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――あぁ、優しいなぁ。
下級生の面倒を見る彼に、自然と穏やかな心境になる。凪いだ海のような。そしてそういう時は大抵、
うぐ、と喉元をせりあがる物体に、不快感を覚えて体を二つに折る。左手で持っていた籠を落とすように地面に置き、開いた右手で口元を押さえる。
「清水!?」「潔子さん!!」
ぼろり、と手の中に小さな白い花が吐き出され、胸元の悪寒は消え去る。ぐしゃり、と見えないように花を握り潰し、こっそり地面に捨てる。
「大丈夫」
そういうと、西谷や田中はほっとした表情でまた騒ぎ始める。
「清水、本当に大丈夫か」
そう声をかけてくる菅原に、大丈夫だからと答え、置いた籠を持ち上げる。
「ごめん。行こう」
事情を知っている谷地が、わたわたと寄ってきて、籠を持とうとする。私が持ちますから。大丈夫。やっちゃんはあっちをお願い。そのやりとりに、皆が安心したようにそれぞれの会話を始めた。
後ろから、澤村が厳しい表情で見てくるのを感じる。
心の中で、謝る。
ごめんなさい。絶対に隠し通すから。
だから、ここに居させてください。
*
花吐き病。
正式名称を嘔吐中枢花被性疾患。またの名を、恋煩い。
忘れたころに流行り出すそれは、完治の方法が「両思いになること」というとんでもない病だ。恋による気持ちの高ぶりの度に、花を吐く。恋心が膨らむたびに吐いて、吐いて、吐いて――吐かずにいられなくなったころには、ろくに物を食べられず、死に至る病。
というと大仰に聞こえるけれども、完治しなかった大抵の人間は失恋して諦めて次の恋に向かうか、諦めきれない恋を胸の奥底に静かに静かに澱のように溜めて生きていくのだ。
清水潔子は花吐き病だ。花を吐くまでは恋心を自覚してすらいなかった。この病に罹ることで恋を自覚できたのだと、今では感謝すらしている。そう言ったら谷地には認識が甘いと叱られてしまったのだが、谷地は清水の恋の相手を知らないからそう言うのだ。朝家族の次に会って、帰宅前に共に笑う、彼らのうちの誰かだろうとまでは察しているかもしれない。谷地は何も言わない、その心が清水にはとてもうれしい。対象とそこまで近しい関係とあっては、恋心を諦めることも眠らせることもできない。彼が花吐き病についてどれだけ詳しいかは清水の知る由もないが、清水は彼に己の心を知られないために全力を尽くしている。
そして、その共犯となってくれるのが谷地だった。
谷地仁花は花吐き病だった。昔の話だ。きちんと恋を終わらせたから、今は花を吐くことはないのだという。相手は中学校の同級生で、女の子たちの中で評判のサッカー部のエースだった。恋心に耐え切れずラブレターを書き告白し、無事に失恋したのだと笑っていた。花を吐く回数は徐々に減り、受験期にはその余裕もなかったと笑うので、そういう治し方もあるのだと清水は知っている。
「だから、差し出がましいかもしれませんが清水先輩。私は告白してみるか、そのためのアプローチをするのがいいと……ああっ、先輩が既に色々試した後でしたら申し訳ありませんっ!」
清水の花吐き病について谷地が知った時、彼女はそう言った。清水がマネージャーを探している最中、吐き気に襲われたときに、彼女が声をかけたのだ。
「いや……特に、何もしていない、けど」
「ええっ、ではその相手には既に恋人さんが!? はっ、もしや既婚者……不倫!!」
さすがにそれは違うよ、と声をかけたが、谷地はぐるぐると想像を逞しくしていた。
けれどそうか、アプローチ、か。
「やっちゃん、実はけっこう肉食系?」
「はっ! め、滅相もない……。言っておきますが恋人ができたことは谷地仁花十五年の生涯に一度もございません! ただ、私ではなく、先輩が誘惑して、靡かない人はいないと思うので……」
後輩の大げさな言い様に、清水は苦笑した。本当にそうだったら、どんなにか良いだろうね。
花吐き病に罹った時、清水は己の恋心に自覚はなかった。
ただ、自分が花吐き病であると知って、自分の好きな相手をすぐ思い浮かべることが出来た。
視野が広く、努力家で、人への気遣いが出来る同級生の男の子。
いつしか視線で追うようになり、その度に体調を崩して花を吐いた。一度澤村大地が花を吐く現場に居合わせ、その病と原因、治し方について尋ねられた。同級生に一人、同じ病で苦しむ友人がいるのだという。病の原因を知った時、彼は真っ直ぐに清水に尋ねた。
「清水の相手は、菅原か」
そうだ、と誤魔化すことなく頷いた。それくらい周囲には判り易かったかと尋ねると、いや、と澤村は首を横に振った。
「菅原が近くにいる時にだけ、清水は体調が悪くなるだろう」
余りに頻度が多いから、何かあって嫌っているのかと思った、と。
清水は目を瞬かせた。
「そんなこと、ない」
「ああ、今日知った。菅原本人も気にしていたから、俺からフォローを入れておくよ」
「菅原を嫌うなんて、ありえない」
「それを俺に言ってどうするんだ」
そして、彼は。
当時既に主将職に就いていた彼は、提案した。
「そんなに辛いなら、マネージャーを辞めてもいいんだぞ」
彼らが高校三年生になる直前の、三月のことだった。
*
マネージャー職というのは、どうしてなかなか忙しい。忙しいということは役立っているということであり、清水が花を吐いていたとはいえ、選手である縁下らに頼めることは限られている。
澤村大地は、烏野高校男子バレーボール部唯一のマネージャーに、マネージャー業を続ける条件を出した。
部に所属する限り、花吐き病を部員に感付かせないこと。
少しでも吐きそうなら、すぐ体育館から離れること。体調が悪い日は無理をしないこと。
それは口約束に似た、主将としての希望を述べたに過ぎない。澤村が清水を思いやっていることは明らかで、同時にバレー部に混乱をもたらさないことも重んじることは判っている。
澤村との会話の後で菅原に詫びた所、快く許してもらうことが出来た。原因不明の花粉症かアレルギーらしい。医者に相談している。またこれからも倒れるかもしれない。ごめんなさい。菅原は気にするなと笑い、清水は後で花を吐いた。
IHで青城に負け、それでも続けることを決意し、マネージャーに谷地を迎えた。谷地は清水が花を吐く場面に出くわし、澤村が彼女に伝えた希望に憤慨し、見学に来たところで日向に引き込まれた。マネージャーの資質は、選手のプレーが好きなこと。春高が終わるころには、立派なバレー部のマネージャーになるだろう。
清水は、自分の恋愛を成就させるつもりはなかった。
谷地と一緒に菅原を見守り、帰宅してから花を吐き、無事バレー部を引退し、時々廊下ですれ違う彼とあいさつをして、そのまま卒業し、十年後に同窓会で会っても一緒に笑いあえるような関係がいいと思った。
*
菅原孝支が花吐き病であると清水が知ったのは、春高予選を控えた雨の日だった。
雨の中、水道で立ち尽くす菅原に、清水が声をかけたのだ。
水道脇にもたれかかる菅原の様子が気にかかり近寄った所、排水溝にたくさんの花が詰まっていることに気付いた。
「菅原、花吐き病なの?」
清水がそう尋ねると、菅原はいや、と渋い顔をした。
「わからない」
「自覚がないなら、一度病院に行った方がいい。ただでさえ、これから大変なんだから」
春高、受験、卒業、と指折り数えると、そうだね、そうかもしれない、と菅原は言った。
清水は、排水溝に詰まった花を睨んだ。烏野高校には小学校のように多くの花は植えられていないし、季節外れのクロッカスがそこらに生えているとも思えない。
菅原孝支が恋をしていることは明らかだった。
*
不思議なことに、菅原が花吐き病であることが判ってから、清水の花を吐く回数は落ち着いた。部活中に花を吐くことはまず無くなり、清水の思い人を知らない谷地はようやく告白したのだと、そしてそれは成就しなかったらしいと感じたらしく、治らぬ病の話題を避けるようになった。
菅原の花吐き病もやはり公言していないようで、彼はその不可思議な病について目撃者である清水を頻繁に頼るようになった。
「昨日は吐かなかった」
「そう」
「不思議だね。吐くと体力的に辛いけど、吐かないと、お前の恋心はその程度なのかって言われてる気分になる」
「……菅原の好きな人って、どんな人?」
清水のその質問に、菅原はうなった。悩みながら、だんだん顔が赤くなっていくのが愛おしいと思った。
「かわいい、ひと」
五分十分と悩んでから出した結論が、それだった。
「あたりきたりかもしれないけど、かわいい、が一番似合うと思う。すごいやつだなぁ、とか、頼もしいなぁとかも思うけど、それはその人が三年間積み重ねてきた実績で、事実だから。俺から見て、ってことなら可愛い人だなぁと」
おもいます……と声が小さくなっていく菅原に、清水は首を傾げた。
「同級生?」
え、と菅原が声を上げた。
「なんでわかったの」
「だって今、『三年間積み重ねてきた実績』って」
そしてたぶん、部活関係者か、それに近い人じゃないかと思う。三年間同じクラスメートもいるかもしれないが、進学クラスに女子は少ない。
清水の憶測に、菅原は真っ赤にした頭を抱えた。
「ごめん、忘れて……」
その口ぶりに、清水は首を傾げた。忘れられるはずなどない。
考えて、考えて、清水はある可能性を口にした。
「もしかして澤村……?」
「え?」
「菅原の好きな人」
「いや、それはない。確かにすごいやつだけど可愛くはない」
真顔だった。
「じゃあ、東峰…」
「俺を同性愛者にするのはやめてください、清水さん」
そうだよね、と思わず笑みを零すと、菅原もつられて笑った。
その日の夜、清水は洗面台で花を吐いた。
洗面台が花を受け止めきれず、溢れた花が足元までこぼれた。
一通り吐き気が収まってから、こぼれた紫色の花弁を見た。菅原の顔を思い出す。伏せた瞳。赤く染まった耳。愛しくて愛しくてたまらないという風に口角が上がり、唇が開き、
――かわいい、ひと。
自分ではないな、と思った。
*
「清水ー、ドリンクの容器ってどこー?」
「水場。取ってくる」
「悪いな」
とある午後、清水はマネージャー業務の一環として体育館を離れた。頼まれたものを手に、体育館の傍に寄ったところ、蹲る一人の女子生徒がいた。
「……大丈夫?」
清水の言葉に、少女はびくりと肩を揺らし、わずかに顔を上げ、相手が清水一人であることに安心したように座り込んだ。清水は彼女の顔に見覚えがあった。
「道宮さん? 大丈夫、壁に寄り掛かった方が……」
手にしたものをその場に置き、かつての女子バレー部の主将に駆け寄る。制服のままぺたりと座り込んだ少女は、ごほ、と咳き込んだ。少女の口から花弁が零れ落ちたように見え、清水は目を丸くした。道宮は手で口を覆うが、咳は止まらない。赤い花弁がぼろぼろと、掌では受け止めきれず地に落ちる。近寄ると、道宮は生理的な涙を流しながら清水の服の裾を握った。
「……ない、で」
いわないで。
その心理はとてもよく判ったので、清水は頷いて、少女を体育館の壁に寄りかからせた。多少制服のスカートに砂埃が付いたが、赤い花弁を吐く少女の体調の方を優先した。
「花、には……さわっちゃ、だめ」
感染するから、と囁く道宮に、清水は首を横に振った。
「大丈夫。私も、花吐き病だから」
え、と目を丸くする道宮に、清水はだから大丈夫、と頷いた。その仕草に、道宮も表情を柔らかくした。
「そう。澤村の知り合いの、花吐き病の人って、清水さんだったの」
「じゃあ、私が聞いた、澤村の知り合いの花吐き病の友人って」
「多分、私のこと」
道宮は、暫く考える仕草をしてから、何かに気付いたように目を丸くした。驚きに、花を吐くことすら忘れたらしい。
「じゃあ、清水さんの好きな人って」
清水は苦笑した。人差し指を口の前に翳す。
「内緒にしてね」
「清水ー」
後ろから、マネージャーを呼ぶ菅原の声がして、清水は肩を揺らした。会話を聞かれたかもしれない。
菅原は、清水と道宮と、二人の周りに散らばる花を見て、驚いたように目を開いた。
「菅原。道宮さん、花吐き病なんだって」
「あ、そう。大地呼んだ方がいいか?」
「あ、全然! お構いなく! 澤村の部活の邪魔できないよ!」
全力で首を振る道宮に、清水と菅原は顔を見合わせた。
「それなら、部活終わるまで待ってる?」
「仁花ちゃんか私が、保健室まで付き添おうか」
「今友達にメールしたから! 大丈夫!」
携帯のメール画面を見せた道宮に、それならと清水は頷いた。花吐き病は基本的に一過性の病だ。発作が収まれば、普段の生活に埋没することができる。現状の清水のように。
通常のマネージャー業務に戻ろうとした清水は、菅原の表情に動きを止めた。
「でも、道宮さん本当に大丈夫?」
「あのあの、本当!」
「いやでも、女の子は体冷やしちゃダメだって言うべ?」
ほら、とその場で自分のジャージを手渡そうとする菅原に目を背けたくなったと同時に、体の奥からぐっと不快感が押し寄せた。
久々の、学校での、嘔吐。
「清水!?」
本当に、本当に珍しいことに、菅原が慌てた声を出すのを聞いて、清水は心の奥底で醜い満足感を得た。
*
そのあと。清水が花を吐いたことに驚いた菅原が、大慌てで谷地を呼んだため、なし崩し的に道宮が澤村に見つかった。二種類の花が散らばる様子を見た澤村は、道宮と清水の双方に部活が終わるまで見学するよう告げ、帰宅の準備を終えると菅原に、清水を家まで送るよう命じた。澤村自身は、道宮と帰る方向が同じなのだ。
二人きりの帰り道。
菅原の花吐き病の相談に乗るようになってからというもの、二人きりで話すことはそう珍しくもないのだが、帰り道というのは初めてだった。
「……清水」
「何?」
「花吐き病、だったんだな」
「言ってなかったっけ」
自分でも、白々しいな、と思いながら清水は言った。知られないようにしていたのだから、菅原が知らないのは当然だった。
「好きな奴、いるんだ?」
花吐き病であることは知られてのだ。花を吐くほど好きな人がいることも。
前へ前へと進んでいた足が、止まる。
「……うん」
清水が歩みを止めたことに気づき、菅原も清水の一歩先で立ち止まり、振り返った。
「どんなやつ?」
空気が冷たい。秋の風だ。清水が花を吐くようになってから、半年以上過ぎていることに気付く。
「菅原に、関係あるの」
言葉少なに、答えたくない、と視線を落とすと、菅原は言った。
「でも、俺も教えたべ」
――かわいい、ひと。
清水潔子の一般的な評価とは、似ても似つかない答え。
ぼろり、と頬を涙が伝うのを感じた。
「ずるい、ひと」
一度流れ出した涙は、止まらなかった。
「誰も恨まないひと」
しゃっくり上げながら、一つ一つ言葉を紡ぐ。
「残酷なくらい、公平なひと」
菅原孝支という人間を指し示す、だけどそれ以外の人間であるかもしれない言葉を選ぶ。
「誰からも、好かれるひと」
「そりゃあ恋するにはハードルが高いな」
菅原が、笑った気配がした。清水は菅原の顔を見ることができなかった。清水は、唇をゆがめ、無理に笑った。
「でもね、優しいのよ」
清水の言葉に、菅原がふっと笑う気配がした。苦笑かもしれない。
「そっかー。でも優しくて好かれるって、浮気されたらどーすんのさ」
「別に、恋人になれなくてもいいの」
するりと、その言葉が口から出た。そうすると、一気に楽になり、菅原の顔が見れるようになった。清水は顔を上げ、菅原を見つめた。菅原は清水の言葉に目を丸くした。
清水は、涙を伝う頬を隠すこともせず、笑った。
「好きな人がいるって知っているから、幸せになるまで、傍に居れたらそれでいいの」
菅原は、ぽかん、と口を開けた。そして、どうしてだか、うなり声をあげてしゃがみこんだ。男物のスポーツバッグがアスファルトの地面に擦れる。
「菅原……?」
清水は菅原の行動に驚いて、かがみこんだ。瞬きをした瞬間、目じりに溜まっていた涙がぼろりと落ち、視界が明瞭になる。菅原の耳が赤くなっているのが判った。
「菅原? どうしたの、大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも……やばい花吐きそう」
「え? 何で?」
清水の反応に、菅原は顔を上げて清水を見上げた。
「清水サン。幾つか質問していいでしょうか?」
清水は目を瞬かせ、首を傾げた。
「いいけど……」
「一つ目。清水が花を吐き始めたの、いつから」
「ええと」
菅原の真剣な口調に、指折り数え、昨年の冬くらい、と告げると菅原は、そんなに前からか、とがっくりと肩を落とした。
「二つ目。実は同性愛者じゃないよね?」
座り込んだ状態で落ち込んだ様子で尋ねる菅原に、清水は戸惑った。
「仁花ちゃんは可愛い後輩だよ」
どうしてそういうことを言うのか判らない、と目元を険しくすると、菅原はただの確認だから、と笑って、立ち上がった。
先ほどまで見上げていた菅原の顔が、今度は清水を見下ろす位置になる。
「三つ目。俺が清水にだけ花吐き病だって教えたの、どうしてだと思う?」
え、と清水は首を傾げた。
「偶然じゃ、なかったの?」
「……偶然だと思うなら、そんでいい。そんじゃ四つ目、これが最後の質問だけど」
そう言って、深呼吸した。
清水が菅原を見つめると、じわじわと菅原の頬が火照っていった。暫く戸惑ってから、意を決したように、真正面から清水の瞳を覗き込んだ、その仕草が好きだな、と思った瞬間。
「俺の、恋人になってくれませんか」
心臓が、止まるかと、思った。
(……しにそう)
(え? 何で? つーか清水の好きな人って俺だよね話の流れ的に)
(そうだけど、吐く……)
(あ、白銀の百合じゃね? ほら両想いになったら吐くっていう! 俺もちょっと吐きそう!)
(菅原、お願い、ちょっと黙って)
リア友に菅潔を布教された結果がこれだよ!
花吐き病です。両片思いの菅潔が延々花を吐く話です。私は砂を吐きそうでした。