど、苦痛を感じてる様子は全然ない。ただ、それがブラブラと動くのが鬱陶しいのか、揺れる包丁の柄にキリキリと手を伸ばす。掴む。引き抜く。無造作に。ダラリと下がった手に握られた、果物包丁。その刃は、キラキラと綺麗なまま。血の一滴も、ついてはいなかった。
息を呑むあたしの前で、包丁を投げ捨てる。乾いた音を立てて、遠くに転がる。もう、武器はない。
「ひ……ひ……」
誤魔化し様もない焦燥と恐怖。ともすれば、ひきつけを起こしそうになる呼吸。それを必死に抑えながら、ただ後ずさる。
乾いた足音。歩き始める。あたしに向かって。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
ガクガクと、笑う足。腰が、立たない。這いずる様に、後ずさる。どうする事もなく、後ずさる。
……London Bridge is falling down……
流れ始める、歌。
Falling down……
カシャリ。
falling down……
歌に合わせて、カシャリカシャリと音が踊る。まるで、ステップを踏む様に。
London Bridge is falling down……
カシャリ……。
手が届く、数歩前。歩みが止まった。
「………?」
一拍の間。
My fair lady……
歌の音が、結ばれる。
鶏ガラの様に細い身体。それが突然ひねり上がり、跳ね上がった。血色のマントが、あたしの頭上を飛び越える。背後に落ちる、氷の塊の様な気配。振り返ろうとした瞬間。
「ひっ!?」
髪が鷲掴みにされた。そのまま、物凄い力で引き上げられる。
「――――っ!!」
首が、脊髄ごと引き抜かれる様な激痛。声が詰まる。涙に霞んだ視界の隅に映る、鈍い閃き。咄嗟に首の前に手をかざす。一瞬感じる、冷たい感触。それが、あっという間に熱い痛みに変わる。
かざした手に、逆手に持たれたナイフの刃が食い込んでいた。もう一瞬、手で遮るのが遅れていたら、喉笛を切り裂いていたに違いない。けれど、危機が終わった訳じゃない。ナイフはそのまま、ギリギリと押し込まれてくる。
「や……やめ……」
片手じゃ、抗いきれない。もう片方の手も、刃を掴む。
必死に押し返すけれど、ビクともしない。むしろ、少しずつねじ込まれていく。手の平に食い込んでくる刃。焼ける痛み。手を濡らし始める、熱い血の感触。あまりの痛みに、手を離したくなる。けれど、それをしてしまったら終わり。その瞬間、ナイフはあたしの喉笛を切り裂くに違いない。
「や……やだ……!! やだよぅ……!!」
堪らず漏れる、懇願の声。けれど、そんなものが通用する筈もない。鷲掴みにされた髪が、ギリギリと引かれる。まるで、頭皮ごと引き剥がそうとするかの様に。強引に上向きにされる視界。そこに、そいつの顔が映った。覗き込んでくる、真っ白い仮面。笑っていた。元から笑みを型どった仮面。本当の表情なんて、分かる筈もない。
それでも、何故か察せた。こいつは今、笑っている。
それを見て、気づく。何故、今自分が生きているかを。こいつの力は、尋常じゃない。あたしの抵抗をねじ伏せるなんて、子猫の首をねじ切るくらい容易に出来る筈。それをやらないのは、楽しんでいるから。
抵抗に愉悦して。
恐怖に恍惚を感じて。
絶望に歓喜している。
きっと、こいつはこうしてきた。
今までも。
ゆうちゃんの時も。他の
こうして、いたぶって。嬲って。弄んで。
その血と涙で、盃を満たしてきたのだ。
「あんた……」
恐怖に萎えていた心に、炎が灯る。
「よくも……よくも!!」
きっと、その憤りさえもこいつの餌。でも、止まらない。止められない。
「あんたなんか……あんたになんか……!!」
せめてもの抵抗。刃を掴む両手に、力を込める。
「殺されてなんか……やるもんか……!!」
覗き込む白面が、カクンと傾いだ。
――飽いた――。
まるで、そう言う様に。
握っていた刃に、さらに力がこもった。
「くぅっ!!」
押し込まれてくる、刃。痛みに痺れる両手に、力を込める。力の差は、歴然。きっとこのまま、あたしの首は切り裂かれる。ゆうちゃんが。今までの
だけど、屈しない。
せめて、心だけは。
鈍い衝撃が、あたしの身体を揺らした。
◆
鈍い衝撃と共に、けたたましい音が弾けた。
途端に自由になる頭。鷲掴みにされていた髪が放されたのだ。そのまま、前につんのめる様に倒れる。
「はっ!! はぁっ!!」
咳き込む様に、息をつく。何が起こったのか、分からない。目を向けると、あいつが地面に倒れていた。傍らに転がっているのは、栄養ドリンクの空き瓶。これが飛んできて、あいつに当たったらしい。
一体、誰が? 半ば混乱した思考で考えた時、
「惠!!」
聞き慣れた声が、耳を討つ。思わず目を向けると、こっちへ走ってくる彼の姿が見えた。
「たつ……き……?」
「大丈夫か!?」
駆け寄ってきた彼があたしの両肩を掴みながら、そう言った。
「龍樹……」
呆然とする。言葉も、出ない。そんなあたしを見て、彼が青くなる。
「お、おい!! どうした!? 何処かやられ……!?」
最後まで聞く余裕なんてなかった。言葉が終わらないうちに、抱きついていた。
「け、惠!?」
慌てる彼の身体を、力いっぱい抱きしめる。どれほど必死に走ってきたのだろうか。荒い息と汗の匂い。そして、熱い体温。それが、あたしの身体にも染みてくる。霧と刃。それに冷やされきった身体が温もりに満ちてくる。もっともっとと言う様に、あたしは彼の身体を求め続けた。
「お、おい!! 待てって!! それどころじゃないだろ!!」
半ば焦る様な、半ば照れる様な調子で彼が言う。それでも、あたしは離れない。
「だーっ!! だから、離れろって!!」
とうとう辛抱たまらなくなったのか、あたしは無理矢理押し戻された。
「ご……ごめん……」
我に返って、謝る。途端。
「痛っ!!」
手の平に焼ける痛みが走って、思わず声を上げた。驚いた龍樹の目が、あたしの手を捉える。そこに刻まれた、紅い傷。見た彼の顔色が、紅から青に変わる。
あたしの手をバッと取って、傷を凝視する。
ポタポタと血が垂れる、真っ赤な手。筋や大事な血管が切れる程じゃないけど、そう浅い傷でもない。手を取る彼の手に、力がこもる。
「い……痛いよ……。たつ……」
言おうとした口が、固まった。あたしの傷を凝視する龍樹。その顔が、怒っていた。本当に、怒っていた。見た事が、ないくらいに。
「野郎……!!」
燃える視線が、やつに向く。
地面に横たわる、やつの姿。ビクリビクリと、痙攣する様に動いている。
「惠……、立てるか?」
「うん……」
彼の腕に支えられて、立ち上がる。それと同時に、やつの身体がビクンと跳ねた。思わず、龍樹の腕にすがりつく。
「龍樹、駄目だよ!! 逃げよう!! あいつは……」
「分かってる」
あたしが言葉を紡ぎ終える前に、彼が言った。
「全部、分かってる……」
「龍樹……?」
彼の目が、燃えていた。その額には汗が浮いて、顔色は真っ青。身体も細かく震えている。だから、分かった。龍樹は知っている。あいつが。ジャックがなんなのかを。そして、彼もまた、恐怖している。その存在の、異質さを。でも、それ以上に熱いものが、今の龍樹を突き動かしていた。
「惠、下がってろ……」
「龍樹……」
「大丈夫。言ったろ?」
「?」
「お前は、絶対守ってやるって」
一気に顔に血が上る。こんな時に、臆面もなく何て事を言うんだろう。これだから、こいつは。
変な意味で戦慄くあたし。けれど、龍樹の表情は至って真剣だ。嫌な直感が、胸を過ぎった。
「龍樹……まさか、あいつと……」
「ああ。ぶっ倒す」
予想通りの言葉に、今度は頭から血が下がる。
「な……」
何を馬鹿なと言いかけた瞬間。
横たわっていたやつが、跳ね上がった。そのまま、錐揉みする様にあたし達に向かって落ちてくる。
「惠!!」
龍樹が、あたしを庇う様に覆い被さってくる。
やつが、地面に抉り込む様に落ちてきた。物凄い衝撃と風。あたし達は、成す術もなく吹き飛ばされる。
「クッ!!」
「きゃあっ!!」
地べたを転がるあたし達。道路脇のガードレールに当たって、ようやく止まる。
「いつ……つ……」
クラクラする頭を抑えながら起き上がると、傍らで膝をつく龍樹の姿が目に入った。
ズタズタだった。
身体中が切り裂かれて、服がじっとりと血に染まっている。あたしを庇ったせいで、攻撃のほとんどをその身で受けたのだ。
「てて……」
額から流れる血を拭いながら、呻く。
「龍樹!!」
思わずすがりつくと、湿った感触が手に伝わった。
「大丈夫!? ねえ!! 大丈夫!?」
「いてて!! 大丈夫だって!! 大した傷じゃねーよ!!」
嘘だ。傷の幾つかはとても深い。溢れる血の量が、それを物語る。彼も、悟っているのだろう。ヨロヨロと立ち上がりながら言う。
「こりゃ、早めにケリつけねーとな……」
そんな彼に、あたしは血に濡れた服の裾を掴みながら言う。
「いいよ!! もう、いいよ!! ねえ、逃げよう!! 一緒に、逃げようよ!!」
でも、返る答えは変わらない。
「わりぃ……。そう言う訳には、いかねーんだ……」
「何で!? 何で駄目なの!? 何を、そんなにこだわってるの!?」
すると、龍樹は苦笑いしてこう言った。
「逃げたって、追いかけてくるぜ。あいつ……」
「でも……」
「霧、あるだろ?」
「?」
怪訝そうな顔をするあたし。確かに、周りはずっと霧の海だ。もう、自分が何処にいるかも分からない。
「この霧の中だと、逃げられないんだってよ」
「え……?」
「だから、あいつを何とかするしかないんだ」
額からの血が止まらない。龍樹は何度も拭う。
「あんた、どうしてそんな事……」
「南方に、教えられた」
「!?」
思いもしない言葉に、固まる。そんなあたしを見下ろして、ニヘラと笑う龍樹。
「頼まれたんだ。お前を、助けろって」
訳が分からなかったけれど、不思議と疑う気にはなれなかった。嘘じゃないと、彼の目が語っていたから。
「二人分の約束だからな。守らないと」
そう言って、龍樹はもう一度額を拭った。
キリキリキリキリ……。
聞こえてくる、軋る音。
……London Bridge is falling down……
響き始める、あの歌声。
悪夢の音を立てながら、やつが立ち上がる。
……Falling down, falling down……
龍樹の喉が、鳴る音が聞こえた。あたしも、息が詰まる思いでそれを見つめる。
緩慢な動きで、やつの頭が上がっていく。動き始めるまで、どれほどの間があるだろう。あたしは、必死で考えていた。あたしと龍樹が、ここから生きて帰る方法を。彼はああ言ったけれど、今の事態を招いたのはあたしの愚行。せめて、龍樹だけでも。あたしは、ただひたすらに考えていた。
……London Bridge is falling down……
その間にも、やつは動き続ける。
とうとう、頭が上がった。
「!?」
真っ先に目に入ってきたのは、仮面の白ではなく、真っ赤な血の色だった。
さっき、龍樹が当てた空き瓶のせいだろう。白い仮面には大きなヒビが入って、そこから真っ赤な鮮血が流れていた。
「へ、何だ。結構、効いてるみたいじゃねぇか。化け物だと思ってたけど、結構いけんじゃねぇの?」
湧き上がる恐怖を抑える様に、軽口を叩く龍樹。その彼の傍らで、あたしは妙な違和感に囚われていた。
おかしい。何かが、おかしい。
My fair lady……
結ばれる歌。やつの身体が、ピクリと動く。
「惠!! 離れろ!!」
「キャッ!!」
叫びと共に、突き飛ばされる。次の瞬間、気味の悪い突風があたしの傍らを通り過ぎる。
「うわぁっ!!」
地面を擦る音と、龍樹の悲鳴が聞こえた。
「龍樹!!」
目をやると、仰向けに倒れた龍樹に覆い被さるあいつの姿が見えた。手にはナイフが握られていて、それを彼の左目に振り下ろそうとしていた。
「こんの……やろ……!!」
迫る刃を両手で阻む龍樹。けれど、力の差は歴然。ナイフはギリギリと押し込まれていく。
このままじゃ、いけない。何とか、しないと。焦るあたしの視界に、光るものが映る。
「!!」
それは、地面に転がる果物包丁だった。
◆
中上龍樹は、死線の上にいた。
楠ノ木惠を突き飛ばした後、突進してきた暴風に押し倒された。一瞬、真っ白になった視界。それが戻った時、見えたのは振り下ろされてくるナイフの切っ先だった。咄嗟に両手で抑えたが、相手の力は強かった。加えて、覆い被さった態勢で体重もかけてくる。瞬く間に押し込まれた。左目の上、数センチでの攻防。
必死に耐える彼の首に、相手の左手が伸びてくる。締め上げるつもりだと言う事は分かったが、両手ははナイフを抑えるので精一杯。防ぐ手がない。咄嗟に、相手の腹を蹴り上げる。けれど、ビクともしない。
「……の、野郎……!!」
喉にかかる、冷たい手の感触。見下ろす、血染めの仮面。笑みを型どったそれが、さらに笑んだ様に見えた。
「ちく……しょう……」
中上龍樹が歯噛みした瞬間、その目にあるものが映った。
いつの間に、近寄ったのだろう。相手の向こうに、楠ノ木惠が幽鬼の様に立っていた。
◆
やつは、龍樹との格闘に気を取られている。後ろには、気づいていない。あいつの手が、龍樹の首を締め上げる。のんびりしている、暇はない。両手を、振り上げる。手の中には、さっき拾い上げた果物包丁。それを、やつの背中に力いっぱい振り下ろした。
手に伝わる、鈍い衝撃。
やつの身体が、弓形に跳ね上がった。構わない。力一杯、ギリギリと刃を押し込む。
「きゃっ!!」
やつが、耐えかねた様に身を捻った。勢いで、吹っ飛ばされる。
地面を剃りながら転がる身体。でも、それは放さない。しばらく地面を剃って、ようやく身体が止まる。
「あつ……つ……」
「馬鹿!! 何やってんだよ!?」
そんな声と共に、龍樹が駆け寄ってくる。
今のやり取りの隙に、逃げられたらしい。突きつけられていたナイフのせいだろう。彼の頬には一筋の傷が刻まれていた。
咳き込みながらも、倒れているあたしを抱き起こす。彼の腕の中で、あたしは自分の右手を凝視する。そこにあるのは、しっかりと握ったままの果物包丁。
それを見て、あたしは思わず口にした。
「……おかしい」
その言葉に、龍樹が怪訝な顔をする。
「おかしいって、何がだよ?」
「これ、見て」
そう言って晒すのは、手にした果物包丁。霧の中で光る、冷たい刃。多少の刃欠けはあるけど、その表面は綺麗なまま。あたしは、言う。
「血、ついてない!! あんなに深く、刺したのに!!」
「え?」
「さっきもそうだったの!! お腹のど真ん中を刺したのに、一滴の血もつかなかった!!」
そう。あたしは二度、確かにこの刃をやつの中に埋めた。それでも、あいつが血を流す気配はなかった。なのに。
「あいつ、仮面からだけ血を出してる……」
龍樹が、ハッとした顔で向こうを向く。そこには、キリキリと軋る音を立てながら立ち上がる、やつの姿。その仮面に入った大きなヒビ。そこからは止まる事なく血が流れ、白磁の仮面を染めて地面に滴っている。
「……確かに血、出てるな……」
「うん……」
「って事は……」
「仮面……だね……」
無言で頷き合う、あたしと龍樹。彼は、言う。
「って事は、狙い目はあるって訳だ……」
龍樹の手が、地面に転がっていた石を拾う。
「もう一発、かましてやるか……」
「龍樹……」
「オレの影にいろ。その方が、安全だから」
あたしは頷いて、彼より一歩下がる。
やつが、こっちに顔を向ける。鮮血に塗れた仮面。壮絶な笑みが、あたし達を睨む。
……London Bridge is falling down……
歌が、始まる。
死を伝える、宣告の様に。
……Falling down……
軋る音。ゆっくりとナイフを持つ手が上がる。
…… falling down……
多分、次はない。これで決められなければ、あたし達は殺される。
あいつの歌を遮る様に、軽い音が響く。龍樹が、爪先で石をリフティングする音だ。サッカーの要領で、あいつの顔面に蹴りつけるつもりだ。あいつの動きに合わせてカウンターで当てれば、ヒビの入った仮面はきっと砕ける。そうなれば、あたし達の勝ち。
で、なければ……。
……London Bridge is falling down……
歌が終わる。あたし達が、その姿を凝視した瞬間、
姿が、消えた。
一瞬の間。先に気づいたのは、龍樹だった。
「上か!?」
言葉に釣られて、空を見る。霧に霞む月。そこに舞う、影が見えた。ナイフを振りかざして、真っ直ぐにあたし達に向かって落ちてくる。
「上等だよ!!」
龍樹が、石を跳ね上げる。
「くらえ!!」
蹴り上げた。一直線に飛んでいく石。目測はバッチリだ。当たる!! 確信した瞬間。
あいつの仮面の口が、まるで絡繰仕掛けの様にパクリと開いた。
「!!」
石が、開いた口に咥え取られる。あいつの目が、狂喜に揺れた気がした。もう、成す術はない。立ち尽くす龍樹。あたしは、彼の名を叫ぶ。
……My fair lady……
勝ち誇った歌が、響いた。
◆
その時起こった事を、あたしは一生忘れない。
振りかざされたナイフが、龍樹に突き刺さろうとしたその時。
やつの身体が、空中で止まった。まるで、首を吊る様に。頭と身体がくの字に曲がる。
見た。
白磁の仮面の下。やつの首に巻きつく、長い三つ編みを。
やつの口から、石が落ちる。落ちてくる。ゆっくりと。ゆっくりと。あたしに向かって。
『惠……』
声が、聞こえた。それに押される様に、自然に身体が動いた。落ちてくる石に向かって、足を蹴り上げる。
渾身の、一生に一度の、ダイレクトシュートだ。足先に当たる石。一気に振り抜いた。
「いっけぇえええええ!!」
真っ直ぐに飛んでいく石。それが、あいつの額に当たって。
断末魔の様に響き渡る、甲高い音。砕けた仮面の中から溢れ出す、大量の鮮血。降り注ぐ血の雨。
あたし達の目の前で、切り裂きジャックの身体が塵となって弾け散った。
◆
「うわっ!!」
「きゃあっ!!」
頭上から降り注ぐ、鮮血の雨。思わず、身を竦める。いつ尽きるかもしれない滴りを、目を瞑って耐える。
それでも、時間はあっという間。
いつの間にか雨は止んで、あたし達は血に塗れた姿で呆然と立ち尽くしていた。
周りを見渡す。
広がる血溜りの中に、数個の欠片になった仮面が浮いていた。
「やった……のかな?」
「みたい……だな」
顔を見合わせる、龍樹とあたし。少しの間。
「龍樹!!」
「うわ!?」
思いっきり、龍樹の首っ玉に抱きついた。バランスを崩した彼が、盛大に尻餅をつく。だけど、あたしは離れない。
「ちょ、おま!! 苦しい!! 苦しいって!!」
抗議の声を上げる龍樹。でも、放さない。ますます力を入れて抱きつく。
「やった!! やったよ!! 龍樹!!」
「惠……」
「討ったよ!! ゆうちゃんの仇、討ったよ!!」
あたしの言葉に、龍樹が顔を綻ばせた。
「ああ、やったな……」
そう言って、あたしの髪をクシャクシャと撫ぜる。
「ナイスシュートだったぜ。さすが、オレの相棒だな」
「えへへ……」
笑い合うあたし達。そして、彼の胸に顔を埋めながら、あたしはあの一瞬の事を問う。
あの事を、幻と思いたくなかったから。
「ねえ……」
「うん?」
「見た? あの時……」
それだけで、通じてくれた。
龍樹も、頷く。
「ああ……」
「来て、くれたよね? ゆうちゃん……」
「だな……。やっぱり、南方は南方だった……」
そう言って、宙を仰ぐ龍樹。彼が、ここに来るまでに何を見たのかは分からない。けれど、その言葉で何かが納得出来た。だから、あたしはただ微笑んで身を彼に委ね。
湿った音が響いた。
「!!」
「何!?」
見ると、血溜りに浮いていた仮面の欠片。それらが、ピチャピチャと揺れ動き始めていた。
欠片達は浅瀬で跳ねる小魚の様に蠢きながら、少しずつ寄り集まっていく。
「た、龍樹!!」
「こいつ、まだ!!」
あたし達が、パニックになりかけたその時――。
「無様ねぇ」
何処からともなく、そんな声が聞こえた。
ガシャンッ。
「うわっ!?」
「きゃんっ!!」
飛び散る欠片と、血飛沫。
突然落ちてきた黒いダンスシューズが、一つになろうとしていた欠片達を蹴散らした。
「あんたはぁ、負けたのよぉ。役の済んだ俳優はぁ、さっさと舞台を降りなさいぃ」
もがく欠片を踏み躙りながら、シューズの主が言う。
その姿に、あたしは覚えがあった。間違いない。あの時、街中でパフォーマンスをしていた二人の片割れ。
黒衣の舞姫だ。
「お楽しみの最中ぅ、悪いわねぇ」
欠片が動かなくなるまで踏み躙ると、彼女は長いサイドテールをさらりと流して笑みを浮かべる。歳はさしてあたし達と変わらないのに、酷く妖艶な微笑みだった。
「それにしてもぉ、驚いたわぁ」
血溜りをパシャパシャと鳴らしながら、近づいてくる。
「まさかぁ、あんらみたいな小娘小僧がぁ、
酷く楽しげに微笑みながら、抱き合うあたし達を見下ろす彼女。
「あらあらぁ。血塗れでのまぐわいってのも、扇情的だけどぉ、洒落た演劇のラストにしちゃあ、ちょっと酷い格好ねぇ」
そう言うと、ツイと後ろを振り向く。
「唱未ぃ」
見ると、いつの間に来たのだろう。彼女の後ろに女の子がもう一人立っていた。金色の髪に純白の服。そう、あの時の彼女の片割れ。白衣の歌姫だ。
「ほら、これぇ。何とかならないぃ?」
唱未と呼ばれた女の子が、分かったと言う様に頷く。そのまま、テクテクと歩いて来る。あたし達の前に立つとニコリと微笑んで、口を開いた。
「穢れの露よ。地に帰れ」
あの時の歌の様な、とても綺麗な声。それで彼女が囁いた途端。
「え!?」
「な、何だぁ!?」
血が、消えていた。
地面に溜まっていた鮮血も。あたし達の身体を染めていた血糊も。その全てが一瞬で地面に吸われ、消えていた。
訳が分からずに狼狽するあたし達に向かって、黙って微笑む歌い手の女の子。舞手の女の子が言う。
「唱未はねぇ、
言ってる事が分からない。戸惑うあたし達を見て、舞手の女の子は、『まあ、分かんなくてもいいけどぉ』とケタケタと笑った。
「それにしてもぉ、やってくれたもんだわぁ。ものの見事に、バラッバラァ」
地面に散らばっていた欠片を拾い上げながら、舞手の女の子がやれやれと溜息をつく。
いや、半分はあなたが踏みにじったせいだと思うんですけど……。
「唱未ぃ。ついでにこれぇ、直してくれなぁい?」
傍らに立っている歌い手の女の子にそう声をかけたけど、彼女は目を瞑って頭を振る。どうやら、駄目だと言っているらしい。
「あららぁ」
わざとらしく頭を落とす、舞手の女の子。でも、すぐにヘラリとした表情で言う。
「まあ、いいけどねぇ。欠片でも、それなりの価値はあるからぁ」
そして、散らばる破片をカツカツと蹴り上げると、手の中に収め始める。
『価値がある』。
その言葉に、龍樹が反応した。
「おい!! 価値って、何だよ!? お前、それが何か知ってるのか!?」
呼びかけに、宙に欠片を蹴り上げた女の子が『ああ、これぇ?』と言いながら、飛んだ欠片をパシリと捉える。握る手の中で、欠片がキラリと光った。
「綺麗だとぉ、思わないぃ? 幾星霜の間、怨讐と血に磨かれた希物ぅ。そこら辺の宝石なんかよりもぅ、余程価値があるわぁ」
こっちの訊きたい事は分かってる筈なのに、わざとらしくはぐらかす。龍樹が、イラついた様に怒鳴った。
「そんな事訊いてんじゃねぇ!! そいつは、何なんだって訊いてるんだ!!」
「あははぁ、分かってるわよぉ。手間も省いてくれたしぃ。ご褒美にぃ、ちゃんと教えてあげるってぇ」
ケタケタと笑いながら、女の子は言う。
「これはねぇ、切り裂きジャックの『
「『めんれき』?」
聞いた事のない言葉に、あたし達は首を傾げる。
「あらぁ、知らないのぉ?」
女の子が、小意地悪そうな顔をして手の中の欠片を晒した。
「『
「………!!」
普通に聞いたら、荒唐無稽な話。でも、今のあたし達には信じる事しか出来なかった。
「物分りのいい事でぇ。二人共、良い子ねぇ」
言いながら、もう一つ欠片を蹴り上げる。
「向こうからの貨物に紛れて来たんだけどぉ、時を経て少し歪んだみたいねぇ。元々はぁ、娼婦狙いだったのにぃ、女なら何でもよくなっちゃったみたいぃ。随分色々とぉ、手を出したわねぇ。まぁ、おかげでぇ……」
そこで、また女の子が笑む。ただ、今度はすごく悪意のこもった笑み。
「余計に、価値が上がったんだけどねぇ」
「何言ってやがんだ!!」
龍樹が激昂した。
「そいつのために、どんだけ人が殺されたと思ってんだ!! 金になんか換算出来ないくらい、沢山の人が殺されたんだぞ!?」
けど、そんな龍樹の激情を受け流す様に、女の子は平々然と言う。
「青いわねぇ。人の命なんてぇ、軽いもんよぉ。世の中にはぁ、もっとイイものがぁ、沢山あるんだからぁ」
そうのたまって、またケタケタと笑う。今度こそ龍樹がキレた。
「てめぇ!!」
怒鳴って、掴みかかる。けれど、その手はあっさりとかわされる。
「ダメよぅ。おイタをしちゃあ」
もう片方の手が伸びてきて、龍樹の額をピンと弾いた。
「―――――っ!?」
それだけで、へなへなと倒れてしまう龍樹。
「龍樹!!」
慌てて駆け寄る。そんなあたし達を見て、彼女はやっぱりケタケタ笑う。
「ほらほらぁ、大事な彼女が怒ってるわよぅ。筆おろしならぁ、ちゃんとその娘に頼みなさいなぁ」
言いながら、最後の欠片をはね上げて手の中に収める。
「……っとぉ。これで最後ぉ。さてぇ、用も済んだしぃ。お暇しましょうかぁ」
その言葉に、歌い手の女の子が頷く。クルリと返る、二人の踵。そのまま何の未練もなく、霧の向こうへと去っていく。思わず呼びかける。
「待って!! あなた達は……」
「知らなくて、いい……」
あたしの言葉を遮る様に、声が聞こえた。あの、歌い手の女の子の声だった。
「世界には、貴女達が知らなくていい事が、沢山ある……」
そして、声は言う。
「だから、今はお帰り。貴女達の、在るべき場所へ……」
結ばれる言葉。途端、一瞬で霧が晴れた。まるで、悪い夢から覚める様に。いつしか空は白んでいて、小鳥が鳴き交わす声が聞こえた。
「おーい!! いたぞー!!」
遠くで、誰かが叫んだ。集まってくる、人の気配。それを感じながら、あたし達はただ呆然と、昇りゆく太陽を見つめるだけだった。
◆
それからの事は、ひたすらに目まぐるしく過ぎた。
近くにあった死体のせいで、大分警察に問い詰められた。けれど、あたし達に出来たのは、何も分からないと答える事だけ。あの夜の事を話しても、信じて貰えない事は分かっていたから。
家に帰ると、パパに怒鳴られて、ママには抱きしめられた。どっちとも、泣いていた。頬に落ちる涙が、とても温かかった。
9人目の被害者が出た事で、街にはさらに厳戒態勢が敷かれた。学校は休校となって、街中にはさらに沢山の警官が溢れた。
もう、そんな事に意味がない事は知っていたけれど、どうする事もなかった。後はただ、時間が全てを曖昧にしていくのだろう。
事件の事も。ジャックの事も。殺された人達の事も。そして、ゆうちゃんの死も。
微かな虚しさの中で、あたしはそう悟っていた。
◆
ゆうちゃんの七回忌の日。式に出たあたしは、久しぶりに龍樹に会った。ママ達が式の後片付けの手伝いに回ったので、あたし達はしばしの間、2人っきりにされた。
「……あの後、どうだった」
あたしの問いに、ゲンナリした顔で答える龍樹。
「ヒデー目にあったよ。親父にめっちゃぶん殴られた」
「あはは。おじさん、怒ると怖いもんね」
「笑いごっちゃねーよ。おかげで、口内炎になったんだぜ」
そう言って、口を開けてみせる龍樹。その顔に、また笑っていると、ふと彼の額に目が行った。そこには、病院で受けたらしい手当の跡。
「傷……大丈夫?」
「ん? ああ、4、5針縫ったくらいだ。大した事ねーよ」
「ごめんね。あたしのせいで」
「オレが勝手にやったんだ。気にする事ねーよ」
そう言って、ツンと横を向く彼。その仕草に、胸がキュンとなった。
「……そう言えばさ……」
「ん?」
こっちを向いた彼の顔に、自分の顔を近づける。彼が、目を丸くする。
「な、何だよ!? きゅ、急に!!」
「お礼、まだだなーって思って」
「ば、バカ言え!! こんな所で!!」
慌てる顔も、愛おしい。
「誰も、見てないよ?」
「で、でもな!!」
「前は、そっちからしようとしたくせに」
「い、いや、あの時とはシチュエーションが……」
なかなか、煮え切らない彼。あたしがじれ始めた、その時。
『ああ、もう。めんどくさいなぁ』
そんな声が聞こえて、グイっと背中が押された。
「!!」
「!!」
勢いで重なる、あたしと彼の口。
甘い恍惚の中、視界の隅で長い三つ編みが踊った様な気がした。