神友世界消失   作:てけてけ


オリジナル:現代/ミステリー
タグ:R-15
親友の日比谷咲が死んだ。
生きる意味を失った私はそれでも親に言われて学校に行く。
しかし訪れた教室には、死体があって……。

ミステリ風ヒューマンドラマ作品。

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神友世界消失

「神は死んだ」と哲学者、フリードリヒ・ニーチェは六十年ほど前そう書いたが、私の神様は昨日死んだ。

 どうして死んでしまったのだろうと何度も思った。咲は小さい頃から病弱でずっと入院していた。いつ死んでしまってもおかしくはなかった。でも死んでいい人じゃなかった。私の大切な人で、親友で、唯一の理解者で、神様だった。なのに死んでしまった。

 お葬式は彼女を知る僅かな人で行われた。焼香の時、啜り泣く渚さんの前を通って、棺桶の前に辿り着き、私は彼女の顔を見た。とても安らかで、死んでいるようには思えなくて、これが幻覚なんじゃないかとか、実はどっきりで棺桶の周りの花を押しのけながら「ばぁ」って飛び出してくるんじゃないかなんて、そんな風に思えた。

 でも彼女の両親や、渚さんや朱莉さんが泣いていたし、律君も唇を固く閉じていて神妙な顔つきをしていた。普段は笑わない和也や、いつも怖い麟二も瞼を下ろしてて、ああこれは夢なんかじゃなくてほんとの事なんだって気づかされた。だってもうみんなとはほとんど関わりなんてなくなってて、最後に話したのも思い出せないくらいなのに、この場にいるんだもん。それが私と彼等を繋いでいたピースが欠けたのを否応なしに思い出させた。

 高校二年生の秋、私の神様は死んでしまったんだ。

 

 

 

 穏やかな昼下がり、カーテンの隙間から零れる光の中で、私は咲と二人で絵本を読んでいた。お話は人魚姫。私と違って咲は童話が好きだった。世界中を冒険したり、魔法を使うお話の方が面白いと思うんだけど、彼女はそれが好きだった。彼女は少しリアリスティックなファンタジーよりも、ふわふわした綿菓子みたいな童話を好んだ。

 私はあの日も童話を持って、咲の病室を訪れていた。とても静かな、時が止まってしまったような病室に咲はいつも横たわっていて、私が訪れると長い黒髪を揺らしながら体を起こして「いらっしゃい」って言ってくれる。そんな彼女が私は好きだった。

咲のベッドに二人で入って、私が絵本を朗読する。幼かった私には恋焦がれる気持ちも、悲しみに暮れる気持ちも分からなかったけど、それでも精一杯に読み上げた。一通り読み終わり、本をぱたりと閉じた時、彼女は言う。

「どうして、にんぎょひめは最期泡になっちゃったの」

 私は「だってそういうお話だからだよ」って答えた。

「そういうことじゃなくてさ、なんで最期に泡になっちゃったんだろうって」

「それは魔女から貰った薬のせいでしょ。王子様に愛されなかったら、泡になって死んでしまうって」

「だから」

 咲が珍しく語気を強めた。

「なんで、泡にならないといけなかったんだろう」

 私は首を傾げる事しか出来なかった。彼女の言いたい事が分からなかった。だってそういう約束だったんだから仕方ないじゃんって思った。

 そんな私に呆れてしまったのか、咲は「なんでもない」とそっぽを向いてしまう。

「美玖はさ、もし願いを叶えるためなら死んじゃうかもしれないっていう薬があったら飲む?」

 視線を合わせずに彼女が尋ねた。

「飲まないよ」

 即答した。

「どうして?」

「だってそんな勇気がないからね」

 私はそう自嘲した。

「美玖は?」

 なんとなく聞き返した。

「私は飲むよ。願いを叶えるためなら、死んじゃってもいい」

 咲は相変わらず横を向いていて、どんな表情で言っているのか分からなかった。けど至極真剣な表情で言っているのだろう。そしてその言葉通り、きっと彼女は飲むのだろうなと私は思った。彼女は人生を懸けた綱引きを毎日しているんだから、願いを叶えるのなら自分の命くらい訳ないのだろう。

 咲の願いはなんなんだろう。ふとそう思ったのを覚えている。彼女の病室には多くのファッション雑誌があるから元気になって、モデルになりたいのだろうか。小学生の今ですらすごく美人だから、大人になったらきっと綺麗になる。それが絵本作家とかなのかもしれない。はたまた、それ以外のことなのか。

 私はなんとなく夢想した。願いは聞けなかった。叶わない願いなんて聞いても、彼女も私もきっと困ってしまうから。

 

 これは遠き日の思い出。いつ頃かすら思い出せない遠い、咲と過ごした大切な日。

 

 

 

朝はいつだって憂鬱だ。夜という休息はあっという間になくなって、朝という地獄がまた始まる。優しい月はそこにはおらず、鬼軍曹の如き太陽が鞭をうってくる。そんな不条理に唇を噛みながら、私は太陽を睨みつけた。

 駅前だというのに電柱くらいしか目立つものがない通学路、随分前に閉店したバーの看板が点々とし、道路脇に縛り付けられた街路樹が青々とした葉を付けている。何一つ変わらない、つまらない場所。そこを私は歩いていた。

 九月も半ばだというのに、まだ暑い。夏前に肩まであった髪を短く切ったからよかったけど、長かったら大変だった。近くの看板を一瞥し、俯き歩く。足元の点字ブロックを踏みつけ、敷かれたレールの上を行った。

歴史だけ無駄にある大きくボロイ学校の姿がへ近づくにつれ、喧噪が大きくなっていく。

「今日の古典、課題あるよ。ちゃんとやった?」

「えっ……、渚さん見せて貰えますか?」

「はぁ、仕方ないな。ジュース一本だよ」

 渚さんは昨日、お葬式であんなにも泣いていたのにちゃんと課題をやってきたみたいで、友達に得意気に胸を張りながら、ジュース要求に片手を出している。背が低くて、どんぐり眼の彼女はマスコットみたいで可愛らしいけど、委員長を務めるほどしっかりしていて、そのうえ優しい。

 それこそ、クラスの爪弾き者な私に挨拶をするくらい。

「えぇ~、そこをなんとか」

「だーめ、ジュース頂戴」

 彼女が首を傾げるとポニーテールが元気に跳ねた。私はその近くを息を止めながらひっそりと抜ける。彼女には気づかれなかった。ほっとすると同時に、胸が痛んだ。

「和也くん、今日は練習何時ぐらいまであるの? 私、終わるまで待ってる!」

「先帰っててくれ。遅いから」

「えぇ~、私は和也君と一緒に帰りたいのにぃ」

 それからまた少し歩いたら、今度は朱莉さんと和也が往来でいちゃついていた。朱莉さん

は和也の腕を掴みしな垂れかかり、和也は優し気にそれを見つめている。

 昔、和也と渚さんを付き合わせるために咲と奔走したのに、無駄になってしまった。元気だった咲を思い出して唇を噛んだ。

「いいでしょ。私待ってるからね」

 強引に言い切った朱莉さんの横を通り過ぎた。彼女の目元も唇も化粧で色づいていて、高校生にはとても見えない。東京の渋谷とかでも歩いてそうな雰囲気で、私はそんな都会知らないけど、たぶんそこを歩いても遜色ないと思う。少なくともこんな片田舎の、創立百周年間近な公立高校にいてはいけないような子だ。校則はぎりぎりだから先生からの評判は良くないけど、他の生徒からは憧れみたいになってる。

 質実剛健の渚さんと、才色兼備の朱莉さんみたいな感じだ。まぁ、朱莉は頭良くないけど、イメージ的にはそんな感じ。

私は朱莉さんとも渚さんとも昔仲が良かった。彼女は泥で頬を汚すくらいやんちゃな子で、渚さんが手を焼いていた。なのに今では薄茶の髪にパーマをかけ、彼氏の腕にしなだれかかっている。

 いつか、こんな風になるんだろうか。私は自問する。誰かに恋をして、人目もはばからずにいちゃついて胸をときめかせたり、和歌みたいに叶わぬ恋情に身を焦がしたりするんだろうか。

 できるといいなぁって思う。散々、本で読んだからシミュレーションはばっちしだ。水族館に遊園地、公園、知識だけはあるけれど、それはなんの役にも立たない。教本は貰ったのに、テストは一体いつあるんだろう。

 そんな風にぼやきながら日の下を歩いていると、前方に俯いている男の子がいるのに気付いた。見慣れた水色のリュックに、背が伸びると期待を込めてたのに成長が止まった結果だぼっとした学生服、さえない幼馴染だ。俯いて本を読みながら歩いているんだろう。いつか怪我する。昔は私の後ろをついて回って来る、ひっつきむしみたいな子だったのに、今ではオタク気質で、アニメとか漫画とかを熱心に読んでるような、黒髪短髪で百六十cmくらいのどこにでもいる人で、私の背中なんて見ていない。

 みんな、私が知っているみんなじゃない。咲のお葬式の時にも覚えた違和感が強くなる。昔から変わった。高校生になっていった。体格も心も大人へと近づき、魔法の正体を見破りつつある。二十歳まで解けない魔法が解けつつある。

なのに私にかけられた魔法は強力すぎて、視界に映るものが童話めいたふわつきで誘惑していくる。前後不覚の精神で私だけが昔のまま。

昔はトンボと視点が同じだったのに、今ではそれを見下ろしている。俯いて、見下ろしている。成長しているのは身長と、体だけ。女っぽくなって、背が伸びて。いや、背だけじゃないか。負け犬根性も成長してるか。どれだけ冷めた目で周囲を見ても、結局自分が一番情けない。

 私はいつまでたっても子供のまま。

好きな事だけして生きていけたらいいのに。毎日が日曜日で、寝たらそのまま目が覚めなくて、そんな風になればいい。そうなったら世界は滅亡するけど。

 他愛ない夢想を人差し指で弄びながら、通学路を歩いていく。自然、創立百周年記念で新築された校門が見えてくる。途端に右下腹部が鉛でも詰まっているかのように重くなった。腕には鳥肌が立ち、頭皮から汗が滲みだす。呼吸が荒くなっているのを感じた。呼吸が出来ない水の中でもがいているみたいに、私は通学路を進んでいく。

けどそんな風になっているのは私だけだった。

周りを見渡しても笑い声が満ちていて、相貌にはコピペしたみたいに笑顔がある。きっと彼等、彼女らは祝福されている。みんなは「いってらっしゃい」という後光とともに世間から手を叩かれ、ゴールテープみたいに校門をくぐっていく。

一方私は笑い声と雑談の声に呪われ、校門をくぐった。

 これは地獄の門だ。始まりで終わり。ここに入ったその瞬間、私は一度死ぬ。出ると生き返る。けど次に日にはまた死ぬ。浄化なき輪廻に狂わされる。

「この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ」

 ダンテの『神曲』はそう語る。この世界は薄汚くて最低だ。私は希望なんて持ってない。捨てられるような希望が、私にはない。悲しきかな、いやもうそんな事も思えない。私にとってあの地獄の門は母親の産道だったのかもしれない。産まれた瞬間に私は希望を捨てたのだ。

 門をくぐり抜けた。学校の敷地内に入った。空気が変わった。まだ学生の私には分からないけど、これが学生が持つ雰囲気とでも言うんだろうか。

 校庭には吹奏楽部のラッパや野球部の野太い声が響き、校舎内は古臭い木の匂いが漂っている。昇降口に続く並木道、春になれば花咲く桜は新緑の葉をつけ生徒たちを出迎えた。制服を纏った囚人やスーツに縛られた獄卒がその下を往く。

これが私の地獄の姿だ。殴られ、蹴られ、罵られ。られっぱなしの、されっぱなし。行き止まり人生、今日も私はいじめられる。

 

 

 不意に意識が覚醒した。寝て起きた瞬間遅刻に気づいた時みたいに、私の意識は唐突に鮮明になった。白昼夢でも見ていたのだろうか。気づけば、私は昇降口に立ち尽くしていた。これまでの記憶がない。私はどうやってここまで歩いてきたんだろうか。熱い太陽と、煩い吹奏楽部や運動部。それから香り。それだけがカビのように記憶に蔓延っていて、肝心なここに至るまでの風景や足取りが全く思い出せない。

「どうして?」

 思わず呟いた。そこだけフィルムが抜き取られたように記憶がない。何故か息が荒かった。なんとなく変な感じがして、両手を見つめた。

「ひっ」

血。それが頭によぎる。私の両手は真っ赤に染まっていた。手は全然痛くないし、どこか怪我しているようにも思えない。じゃあ、血じゃなくてぼんやりしていた間にペンキが塗られてた場所でも触ったのか。手を開け閉めして感触を確かめるけど、ジトッとして妙にねばつくそれはやっぱり血にしか思えない。

「きみわる」

 私は玄関口にある水道で洗い流した。ついでに顔も洗ってハンカチで拭き、一息ついて全身を見渡す。

胸元の緑色のリボンが、一部茶色に変色していた。何が付いたんだろう? 乾ききっていて、分からなかった。擦ってみるとパラパラと破片状に削れた。痕は残ったけど、クリーニングすれば落ちそうだ。私は説教を受けずに済むと思い、安堵した。外傷は特になし。体で痛んでいる所もない。手が血、血かどうかは分からないけど、血に染まっていたの以外は特に異常はないみたいだった。変な事もあるものだ。まぁ登校が嫌すぎて、考え事をしていたらここに着いていたんだろう。

周囲はやけに静かだった。人っ子一人いなかった。あんなに外を歩いていたのに、どうしたんだろう。もしかして遅刻?

私は慌ててスリッパに履き替え、一階から三階まで駆け上がった。最後の一段をジャンプして、廊下に出る。そこには誰一人いなかった。来るまでも誰ともすれ違わなかった。遅刻したにしても校内は静まり返り不気味で、私は息を整えながら生唾を呑んだ。

 ゆっくりと廊下を歩いていく。私の教室は六組で突き当りにある。他の教室の前を通るけど声は聞こえない。すりガラスで中は見えないけれど、人の気配はしなかった。間違いなくおかしい状況に、恐怖が私を包む。

 それでも歩き続け、いよいよ教室の扉の前に立つ。私は引き戸に手を伸ばし、ちょっとためらった後、それを振り払うが如く勢いよく開け放った。それと同時にチャイムが鳴る。遅刻じゃなかったのかな、と一瞬安堵が訪れる。でもそれは直ぐ吹き飛ぶ。

 扉を開けた私の目に、教室の様子が飛び込んできた。赤と赤と、それから赤。その赤はついさっき手についていた赤によく似ていた。その赤の中に黒がぽつんと浮かんでいる。それを囲むようにして、朱莉さんと麟二、それから律。ちょっと離れた所に渚さんもいた。それから何故か卒業したはずの眞人先輩もいた。不思議な状況で、魔女集会でもやっているみたいだった。けれど一体何を囲んでいるんだろう。目を擦る。前屈みになって、囲んでいるそれを覗いた。

 喉が鳴る音がした。それは私から出た音だった。それすらも私には分からなくなっていた。私は私に起こった事を他人事に見ていた。そうせざるをえなかった。私の目の前にあるのは、死体だった。クラスメイトの和也君の死体が教室の真ん中に放置されていて、体の何処からか溢れだした血が木目の床を濡らしていた。

「俺たちじゃない! 俺たちがやったんじゃない!」

 両手を振って麟二が叫ぶ。その声は震えていた。私がぐるりと彼らを見回す。皆、青ざめた顔で首を縦に振っていた。私は呆然と立ち尽くし、何も考える事が出来ない。考えたかった。けど血の臭いと目の前の、怒りの形相で死んでいる和也のせいで、何も考えられなかった。ただ茫然と、彼等を眺めていた。

「なんだよ、その目は。分かったぞお前が、お前が和也を! 被害者ぶりやがって、この!」

 轟音が鳴った。お腹が痛かった。私は地面に倒れていた。地面が揺れている。視界に星が散っていた。ようやく麟二に殴られたと気づいた。彼が更なる追撃を加えるべく、迫っているのが分かる。私は痛みにうずくまっていた。

「止めなよ! 美玖は違うよ! そんな事よりも警察に連絡しようよ!」

 朱莉さんのか細い声が響く。

「もうやったさ!」

「朱莉ちゃん、やろうとしたんだけど、繋がらなかったの」

麟二の叫びを渚さんが補足する。朱莉さんは絶句した後、疑わし気な眼を彼女に向けた。

「そんなバカなことないでしょ。だって……学校だよ!」

彼女はポケットからスマホを出して、電話を掛け始めた。スマホからは呼び出し音が鳴るだけで応答はない。最終的に『電波の届かない所にいるか、電源が入っていない場所にいます』という宣告が告げられる。

「なんで……」

 朱莉さんは途方に暮れたように立ち尽くし、

「圏外だって」

 私達にスマホを見せつけそう言った。

腹痛と頭痛。二つの痛み。横たわる私の目に向かって流れ込む赤い血が流れ込み、私の体を恐怖に染める。

そんな中突如、耳障りなノイズ音が空間を割った。私は身体を震わせた。これ以上、何があるのかと身構える。その音の出どころは教室に備え付けられたスピーカーだった。

『七人の少年、少女の皆さん、御静かに』

 合成音声はそう告げる。若い女のような甲高い声だ。聞いた事がなかった。全員が意識が吸い取られたようにスピーカーを眺めていた。

『本日はお集まりいただきありがとうございます。この中の六人の方は、とある罪状で告発されている。三枝律は怠惰の罪。長年の友人を放置し、死に至らしめた罪は重い。新庄和也は憤怒の罪。周囲、世間への怒りをぶつけるばかりで、変える努力も変わらぬ努力もしないお前は、生存していないのと同義である。上桐渚は傲慢の罪。出来もせぬ約束をして、裏切る。裏切りはどんな罪にも勝る悪徳だ。日比谷咲は嫉妬の罪。ベッドの上で雑誌を読み耽り、妄想に浸る。そして病院に訪れた者への嫉妬心で狂うお前は生きている意味がない。西郷麟二は強欲の罪。身に余る欲望と肥大した自意識は差異化を呼ぶばかりだ。貴島朱莉は色欲の罪。異性に縋って生き、挙句の果てに迷惑を掛ける。宿り木を点々とするその姿は、寄生虫に他ならない。そして最後は――』

 ざざっとノイズが走った。スピーカーの不調だろう。最後は聞き取れなかった。私の名前は呼ばれなかった。私は罪を負っていないという事なのだろうか。それとも最後に呼ばれる名前が私だったのだろうか。

いや、今はそんな事はどうでもいい。頭を振って思考を飛ばす。咲、どうして彼女が。もう彼女は死んでしまったのに。嫉妬? あの明るくて優しくて美人な咲が? 誰に? 私に? もしそうだったら、私は今まで。走馬灯のようにぐるぐると、彼女と過ごした日々が流れて行く。私に与えられた罪の事なんて知らずに、咲との幸せだった記憶が流れて行く。

『既に賽は投げられた。一人死んで終わりなどと思わない事だ。新庄和也は見せしめだ。彼の死は、お前たちに更なる恐怖を与えるだろう。贖えぬ罪科に、煉獄にて永劫の罰を受けるがよい。震えて眠るがいい、裁きの座の住人達。死の代行者たる私の前に引きずり出された際、申し開きをするがよい。六人の罪人たちよ』

 死に際の蝉の鳴き声のような音を残して、アナウンスは終わった。後に残ったのは、不気味な静寂。互いが互いを横目で見合っている。

 私は不意に昇降口の事を思い出した。血に塗れた手、不自然に汚れたセーラーのリボン、失われた記憶。偶然にしては出来過ぎな証拠品の数々、和也を殺した痕跡たち。

 もしかして私が?

 絶望が泡のよう湧き上がる。

「ねぇ、今のアナウンスって誰が流したの?」

 浮かんだ泡を割るように渚さんが言った。

「まぁ、和也を殺した奴だろうね。確実に。事前に仕込んでおけば、この中の誰でも出来るさ。部外者がいる可能性も捨てきれないけどね」

 眞人先輩は学ランのポケットに手を突っ込んで笑い、黒い瞳が私達を見回した。華奢な体で私の前に立つ渚。唇を噛む麟二。自分の体を抱く朱莉さん。それぞれを貫き、私までもが貫かれた。 

私は唾を呑みこんだ。体が震えていた。自らに疑念を抱くのも嫌だったし、「私じゃない!」と叫び出したかった。けど怪しまれたくないし、殺人犯に仕立てあげられたくない。私は震えながら、地べたに這いつくばっていた。和也の死体を囲んだ魔女集会は、魔女裁判へと変貌し、異端審問へと移りゆく。

「一体誰が殺したんだろうね。『犯人はこの中にいる!』って奴だ。漫画みたいだね」

 眞人先輩は片頬を吊り上げた。私達は互いに顔を見合わせた。

 九月十三日金曜日、午前八時二十五分。

 裁判はまだ始まったばかり。

 

 

「外に出て、助けて貰おう」

 渚さんはそう言って、昇降口へ向かった。それに追従して、私達は全員で外への脱出を試みた。昇降口について扉を引いた。扉は開かなかった。どこの扉も同じだ。中庭の扉も、一棟から二棟、二棟から三棟に渡るための連絡通路も、すべて閉じられていた。鍵ではない。溶接されたみたいに扉は動かなかった。驚いた事に窓すら同じ状況だった。つまり、私達は二棟から出られない。行動範囲は僅か、二棟の一階、二階、三階の三か所に絞られていた。

 およそ一時間に渡る散策の結果分かった事は、現状では誰も放送室がある一棟には行けない事。そして、この校舎には私達六人以外誰もいない事だ。

 各地の確認を終え、私達は教室に戻った。和也君の死体は二つ隣の教室にある。普段入らない三年四組の教室はいまいち馴染まなくて、気持ち悪かった。クラス替え直後のようなそわそわとした感覚がしたし、人の痕跡はあるのに誰もいないのが変だった。本当に人が死んでいて、この学校には私達以外誰もいないんだと実感する。

そんな教室で私達は椅子に座っていた。座る位置は決めず、六人が三十個ある椅子に適当に座っている。私は最後列で俯いていた。最前列には渚さんと麟二が離れて並び、中間あたりに律くんと朱莉さんがいる。教卓には眞人先輩が立っていた。

けん制し合う空間、 小学生の学級会のような空気が漂っている。先生が教卓に立っていて、生徒たちはそれから目を逸らす事も出来ず、ただ見つめるだけ。怒られながらも「どうして自分たちが怒られているんだ」という理不尽さを感じている。あんな感じのひりついた空気。胃がキリキリ痛んだ。

「なんで閉じ込められてるの?」

 渚さんが腕を組んで呟く。

「そりゃ俺たちを殺すためだろ」

 ぶっきらぼうに麟二が答えた。

「よくそんな風に言えるね。麟二は怖くないんだ」

「怖いとかじゃない。ただの事実だ」

「へぇ、肝が据わってるね。ただ殺されるんじゃなくて、こんな意味不明な状況におかれてるってのにさ」

 強がる彼を渚さんは鼻で笑った。

「誰もいない学校で、外にも出られず、携帯も繋がらない。明らかに変でしょ。人間業じゃない。悪魔やら神様の仕業って言われた方が信じられるくらいだよ」

「お前は信じてんのか?」

「まさか。それくらい不思議ってことだよ」

 最前列で言い合う二人。私達は黙って聞いている。唯一、眞人先輩が口を開いた。

「まぁまぁ。とにもかくにも犯人捜しをしなきゃ始まらないでしょ? 犯人が人間にしろ、神様にしろさ」

 彼はそう言うと教卓の前で手を叩いた。

「さて、じゃあ僕から話していこうか。何のためにここに来て、どういう行動を取ったか。要するにアリバイって奴を」

 

「僕は今日弓道部に練習を指導するために学校に来た。高校に来るのも一年ぶりくらいだ。指導は午後からだけど、校舎を見物して懐かしむのも悪くないと思って朝から学校を歩いてた。そして、この二年六組は僕が学生時代に過ごした教室だ。まだ生徒が登校する前に見ておこうと思って、訪れた。けどそこには先客がいてね。それが渚君と麟二君だ。つまり、僕は三番目にこの教室に来た。その時にはもう和也君の死体はあったよ。そして渚君と麟二君が言い争いをしていた。話の内容は――そうだな。『お前が殺したんだろ、分かってるぞ。だってお前は捨てられたんだからな。かわいそうに。それだけは憐れんでやるよ。しかも相手があの女狐』」

「ちょっと」

 渚さんが眞人先輩の喋りを遮った。彼が目を細める。

「なに? 自分に都合が悪いからって、話を止めたのかな。それは怪しいね。さっきのアナウンスだと渚君は確か、傲慢、裏切りの罪だったっけ。僕にはよく分からないけど、それに心当たりでもあるのかな」

息もつかせず、眞人はそう言って片頬を吊り上げた。しかし彼女は顔色一つ変えなかった。。

「まぁ正直、話されたくない話だけど、こんな状況だからそれは諦めるよ。でもそれ以前に、あなた誰? 同級生じゃないよね。校内で見かけた事もないし」

 私はその指摘にはっとした。私以外の誰も眞人先輩の事を知らないのだ。みんな彼の雰囲気に呑まれていたのだろうか。今更になってそんな事を言い始めた。

「そうだ! なに勝手に仕切ってやがる!」

 麟二が目を見開いた後、烈火のごとく詰め寄った。

「あの、まずは自己紹介から……」

 それを抑えるように、律くんがおずおずと手を挙げる。

「そんな暇ないし! 和也が、和也が殺されてるんだよ! なんであんたらそんな落ち着いてんの!  おかしいよ、あんたらみんな頭イカれてんじゃないの!」

 堰を切ったように各々が喋り出した。それは会話ではなく、ただの感情の発露だった。渚さんの発生を皮切りに、各々が抱えていた感情が破裂していく。それが辛くなって私は瞼を覆った。

「なんで私達がこんな目にあわないといけないのよ!」

 朱莉さんの声が響き、ぴたりと先ほどの喧噪が止んだ。色々と叫んでも、みんなそう思っていた。「どうして私が、僕が、俺が、こんな目に遭わないといけないんだ」と。それが分からなくて、許せなくて、どうしようもなくって。

「そんなの、分かんないよ」

 彼女の言葉に答えながら渚さんが立ち上がった。百四十cm足らずのその身長。ポニーテールを振って、彼女は凛と在る。

「けど事実は事実。和也君が本当に殺されてしまったなら、ここで私達は協力して立ち向かわなきゃ。ドッキリだって笑えたらいいけど、そんな訳ない。現に犠牲者が出てる。協力していかなきゃいけない。これ以上、死人を増やさないためにも、自分が死なないためにも。さっきのアナウンスの内容は聞いた?」

「嫌でも聞こえる。あんな爆音で流されたらな」

 渚さんの問いに麟二が鬱陶しそうに答えた。彼女はそれに頷く。

「あの内容、私達を七つの大罪に当てはめて断罪を行うって言ってた。けど、その内容は正直ぴんと来なかったよ。私は出来もしない約束をして裏切ったから傲慢だってさ。おかしくない? 自分の能力を過信して、出来ない約束をした事が罪なの? でも、そんなのありふれてるよね? 自分では出来ると思ったのに失敗しちゃったとか、やれると思ったのに出来なかったとか。その程度で嘘呼ばわりされて、挙句の果てに裏切りまで言われたらら、世の中全員裏切り者だよ。だから思うんだ。私達を殺そうとしてる犯人は、大した理由なんか持ってないんじゃないかって」

「でも、現に和也は!」

「うん、分かるよ朱莉ちゃん。私だって悲しい。それに苦しいし、怖い。だから言ったでしょ。皆で立ち向かわないといけない。こんな風に互いにけん制しあっていても埒があかないよ。いがみ合っていて、何かいいことある? それよりも互いに協力して犯人を見つけようよ。この中にいるとは思いたくないけど……。とにかく、このまま二人目が殺されるなんて事はあっちゃいけない」

「そ、そうだね。そもそも、他の人はどこにいるんだろう。今日は普通に学校があると思って来たんだけど」

「それも不自然だね。現状には不自然な事が沢山ある」

 律くんの言葉に、渚さんは首肯した。

私はそれを眺めながら、小さく息を吐く。

やっぱりこういう時の彼女は頼りになる。小学校の頃から渚さんはずっと皆のリーダーだった。どんな時でも学級委員に選ばれて、自然と前に立っている。

「一つ、どうしてここが圏外なのか

二つ、どうして学校に誰もいないのか

三つ、どうして外に出られないのか

四つ、誰が和也君を殺したのか

五つ、どうやって和也君を殺したのか

六つ、どうして和也君を殺したのか

七つ、どうして私達が集められているのか」

 渚さんは一本づつ指を立てながら、そう語る。

 私は心の中で「八つ、咲がどうして選ばれたのか」と付け足した。

「奇しくも七つだね。こんな状況だけど、みんなで協力して知恵を合わせて、必ず生き残ろう。和也君の死を無駄にしないためにも、ここで止めよう。私の、ううん、私達の力で」

 渚さんが力強く拳を握る。ポニーテールがそれに合わせて揺れた。それはまるで民衆を導く自由の女神に描かれた星条旗のようだった。渚さんという旗手の元に人は集い、彼女はそれを使って物事を導く。理想に邁進するその姿を、私と麟二はつまらなそうに見つめていた。

「で、あんたは何するの?」

 麟二が床に足を投げ出して、頭の後ろで両腕を組む。そんな彼を一瞥した後、渚さんは再び前を向いた。

「さっきも言った通り、みんなで力を合わせる必要があるよ」

「もうそれは聞いたって」

「そういう訳だから、差し当たってあなたは誰? 知らない人と協力は出来ないよ」

 渚さんが眞人先輩を人差し指で差した。彼は目を瞬いて笑った。

「いいね。知恵を使って、この状況を打開するって事か。知恵は神に与えられず、人類が自分で勝ち取った唯一の武器だからね。けど酷いなぁ、そんな親の仇みたいな言い方。僕が犯人だって名指しで言いたいのかい?」

「ううん、単に気になるから聞いてるだけ。だって素性の知れない人とは話しちゃいけないって教わったから」

「誰から?」

「お母さん」

「それはいいお母さんだ。大事にしなよ」

「言われなくてもそのつもり。安心して」

 渚さんは視線を逸らさず、淡々と眞人先輩の質問に答えていった。先輩はそれをにやにやしながら聞いている。

「さて不審者に気をつけろと教えた優秀な渚君のお母さんに免じて、自己紹介させて頂こうか。僕は眞人敦史。群馬の大学に通ってる大学二年生だ。僕は高校がこの学校でね、しかも弓道部所属だった。その縁で弓道部の顧問の先生から指導をお願いされた。幸い、今は大学も夏休みで暇だ。一日だけの約束だったし、それを引き受けてここに来た。朝からいた理由とかは話したから、もういいよね。好きな物は食事。趣味は人と喋る事。こんな感じでいいかい?」

 先輩が私達の顔を見て言った。

「先輩が本当に弓道部のOBだっていう証拠はある? それと大学に通っているという証明も」

「疑い深いなぁ。ほら、これ大学の学生証。入校許可証はあるけど、OBの証拠はないね。ん?そこの君」

 先輩は私に向かって指を差した。びくりと背筋を伸ばす。

「ちょっと名前忘れちゃったんだけど、君確か弓道部だったよね。僕の事覚えてたりしない?」

 彼は私に向けていた指を自分に向けて、優しく尋ねて来た。

「えっと……」

弓道部? 弓道。弓道。私はそんな事してたっけ。いや、してたっけって思う時点でおかしいじゃないか。そういえば昇降口で部活入ってないから分からないけど、今日は集会があるのかなって思ってた。じゃあ、私は部活に入ってないんだ。けど彼は確かに眞人先輩だ。それは覚えている。けどどこで会ったかは覚えていない。そもそもどうして私は先輩の事を知っているんだろう。変だ。思い出せない。さっきまではあんなにも鮮明にイメージ出来ていたのに。でもどっかでは確実に会ってるはずだ。

「どう、美玖?」

 膝を凝視する私の顔を、渚さんが覗き込んできた。変な汗が体中から噴き出してくる。

「えっと……」

 どれだけ記憶をさらっても、眞人先輩の事が思い出せなかった。確実にどこかで会っていて、話した事もある。その声も、漂わせている空気も、陰気だけど整った顔立ちも、全部に覚えがある。なのにどこで会ったか、何の話をしてたのか全く思い出せなかった。

「大丈夫? 顔色悪いよ」

 頭が痛い。アイスピックで脳みそを突かれているような鋭い痛みが周期的に襲ってきて、発狂しそうだった。どこで、いつ、何を。

「美玖君、僕の事忘れちゃったかな。一年しか交流ないし、無理もないけど。ほら、新人戦の前に少し話したでしょ。君の友達の、咲君の事。弓道部で結果を出して、彼女を見返したいってそう言ってた。中学の時、美玖君は咲君の勧めで弓道部に入った。彼女は出来ないから、自分の代わりだと思ってやって欲しいって言われてね。そしてそれからずっと弓道をやってる。そう、ずっと。ずっとずっと。そう、まるで呪いのように。運命かのように、ずっと」

 そうだったっけ。そう言われてみれば、そうだったかもしれない。そうだ。私は弓道をやっていた。眞人先輩と新人戦前に話した事も鮮明に記憶にあった。どうしてこんな大切な事を忘れていたんだろう。

「ごめんなさい。もう大丈夫です。はい、確かに眞人先輩は弓道部のOBです。話した記憶があります」

 私がそう答えると、先輩は「そうだよね」と言って、にっこり笑った。

その表情を見た瞬間、先ほどの頭痛は霞のように消えていた。脳のエラーが治ったかのように、私の記憶が鮮明になる。弓を引く感触も弓道場の汗と竹が混じった匂いも、今では容易く思い起こせた。さっきの状態が嘘のようだった。

ド忘れでもしたのだろうか? けどそんな大切な事、普通忘れるかな? 自分の入っていた部活なんて。でも実際忘れていたし、仕方ない。そういう事もあるか。思うしかない。

傷一つない右の手の平を見つめながら、そんな事を思った。

「学生証の方も確認したよ。ありがとうございます、眞人先輩。先ほどの話の続きをお願いします」

 私の違和感を放置して、話は先々へと進んでいく。

「あぁ、でも本当にいいのかな。こっから先の話は渚君にとって、相当分の悪い話になるけど」

「さっき皆で力を合わせなければと言った口で、『知られたくないから話すな』とは言えませんよ。知られたくないのは事実ですけど、緊急事態ですから。私と和也くんの醜聞よりも、皆の命の方が大切だし」

「ならいいけど」

 渚さんの目は据わっていた。それは正面から眞人先輩を見据えている。

小学校の頃から、私達六人は一緒だった。保育園が一緒だったから小学校低学年までは仲が良かった。クラスが別になって、住んでいる地域も違くて、それでも一つの共同体ではあった。私は律と渚さん以外、あまり話した事がない。けど顔は知っているし、それぞれの抱えた事情も何となくだけど把握してる。

だから分かる。この中で、一番和也君が亡くなって辛いのは、渚さんなんだ。

「ほら、早く話して。犯人がいつまで私達に時間をくれるか分からないんだから」

淡々と彼女は先輩を催促した。麟二はその横で嫌らしい笑みを浮かべていた。それが酷く恨めしかった。出来る事なら睨みつけて、殴りつけて、「この外道が」と地面を這いつくばらせたかった。けど私には力も勇気もない。俯いて、臍を噛んだ。

彼女がそれを衆目に晒される事がどれほど屈辱的だろうか。私なら耐えられない。いや、そもそもあんな状態に置かれて平気だなんて。渚さんは優しすぎる。優しすぎて、いっつも貧乏くじを引かされている。なんで彼女ばかりと私は思わざるを得ない。

神様はきっと卑怯者だ。人事を尽くしても天命は下らない。もしかしたら、人事なんて神様にとってはどうでもいいのかもしれない。だから私にも、渚さんにも、全人類にも、天命なんて下らない。

 平然としている渚さんに、眞人先輩はつまらなそうに唇を尖らせた。

「まぁ色々端折って話すと、僕は懐かしの母校を朝から訪れてたわけだ。で、教室に立ち寄りたかった訳だが、朝遅かったりすると現役生に迷惑になるから、朝一で行った。けどそこには先客がいたんだ。いたのは三人。いや、正確には二人と一体か。一体は言わずもがな、亡くなった和也君の死体だ。そして二人というのは、渚君と麟二君。僕が教室を訪れた時、二人は言い争いをしていた。内容は正直うろ覚えだけど、概ねこんな内容だったと思う。『お前が殺したんだろ、分かってるぞ。だってお前は捨てられたんだからな。かわいそうに。それだけは憐れんでやるよ。しかも相手があの女狐だ。あんなアバズレに取られるなんて、アイツも見る目がない。まぁ、お前も大概だけどな。和也にとってお前は女じゃなくて、ただの昔馴染みだったんだ。そりゃそうだ。こんなちっこくて、貧相な体形ないけすかねぇ女と、付き合うなんてな。遊びにも真面目な奴は向かないし。頭以外使い道ないんだよ』と。おお、意外と覚えてるんもんだな。やるな、僕。あ、二人は僕がいる事に気づいてなかったよ。僕は聞き耳を立ててたんだ。扉の隙間から死体と二人は確認した。さて僕はこれを聞いて思った訳だ。これは痴情のもつれだと。きっとあの小さなポニテの女の子は、あの倒れてる男をナイフで刺しちゃったんだとね。これは面白い事になってるなぁ、いい場面に遭遇した。僕はそんな事を思ってた。さてさて、僕のモノローグはこの辺にして、渚さんの回答に移ろうか。彼女はこんな酷い暴言に何て言ったと思う? ほら、ずっとそこに座ってる律君。答えてみてよ」

「え、僕ですか?」

 突然槍玉に挙げられた律君は、自分を人差し指で差して戸惑っていた。

「そうそう。そうやって、黙ってずっと座っててもいい事ないよ。これからの時代はコミュニケイションの時代だからね。言いたい事は言わなきゃ伝わんないのさ。自己主張万歳!」

 なんだか眞人先輩は楽しそうだ。気味が悪かった。どうしてこの人は自分が死ぬかもしれない状況で笑っていられるんだろう。

 そこまで考えて、違和感を覚えた。

 そもそも、私と先輩は殺されるんだろうかと。

先輩と私は、アナウンスに名前を呼ばれていなかった。終盤の方はよく聞こえなかったけど、きっとそれはスピーカーの不調によるものだろう。途切れる前に、あの声は確かに『最後に』と言った。つまり、犠牲者はきちんと七人分いる。つまり、この場にいる全員が殺されるのだ。

私と、律君、渚さん。麟二に朱莉さん、和也君。そして眞人先輩。これでちょうど七人だ。

再び小さな違和感が走る。私は詰問される律君を放置して、こっそりと指を折り始めた。この場にいる人間を、改めて数えて行く。

 ここに六人いては、いけないのだ。

「ほらほら、すまーいる。笑ってなきゃ。これ、人間関係の基本だよ。緊張して怖がってちゃ、何も始まんないよ」

 先輩が両手の人差し指を頬に当て、吊り上げる仕草をした。それに律君はぎこちない笑みを浮かべる。

「えっと、そうですね。渚さんが何と答えたか、でしたっけ」

「そうそう」

「そんな事をしている暇がありますか。さっさと話をしてください」

 もしも、もしもだ。先輩が言っている事が本当だとして、『この中に犯人がいる』という言葉が本当だとしたら、犯人が自分自身に殺害予告をするだろうか。カモフラージュのためにする可能性はある。

けど、わざわざ私達を七つの大罪なんていう大袈裟な物に見立てて殺す意味がない。これは一種の劇場型犯罪だ。そんな犯人が数に合わない殺しはしないだろう。この仮説が正しければば、名前を呼ばれなかった時点で、私と眞人先輩、そのどちらかが犯人ではないだろうか。そして片方が尻切れトンボになった最後の死者。

そこまで考え、頭を振った。

飛躍しすぎだ、バカ。

こんなの唯の穴埋めじゃないか。名前を呼ばれなかった方が犯人なんて、単純が過ぎる。相手は数々の超常現象を起こした相手だ。そんなのが、こんなマルバツゲームの劣化人狼で捕まえられるはずがない。

さっきの気づきで得られた情報は一つだけ。それは恐らく「この中に犯人がいるというのが確からしい」という事だけだ。これも本当に校内に誰もいないなら、という条件がつくけれど。

 まぁ、つまるところ。

 さっきの気づきには、何の意味もないのと同じという訳だ。唯一確かなのは、私が犯人ではないというその一点のみ。

 再々度の違和感。

果たして、本当にそうだろうか。私が殺してないと、本当にそう言えるだろうか。今朝、私は校門に入ってから、何をしていた?

その可能性に気づいた時、私は思わず親指の爪を噛んだ。恐怖で逃げ出したくなりすらした。これまで学校から逃げないで来た私が、地獄に慣れていた私が、人殺しの責からは逃れたくて仕方なかった。地獄は人の数だけあるとは言っても、それは種類の話であって、決してどれならマシとかいう訳ではない。暴力ではない、侵食という地獄が、私に迫っていた。

動機も方法も分からないけど、私には殺すのに必要な時間があった。この校舎に入る時、正確には校門をくぐってから昇降口に入るまでの時間。私は無意識だった。何をやっていたか、思い出せなかった。

もし、もしの仮定の話だ。三階まで駆け上がってそこにいる和也君を殺して、昇降口まで戻る。無意識下で、まるで二重人格者のようにそんな事をした可能性。私は校門前で、渚さんと麟二君を見ている。時間的にも二人の到着前に殺しを行う事は不可能じゃない。

そう、不可能ではない。それを否定する材料も、理性という感情でしか持ち合わせていない。

「私はそんな事しない」

 そう幾ら頭で思っても、記憶がない。家を出て鍵をかけた記憶がないように、空白の時間がしこりとなって離れない。

 私は人殺しかもしれない。

恐ろしい推論に、私は冷や水を浴びせられたような気分になった。無意識で人を殺した。そんな事があるんだろうか。普通ないだろう。けど人殺しにそんな一般論が通じるのか。精神鑑定とかにかけられて、責任能力がどうとかやって、それでそれで。そういう人がきっと人殺しになる。

そう思って、ふっと私は鼻で笑った。なにが二重人格。なにが殺人者。くだらない。こんなの年頃の人間にありがちな誇大妄想だ。

鍵をかけた記憶がなくて、とても気になる。よくある話だ。それで一度家に戻って、鍵を鍵穴に挿す。結果はどうだ。大抵、きちんとかけられている。無意識的に、習慣的に、人間は動く。それくらい、私にとって校門から昇降口までの道のりが慣れたものだったという話だ。

それにこれには前提条件として、頻繁に人格が入れ替わらないといけない。

そんな経験、した事がないじゃないか。

と、思ったのも束の間だった。それはついさっきの記憶。ほんの数分前の、あやふやになった記憶。眞人先輩に関する記憶。

「ごめんって。そんな怒んないでよ」

「うるせぇな。そんなチンタラやってんじゃねよ。イライラする語り口で気持ちよく喋りやがって」

「もう、なにやってんの! 早く犯人を見つけて、ここから出ようよ! あたし、まだ死にたくないよ!」

嘘だ、嘘だ。弓道部に入ってた記憶が少しないくらいだ。でも、普通忘れるか。部活動だぞ。記憶力に自信がある私が。家の本棚に入ってる本のタイトルが全部言えて、表紙を見ればそれが何巻か分かって、内容まで諳んじられる私が、忘れる?

それがもし、忘れてるんじゃなくて、『入れ替わってる』としたら。

私は、一体何なんだ。荒野で一人、立ち尽くしているかのような幻想に私は襲われた。風が吹いて、砂埃が舞う荒野の中で一人ぼっち。周辺には当然何もなく、足元にはぺんぺん草一本すら生えていない。あるのは私だけ。どこまでも続く砂地。そこで私は己自身の蜃気楼と向き合っていた。

ある物語の話をしよう。ある人、Xの脳をコピーして生み出されたAIがある。そのAIはXと全く同じ考えと感情を持っていて、肉体の有無以外はXと同じだ。では、そんなAIの前にXを連れて来て、会話をさせるとどうなるのか。するとXは自我が崩壊する。自分と同じ存在が二人いて、しかも自分が模造品だという事実に耐えきれず、崩壊が始まる。

それと同じ事が今、佐々木美玖の中で起きていた。私とは一体何なのか。私は一人なのか。私は、本当に『佐々木美玖』なのか。いじめられていて、咲の親友で、高校生で、二年六組に所属している『佐々木美玖』なのか。

そうだとも。私はみくだ。美玖だ。ミクだ。私は。

にたりと涎を滴らせ、怪物が笑う。おたふくみたいにぽってりとした頬を歪めて、一重の目を細めて、肩ほどで黒髪を切った、百五十cmの怪物が笑う。私の中の『私』が笑う。

きっと気のせいだ。そんな訳ない。頭を振る。

自分で自分を殺すならまだしも、人を殺すなんて、そんなの嘘だ。そうだ、嘘だ。だから、殺したのは私じゃない。他にも、そうだ、さっきは却下したけど、名前を呼ばれてない眞人先輩がやったんだ。そいつがやったに違いない。きっと、きっと、そうきっと。だからやったのは私じゃなくて。

「『ちがう! 私はやってない! 殺したのはお前だろ!』」

 朱莉さんと麟二を、渚さんが一喝した。自分が答えようとしていた所に割り込まれた律君はおどおどとして先輩と、渚さんを往復している。

 同時に混乱した私の頭も冷えた。

「こっから先は私も知っている事だよ。その先は私が話す。和也くんとの関係性についてもね。このままだと埒があかないから」

 律君がほっとしたように胸を撫で下ろした。

「それは残念」

 ちっとも残念そうではなく、眞人先輩が肩を竦める。

「じゃあ早速、話していこうか」

 渚さんが立ち上がった。私はその動きを目で追った。皆が目で追っていた。

 先輩が犯人だって、物事はそう単純じゃない。頭が冷えた今なら、私だって分かる。

先輩が本当に犯人なら果たして「この中に犯人がいる」なんて言うだろうか。明け透けに、犯人が内にいると示すだろうか。自分が犯人ならしない。そして犯人は部外者だと話を持っていく。

 私は首を振って、雑念を振り払った。

 分からない、分からない、空前絶後の分からん殺し。どうして外に出られない、どうして和也君は死んだ、どうして私はここにいる、どうしてアナウンスは鳴った。分からない。分からないよ。私は混乱する。けど認めないといけない。どれだけ妄想を辞めても一つだけ確かなのは。

私が、私の中にいる何かが、彼を殺していてもおかしくない。

 口から自然と吐息が零れた。生温かった。リボンに付いた茶色のシミが目に入った。そのシミが出来た理由が、思い出せない。手が血まみれだった理由も分からない。私が和也を殺したんだろうか。恐ろしかった。ただ怖かった。人殺しになるのが怖かった。自分が自分でなくなるのが怖かった。

 

 そんな私の事はいざ知らず、会議は進む。踊りもせず、淡々と。渚さんは滔々と自らの出で立ちについて語り始める。

「皆は私と和也くんの関係についてだね。皆は知っていると思うけど、眞人先輩のために一から説明するよ」

 彼女はそう断りを入れた。それに先輩を除く全員が頷く。先輩だけは「へぇ」と言わんばかりに腕を組んでいた。

「まず、私は和也くんの幼馴染。家が徒歩三分で、家族ぐるみの付き合いをしてた。彼とは色々な遊びをしたよ。その中には俗に言う『家族ごっこ』もあってね。そこで、その、すごく恥ずかしいんだけど結婚の約束というのをした。すっごくベタだよね。なんか少女漫画みたいでさ」

 羞恥心を誤魔化すためか、早口だった。それを麟二が鼻で笑う。

「あー、笑ったな。私の大切な思い出を。ていうか、君も幼馴染なんだから知ってるだろ。まぁ、今は決して仲がいい訳じゃないけどさ。そんな約束だったんだけど、和也君は当然冗談だと思ってたんだ。けど私は本気でね。だから中学校の時、彼に告白したんだ」

「そこでオッケーを貰って、それから二年の交際期間を経て、高校に入った。けど彼の部活が忙しくてね、私も生徒会の活動があったから、中々時間が取れない日が続いた。毎日、朝晩のメールは欠かさなかったけどね」

「ガキかよ」

 麟二がくだらないと言いたげに吐き捨てた。それに彼女はくすりと笑う。その瞳は優し気だった。

「ほんとそうだよね。バカだったよ、あの頃の私は。遠距離恋愛っていう訳でもなくて、毎日会えたのに遠く離れていっちゃった」

 どこか遠くを渚さんは見ていた。和也くんとの懐かしい日を、きっと彼女は追想している。亡くなった彼が笑っていて、喋っていて、自分の隣にいた日のことを。

 今はもう二度と手入らない。その日を。

「俺はお前の思い出話が聞きたい訳じゃねぇぞ」

「ごめん。つい、感傷に浸っちゃった。らしくないよね。最後は私と別れて、その三日後に朱莉ちゃんと付き合う事になった。それが今から四ヵ月くらい前かな。麟二君はだから私が逆恨みして、和也君を殺したんじゃないかと疑ってた。そして私はその指摘に気が動転して、彼が犯人だと言い張ったと。これで間違いないよね」

「ああ」

 頷く麟二。朱莉さんはそのやりとりを居心地が悪そうに聞いている。律君も微動だにせず聞いていた。当たり前だ。こんな話、私達は知っている。学年中で話題になったスキャンダルだ。生徒会長と、バスケ部次期部長の破局。それから僅か三日後の交際。高校生にとってこれ以上のゴシップなど、そうあるまい。

「え、それだけ?」

「うん、そうだよ」

「もっと、こう壮絶なやりとりがあったりしないの? 別れる時の女の争いとかさ、付き合った時の朱莉君への嫌がらせとか」

「そんな事して意味がある? 別れたのは事実で、その後の事は和也君の自由でしょ」

「は、でも三日後って事は確実に水面下で交際してたでしょ? 浮気されてたんだよ? 許せるの?」

「許す? 許すも許さないもないよ。そもそも何をしてもらったら許す事になるの? 謝ってもらったり、また付き合って貰ったり、はたまたお金貰ったり? それで、和也君は返ってこないでしょ」

質問を重ねる先輩に、何がおかしいのかと言わんばかりに首を傾げる渚さん。二人を麟二が止めた。

「眞人さん。無駄だよ、コイツはこういう奴だから。別れた時、俺も言ったさ。もっと怒れってな。こいつは全く怒らなかった。自分のプライドも、今までの思い出も、和也のためにした努力も全部毟られて、それでも怒れないんだ。怒って何になるんだ、なんか意味があるのかって。怒ってそれで和也は帰って来るのかって言った時は、心底気持ちわりぃと思ったね。怒って謝らせて、それで気持ち良くなればいい。サンドバッグだと思って散々ぶん殴ればいい。ただそれだけの話だっつうのに。嫉妬も怒りも、醜い感情なんか全部、母親の腹の中に忘れて来たみたいな顔しやがる。認めりゃいいのに、本当に気持ちわりぃ野郎だ」

「気持ち悪くてごめんね」

渚さんが子供の様に無邪気に笑う。

彼女は誰にでも優しい。いじめられてる私にも、陰気な律君にも、いじめっ子な麟二にも、頭の軽い朱莉さんにも。けど優しすぎて、自分のために怒れない。怒ったその先しか考えられない。常に渚さんは常人の一歩先を見据えている。それが直情型の麟二には気持ち悪いのだろう。

「ふーん、まぁ事情は分かったよ」

 眞人先輩は面白く無さそうに腕を組んだ。

「で、あの状態はどうやって作り出されたわけ?」

「まず、教室に着いたのは私が一番初めだった。七時五十分ごろかな。生徒会室に用事があったから早めに来たんだ。教室には荷物を置きに寄った。その頃には既に和也くんは亡くなってたよ。当然、この時に脈も確認したし、心臓マッサージもした。それは麟二君も知ってるよね」

「ああ、確かにしてた」

「私は心臓マッサージと人工呼吸をしていて、麟二君には電話をお願いしてた。この時にはもう電話は繋がらなかったよ。だから仕方なく私と彼、交代で心臓マッサージしてたんだけど、私は女だし、小さいから体力がなくってね。で、麟二君も決して屈強な男じゃないから、そこまで余裕がなかったんだ」

「これは俺も保証する。俺たちはベストを尽くした。まぁ俺は人工呼吸やってねぇから、渚が手を抜いたり、気道確保をせず窒息死させた可能性は否定出来ないがな。流石にそこまで見る余裕はなかった。必死だったからな。そもそも渚が殺したなんて考えもしてなかった」

「そんな事して、私に何の利益があるのさ」

「ちょっと考えれば分かる事だ。お前にはアイツを殺す理由がある。利益はなくとも、理由はあるだろ。お前はそういう考えをする奴じゃないかもしれないが、一般的に考えて浮気していた男を許せるのは異常だ。それにクラスで暴れる俺を消したいと思っても不思議じゃねぇ」

 麟二が言う事はもっともだった。渚さんならば、少なくとも和也君と朱莉さん、それから麟二を殺す動機が存在する。

「だから、私は――」

「やってないんだろ。そりゃそう言うよな。だがな、ここはこういう場(・・・・・)だ」

 にらみ合いを始める二人。仕方ない。「協力して」と言っても、犯人捜しをする以上、互いを疑わずにいられない。その視点を失った瞬間、ゲームオーバーだ。

学校という牧場に閉じ込められた六匹の羊から狼を探す。ただ、敵は狼じゃないかもしれない。それこそ神様とか、宇宙人かもしれない。それを確かめるためにも、今は互いを疑わなくてはならない。互いが互いを羊だと、一つの群れだと認識するために。

「次は俺が話させてもらう」

 麟二が立ち上がった。

「あと、これからは俺が仕切るぞ。一人に司会を任せると、誘導されるかもしれねぇからな。この魔女に」

 彼はにやりと笑って、渚さんを見遣る。

「そんな事しないよ。私は断然、民主主義派だからね」

「どうやら。なんせこの場には、意見も言えねぇ奴が三人もいる。半数しかまともに話せないってのに民主主義とは笑わせるな」

 意見を言えなくさせているのは、お前だろうが。私も律君もお前さえいなければ普通に話すさ。それにこれまで丁寧な説明もなしに来た。朱莉さんが情報量に混乱するのも当たり前だ。暴力と恐怖で支配して、意見を口に出す前に黙殺させている癖に。そう愚痴った。

「いいんじゃないかな。麟二君が言っている事も一理ある。ずっと同じ指導者だと、無意識的に思考をコントロールされる事もあるだろうからね」

「んじゃ、決まりで」

 眞人先輩の言葉で、渚さんは引き下がった。かくして政権は暴君の手に移る。

「まず、俺は二番目だ。来た時間は覚えてない。着いた時、渚はぼうっと立ってやがった。だからさっきコイツが説明した心臓マッサージやらは俺が指示して行わせた。俺自体は素人だが、親が医者だ。専門書の類いは腐る程見て来た。その知見から推察するに、和也の死因は恐らく刺殺だろう。刺された事によるショック死か、失血死、大穴で窒息だな。首の所に痕がねぇから縄や手で絞めた訳じゃないだろうが、さっき言ったように一度刺して抵抗できなくして、救命措置の時に窒息させたのは否定できない」

「バカじゃない。そんな事しないよ」

「ああ。俺もそう思う」

 呆れたような渚さんの突っ込みに、麟二も頷いた。それに彼女は怪訝な顔をする。

「じゃあ、なんでわざわざ言うんだい」

「あ? うるせぇ、ごたごた言うな」

 ぶっきらぼうにそう言って、彼は教卓を勢いよく叩いた。

「まぁいい。窒息の線は追わなくていいだろ。なぜなら二度手間だからだ。まぁ、殺せてなくて殺そうとした線もあるにはあるが、脈拍の確認も瞳孔の確認も全部俺がやった。渚にその技術はない。それに和也のような大柄な男を殺せる奴は限られてる。少なくとも見知らぬ人間には不可能だ。性別もアイツの前には関係ないだろう。和也は柔道の有段者。バスケではインハイの出場が決まってたフィジカルモンスターだ。並大抵の奴はナイフ一本刺す前に取り押さえられる。それこそ、相当気を許してる相手でもない限りな」

「なるほど、それで私と」

「ああ。後付けだがな。救命時間が過ぎて、途方に暮れた時ふと浮かんだ。渚なら何も警戒されず近づけるんじゃないかって」

 しんと教室が静まり返った。皆が彼女を見ていた。彼女はいつものにこやかな表情を崩さずに座っている。けどその目は焦点が合っていない。

「俺は二番目に来た。だからさっき初めて渚が来た時間を知った。でもそれが真実という保証はどこにある? コイツが嘘を吐いていても誰も分からないんじゃないのか? 登校中、見た事ある奴は手を挙げろ!」

 麟二が叫ぶ。彼の顔は狂暴その物で、獲物を狩るライオンのように歯を剥き出しにしている。渚さんは眼を閉じていた。罰を甘んじて受け入れてるような姿だった。

「いねぇなら、犯人は暫定でコイツだ! それでいいよな!」

 古典の話を思い出す。今朝の電車を降りた後、登校中の話を思い出す。渚さんが友人と一緒に歩いていた。友人が古典の課題をやり忘れて、見せて欲しいと頼んでいた。頼んだ相手は渚さんだ。これを言ったら、きっと麟二の推測の反証になるだろう。あの時間は七時二十分ごろ。渚さん以外にも麟二、律、朱莉、和也、全員同じ電車に乗っていた。渚さんはずっと前から学校にいた訳じゃないし、和也君が速めに呼び出されたなんて事はありえない。

 だから、それだけで渚さんが犯人だと決めつけるのは余りに早計だ。

 私はそう言いたかった。言わなければならなかった。皆で協力とか、犯人を捜さないととか、大層な題目を抜きにして、人として彼女を庇わないといけなかった。

だけど、さっき麟二に殴られたお腹が痛む。殴られた箇所から腹の中に細菌が侵食してきて、主張する。「もしここで言ったら、もっと痛い目に遭うぞ」と叫んでくる。

 私の口は水の中にいるように動かなかった。ぱくぱくと動くばかりで、声が発生される事はない。もしここで「渚さんは犯人じゃない」と言ったらどうだろうか。決まっている。殴られて、黙っていろと怒られて、また苦しい。

 それは殺されるよりも嫌だった。痛い思いをしたくない。怖い思いをしたくない。確定でない死よりも、確定である痛みを恐れた。それは人間失格の焼き印よりも痛く、熱かった。。

「誰もいないなら、渚が犯人でいいな」

 周囲を見回して、麟二が言う。その最終確認に、私は黙っていた。

自分が犯人かもしれないという考えも、渚さんへの恩も忘れて、沈黙を守った。

それは私がずっと皆からされていた事と同じだった。結局、私も同じ穴の狢だったという訳だ。そう野次った。何が変わる訳でもないのに、自分を責めると少し気分が安らぐ。ファッションと人付き合いは一緒なんだ。

 きっとみんなこうやって進んできた。

 皆醜い、私も醜い。醜さの画一化でやり過ごそうとする。赤信号、皆で渡れば怖くないの精神で、人は簡単に他人を見捨てる。理由があれば、誰でもする。それはしょうがない。人間はそういう風に出来ている。本能は自分が救われるために存在する。

 渚さんは相変わらず表情を変えずに座っていた。律君は慌てているようだった。急展開に付いていけないようだ。彼はそれでいいだろう。もし彼が知っていたら、きっと手を挙げて酷い目に遭っていただろうから。眞人先輩は至極つまらなそうにしていた。

 大勢は決している。魔女裁判は終決し、裁きの時が訪れる。魔女でない事の証明なんて不可能なのだ。魔術が使えたら処刑台、使えなかったら神秘の隠匿。冤罪という言葉はなく、処刑台へと導かれる。

「じゃあ、お前は一階の教室に行け。これで電波の回復、および教員などが来るのを待つ。校内の散策は既に済ましている。互いに干渉はなしだ。『協力』してくれるよな、渚」

 にっこり笑って麟二が言う。協力を盾に迫られたら、彼女は受け入れざるを得ない。渚さんは黙って頷いて、

「ちょっと待って」

 それを朱莉さんが遮った。

「あたし見たよ。渚さんが電車から降りて学校に行くところ」

 彼女はそう言った。私の心臓がどきりと跳ねた。

「みんな、七時十分発の電車に乗ってたんでしょ? 麟二君も、律君も、渚さんも、あたし歩いてるの見たもん」

「それは本当か?」

 底冷えのする声で麟二が言った。

「う、うん。本当だよ。あたし、確かに見たもん」

「お前、当然和也と一緒に来たんだよな」

「そうだよ。朝練あるからって言われたけど、ついてった。だって一人じゃ寂しいじゃん」

彼は瞼を閉じる。朱莉さんは華奢な肩を震わせて、それと対峙する。

「そうか。じゃあ仕方ないな」

 彼はふいと渚さんから視線を外した。

安堵が胸中を撫で、私の心臓が落ち着きを取り戻す。

私は渚さんが助かった事でも、麟二が朱莉さんに怒らなかった事でもなく、沈黙の責任を取らずに済んだことに安堵していたこれで渚さんが断罪されたら、彼女の無実を知っていて黙っていた私に責任がある。その罪の意識を感じずに済んでよかった。。よかった。本当によかった。もう私は誰にも殴られたくない。責められたくない。軽蔑されたくない。人間失格だと、思われたくない。

そう考えて、それを鼻で笑った。自分の下劣さと最低さが、もはや面白いくらいだった。他人にバレなかったとしても、自分の低俗さを自分だけは知っている。私はきっと殺されるに値する罪人に違いない。

 そんな風に卑下して、また安寧に還って行く。

 しかし、その安寧も束の間の事だった。

「じゃあ、その時存在を確認出来ていなかったのは、美玖と眞人先輩だな」

 ちらりと麟二が私を見た。奈落へと私は叩き落とされる。反証による暴力から逃れたと思えば、次に待っていたのは理論による暴力だった。

「うん。そうなるね」

「なら、その二人を閉じ込めればいい。これで問題は解決だ」

 麟二は笑った。私を笑った。新しい玩具を見つけたと、その黒い瞳は語っていた。それは私を殴る時のそれによく似ていた。私は黙りこくっていた。

「いや、ちょっと待ってくれ。ここにいない、咲君については考えなくていいのかい? 彼女も名前を呼ばれていただろう」

 それに慌てたのは、眞人先輩だ。観客席に居たはずなのに、突然舞台上に上げられた彼が声を上げる。しかし麟二は一蹴した。

「あいつはもう死んだ。俺は亡霊なんて、気にかけられん。今は何よりも犯人の可能性が一ミリでもある奴を、排除する方が――」

「麟二」

 彼の熱弁を渚さんが止めた。どれだけ自分が非難されようが何も言わなかった彼女が、初めてその言葉を遮った。

「不謹慎だよ」

「……悪かったよ。だが、とにかく咲は考える必要がない。それはお前も分かるだろ、渚」

「うん。絶対に咲ちゃんは犯人じゃないよ。不可能だもん、悲しいことにね」

「だから必然的に先輩と美玖を閉じ込めれば、それでゲームセットっつう訳だ。ご協力願えるかな、お二方」

「二人じゃないよ。一人だけだね」

 渚さんが麟二の言葉を訂正した。

「は?」

 思わず彼が顔を顰める。

「私は美玖さんが一人で電車に乗っているのを見たからね」

 彼女がちらりと私を見遣った。全部バレていた。恥ずかしくて顔が熱い。

「だから美玖ちゃんも私と同じ条件だよ。彼女に和也くんが殺せると主張するなら、私達全員が犯人候補になる。そうでしょ? 私の場合は一番乗りで教室を訪れ、和也くんを誘き寄せて殺した。他の人の場合、私が教室を訪れる前に殺害を終え、一度その場を離れ、再び教室を訪れた。これだけの話。麟二君の理論では、美玖さんは犯人候補にならないよ」

 彼女はそう締めくくった。それは全くの正論だった。麟二が悔しそうに歯噛みする。

「確かにその通りだ。だがなお前、なぜさっき言わなかった。美玖が『一緒の電車に乗っていた』と言えば、お前の潔白は証明出来たはずだろ」

 私の声を彼が代弁した。それが私は今、何よりも気になっていた。犯人が誰かという目下の課題よりも、私の罪を白日の下に晒さなかった理由が気になった。

「そんなの、言ってどうなるのさ」

 渚さんはため息一つ、非常に論理的に問いに答えた。

「だって私が『見た、一緒にいたよね』と言って、どうなるの。私は疑われてる張本人だよ。それに私は美玖ちゃんを見たけど、美玖ちゃんが気づいてないかもしれないし」

 彼女は当然のようにそう語った。麟二の額に青筋が走る。

「なにはともあれ、これで美玖ちゃんの潔白は証明された訳だ。証拠がないのは眞人先輩だけだね」

 両手を叩いて、渚さんは話をそう締めくくる。

 彼女の思考は完全に麟二の上をいっていた。円滑に話を進めるため、麟二を司会にする事で彼のガス抜きを図る。その上で、彼の話を土台にして、自身が犯人候補に挙げられながらも、真に怪しい人物を炙り出した。その手腕は実に鮮やかな物だった。

 西郷麟二は、上桐渚に完全敗北を喫したのだ。

「クソが!」

 麟二が教室の隅に置かれていたゴミ箱を蹴る。中に入っていた小テストの用紙や、パンの袋が飛び散った。生臭い臭いが室内に漂う。蹴られたゴミ箱は音を立てて数度跳ね、止まった。麟二はその場に立ち尽くしていた。渚さんはそれを一瞥した後、私達をぐるりと見回した。そして先輩の所で、その動きが止まる。

「だから、閉じ込めるべきは眞人先輩です。協力してくれますか?」

 彼女が問いかける。それに先輩は両手を上に挙げて答えた。

「仕方ないね。人気者は疑われる定めだ。いや、黒い羊は白い羊から排除される運命、と言った方が正しいかな」

「遠まわしな人ですね。ですが、ならって寓話風に言いますと、疑わしきは罰せず。されど疑わしきの自由は制限されるのが世界の摂理、って所でしょうか」

「それはもう、罰していると同じだと僕は思うのだけど」

「制限自体が罰ってのは言い得て妙だけどね。けど実際に牢獄に閉じ込められたりする訳じゃないから、大分マシじゃない。それに一人じゃないしね」

「へぇ、それは一体どういう事だい?」

 渚さんの言葉を、先輩は不敵な笑みと共に促した。

「これからみんなで二人一組に分かれて、校内を散策しよう」

「え? でも、さっき調べたよね」

 人差し指を立て高らかに宣言した彼女に、律君が問いかける。

 渚さんはそれを当然の疑問として受け入れた。

「うん、したね。でも、一度の散策で諦めるのはどうかな? 男子三日合わざれば刮目して見よ、は大分違うか。けど、一回目と何か変わっている部分があるかもしれないでしょ。もしかしたら外に出られるようになってたりして。出られない理由が謎なんだから、出られるようになる条件も同様に謎だよね。全員殺されるまで外に出られないという可能性も無きにしも非ずだけど、そんなの私達には分からない。それにまだ外に出るために試してない事あるし」

 彼女は黒板の上の時計を見た。釣られて私も視線を向ける。時刻は午前十時二十七分だった。もうこんな時間なんだと感慨深い。和也君が死んでいると知ってから、二時間以上経っている。時が経つのが異常に速かった。そこで私はある事に気づく。とっくに一限が始まって、終わって、二限も始まっているはずなのに、チャイムが今朝の一度しか鳴っていない。

 それは偶然なのだろうか、必然なのだろうか。考えすぎなんだろうけど、全てに意味がある気がして気持ち悪い。

 そんな吐き気も、眩暈も、全部呑み込んで、流れるように話は続く。

「これまで誰も教室を訪れる気配がない。廊下を歩いている音も、喋り声もしない。明らかに変だよね。例え今日が休日なのだとしても、当直の先生はいるでしょ。さっきも学校を回ったけど、誰もいなかった。そして、そんな状況で人が死んでる。つまり、これは犯人が意図的に作り出した物だと思う」

 律くんが頷く。先輩はアルカイックスマイルを崩さず、黙って聞いていた。朱莉さんだけが唯一、ジト目で渚さんを見ている。それを感じて、彼女は苦笑した。

「まぁ分かるよ。どうやって作るんだって言いたい気持ちも。正直言って、これが一番謎だからね。殺すだけなら誰にも出来る。けど私達を学校に閉じ込めて、更にそこから出さないように扉を全部接着剤かなんかで止めて、更に更に誰も校舎に入らないようにする。更に更に更に、電波も届かないように遮断する。

いや、どんだけめんどくさいことしてんだって話だよ。たかが七人殺すだけだよ。こんな事出来る奴なら校舎に爆弾仕掛けてドカーーンで一発だって。超常現象じゃない限り、なんか方法があるだろうけど、私には思いつかないね」

 お手上げと言わんばかりに、彼女は両手を挙げた。言う通り、確かに殺すだけなら随分回りくどい殺し方だ。なんせ物々しい犯行予告までしているんだから。

「という訳で、これらは謎として処理します。証拠不十分、釈放です。これは超常現象。解決不可能。むりむり」

 ふざけたように首を横に振り振り、ポニーテールが頬を打っている。

「なのでこちらもその超常現象には外法で立ち向かうとします。ほら、外法には外法と言うし。魔術とか妖術じゃなくて、おもくそ暴力だけど」

悪だくみでもするように彼女は笑った。

「こうなったら窓ガラスを割ったり、扉を壊そう。校舎全体でそれを試すために、私は二人一組での別行動を提案するよ」

 一瞬、空気が硬直する。皆がその提案について、考えを巡らせていた。

「は? そんな事したらペアの奴に殺されちゃうかもしれないじゃん。犯人が男だったら、私抵抗する自信ないんだけど。渚もちっちゃいんだから、襲われたらひとたまりもないでしょ」

 朱莉さんがそう捲し立てる。けどそれは大きな間違いである。この場合、二人きりの状況はともすれば、大人数で一部屋に閉じこもるのと同じくらい安全なのだ。

「確かに襲われたら、朱莉さんの言う通りだね。けどこれは襲われないための方策だからさ」

「それってどーゆーこと?」

 小さな眉間に、浅い皴が刻まれる。形のいい眉が寄せられていた。

「二人一組で、片方の人が殺された。そしたら、朱莉ちゃんはどう思う?」

 渚さんが落ち着いた口調で尋ねる。それは生徒に対する先生の口調と同じだ。朱莉さんもそれを察したのか、少し考えた後「殺されてない人が怪しいかな」と答えた。

「正解、花丸あげちゃうよ」

 にっこり笑って、彼女は朱莉さんの頭を撫でた。少し不満気に彼女が唇を尖らせる。焦って渚さんは片手で謝罪した。

「そういう訳で犯人は動けない。私達の邪魔も出来ず、ただ脱出をしていくのを指を咥えて見つめるだけと。そういう寸法だね。じゃ、ペアを組んでくよ」

「待て」

 意気揚々とスマホを取り出した渚さんを、麟二が止めた。

「どうやって決めるつもりだ」

「スマホアプリのくじ引きで決めるよ。共謀の可能性を考慮してね。それでも犯人同士がペアになる可能性を考慮するのかい? 確率は二人だったとしたら九十分の一だけど」

「三人以上いたらどうするんだ」

「六人のうち三人が犯人だって言うの? それならこの場でもう殺されてるよ。ていうか、終わりだね。控え目に言って」

「……そうか。ならいい」

 そう言い残し、彼は再びゴミを見つめる生活へと帰って行った。

「じゃあ、くじ引いてこー。ワクワクドキドキのくじだ。運命のお相手選びよりも緊張するね」

 誰から引くと渚さんがスマホを突き出す。

「あんた、よくそんな冗談言えるね」

「あはは」

 朱莉さんの突っ込みに、律君が乾いた笑い声を上げた。

 私はそんな彼等を見て思う。

 犯罪が行えないという事実と、犯罪を起こした人間が側にいるという恐怖は別物だ。眞人先輩が犯人じゃないという確証はどこにもない。現在、彼が犯行を行えた可能性が一番高いのだ。そんな彼がいるのに、このペア組が上手くいくのだろうかと。

 

 

 

 ぬるりとしたスライムのような、緑の光沢を持つ廊下を、私は律君と二人で歩いていた。見える景色はとても陳腐だ。それもそのはず、状況が変われど校舎は変わらない。それを景色と呼ぶ事すらおこがましいほど、窓から見える光景は変わり映えしない。ただ、誰もいない廊下は授業中に外に出ているみたいで居心地が悪い。

 スリッパが床を打つ音だけが響く。二つの足音が不規則に鳴った。それ以外は何もない。空気を震わせる何かも、流れを変える移動物も、何も存在しない。

 沈黙が続く。すぐ隣にいるし、ほんの数年前までは互いの家を行き来するくらい仲が良かったのに、今は話しかける事さえ出来ない。手を伸ばせば触れられるのに、触れたいけど触れられない。

 横目で彼の横顔を窺う。視線が交錯した。ほんの一秒の邂逅、すぐに別れの時が来た。私達はそんなのを繰り返して、私達は廊下を進んだ。

 

 ほんの数分前の事だ。

「じゃあペアは、私と眞人先輩、麟二と朱莉ちゃん、律君と美玖ちゃんだね。じゃあ、それぞれ三階、二階、一階を調べてよ。もし何かあったら、火災報知器でも押してくれれば、そこに集合するからさ」

 私の心配――眞人先輩とは誰が組むのかというものだ――は完全に杞憂に終わった。これも渚さんが仕組んでいたのだろう。くじ引きに見せかけて、厄介事は自分で引き受ける。その自己犠牲には本当に頭が上がらない。麟二が「仕組んだだろ」とごねたが、彼女は証拠がないと言ってやり過ごした。

 やり直しを要求されたり、麟二のスマホでの再くじ引きが求められたら、逃げるのは難しかっただろう。あいつは幸い怒ると頭が回らない。

 私はくじを引きながらため息を吐いていた。昔はあんなに仲が良かったのに、ピースが一つ外れただけで互いを疑い合っている。みんな咲を通した友達だったから、彼女が死んだ今、もう二度とあの時間は戻ってこない。そんな事を考えながら引いたくじは、最も思い出深い律とのペアを指し示した。

 そんなこんなで、私と彼は二人で一階を回っている。

 

 目の前に広がる景色は、本当に変わり映えしない。ツバメや蝶が窓から入ってきたりしたら、それをネタにして話でも広がったかもしれない。けれど窓は閉め切られている。開ける事すらも出来ない。気まずかった。

 そうこうしているうちに昇降口に辿り着いた。

「誰か、来てるかな」

「どうだろ。確かめてみる?」

 私がそう言うと、彼は答えが返って来ると思っていなかったようで、驚いていた。

「それは……それが仕事だし」

「そうだね」

私はそれに頷いた。久々の彼との会話はぎこちない始まり方だった。別に喧嘩別れしたとか、不仲になったとか、彼が私を無視したとか、はたまたその逆とか、そんな特別な事情は一切ないのだけど、自然と疎遠になっていった。男女の幼馴染なんて、大概そんなもんかもしれない。

私達は手分けして靴箱の確認を始めた。一年生を私が、三年生を律君が、二年生は私と彼で協力してやる事になった。

彼と別れて、一年生の靴箱を俯瞰して眺める。そこには綺麗に赤いスリッパだけが並んでいた。ローファーも白い運動靴も面白いぐらいに並んでいない。私はため息を吐く。分かっていた事でも、そうせずにはいられなかった。

 六つある靴箱を全て確認した後、私は二年生の場所を確認に行く。そこには既に律君がいた。

「なかったよ」

 彼は私を見て、一言そう言った。

「そっか、こっちも」

「ここも、ないね」 

彼の言葉通り、さっきと変わったのはスリッパの色だけで、二年生の場所にも他の靴はほとんどなかった。例外は二年六組の数足だけ。それは私達の物だ。それ以外は一足も他の人の物はなかった。

律君が靴に履き替え、玄関に出た。私もローファーを靴箱から取り出し、地面に置いた。先に靴を履いた彼は、取っ手を持ち昇降口の扉を勢いよく揺らし始めた。しかし鍵の音が耳障りに鳴るだけで、少しも動く気配がない。

「開きそう?」

 答えが分かっていて尋ねた。

「いや、無理そう。試してみてよ」

 彼が扉の前をどく。

私がやっても、意味ないと思うけど。

 その言葉を押し殺して、私も扉を引いた。案の定、さっきと同じ鍵の音が鳴るだけで、ちっとも動きはしなかった。

「でしょ」

 律君は何故か得意気だった。

「これを開けるには、このガラスを割るしかなさそう」

 ガラス部分を拳で軽く叩く。ガラスといっても薄い物ではない。相当丈夫な物で殴らないと割れそうにない。

「なんか、心当たりない?」

「そうだね。硬い物かぁ」

「硬いだけじゃダメだと思う。上手く一点に衝撃が加わるような物じゃないと、割るのは難しそう」

「随分と難しい事を言うね、美玖は」

 彼が顔をくしゃりとさせて笑った。それを見たのは久々だったし、美玖と呼ばれるのも久々だった。

「けど、そういうの得意でしょ。律は」

 お返しとばかりに、彼を律とそう呼んだ。

「まぁね」

 律は恥ずかしそうに鼻の下を擦って、そっぽを向く。その後、私達は顔を見合わせて笑った。こんな青春まっしぐらみたいなのをやってるのが、少しおかしかった。

「なんか変な感じだ」

「本当にね」

 私もそうそう思っていた。まるで子供の頃に返った気分だった。高校生の私が、まだ子供の私が、子供の頃に返った気分なんて、大人が聞いたら笑うんだろうけど、それでもあの頃を私は思い出した。何も考えなくても次の日が来て、毎日遊んでいればよかった時を。

 楽しくなってきて、私は律君に問いかける。

「で、ガラス割れそうな物、なにか思いつく?」

「突然すぎるよ。そんなにすぐには」

「ほら、早く思いついてよ。時間ないんだよ。ほらほら」

 これ見よがしに玄関口に取り付けられた時計を指さす。本当は、まだ時間はたっぷり残っていた。

「ええと、ええと」

 しかし、律は勢いに騙されて必死にその頭を回転させている。それがおかしくて、私は声を上げて笑った。

「ねぇ、一体何がおかしいのさ! 美玖も少しくらい一緒に考えてよ!」

「ごめんごめん」

 そう言いながらも、私は笑っている。彼が眉を顰めて、睨んできた。それすらもおかしかった。大型犬が散歩に連れて行ってくれなくて拗ねている時のそれに、今の律はよく似ていた。

「もういいよ。僕が一人で考えるから」

「いや、ほんとごめん」

 最後にこうして笑ったのはいつ振りだろうか。少なくとも、ここ数日は笑っていない。笑えるような精神状態じゃなかったし、笑ったら彼女に悪いと思って笑えなかった。

 学校で笑ったのはいつ振りだろうか。ずっと笑っていなかった。ここには私に笑顔をくれる彼女はいなかったし、逆にそれを覆うような暴力があった。いつも怯えていて、体に力が入りっぱなし。結構長い間、筋肉痛だった。何気に、それが一番辛かったかもしれない。お腹も痛かったし、頭も痛かった。痛いばっかで、いい事なんて一つもない。

 今日初めて私は学校で笑ったのかもしれない。

「そうだ! 黒板消しクリーナーとかどうかな? あれならぶつけるだけだし、かなり重いから力のない僕達でもなんとかなるかも」

「そうだね。確かめてみようか」

 それはさながら先ほどの渚さんのように。教師然として私はそう言って、歩き始めた。その後ろを彼が付いてくる。奇しくも幼い頃と同じ構図だった。

時計は午前十一時を指している。ほんの四時間前に感じていた無敵感。あれを無鉄砲によるものとするなら、これは楽観思考によるもので。私は久々の律との会話を楽しんでいた。今の状況も、自分への疑念も全部忘れて、瞬間を謳歌していた。これが童心に帰るというのだろうか。

 とにかく、とても楽しい。

 草原を奔るように、緑の芝生代わりのリノリウムを軽快に走った。

 

 黒板消しクリーナーは案外重かった。一番近くの教室から運び込んだから大した手間ではなかったけど、足の上に落としたらさぞ痛いだろうと思うくらいには重かった。一人で投げるには勢いが足りないから、それを私と律は二人で思いきりガラスにぶつけた。

「これを麟二だと思おう」

「それ、いいね」

 そんなくだらない事を言って笑いながら、半ば本気にして、「せーの」の掛け声と共に日頃の恨みを込めて、思いきりぶつけてやった。ガラスはびくともしなかった。割れるような面影すらもなかった。当てた場所を確認しても傷一つなく、もう一度試しても変わらず鈍い音を立てるだけ。

「はぁ?」

「これは予想外だね」

 不満の声を上げた私とは対照的に、律は冷静にガラスを叩く。そしておもむろにしゃがみこみ、扉の隙間から外を眺め始めた。

「う~ん、ほんとどうやって鍵を閉めてるんだろ。ガラス全然割れないし、強化ガラスにでもしてるのかな」

「そもそも学校のガラスって基本強く作られてるからね」

「そうなの?」

「場所によるけど、昇降口なら相当強く作られてるんじゃないかな。明らかにここだけ分厚いし。一応うちは私立だし、強化ガラスでも不思議じゃないよ。知らんけど」

「うへ。普段ならありがたいけど、今は迷惑でしかないな」

 律が舌を少しだし、露骨に嫌な顔をした。それに私も深く同意する。

「夜の校舎、窓ガラス壊して回ったのも今は昔。現在は対策済み。割ろうとして監視カメラで逮捕が関の山と。世知辛い時代だねぇ」

「古すぎるよ。美玖は一体いつの時代を生きてるのさ」

「古いって言うけど、律が好きだったミステリ作家が、軒並み一九〇〇年代前半な事について意見求む」

「はいはい、分かったよ。僕がわるうござんした」

 勝った。勝利の美酒としゃれこみたい所だが、このまましゃれこうべになる訳にはいかない。

「ここは一階だから、教室の窓でも割れれば出れる。他の所も試してみよう」

 その提案に、律も頷いた。

「教室にテニスラケットとか、バットとかあったから、それも試すか」

「え、そんなのあった」

「あったよ。多分、部活で使うんじゃないかな」

 彼は何気なくそう言った。私にはそれが引っかかった。部活用具を校内に置きっぱなしなんてあるんだろうか。ふつう持ち帰らないか。それか部室に置いていくとか。それに、部活といえば。

 私は律に尋ねる事がある。

「ところで」

 私は自分に一歩踏み込んだ。

「私って、本当に弓道部に入ってたの?」

 彼はきょとんとした顔をしている。それは今更何を言っているのか、という顔だった。

「自分で入ってたって言ってたじゃん」

「確かにそう言ったけど!」

 そう、確かにそう言った。答えた時は弓道部だと思っていた。

「本当に私は弓道部なの?」

 私にとっては意を決した問いだった。なんせ、私には記憶がない。今朝の一時間ほどの記憶と、弓道部で活動していたという記憶が。これは私が本当に私であるか?、という問いだった。

 しかし律は事もなさげにこう答えた。

「うん。ずっと前から、中学の時から弓道やってたよ」

 全身に痺れるような衝撃が走った。何故か、私が殺してしまったんだという感覚に襲われた。まだ謎は大量にあるのに、どうしてかそう思ってしまった。気のせいで埋められないほど、私には弓道に関する記憶がない。材料はまだ足りないのに、そう思い込まずにはいられなかった。脳は違うと「否定」しているのに、心はそうだと「同意」していた。

「どうしたの突然。美玖、あんなに頑張ってたじゃん」

「がんばってた?」

 うわごとのように彼の言葉を繰り返す。

「そうだよ。咲が『私、弓道やってみたかったんだ』って言ったのを聞いて、弓道を初めたでしょ」

 そんなの知らない。

「それで、咲の分まで頑張るんだって言って頑張って、でも市内大会すら勝てなくて、県大会に行けないって泣いてた。あれは面白かったな」

 覚えてない。私がそんなに何かに打ち込んでたなんて。

「で、わんわん泣く美玖を宥めるのがまた大変でさ。結局、咲が『あんな事言わなければ』って言って、それを美玖が否定して終わったんだっけ。最後は覚えてないな。けど今もやってるって事は、気が持ち直したのかもしれないね」

 全然、記憶になかった。咲が弓道をやりたがったなんて話も、市内大会で負けた記憶も。何にもなかった。消しゴムで消したようにとか、そんな次元の話じゃない。そもそも何も書かれていないように、まるっきりその記憶がない。

「そっか。そうだよね。ごめん、変な事聞いて」

「別に」

 私は黙って歩き出す。幼い頃と同じ構図だった。さっきと同じ構図だった。けど意味が違う。私は怖かった。自分の中にいる何かが怖かった。彼の背を見て歩いたら、その無防備な背を見たら、何かが疼くのではないか。殺したいという欲望が渦巻くのではないか。そう思うと一人になりたくて仕方なかった。

 本当に私が殺したんだろうか。理由も思い浮かばないけど、殺してしまったんだろうか。悲観ではなくて、本当に下郎に落ちてしまったんだろうか。

「なんとかして、出ないとね」

 私は後ろを歩いているであろう律に向かって、そう言った。

「そうだね。好きな作家の新作が明日出るし」

 胸中も知らず、彼は呑気に笑う。けどこれでいい。これがいい。このまま外に出よう。外に出て、病院に行こう。心の病院に。いじめのせいで精神が壊れたのかも。お母さんは「世間体が悪い」って反対するかもしれないけど、ナイショで行こう。保険証はクローゼットの中にあるはずだ。

 それで警察に来てもらって、捜査されて、もし私が犯人だったら、潔く捕まろう。きっとそれが最大限出来る償いだから。開き直りかもしれないけど。

 とにかく、まずはここから出なくては。自殺でも解決出来るけど、首吊り用の紐はないし、痛いのは嫌だ。ていうか、ここで出来るくらい勇気があるなら、私はもう生きていない。

 私が一組の扉を開けた。ロッカーを見る。そこには一本のバットケースがあり、ジッパーを開けると銀光りするバットが顔を出した。表面は少しへこみ、傷だらけで随分と使い古されている。一心不乱に振り続けられてきたであろうそれを、私は何の感慨もなく取り出した。

「あっ」

 窓際に近づき、バットを強く握り込む。正しい持ち方なんて知らないから適当に強く握った。脇を閉め、頭の横に拳を持ってきて、そして勢いよく振りかぶる。

「ちょっとまっ――」

 轟音がとどろき、衝撃が響く。左手が痛み、右手が痺れた。それだけの代償を払ってなお窓には傷一つ付いていなかった。

「ダメみたいだね」

「はぁ、突然だからびっくりしたよ」

「ごめん」

 心にもない謝罪をして、バットを机の上に置く。

「別にいいけどさ。僕も試してみていい?」

 そう言いながら、彼はバットを持ちあげた。私が場所を譲ると、律はガラスの前に立った。

「ちょっと離れて」

 少々素振りして感覚を掴んだのか、彼はガラスを見据えて構えた。本気の打撃の気配を感じ、数メートル離れた。私では割れなくても、彼なら割れるかもしれない。まぁ、まず割れないだろうけど。心の中ではそう思いながらも期待した。

 風切り音と共に銀光が薙ぐ。本体を捉える事は私の目には出来なかった。それは相当な勢いをもって振るわれた。

「いったぁ!」

 しかしガラスはびくともせず、その衝撃で律を傷つけた。

「ダメでしょ?」

「そうだね」

 痛みに両手を振りながら、律は首を横に振った。

「他の所もやる?」

「これ全部本気で殴ってたら、体が持たないよ」

 彼の言う通りだった。本気で殴るのは、あと数度が限度だろう。それ以上は握力もなくなって、出来上がるのはでくの坊がいいとこだ。

「本当なら金属バットで殴ればすぐ割れると思うんだけどね」

「廊下側ならどう?」

 彼の提案に私は目を丸くした。そちら側を破る意味はないけど、確かめてみる価値はある。

「貸して」

私は律からバットを受け取り、おもむろに廊下側の窓に近づく。そして軽く窓を殴った。

 甲高い音を立ててガラスが散らばる。幸い、こちら側にガラスはあまり飛ばなかった。失敗したら怪我は免れなかっただろう。

「ちょっと、危ないよ」

 私の元に駆け寄って来る律を片手で制した。派手に散らばったガラスの上を歩くのは危険だ。そんな心配をおくびに出さず、私は彼をからかった。

「さっきまでこれより派手な事しようとしてたんだけど」

「それはそれ、これはこれだよ」

 律が困った顔をする。気を良くして私は続ける。

「政治家の逃げ冗句かな。いや、親の逃げ文句の方が近そう。よそはよそ、うちはうちって。その癖、あの子は出来る子なんだから、あんたもちゃんとしなさいってさ。矛盾する生き物だね、人間は」

「どうしたの? 随分不機嫌だね。確かに美玖のお母さんはそういう所がないとは言わないけど、優しくていい人だと思うよ」

 ただの気分転換のからかいのつもりだったのに、すらすらと文句が出た。別にこんな事が言いたい訳じゃなかった。愚痴るつもりもなくて、ただ、そう、単純なお喋りをしようと思っている。それだけのつもりだった。

「ま、あの母親、外面だけはいいからさ。あと不機嫌って言うけど、そりゃ不機嫌にもなるよ。むしろ今ご機嫌なのはヤバい奴でしょ。人が死んでるんだよ。そしてその空間に私達は閉じ込められてる。律だって殺害予告されてるんだよ。あのアナウンスは裁きがどうのとかいってカッコつけてぼかしてたけどさ。結局やってるのは人殺しだよ」

 口から飛び出すのは文句ばかりだった。止めよう止めようと思うほど、文句が止まらない。私はパンドラの箱だったか。律が私にとってのパンドラだ、なんてロマンティシズムな物言いを断じて認めはしないけど。

「そうだね。確かに言えてるよ。発狂しないのが不思議なくらいだ。朱莉さんが普通なのかもね。僕も普通の人間だと思ってたけど、異常かもしれない」

 律が苦笑しながらそう言った。

「渚さんとか麟二とか、敵わないなぁって思うよ。僕はああはなれない。ああいう、特別な人にはさ」

 彼の言葉には諦観と羨望が混じっていた。

「ならなくていいよ」

 私はバットをケースに戻すべく、踵を返す。足取りをはっきりと歩いた。

「人には役割があるって言うし、向き不向きがあるからさ。無理に出来ない事やろうとしたり、なれないものになろうとしなくていいんじゃない。私は、私はそう思うけどね」

 バットをケースに入れて、ジッパーを引いて、じーという音が鳴って、

「美玖はああなりたかったんだね」

 私のリボンをジッパーが噛んだ。横目で律の顔を見た。彼は目を細め、遠い目をしながら私を見ていた。私の心にとげが刺さり、それはもう二度と抜けないような気がした。

 

 それから私達はまた無言に戻った。時は戻る。簡単に戻る。壊した物だって技術があれば元通りだし、数千年前の遺跡だって修復作業で本来の姿を取り戻す。

本来の姿。数千年前欠けていた場所を、現代では埋められて、それも含めて本来の姿というんだろうか。それとも数千年前欠けている通りに復元するのが本来の姿というのか。どっちが本来の姿というのか。

現代の力で完成系に持って行ったとも言えるし、逆に復元失敗と言えるような気もする。

 まぁ所詮、戯言だ。

 意味ない問答、哲学は腹の足しにならず。学問とは古来より金にならぬ物で。元より探求者以外必要なき思考よ。庶民は畑でも耕し、鍬をくわくわ、腰を曲げ曲げ、そんな感じで日々を進み続ければいい。

 と、ここまでが戯言だ。あんまり戯言戯言言い過ぎるとよくない。何がよくないって、精神によくない。世の中の物全部つまらなくなったら、いよいよ終わりだ。行きつく先は観葉植物か、布団の住人。くだらんくだらんと言い続けると、あれあれ一番自分がくだらんと、そこに行く。だから私は戯言が嫌いだ。

 などという、何の腹の足しにもならない事を考えながら、私は廊下を歩いていた。いや、正確には私達と言うべきだろう。律と二人で色々な場所に、色々な物をぶつけた。淡々と作業のように行ったそれに、ぶつけられた物たちとはこれまた淡々とノーを突き付けてきた。かくして、私達二人は成す術を無くし、ぼんやりと校内を徘徊する亡霊となっている。

「休憩しよっか」

「どこで」

「その辺の教室」

 振り返ると律が真横にある教室を指さしていた。

「でも、早く出なきゃ」

「やる事ないじゃん。僕達はもう十分頑張ったよ。それに集合時間まであと三十分だし。他のグループが脱出法見つけてるかもしれない。それを待とう」

「そんなんで」

「休んだ方がいいよ。休んで、ちょっとお弁当でも食べよう。それくらいはいいでしょ。僕もお腹減ったし、この後も食べる時間ないよ。きっと」

 彼が言い終わるタイミングで、間が悪い事に私のお腹が鳴った。

「ほら」

 得意げな律。頬が思わず熱くなる。それを誤魔化すように時計を見た。針は丁度真上を刺していた。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 彼が笑って頷いた。その優しさが痛かった。さっきまでの、核心を突かれて不機嫌になっていたのが馬鹿みたいだった。けど仕方ないと思い直す。だってそういう生き物だからと。私は弱くていじめられっ子で、顔も美人じゃない、それを指摘されたら不機嫌になって当然じゃないかと正当化した。

 私はお弁当を取りに行くために、階段を上り始めた。お弁当はリュックの中に入っている。三階までの道のりを思うと憂鬱だった。

「にしても、お腹すいたね。あれからまだ四時間しか経ってないんだよ。信じられないよね」

「人は未経験の事象に遭遇すると、体感時間が短くなるらしいし、当たり前じゃない」

「激動だったからなぁ」

「なんで過去形。こっからでしょ」

「それもそうだ」

 快活に律が笑う。きっとそれも意識的なんだろう。彼は昔からそうだった。不機嫌を察知して笑い、不機嫌を察知して話を振る、そしてどうにもならなくなったら逃げだした。俗にいう世渡りが上手かった。けどそれだけに優しかった。

 私と違って。

 

 お弁当を取りに行ったら、偶然渚さんに会った。昼ご飯を食べると伝えると、彼女はお腹を抱えて笑った。彼女曰く、私はマイペースらしい。褒められていない事だけは分かった。

 そんな邂逅は置いておいて、再び一階に戻って来た私たちは、階段から一番近い教室で弁当を広げていた。

「一緒にご飯食べるの久しぶりだね」

 正面に座った律が弁当箱を開ける。

「確かに」

 本当に久しぶりだった。律と二人でご飯を食べるのも、こうやって机をくっ付けてご飯を食べるのも中学以来だ。正面に誰か座っているというのも、少し新鮮だった。

「いただきます」

 手を合わせて、箸を持つ。ピンク色の花弁が散った、高校生が持つには可愛すぎる弁当箱を開ける。そこにはいつもの面子が、何の変わり映えもなく並んでいた。私はこれまたいつも通り、迷いなく箸を動かし決まった順番に食べていく。

「どうして、和也君は殺されたんだろうね」

 じろりと律を見た。箸を運ぶ手が止まる。腹部から滾々と血を流した大男の映像がフラッシュバックした。

「おかずにするには随分と不味い話だね」

「ごめん。確かにその通りだ」

「けど、それは私も疑問なんだ。本当に、私達はただの高校生だと思うんだけど」

 どうなのと律に水を向けると、彼もまた同意した。

「他の人はどうか分からないけど、正直僕は殺される理由なんて見当らないよ。だって僕だよ。教室で隅っこの方で本を読んでるだけ。部活だってやってないし、最後にやった悪さだって、精々故意でない万引きがいいとこだ」

「え、万引きしたの」

「わざとじゃないよ。不幸な偶然さ。現にレジは通った」

「へぇ~、どうだか」

 私が口角を上げると、対照的に彼はへの字になった。

「ところで、律の犯した罪ってなに?」

「は、何それ、突然藪から棒に」

「表現が古いなぁ。ま、それはともかく、あのアナウンスだよ。あれに律はなんて言われたの?」

「ああ、あれか」

 彼は箸を動かす手を止め、少し考え込んだ。

「確か、怠惰だった。長年の友人を放置し、死に至らしめた罪、だったか」

「……それって」

 おそるおそる尋ねる。唇の中が乾ききっていた。ペットボトルのお茶を一気飲みする。少し落ち着いた。

「考えてる事は分かる、咲だろ。けど、そんな事を言われても心当たりなんかないよ。放置したといっても、月に一度は必ずお見舞いに行ってた。それは美玖も知ってるだろ。放置が心の問題を指すなら、正直それは僕には無理だったと言うしかない。責任逃れっていう想いがゼロとは言わないけど、咲の心の闇なんて僕達には分かる訳ないんだ。どんだけ長く付き合ってても、喋ってても、僕達と咲じゃ事情が違い過ぎる。完全に理解し合うなんて無理だよ」

 彼は卵焼きをぽいと口に放り込んだ。私はきょとんとして、律を見ていた。

「それに僕は咲を殺してなんかない。咲を殺したのは、病気だ。僕のせいでも、美玖のせいでもない。誰のせいでもないんだ。だから死に至らしめたなんてのは言い掛かりに過ぎない」

 それはわかるよねと、彼は諭すようにそう言った。

「仕方ない事だよ。お医者さんだってベストを尽くしてくれた筈だ。もう十分、咲は苦しんだし、生きた」

「十分って」

 鼻から息が漏れた。それを律に決めて欲しくなかった。親友の人生、彼女の人生を、ベッドの上で何年も、自由だったのは中学の二年間だけだった、咲の人生を十分だなんて。

「そう思うしかないよ。残された僕達には」

 優しいと思った、それを改めた。彼は非情だ。三枝律は非情で冷たい。

「悲しくないの? 律は」

 思わず、それがぽつりと零れた。それを聞いた彼は、今日初めて本当に不機嫌な顔をした。

「悲しいに決まってるだろ。何言ってんだ。僕だって咲とは産まれた時から、それこそ一番古い記憶にも一緒にいる。けどそれじゃダメだろ。悲しんでるだけじゃダメだろ」

「嘘だ、悲しくないからそんな風に割り切れるんだ」

 箸を机に叩きつける。振動で弁当が跳ねた。私の拳が震えている。どうしようもない怒りと、やるせなさで震えている。

「しっかりしなよ、美玖。ちょっと落ち着いて」

 彼がペットボトルを渡して来た。お茶を飲んだばかりだったけど、また飲んだ。紅茶だった。甘かった。

「さっきも言ったでしょ。僕達と咲じゃ、事情が違うって。それと同じで、僕と美玖でも事情が違うよ。僕が悲しいのは本当だ。けど思い入れが違う。僕にとっての咲は、美玖にとっての僕と同じような物なんだ」

「それって、ただの幼馴染ってこと?」

「随分はっきり言うね。いや、例として出したんだからいいけどさ。まぁ、そういう事だね。けど美玖にとっての咲は違うだろ。過ごした時間の量も、密度も」

 激しく頷く。律とは比較にならない程、私は彼女と一緒に過ごした

「咲は大切な友達だ。本当に。悲しいのも本当だ。けどあれからもうどれだけ経った。もう一週間だ」

「まだ一週間でしょ」

「違う。もう一週間だ。時間にしたら百四十八時間経ってる。美玖、人はそんなに長い間悲しめないんだよ。エネルギーを使うからさ、どれだけ悲しくても立ち直るように人は出来てる。悲しいことにね」

 彼は自分で言っておいて、鼻で笑った。それにイラついた。

「忘れろってこと?」

「なんでそうなるんだよ。長い間悲しむのはよそうと言ってるんだ。それはきっと咲も望まない」

 彼女の考えている事が分からないなんて言っておいて、どうしてその言葉を代弁するのだろう。分からないなら、分からないと言えばいい。説得のために彼女を利用する性根が気に食わなかった。

 反撃するべく口を開こうとする。しかしそれを彼が止めた。

「いったん、息を深く吸って」

「なんで」

「いいから」

「別に、大丈夫だよ」

「ならそれを証明するためにも、一度深呼吸してみてよ。やってくれたら、僕は何も言わないからさ」

 ふん、人を異常者みたいな扱いをして。私は癲狂病みなんかじゃないのに。今ならヒスって呼ぶべきか。それも最近では差別らしいし。じゃあなんて言えばいいんだ。というか、存外私は混乱しているみたい。こんなに普段はとっちらかった思考じゃない気がする。

 言われた通り、ラジオ体操みたいに腕を挙げて、深呼吸した。

「落ち着いた?」

 律が私の顔を覗き込んでくる。熱くなっていた体が少し冷えた気がした。胸元のリボンが熱苦しい。それを外した。

「うん。だいぶ」

「それはよかった」

 彼はまた笑って、弁当を食べ始めた。

「それで話を戻すけどさ、美玖はなんて言われたの?」

「何も。私は何も言わなかった。眞人先輩と私だけだね。何も言われなかったのは」

「へぇ、随分と不思議な話だ。アナウンスも音質悪かったし、聞き取りミスかな。それか犯人校舎に入れる人数を間違えたか。まぁ、これは先輩が犯人っていうオチで決まりなのかな。一人だけ朝のアリバイがないし」

 彼は気負う様子もなく、ごく自然にそう言った。

「え、私を疑わないの? 私も名前を呼ばれなかったのに」

「疑ってたら、こうしてご飯を食べてないし、金属バットを持たせたりしない」

「なんで疑わないの?」

 別に律と仲がすごくいい訳でもないのに。誰が犯人でもおかしくないのに。

「だって美玖には度胸も実行力もないじゃん。麟二か渚さんがやったってんなら納得できるけどさ」

 カチンときて、彼の弁当からから揚げを強奪した。制止の前に口へ放り込む。「ああ」と嘆く声が教室に響いた。律は無残にも噛み潰されていくから揚げを遠目に見つめ、仕方ないと首を振って本題に戻った。

「それに咲が亡くなって、傷心中の美玖に人殺しを考えて実行できる余裕なんてないだろ。学校に来てるのだって」

「お母さんが行けって」

「だろうね。そういう所は厳しい人っぽいし。けど学校では安らげないだろ。だって学校では――」

「気にしなくていいよ。いじめられてるっていえば?」

「まぁ、うん、そういう事だから、美玖には人を殺してる余裕なんてないと思って」

「ふーん」

 律の言い分は最もらしかった。確かに咲が死んでからずっと抜け殻だ。ここ数日の記憶はあるけれど、曖昧だと言わざるを得ない。鮮明なのは焼香と通夜ぐらいで、他は正直いつから学校に来始めたかすら覚えていない。

 まぁ、それも今となっては不安材料でしかない訳だけど。

「美玖は僕を疑ってないの?」

「ふぇ」

「ほら、美玖が自分を疑ってないのかって言うのと同じで、僕も気になるんだよ」

 彼は箸を動かす手を止めて、私を見据えていた。緊張しているのが手を取るように分かる。

「そうだね、律を疑わない理由か」

 言われてみると不思議なもので、全く思いつかなかった。私が一番疑っているのは、私自身なんだから、彼は眼中にない。けどそれを素直に言えなかった。

「特にないかな。強いていうなら、律ならアナウンスはもっと寄せるでしょ」

「寄せる?」

「とぼけちゃってまた。あんな感じのアナウンス、偉大な前例があるでしょ」

 律が考え込んで、その後目を見開いた。

「それに七つの大罪になぞらえるなら、律はもっとこだわりそうだし。殺し方とかまで」

「確かに。っていうか、美玖は僕の事を一体何だと思ってるんだよ」

「ん? 重度の本オタク。本しか友達がいない。ぼっち」

「自己紹介かな」

「随分言うようになったね、律。昔はあんなに私を尊敬してたのにさ」

「それは美玖の家に大量の本があったからだろ。ほとんど読ましてもらったよ。だから美玖の知識と僕の知識はほとんど同じさ」

「きしょ」

 そのまま私達は下らない昔話をしながら、お弁当を食べた。高校生なのに昔話はすごく弾んだ。たかが十数年の人生でこれなら、将来は昔話しかしなくなるんじゃないかな、なんて思う。でも楽しかった。その日が楽しみで、その時には今より笑っていられるといいなと自然に思えた。

 咲の事で喧嘩はしなかった。冷静になれば律が正しい。それを認めたくなくて、私が駄々を捏ねていただけだ。それでもやっぱり、納得は出来なかった。

「正論はいつも耳に痛い物だ」ってよく言う。いじめはよくないとか、親ガチャはよくない言葉だとか、ギャンブルはするべきじゃないとか、お酒と煙草はやめなさいとか。自殺しちゃダメとか。人に迷惑をかけるなとかさ。

 まぁ、ほとんどは共感できない。けど意味は分かるし、言いたい事も分かる。正論は正しいから正論なんだ。それを皆理解してる。

いじめはない方がいい。親ガチャも言わない方がいい。酒と煙草もギャンブルもやらない方が健康にいい。自殺すると人に迷惑だし、迷惑な事はやらない方がいい。

 全部正論だ。それでも世の中にはこんな事が溢れてる。登下校を二か月もすれば、数回は人身事故で電車が止まる。お父さんはずっとお酒を飲んでるし、向かいの家のお父さんも外でずっと煙草を吸ってる。家に煙草の臭いが移るから、きっと外で吸っている。寒い日も暑い日もいつも外で吸っている。奥さんと関係が悪くなっても止められない。

 みんなみんな、間違いだらけ。

 私はいじめられて、朱莉さんは親ガチャ失敗で、噂話で視界がけぶる。そんな世界。正しいだけじゃ生きていけない。どっか矛盾してないと。その矛盾が私にとっては咲の死で、神様の焼失だった。

 納棺も焼香も全部見ていたのに、あれは夢だったんじゃないかと思ってしまう。死に化粧を施されて、元から真っ白だった彼女の顔が更に白くなっていた。雪の様に白かった。咲はまだそれに触れた事もないだろうに。彼女が雪そのものになってしまった。

 それが認められない。融けてしまいそうなほど冷たかった細い指、オニキスみたいに黒かったあの髪に、もう二度と触れないなんて。

 小さい頃に約束をした。

 彼女が病院の窓から指を指した山。私には名前も分からないけど、秋口に赤く染まっていたその山を指さして咲は言った。

「一緒に登ってみたいな」って。あれからもう、何年経ったか。そう言った彼女の横顔だけが記憶に残っている。

 結局、意地を張っているだけだ。現実を見たくないだけだ。百も承知だ。現実か。トイレに流してしまいたいものしかない現実か。勉強して、勉強して、本でも読んで、それも現実。逃避しても逃れられない。寝て夢を見て、それでも逃れられない。それが現実。

 それなら私は夢でいい。

「なにか考え事?」

 律が尋ねてくる。黙っていたのは数十秒だったのに、変な所でさとい。やりづらかった。

「うん。そうだよ」

 私は素直に頷く。

「へぇ、一体何を考えてたの?」

 前のめりになる律。その出鼻を挫くべく、爆弾を投げた。

「律が小学四年の時、カルピスと間違えて片栗粉を水に溶かしたのを飲んで、窒息しかけたこと」

「そんな事あったっけ」

「覚えてないんだ。あれは傑作だったのに」

 眉を寄せた彼を横目に、私は笑みを作りながら天井を見上げた。おまけに時計を盗み見る。

十二時三十分。

 渚さんの決めた集合時刻まで、あと三十分だった。

「あ、思い出したぞ! っていうか、あの水飲ませたの美玖だろ! 『これ理科の授業で作ったカルピス。飲んでもいいよ』って渡して来て」

「へへっ、騙される方が悪いんだよ。もう時効だし」

「悪戯に時効なんてあるか」

「じゃあ犯罪じゃないんで、セーフということで」

「くぅ、減らず口を」

「元来口は減らないものだよ、もっと勉強したまえ」

 結局は私の我儘だ。律に咲の死を悲しんで欲しいなんて。悲しんでる私を構って欲しいなんて。

「なんか、こういうやり取りも懐かしいな」

 欠陥品の私、汚い私。

「あの、今更こんな事言われても困るだろうし、嫌かもしれないんだけど」

 笑って話して、昔を懐かしんで。こんなの。

「今までごめん。僕も麟二が怖くて、逆らえなくて、美玖がいじめられてたの知ってたんだけど、止められなかった」

 許される訳ないだろ。

「本当は止めるべきだって、分かってた。分かってて、無視してた。怠惰の罪っていうのはあながち間違いじゃないよ。僕は確かに怠惰だった。動こうとしなかったんだから」

 私は麟二になれないし、渚さんにもなれない。

「だからごめん。謝っても何にもならないのは分かってる。怒らせるだけだってのも。けど謝っておかないといけないと思って」

 それに律。私はあんたも眩しいよ。そうやって私に向かって真摯に頭を下げてるあんたが。だって誰でも嫌だよ。助けなくて当然だよ。

「本当にごめん。これからは僕も、僕も頑張るよ。咲の分まで。必死に動く。渚さんに相談したり、先生に言ったり。何とかしよう。いや、しなくちゃ」

 そうだね。そんな元気も私にはないから。勇気も、行動力も私にはないから。現実は私を逃さないから。律に助けられても、またいじめられるだけだから。

「だから僕ともう一度、友達になってください」

 律はすごいよ。やっぱり、律は何者かになろうとしなくていい。既に何者かに成れている。

「そんなセリフよく素面で言えるね」

 私がそう言った。彼の方は見なかった。

「だって素面しか知らないからね」

 律がそう答えた。変な風にこじゃれていた。

 目を閉じる。私はきっと誰かに見つけて欲しかったんだと思う。認めて欲しかったんだと思う。いじめられている事実を、私がここにいてもいいという事を。

 咲は病院にずっといて、学校に居場所なんてなかった。誰も私を見ていなかったし、私も見ようとしなかった。けどこうして律が見てくれた。話してくれた。こんな状況だけど、殺されてしまうのかもしれないけど。今はそれがとても嬉しかった。

「ありがとう。でも大丈夫だよ」

 彼が息を呑むのが分かった。

「私は一人で大丈夫だから」

 律が勢いよく立ち上がった。椅子が跳ねる。それは音を立てて床を滑った。

「どうして、いつもそうなんだよ。中学の時だって――」

「あー、大丈夫だって。あんま心配しないで。ほらこうしてピンピンしてるっしょ。殴られるのだって大分慣れてきたし」

「だから、慣れてちゃダメだろ!」

 彼が私の左腕を取った。走った痛みに思わず顔を顰める。

「ほら痛いんだろ。全身、痣だらけなんじゃないのか。それでまだ平気だって言うのか。僕はいらないのか」

 私はジト目で律を見つめた。正面から鋭い目つきで見返される。根負けして視線を逸らす。

「美玖は頭の回転も速いし、知識だってある。だけど考えすぎだ。もっとシンプルに考えろよ。単に嫌だから助けて、手伝ってって。そういう話だよ。そりゃ僕も悪かったさ。それにこんなの恩の押し売りかもしれない。本当に美玖がそのままでいいって思ってる可能性だってある」

「でしょ。だから大丈夫だって」

「けど、大丈夫なんだろ」

 へらへらと笑った私を、律が刺した。

「大丈夫ってのは耐えられるって事だ。それに大丈夫って言ってる奴が一番大丈夫じゃない。こんなの常識だ」

「だから、大丈夫だって」

「ふーんそう」

 彼はそれだけ言って、倒れた椅子を元に戻した。その後、再び対面に座る。あからさまに不機嫌そうだった。

「じゃあ、僕は勝手にするから。後から感謝すればいいよ」

 箸を持って弁当に向かう律。もうこちらの方は見なかった。ただ黙々と弁当を食べ続けている。

 私は唾を呑みこんだ。心臓がうるさいほど鳴っている。変な汗を掻いていた。悪い事をした子供みたいに、存在しない周囲の視線がやけに気になる。

 これからどうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。ここを脱出して警察へ連絡し、家に帰った後、土日が過ぎた月曜日。学校から見える景色は変わるだろうか。あんなに嫌だ嫌だ、大丈夫だと言っておいて、自分は笑っちゃいけないと言っておいて。

 私は弁当を横にどけて、腕を枕にして突っ伏した。律は何も言わなかった。突っ伏したまま、私は少しだけ笑みを浮かべた。でもすぐにそれを堪える。咲に悪い気がした。でも衝動は抑えがたい。正論でも抗えぬほどに。

 

 大きな音がして、起きた。体が痛い。なんで。ああ、今はまだお昼くらいだったか。えーと、学校に行って、それで事件が起きて、律と話して。

 まどろんだ意識で、これまでの道のりを追想する。そうだ。今は何時だろう。渚さん達との集合時間に遅れちゃいけない。

 はっとして、私は勢いよく顔を上げた。

「律、早くしなきゃ! 今何時!」

 すぐ見れば分かる事を、衝動的に尋ねた。

「ねぇ律! あれ、律? 律?」

 彼の姿はどこにもなかった。周囲を見回しても、何の変哲もない教室が広がっているだけ。トイレにでも行ったのだろうか。それか一人でお弁当でも片しに行ったのか。

 仕方なく自分で時計を見る。

 十二時五十七分。集合時刻前だった。走れば三階の私達の教室に間に合うだろう。起こしてくれれば良かったのに。まったく、律は一体何をやっているんだか。

「律~」

 呼ぶ声と共に、廊下へ出ようと立ち上がった。

「り、つ~」

 目。赤い断面。男らしい肩。細くても厚かった胸。

 初め、それが何か私には分からなかった。

 立ち上がった私の目に飛び込んで来たのは、椅子に横たわっている律だった。でも本来首の上に乗っているはずの頭がない。柘榴のように赤々とした首元から鮮血が滴っている。床には彼の頭がボールのように転がっていた。瞳にすっかり色はなく、唇は青ざめ、頬がこけているように見えた。悲鳴を上げようとした気がする。悲鳴だと思う。うん。そう悲鳴。けど目を見開くばかりで声なんか出なくて、助けなきゃとか、雑多な思考が渦巻き、考えている間、床に落ちた彼の頭が少し動いた気がして、おそるおそるそっちに視線を向けると死んだ彼と目が合って、いよいよ私はどうしようもなくって。

 突然チャイムが鳴り響いた。和也が死んだ時もそうだった。私が出会う度、世に知らしめるが如くチャイムが鳴る。

 きっと罰なんだと、私は思った。これは今まで逃げ続けて、現実を見ようとしなかった私への罰なんだ。

 そうやって心に閉じこもる私を凝視してくる律の瞳。私と口論していた彼の、優しい色を湛えていた黒い瞳。それが酷く濁っていた。港に打ち捨てられた魚のお頭みたいだった。嫌だった。咲と違って彼の死に様は汚くて、どうしようもなく生欲を感じさせた。どうして彼が。咲と同じ事を思って。

 死にあてられた私は意識を手放した。

 

 

 暖かな日差しの中、私は病室のベッドの上にいた。目に映る物、全てが白い。ベッドのシーツ、部屋の壁紙、床、天井、そして私と一緒にベッドに座っている彼女。

「どうしたの?」

「ううん。ちょっとぼーっとしてて」

 美しい白い肌を持つ咲が私を覗き込んでいた。

「珍しいね。いっつもなにか考えてるのに」

 咲がくすりと微笑む。それすらも美人な彼女がすれば様になる。陽に当てれば溶けてしまいそうで、夜闇に放り出せば黒髪が靡く。外に出れば風景と混じり映えるだろう。けれど咲はこの部屋にずっといる。真っ白で、ファッション雑誌が並ぶ、ぬいぐるみが数体置かれた、簡素な病室に、ビスクドールの如くずっといる。

「そうだね」

 私は外を見た。どこまでも続く美しい山並み。夕陽の朱も相まって、稜線が齧られたスイカのように見える。程よい民家はそれを彩り、窓という額縁に嵌められた一枚絵を作り出していた。

「ちょっと疲れた」

 それを眺めながら、茫然と呟いた。

「そっか」

 咲がベッドに潜る。衣擦れを背中で聞く。

「期待改めってやつ?」

 布団越しに、その声が耳に届いた。その控え目さが彼女らしかった。いつもふざけているから、真剣に話すのが恥ずかしいのだろう。かわいかった。

「違うよ。ただ私が、弱いだけ。だから何でもないよ。心配しないで」

 そこまで言った。私は弱いと、分かっていたから。弱い私が「心配しないで」と言わないと、咲は安心できない。弱さを認める強さを見せないと、咲は納得しない。不安になってしまうから。

「プレッシャー、あるよね。受験、大変なんでしょ」

「そうだね。けど大丈夫だよ。咲も知ってるでしょ? こう見えて、私結構頭いいからさ」

 振り返って、咲を見る。ベッドに寝転んでいる彼女を見る。大きな瞳が細められていた。口元は布団で隠されている。けれど眉は寄せられていた。それだけで咲の感情が分かる。

「無理して来なくていいんだよ」

「珍しく弱気だね。普段は『遅い!』とか、『なんで三日も来なかったの!』とか、怒るのにさ。咲はそんなに私を馬鹿だと思ってるのかな。それなら心外だね。中学時代、テストで一度も私に勝てなかった、日比谷咲くん」

「茶化さなくていいよ。だって言われてるんでしょ、お母さんに」

 彼女を喜ばせるために吊り上げた頬が、硬くなった。

「私はどうせ、もうすぐ死んじゃうから。構わなくていいって。もっといい友達を見つけた方が美玖のためだって」

 僅かに震えていた。手も声も、黒い瞳さえも震えていた。

「ほんとのことだよ。それは。美玖、もう来なくてもいいよ。折角の高校生活なんだから、楽しまなきゃ損だと思う」

 咲が私の手を握った。細い腕だった。折れてしまいそうだった。小さな手だった。握り返すだけで壊れてしまいそうだった。その手と腕で、彼女は重い物を全部背負って生きてきた。

「知らないよ」

 私は彼女の手を振り払った。簡単に振り払えた。蚊よりも簡単に、咲は振り払えた。

「だって私馬鹿だからさ。咲の言ってる事、よく分かんないし。高校生活とか言われても、高校の生活って事しか分からない。ただの授業を受けるだけの毎日でしょ」

 咲の顔は見れなかった。

 母親から「もう咲とは関わるな」と言われていた。あんな子に掛ける時間があるのなら、もっと勉強をしたり、他の子と仲良くしたりしなさいと言われていた。

「あの子はもうすぐ死ぬのよ」

 殴りたかった。殴れなかった。母親による、彼女の人生のネタバラシ。全人類のネタバラシ。

「頭いいんじゃなかったの?」

 振り切ったはずの彼女の手が、再び私の腕を掴んでいた。小刻みに震えていた。今度は降り切れなかった。

「勉強が出来るのと、頭がいいのは別の問題だからね」

 屁理屈を言って、私もベッドに潜り込んだ。二人仲良くベッドの中。セーラー服が皴になるのも気にせずに、私は咲と顔を真正面から見合わせた。

 彼女は仕方ないなとでも言いたげに眉尻が下がっていた。口元は相変わらず見えない。眼も変わらず細められている。ほとんど一緒だけど、私にはそれだけで分かる。

「だから仕方ないんだよ」

「本当に、仕方ないね。美玖は」

 咲はまたくすりと笑った。

 笑ったのを見届けて、私はゆっくりと目を閉じた。それから私達は……。どうしたんだろう。ベッドに潜ったまま寝ちゃったんだっけ。でも確かなのは、とても大切な日だったこと。神様が生きていた、福音を得た、陽だまりに生きた私達。こんな日がずっと続けばよかったのに。

私はずっと願い続けている。時の停滞と、幼さへの甘えを。

 

 

 憧れの教室なのに、漂う空気は重苦しく、じっとりと湿っていた。殺人の余韻が滞留しているように感じる。律を殺した教室の隣、彼の殺害を終えその場に立ち尽くした私に、彼は後ろから声をかけてきた。

「咲くん、どうだい、友人を殺した気持ちは」

 振り返らずとも誰かは分かる。そもそもこの空間を創ったのは奴で、私に話しかけられるのも奴しかいない。

「どうもしないけど。それよりなんで美玖がここにいるの。約束と違うじゃない」

私は彼に怒気をぶつけた。しかし彼は飄々と答える。

「サプライズだよ。折角の君の晴れ舞台、誰にも見られないなんて悲しいだろ?」

「ちっとも」

「可愛げがないね」

「これから死ぬと分かっている人間と積極的に交流なんて、逆に可愛げがありすぎるんじゃない、眞人先輩?」

 嫌味と共に振り返る。相変わらず胡散臭い顔だった。

「テイスティングだよ。これから自分の腹の中に入る魂の事くらい知っておきたいじゃないか」

「ふーん、そう。なんでもいいけど、美玖を早くここから出してよ」

「無理だね。契約は既に成った。君がここで四人殺して、僕がそれを認めるまでこの空間は終わらないよ」

 私は思わず舌打ちをした。こんなはずじゃなかったのに。この悪魔には契約する前も、してからもずっと煮え湯を飲まされている。

「邪魔だけはしないでよ」

「邪魔? 失敬だな。協力と言ってくれよ」

 彼は白々しく肩を竦めた。ふつふつと怒りが湧きたってくる。

「どうかな。あのアナウンスだってわざとらしいよ。あんなの私は望んでないんだけど」

「演出だよ。四人も殺すのは久々だ。せっかくなら派手にいきたいじゃないか。気に入らなかったかい、契約者様」

「うん。とても気に入らなかった」

 憮然と告げるが、彼が慇懃な態度を崩さない。

「それは申し訳なかった。このご時世に悪魔と契約しようなんて酔狂者は中々いなくて、つい舞い上がってしまった。それにこの計画は僕にとっても綱渡りなんだ。なんせ派手にやりすぎると管理者に目を付けられる。だからこそ興奮するってもんだけどね」

 眞人は同意を求めるように顎をやった。私は眉をしかめる。

「私はあんたとは違う」

「人のための人殺しには、興奮なんかないって?」

 剣呑な言葉をぶつけたのに、彼は効いた様子もなく話し続ける。

「そもそも前提がおかしいことに君は気づいてるのかな。美玖君はきっと君が守ってやらなくても生きていくし、直接的な生死に関わらない殺しは正当防衛には当たらないだろう。生きやすくはなるだろうが、それも高校生まで。その先を考えると、麟二や律を殺すのに大した意味はない。なのに咲君は美玖君のために、彼等を殺すと言う。その矛盾や論理の破綻に気づいているのかい」

 問いかけを黙殺した。それをいい事に眞人の妄言は悪化する。

「分かってやっているなら、それは自己満足に過ぎないはずだ。分かっていないなら、とんでもない愚か者だろう。君はどっちだ?」

 私は何も言わなかった。どちらを選んでも私の行為に意味はないと言われているのと一緒で、選びたくなかった。私は殺人の動機を自己満足にしたくなかったし、愚か者にもなりたくない。私はただ、親友である美玖を守りたかっただけ。

「死を間近に控えて、生きた証でも残したかったのかな? その方法がどれだけ醜悪でも」

 眞人がそう言ってくる。私は唇を噛む。何も言い返せない。それが惨めだった。

「まぁなんでもいい。僕は君との契約を履行するだけだ。この空間の作成と、殺人終了を見届けよう。あと二人、頑張ってくれたまえ、相棒」

 悪魔はそう言い残し、靴音を鳴らして去って行く。相変わらず胡散臭い悪魔だった。アナウンス以外にも余計な事をたくさんやっているに違いない。そもそも、彼等に混ざっている事自体がおかしいんだ。

私は去り行く彼の足音を聞きながら歯噛みする。奴に騙され、私は間違えた。眞人は言った。

『美玖君は学校で今、中々酷い目にあっていてね。このままだと明日の命も危ないかもしれない。そこでだ。君の命を使えば彼女を助けられる名案があるのだけど、乗らないかい?』

 私はすぐに頷いた。今思えば、愚かだった。悪魔と契約していい人生を送った話は聞かないし、死後も天国に行けなくなっちゃう。けどその時の私は薬の副作用でぼろぼろだったし、交換条件なんかなくっても死にたかった。だって希望もなければ、未来もない。私の手には何もなかった。そんな私にも手に入るものがある。救われてばっかなのに、救われ切れない私にも、誰かが救えるなんて。しかもその相手が親友の美玖なら。

 私は飛びついてしまった。悪魔の言葉に頷いて、彼等を殺すと決意した。その瞬間、私の心肺は停止した。

 そして眞人の生みだした現世でもあの世でもない、狭間の世界にいる。最低で、最悪な人生だったけど、美玖だけが私の光だった。お父さんもお母さんも弟も、私が不幸にしちゃった。誰も幸せに出来なかった一生だった。でも、だからこそ美玖は幸せにしたかった。何の価値もない私の生に何か価値があったと思わせて欲しかった。

 小さい頃からモデルになりたかった。綺麗なお洋服を着て、色んな人に見られて。私は結構可愛いから人気になれたと思う。でもそんなのは夢でしかない。現実の私は病室に籠って、病院服を着ている。顏だって青ざめているし、スリムなんて言葉で誤魔化せないくらい痩せている。

「じゃあ、どうすればよかったの……」

 私が悪いんだろうか。殺してはいけなかったんだろうか。悪いとは分かってる。けどもう引き返せない。悪魔との契約がある。彼等を殺しきらなくては美玖を解放できない。

「私は……どうすれば……」

 来たこともない教室、憧れの場所だったのに、ある筈の喧噪はなくて、胸中は苦しみ渦巻く。

「誰か助けてよ」

誰にも届かず消えて行き。

「行かなきゃ」

 凶器と共に少女は往く。自身の価値を証明し、親友の命を守るために。

 

 

 

 長い夢を見ていた気がする。

 私は胸を押さえて飛び起きた。心臓が異常な速度で脈打っていた。緊張や焦りなどではありえない、不整脈とでも言うべき鼓動が身体を蝕んでいく。必死に息を吸う。それを繰り返し何とか落ち着くと、視界が徐々に色と光を取り戻していった。

私は教室の床に寝ていて、目の前には渚さんと朱莉さんと麟二がいた。ゆっくりと身体を起こす。

「ここは……」

「大丈夫! 美玖ちゃん!」

 渚さんが私に飛びついてくる。私は倒れるのを何とか堪え、それを受け止めた。

「な、渚さん?」

 鼓動に蝕まれながら呼びかける。

「大丈夫? ずっと倒れてたんだよ」

 胸の中で彼女が見上げてくる。私はきょろきょろと辺りを見回す。

「いま、なんじ?」

「三時だよ」

 さんじ。三時か。確か集合時間は一時だった。私は二時間も寝ていたのか。

「ところで、何があったか教えて貰えないかな? 起きたばっかりで申し訳ないんだけど、こっちはこっちで緊急事態だからさ」

渚さんが神妙な顔つきでそう言った。空気が張りつめたのを感じる。遠巻きに私たちのやり取りを眺めていた朱莉さんの表情が固まっていた。興味なさげに外を向いていた麟二までが、私を見ていた。

唾を呑みこむ。何があったか教えて欲しい。なにがあった。なにがあったか。回想する。開始直後、転がっていた律の生首を思い出した。

「り、律が死んでた」

 言った自分でも嘘なんじゃないかと思える。肩を握っていた渚さんの体が強張った。それであの光景は真実なのだと否応がなく気づかされた。

「それは、ほんとうなの?」

「う、うん。首を斬られて、頭だけになったのが床に転がってて。胴体は椅子の上に横たわってて、えっと一年六組だったはず」

「殺されてたの?」

 凄みのある声だった。私は混乱のままに答える。

「ちょっと居眠りしちゃって、起きた時には……もう」

「そっか」

 渚さんは私の胸に顔を埋めた。泣いているのかもしれない。責任感の強い彼女の事だから、自分を責めているのだろう。

「美玖ちゃんが起きたのは何時ごろ?」

 その割に彼女の呼吸は安定していた。声が震えている様子もない。

「分からない。けど一時前より前だと思う」

「その根拠は」

「誰も近くにいなかったから。私は律を数回大きな声で呼んだけど、誰も来なかった。一時よりも後なら、私達を探しに皆がくるはずでしょ」

 即興にしては上手い言い訳だと思った。

「そっか」

 渚さんは顎に手を当て考え始めた。私は息を呑んでそれを見つめる。張りつめた空気。

「なにが『死んでた』だよ。他人事みたいに言いやがって」

 それを彼女の後ろにいた麟二が破った。

「麟二!」

「なんだよ、本当の事だろ」

 朱莉さんが彼を睨む。しかし彼は飄々とやり過ごし、こちらに向かって歩いてきた。スリッパの音が、床に座っている私にはよく聞こえた。男の巨躯が迫って来る。体が固まり、私はその場で丸くなった。もう何も聞こえなくなってしまえばいいのにと、耳を塞いだ。

抵抗空しく、私の手は耳から引きはがされた。彼は私を床に引っ立てて、お腹の上に乗ってくる。余りの重さに昼のお弁当が口から出そうになった。

「こいつが、律と和也とおまけに眞人の野郎も殺したんだ! この殺人犯が! えぇ、すやすや気持ち良さそうに寝やがって。大層なご身分だな。どんな気持ちなんだ。三人も殺した気持ちはよぉ!」

「かっ」

 叫びと共に首を掴まれる。

息が出来ない。声を出す事すらままならなかった。よく分からない中で、私は首を絞められていた。

「止めなよ、麟二。まだ分からないよ」

 渚さんが慌てて駆け寄って来る。麟二は唾を飛ばしながら声を荒げた。

「な訳ねぇだろ! 渚はこいつが犯人じゃないと思ってんのか! いや、お前が犯人の可能性もあったな。さては共犯か。犯人同士で庇いあいって、とんだ薄汚れた友情だ。気持ちよかったか? 元カレを殺して、クラスの陰キャを殺して、ついでによく分からねぇ眞人とかいう奴も殺して、あとは屑の俺と今カノの朱莉を殺して、それでしまいか。残念だったな。ここまで順調だったお前の人生、これで全部終わりだ。外に出れば警察が来る。それともなんだ。ずっとここにいるつもりか。それならそれでいいさ。上桐渚はここで潰れるんだからな」

 麟二が首を握る力を一層強くした。涎が口の端を伝って、顎に流れる。声も出せない私は必死に彼の手首を引っ搔いた。しかし外れる様子がない。屠殺される鶏のように、私は縊り殺されそうになる。

「はっ、ざまぁないね。お前みたいな奴が、俺みたいな劣等生と一緒に泥船行きとは」

 だというのに、彼はもう私の方なんて見てもいなかった。私は蹴っ飛ばされる路傍の石のようだった。渚さんへの憎悪のはけ口に、私の灯は消えかけていた。

「好きに思えばいいけど、このままだと君も殺人犯になるよ。それでもいいの」

 渚さんが剣呑とした口調で諭す。彼はそれにも怯まなかった。

「勝手にしろよ。正当防衛だろ。放置したらまた殺されるかもしれねぇからな」

 獰猛に笑った彼に、渚さんはため息を吐いた。

「はぁ。頭が回らない上に、直情型なのは嫌だね。リーダーシップもないし。さすが落ちこぼれ。西郷家の恥だ。誇っていいんじゃない? 自分の両親と兄の見る目をさ」

 首を絞める力が弱まった。

「お前、今なんつった」

「だ~か~ら~、麟二の御両親とお兄様は見る目があるねって言ったの。こんな出来の悪い息子を早々に見限って、最低限の食料と金を与えて放置! 中々難しいよ。なんったって金を掛けた実の息子だからね。投資分返ってこなきゃ損ってもんだよ。それを不良債権として処分するなんて、中々のびじねすま――」

「この野郎!」

 そして完全に解放された。渚さんという代償を払って。

 彼女は麟二に胸倉を掴まれ、宙に浮いていた。二人の身長差は三十cm以上ある。その様子はさながら巨人と小人の喧嘩のようだった。圧倒的に麟二の有利。渚さんは彼に殴られれば、いとも容易く壊れてしまうだろう。けれど彼女は不適に笑い続けた。

「そうそう。それでいいんじゃない。殺してみればいいよ。私を。私が憎いんだろ。ずっと麟二より上で、何をやっても私の劣化。なんで私がいるんだって思ってたでしょ。ここで殺せば一生勝てるよ。嬉しいね、最高だね。最高だけど空しいだろうよ。結局、それじゃ私には勝てないから。殺しただけだから。一生負け組、不良債権、人間の屑、西郷家のお荷物、それが麟二には――」

「クソが!」

 麟二は教室の隅に彼女を放り投げた。ボールのように二転三転して、彼女は壁に勢いよくぶつかった。朱莉さんが慌てて渚さんの元へ向かう。

「ちょっと! あんた達なにやってんのよ!」

「結局、そいつが律を殺したのは変わんねぇだろ。そいつの考えが失敗したんだからよ。二人一組で探索した結果、二人死んだ。眞人先輩と律だ。余計な犠牲だろ。全員一緒にいれば死ななかった。探索しても脱出口は見つからず、閉じ込められたままだ。あいつらは渚のせいで死んだんだ」

「それは――」

 彼女は何も言えず、渚さんの体を抱いた。私も黙っていた。私達を一瞥し、麟二は窓の方へ歩いて行った。

「渚が言うには眞人はトイレに行くと言ったきり、姿を消したそうだ。死んでるかどうかは分からん。死体は見つかってない。だがこの状況だ。十中八九、死んでるだろうな。それと律だ。ぶっ倒れた美玖の前で首を斬られて死んでたあいつだよ。おい、美玖。お前なんで殺した」

 彼の中では私が殺した事が確定らしい。鋭い目つきが私を睨んでいる。

「それは」

 そんなの私が知りたかった。そもそも私が殺したのか分からないし、殺したとしても私にそんな意識はない。今朝、私の手は血塗れだった。あれは和也の血だったのかもしれない。それに記憶に齟齬がある。明らかに私は変だ。

 でもそれだけで私が殺したって言い切れるんだろうか。自分の事なのに分からない。

「どうなんだ」

 麟二がこっちに歩いてくる。問を抱えて向かってくる。俯いた。地面の木目が鮮明に映った。何の気なしに木目を数えてみた。

ひい、ふう、みい、よお。

足音が近づいてきた。恐怖の象徴である足裏を叩きつけて歩く麟二。怒りの滲む足音が怖い。恐れのあまり歯が鳴っていた。

何か言わなきゃいけない。なのに、木目を数えるのが止められない。目の前で足音が止まる。彼は無言で私の言葉を促していた。

私はおそるおそる顔を上げた。麟二は無表情だった。怒りの形相とも、嘲りの形相とも違う。そこにあったのは無だった。余計に怖かった。

「わかんないよ」

「は?」

「私だって、分かんないんだよ」

 麟二が顔を顰める。私はそれから視線を逸らし、恐怖を紛らわすように言葉を紡ぐ。

「だってこんな状況になって、突然律が死んで、和也も死んじゃって、それなのに外には出られなくって、もう私はどうしようもないのに、私が犯人だって言われて、でも私はそれを否定できなくて、否定しきれない自分が嫌だし、自分の中に殺人鬼がいるなんて思いたくないし、もう……全然分かんないんだよ」

 支離滅裂で、たぶん声も震えていたと思う。そんな私に彼も呆気に取られたみたいで、立ち尽くしていた。彼は私を見下ろして、分からないなんてあるかよ」と呟いた。

「なぁ、美玖。俺は意外とお前を買ってたんだぞ。いつもつまんなそうな顔しながら集団に混じって、それなのに自分に自信を持ってた。弱そうに見えて芯のある奴だと思ってた。なんなら俺はお前に憧れてさえいたんだぜ。俺とは違って、他の奴らと違う事に何のコンプレックスもない、純度の高いダイヤモンドみてぇだって」

 顔を歪めて、彼が言う。私は何も答えない。

「お前は何が言いたいんだよ。なぁ、あの孤高の美玖はどこにいったんだ」

 麟二が問いかけてくる。

 問いに答える代わり、虚ろな目で彼を見た。私は私の目が虚ろである事を理解していた。それ以外どうしようもなかった。だってそんな人間いないから。彼の憧れた美玖なんてどこにもいない。

けど麟二はそれが気に入らないから拳を振り上げた。私は黙って痛みに備える。

「何言ってんだよ」

 しかし衝撃も痛みは訪れなかった。訪れたのは、渚さんの茫然とした言葉だった。

「麟二、さっき美玖の首を掴んで、殺してやるって。そう言ったよね」

 床に横たわったまま、渚さんは彼を睨む。

「毎日殴って、蹴って、美玖をボロボロにして、それで憧れてた? 憧れてたならどうして殴るの。どうしていじめるの? 理解できないよ。私だって麟二を怒らせたくなかった。麟二を怒らせて、それで美玖を助けるなんてしたくなかった。どうして、みんな自分で自分が分からないの?」

 彼女が悲痛を滲ませ呟いた。麟二が思わず狼狽する。

「俺は、別にいじめてるつもりなんかじゃ」

「うるさい!」

 その反論を彼女は一喝した。幽鬼のように立ち上がって麟二に詰め寄り、低い背を目一杯伸ばし、彼の胸倉を掴んだ。麟二はびくともしていない。だが彼は動けなかった。自分より格下な彼女に、彼は気圧される。

 渚さんは理想主義だけど常に合理的で、皆の幸せを第一に考えていた。だから私は見捨てられたのだと思っていた。それを私は認め、許容していた。それでいいのだと、世界はこんなもんなんだと割り切っていた。

「麟二の言い分なんて知らないよ。私は何回も言ったよね。やめてって。だけど麟二は止めなかった。私に怒られてからは見てないとこで美玖をいじめた。そんなに執着してたのに、その動機が憧れてた?」

 彼女の息を吸う音が教室中に響いた気がした。

「そんなの、ちゃんちゃらおかしいよ。ねぇ、なんで? おかしいよ、麟二。美玖ちゃんもなんで律君を殺したのか分かんないの? 自分の事なんだから分かるよね?」

 渚さんが地団駄を踏んだ。

 分かんないもんは分かんないんだ。そう言うのは憚られた。でもそんなに自分を正確に把握できるなんて彼女は本当に強い人なんだと思って、私がとても惨めに思えた。

静寂が場を支配して、そこへ唐突に冷めた声が飛んだ。

「渚、みんながみんな、自分を正確に把握してるなんて大間違いだよ」

 朱莉さんがくたびれたような笑みを浮かべていた。

「色んな人間がいるんだよ。金がないのにパチンコに行っちゃう奴とか、結婚してるのに浮気しちゃう奴とか。それこそ愛してるのに殴る奴だって。そいつらがみんな、自分の感情をコントロール出来たら、どれだけ幸せか分かる?」

 その場にいる全員が、それは彼女の家庭の話だと理解した。両親が離婚し、親戚の元で暮らす今なお、朱莉さんの過去は男性恐怖症という形で影を落としている。

渚さんは俯いて、返す言葉がないとばかりに唇を噛んだ。

「まぁそれで悪事が許されるなんて言わないし、麟二を擁護するつもりもないよ。ただ、そういうリアルも知らずに、自分が出来るからって人に押し付けるっていうのはなんか違うんじゃない? ちょっと落ち着きなよ」

 にへらと笑って彼女は締めくくった。私達は心を落ち着ける。朱莉さんの言葉は正論だった。

「そうだね。朱莉の言う通り、ちょっと取り乱した。今は互いに責めてる場合じゃないよね」

 渚さんが言い聞かせるように呟き、顔を上げる。

「麟二だって実際にはそんなに悪い奴じゃないし、美玖ちゃんもこんな状況で冷静でいろってのが無理だよね。冷静じゃなかったよ」

 私は彼女を冷めた目で見ていた。渚さんは未だに麟二と自分を同一視している。中流上位の家に生まれ家庭環境がよかった自分、悪かった麟二。彼女は彼になる可能性を幻視していた。そんな可能性、意味がないのに。

 家庭環境のせい、財政状況のせい、遺伝のせい、病気のせい。起きる現象を何かのせいにして、結果を見ようとしない。いじめっ子にはこういう傾向がある。いじめられっ子はいじめられる理由がある。そんな理由付けと統計で物事を見る。ハイカルチャーの家庭で育った人間の典型だ。数値だけ見て、内実が足りない。勝手に事情を鑑みても性格を決めつけるのは傲慢だ。渚さんは知識に囚われ、振り回される周囲を見失っている。

 ただ嘆いても仕方ないことだ。だって彼女自身が完璧で悩みなんてないから。私は渚になれないし、彼女は私になれないんだから。

「じゃあ、いったん状況を整理して考えて行こうか。それでいいよね、二人とも」

 私と麟二が頷いた。渚さんは満足げに微笑んだ。

「私の考えは失敗しちゃった。悪戯に犠牲者を増やすだけになっちゃった。でも私は死にたくない。だからみんなでがんばろ。だって死にたくないでしょ」

「まぁね」

 朱莉さんが同調した。私と麟二は黙っていた。私は別に死にたくないとは思ってなかった。多分麟二も同じだろう。理由は違うけど、私達の現実は苦しくて、耐えがたい。

 私はそんな事よりも、私が彼等を殺してしまったのかという一点のみが気になっていた。血まみれの手に、途絶えた記憶。考えるのも嫌な事ばかり。

 不意に咲に会いたいと思った。不意ってのは違う。ずっと心の奥底にあったのが顕在化する感じで、彼女に会いたかった。咲ならいつもの調子で「考えすぎだなぁ」って笑って、私を吹っ飛ばしてくれそうだった。けどいない。もうどこにも。私の神様は死んでしまった。

 渚さんがなにか話していた。どうせ協力しようとかそういう話だ。彼女が私達に手を伸ばす。

「じゃあ、力を合わせて」

 クラス大会前の円陣みたいなのがやりたいのだろうか。私は呆れた。そんなの意味ないのに。中央には彼女の小さな手がある。それを一瞥して私は言った。

「お手洗い行ってきていい?」

 自己猜疑と自己嫌悪を洗い流したい気分だった。

 

 

 トイレは人の気配なんてあるはずもなく、その上薄暗かった。水場独特の生臭さが漂い、緊張感がブレンドされていた。鈍い音を立てる扉を開き、便座に座った私は、スカートを膝の上で握った。別にそういう事をする訳じゃないけど、誰か来たら困るから、私はボタンを押して音姫を起動させた。水音が個室に響く。その音が大きすぎて、誰もいないのに迷惑なんじゃないかと思ってしまう。きっとこれも使う必要なんてないんだろうけど、用を足さずその場から逃げるためトイレに行ったという事がバレたら、怒られるんじゃないかと思った。

ため息を吐いた。水っぽい臭いが鼻をついた。けどそれが落ち着く。嗅ぎ慣れた臭いだったから。落ち着いて思い出すのは昔のこと。

小学校の頃、公園を六人で遊び回った。夕方、日が暮れるまで私達は一緒にいて、鬼ごっことか、かくれんぼをしたりした。麟二は習い事が忙しくてあんまり来なかったけど、それ以外は何時でもみんなで遊んだ。咲は体が弱かったから、見ているだけの時もあった。それでも鬼の手助けしたり、隠れ場所を密告したりして、彼女なりに楽しんでた。

麟二はまだ真面目で、悪口一つ言わない優等生だった。逆に渚はお転婆で、泥だらけになって遊び回って、私と律は二人で悪だくみをしてた。朱莉はおろおろして、結局咲に頼ったりしてた。

あの時は喧嘩なんかもなかったから、笑い声が絶えなくて。「うるさい!」って近所のおじさんによく言われた。でも無視して、散々遊んだら「バイバイ」って言って別れた。

夏だったら、時計台の長い針と短い針が真っ直ぐになったら帰る時間で、冬だったら赤とんぼが聞こえてきたら帰って来なさいってお母さんにそう言われてた。

私はお母さんの言う通り、その時間になったら素直に帰ってたんだ。けど朱莉はいっつも帰るのを嫌がった。普段はちょっと不貞腐れて「もう帰っちゃうの?」なんて言うくらいだったけど、四年生の時は酷かった。私達がいくら「帰ろうよ」って言っても、「うん」って答えるだけで、ずっとブランコに乗っていた。別に漕ぐわけでもないのに、ぼんやりして遠い目をして沈みゆく夕日を眺めてた。それで大分陽も沈んできちゃって、影が見えなくなってきたくらいに、渚さんが彼女を自分の家に連れて行く。

 繰り返しそんな事があって、その後を私は知らないけど、色々とあったらしい。風の噂で聞くには、両親が離婚したって。

 けど小学生なんだから仕方ない。お金もないし力もない。あるのは元気だけ。そんなのじゃ鉄の弾丸は作れない。甘いお菓子の弾丸じゃ現実には撃ち勝てない。でも多分なにかしなくちゃいけなかった。そうやって知ったふりしてたから小学校四年生から高校二年生まで、自分に言い訳し続けてきてしまった。年月にしておよそ八年あったのに。そんなに長い間あったのに。

 脱力感が体を支配する。十七才の私、八年なんて人生のほとんど半分だ。そんなにあったのに、今ここに座っている私はあの時から何も変わっていない。体と被虐心だけが肥大している。ぶくぶくと太った醜い私。

 和也君も殺されて、律も殺されたのに、私は私が犯人かもしれないと言い出す勇気がない。

私はスカートを握っていた手を離し、両手を開いて、手の平を見る。小さくて、何も掴めそうにない手。商店街で摑み取りなんてしたら大損だろう。その手が何をしたか分からない。

喉が鳴った。水音はいつの間にか止まっていた。震えながら、再び音姫のボタンを押す。静寂の空間を、顔を顰めてしまうほどの水音が支配し始め、私すらも流していく。

私は私の首を絞めている。苦しいだけで死ねないのに、痛めつけるだけのそれをしている。

私は仰ぐように、天井を見上げた。ここに咲がいたら笑うんだろうな。私が病室を訪れて、悩み事を話す度、彼女はよく私の頭を撫でた。

「相変わらず考えすぎだよ。もっと物事をシンプルに捉えたら? 美玖は本当に、でもとか、だってとか好きだよね。理屈なんていいんだよ。それは後から付いてくるものだから。一番大事なのは美玖がどうしたいかでしょ。その後に理屈をつければいい」

 咲は得意気にそう語っていたけれど、中々思い通りにはいかない。したいことがあっても、お金がなくて出来なかったり、誰かに反対されたりするし、気持ち先行で生まれた後付けの理屈なんて、破綻が多い。だからそれは机上の空論、いや病上の空論なんだろう。だけど私はそれが好きだった。そんな風に生きられたら、きっと楽しい。

「美玖の筋道通って考えられる所、すごくいいと思うけど、全部そうやって考えてると苦しくなっちゃうよ。もっと適当でいいんだよ。私みたいにさ」

 咲は患者衣の胸に手を当てて微笑んでいた。

 彼女がいたら今の私を見て笑うんだろう。頭を撫でてくれて「難しい事考えるのが好きだなぁ」って。咲が死んでしまった今となっては妄想でしかないけど。

 無条件で私を肯定してくれた彼女は死んでしまったんだ。この世界にもう私を肯定してくれる人なんていない。私は一人ぼっちなんだ。

 便座に座りながらスリッパで床を蹴る。空に響く。死んじゃえばいいのに。こんな私。可愛くないし、捻くれてるし、私がいたとこでなんも変わんない。

 ならここで死ねばいい。

 全身を貫いた言葉と共に、私は勢いよくその場で立ち上がった。過去を振り返って、死んだ彼女を想うだけで、何もしてない。私なんてこんなもんだ。皮肉屋で、自己肯定感が低くて、うじうじしてる。そんな生き物に価値なんてない。

 だからここで死ぬしかないんだ。

 その方法は分からないし、誰に殺されるかも分からないし、なんで殺されるかも分からないけど、私はここで死ぬしかない。死ぬべきだ。人間みんな結局死ぬんだし、早いか遅いか、それだけの差。そう、それだけ。

 覚悟は決まった。そう決めて立ち上がった。ちょっとふらついた。それも好都合だ。屋上に行こう。自然と思いついた。空でも飛んで、それで終わりにしよう。エラーを吐き続けたパソコンと一緒で、脳みそをぶっ壊してしまおう。

 私は音を立てないよう、静かにトイレの扉を開き、外の世界へと足を踏み入れた。そこは個室に入る前と同様、薄暗く物悲しかった。これを見るのも最後という感慨と歩みを進める。一番奥に入っていたせいで、手洗い場まで少し歩かないといけなかった。ほんのちょっとだけど、それが気になった。この僅かな間に覚悟が鈍ってしまいそうで怖かった。

 私は手洗い場に辿り着く。別に死ぬんだから手なんか洗わなくてもいいのに蛇口を捻った。水が堰を切ったようにあふれ出した。音姫じゃない本物の水が流れ、私の手を濡らす。

「つめたっ」

 流体が私の手を滑っていく。それは手に残らない。湿り気と水滴だけを残して、いなくなってしまう。そしてまた手を閉じたら、そこには別の水滴が付いている。もう二度と同じものは戻らない。

 蛇口を止めて、再び静寂が戻って来る。水滴が滴るぽたぽたという音だけがする。視線を落した。その先には排水溝があって、私は洗面台を巡る水を眺めていた。なんだか胸が締め付けられる。くだらない感傷だ。死ぬ私には必要がないものだ。それでも抱かずにはいられない。きっとそれは生きているからだろう。

再びループに突入した脳を冷やすために、私は再び蛇口を捻った。洗面台に頭を突っ込む。髪が濡れるのも、ちょっとだけした化粧が落ちるのも気にせずに、私は水びたしになっていく。冷たいという感情と、何をやっているのだろうと冷笑する私がいた。けどそれは不快じゃない。

例えるなら、小学校で馬鹿やってる男子を見るのと同じだ。バカみたいと思いながら、ちょっとおもしろい。俯瞰してみれば何事も意外と面白いもんだ。それが自分だとすると、笑ってばかりじゃいられないけど。

 冷水が頭皮を打つ。私の髪は短いから簡単にびしょびしょになって、落ち武者みたいにのっぺりしてしまう。ぽってりとした頬を濡らして、虚ろになった一重の瞳が、鏡の中から見返してくる。本当に可愛くない。そうやって拗ねた顔も可愛くない。

 私は再び水に頭を突っ込んだ。もう髪は吸水性を失って、水が顔の方まで流れてくる。両手で強く顔を擦った。痛いほど擦った。眼、口、鼻、全部を顔から落とすくらいの勢いで擦った。全部、全部、消えてしまえばいい。

 頬が赤くなるほど擦って、私はやっと顔を上げた。眼前に暗幕のように髪が垂れ下がっている。小さく舌打ちをして、それを払った。水飛沫が飛ぶ。袖の裾は水浸しだった。けれどそれに構わず、腕で勢いよく髪をかき上げ、鏡を見た。そこには美しい女性が映っていた。明らかに自分ではない、先ほどまでの平凡な私じゃない、誰かが映っていた。

「え」

 なにこれ。そう思ったのは一瞬だった。

「咲!」

 見間違えるはずがない。夢にまでみた彼女がそこにいた。私の親友がそこにいた。長い黒壇の髪に白い肌、細くて華奢な体なのに芯の強さを感じさせる切れ長の瞳。ぼやけていたけど、確かにそれは咲だった。

 病室に入った私を小首を傾げながら出迎えてくれた咲が、そこにいた。学校のトイレの鏡の中にいた。彼女の頬に手を伸ばす。鏡に手を伸ばして、そこにいる彼女に触れた。冷たかった。無機物なんじゃないかと思うくらい冷たかった。

 相変わらず、そこには咲がいた。彼女はこちらを無表情で見つめている。

「ねぇ咲、生きてたの?」

「…………」

 彼女は黙ったまま、こちらを見つめていた。そこで私は気づいた。鏡の中に人がいるはずがないと。

「これは幻なの。異常な私が見せてる幻覚なの? やっぱり私はどこかおかしいの」

 咲の無機質な美貌がこちらを覗いている。彼女の美貌はより一層凄みを増していた気がした。それこそ手の届かない物のようになってしまった気が。

「ねぇ、答えてよ。咲。やっぱり死んじゃったの、咲」

「…………」

 洗面台の上に身を乗り出した。神に縋るみたいに私は鏡に縋りつく。膝に蛇口が当たって痛い。でもそれより、彼女が何も言ってくれない事の方が辛かった。無表情で私を見てくる、その視線が痛かった。

「私、もう自信ないよ。咲、どうしていなくなっちゃったの。もう戻ってこないの? お母さんは早く学校行けって言うし、お父さんは何にも言わない。みんなみんな、私の事なんてどうでもいいんだよ。咲、あなたが頼りだったのに。あなただけが頼りだったのに。また考えすぎだって言ってよ。助けてよ」

 嗚咽とともに、鏡を叩き続けた。それこそ割れてしまえばいいと思うぐらいに叩いた。叩いて、叩いて、鏡を割ったら、そこに閉じ込められている咲が解放されるかもしれないじゃないか。だから私は何回も叩いた。

「ねぇ、咲。私にはもう無理だよ」

 鏡から彼女は出てこない。鏡も割れない。きっと鏡を割っても、そこから咲は出てこない。私の手が血まみれになって、彼女がどこにもいなくなってしまうだけ。

 私は大切な人も守れない。相手が病でも運命でも関係なく、私は咲を助けなきゃいけないのに。だって咲は私の大切な人だから。血の繋がりとか、性別とか、間に隔たっている物をぶっ飛ばして、道を突き進まなきゃいけない。なのにこの薄い鏡一枚すら超える事が出来ない。

「咲、ごめんね。いつも迷惑かけてごめん。でもまた会いたいよ。二人でいろんなことしたい。咲のしたいことも、私のしたいこともみんなやりたいよ」

 妄言を鏡に吐く。当然、言葉は返ってこない。

「咲は服が好きだったもんね。知ってたよ、私が病室に居た時は隠してたけど、あそこにはファッション雑誌が沢山あったもんね」

「…………」

「きっと咲が外を歩いたら凄かっただろうなぁ。中学の時だってモテてたもんね。告白はされてなかったけど。けどひっそりとだけどファンクラブとかもあったんだよ。知らなかったでしょ」

 鏡の中と、この世界の距離はどれくらいなんだろう。今が三次元だとして、鏡の中は何次元なんだろう。そして咲は何次元にいるんだろう。天国だったら何次元なんだろう。それ以外なら何次元なんだろう。たかが数字が違うだけなのに、どうしてこんなにも遠いんだ。手が届かないんだ。足し算なら簡単なのに。

 再び鏡に向かって手を伸ばす。鏡の彼女は、相変わらず冷たかった。

「また会いたいよ」

 震えた手で彼女の頬を撫でて、私は笑った。そしたら咲が無表情から、怒ったような顔に変わった。まるで「だめだよ」って言ってくれてるみたいだった。それが私は嬉しかった。

「ありがと、咲。それだけで嬉しいよ」

 にっこり笑った。きっとその笑みは今日一の笑みだ。律に「友達だ」と言って貰った時より嬉しかった。胸がぽかぽかして、渦巻いていた感情は一瞬で吹き飛ぶ。私にとっての咲は、そういう存在だった。神様と同じだ。この世界で唯一私を裏切らないでいてくれて、ありのままの私を認めてくれた。

 この関係を依存という。それか崇拝だろう。そんなの知っていた。それでも私にはそれしかなかった。だって余りにも過酷だから。自分なんて大嫌いで、自信もなくて、何がしたいかも分からない。子供のような私。子供なのに図体だけ大人に近づいた、そんな私。

 正義のヒーローとか、天才とか、せめて役割が欲しかった。だけど才能は神様からのギフトで、私になんかあるはずもない。だから夢を捨てた。淡い憧れみたいなものも捨てた。結婚したいとか、頭よくなりたいとか、願望くらい持っておけばよかったのかもしれない。それすらもせず、私は私を見限った。一番私に期待してた私を、私は裏切った。

そしたら途端に足元は見えなくなって、真っ暗な未来は見通しが立たなくって。高校を卒業して、大学に行って、その後どうすればいいのだろう。敷かれたレールを、盲目でも歩ける点字ブロックを、いつでも歩み続けたい。そういう訳にはいかないのに。考えすぎだと人は言うんだろう。もっと何も考えずに生きればいいのだろう。それでも私はそう在れない。

「じゃあ、また後でね」

 だから私は死ぬしかない。

 分裂した魂、依存せずにいられない醜い性根、人殺しの穢れた手、その全てを浄化するのは、裁判所でも、精神科でも、カウンセラーでも不可能だ。それを可能とするのは業火のみ。生の果てにある煉獄のみ。

「私もすぐにそっちに行くから」

 鏡の中にいる咲に、私は微笑んだ。

「約束してた山、行こうよ。お弁当でも作ってさ。私、お母さんに教えられたから料理結構得意なんだ。それでハイキングしよう。二人で外に行くなんて、中学校ぶりだね」

 あの頃はよかった。私はそれを更新し続けている。下り坂の道を、上を向いて歩き続けて来た。星空に手を伸ばして、あれが欲しいと駄々を捏ね続けて、でも届かない。けどそれはもう今日で終わりだ。

 今日、私は階段を昇って上に行く。今までのような上を見て、そこを歩いている気になる道じゃない。本当に未来を目指して歩くんだ。いや、その逆かもしれない。永遠の停滞を私は得る。世界の限界の外側へ、物理法則の外側をこれから叩く。

「じゃ、また後で」

 私は手を振った。散歩に行くように軽い調子で、右手を咲に向ける。びしょびしょの髪はそのままで、歩む事に水が滴る。歩いた後には水が落ちている。それが私の道程、タオルが一枚あれば消えてしまう儚き道。

 ならこんな物いらない。ここまで歩んだ道なんて、咲がいなくなっちゃったら、ないのと同じだ。お葬式で彼女が火葬場で燃やされてしまった時、私も一緒に燃やされた。ここで歩いている私は、その残りカスだ。

 トイレの扉を開けて、私は廊下へ足を出した。窓から差し込む夕陽が視界を焼き、どこからか流れて来た風が頬を撫でる。トイレと違って、廊下は生きた場所だった。そのせいで、全身を晒すのに躊躇する。そこは死んだ私には眩しすぎた。茜色が世界を染める。美しいその一部に、私はなりきれない。

「実は――」

「え、それじゃあ――」

「それを――」

 三人が話している声が漏れ聞こえる。議論は私抜きで白熱しているようで、随分と大きな声だった。既に三人死んでいるのに、元気なものだ。

 私は教室がある左側ではなく右側に足を向け、階段へと向かおうとした。その瞬間だ。私の肩が叩かれたのは。

「っ」

 思わず飛びのいた。たたらを踏んで、尻餅をつく。驚きと恐怖で脚が動かない。そんな状態でも、なんとか私は背後に立っていた人物を見上げる。

「さ、き」

 そこにいたのはある意味犯人より驚きの人物だった。

「だめだよ」

 黒髪をたなびかせて、彼女は立っていた。柳腰の、一目で美貌を感ずる雰囲気を漂わせ、彼女はそこに在った。それは先ほどまで鏡の中に閉じ込められていて、私が何度も叩いて救おうとした人だった。私の親友だった。

彼女の細い腕が、へたり込んでいる私の前に差し出されている。

「え」

 頭の中では何度も思っていた。咲はまだ生きていると。まだ死んでないと。そうやって思い続けていたけど、それでもどこか理解してた。彼女は死んじゃったんだって。病気に負けてしまって、この世界から永遠にいなくなってしまったんだって。そうやって理解して、受け止めていた。なのに希望を抱いてしまう。

「ぶすっ」

 咲が私の胸に指を当てて、そんな事を言う。

「さき」

「そこは叫んで倒れる所じゃない?」

 私は呆然と彼女を見上げている。

「なにさ。お化けでも見たみたいな顔してさ」

 咲が中学生の時みたいに、にそっと笑った。それは私達が高校生になってからは一度も見せなかった笑い方だった。本当に彼女の体調がいい時しかしない笑い方だった。

「どうし…て……?」

「どうしてじゃないよ。私は、美玖が望んだから来たんだよ」

 呆然と口を開ける私に、生前一度も着れなかったセーラー服を着た彼女は胸を張ってそう言った。

 

 

 

 差し伸べられた手を取って、私はゆっくりと立ち上がった。その後、まじまじと眼前の咲を見つめる。

「なにさ」

 彼女は居心地が悪そうに体をよじった。

「いや……」

 気にせず彼女を見つめて、その手を何度も握り返す。確かに生きてる人の手だった。

「ねぇ咲、どうして」

「生きてるのかって?」

 おそるおそる尋ねた私の言葉を、彼女が引き継ぐ。それに頷いた。咲は得意気に片頬を吊り上げる。

「実は私は死んでないんだよ」

 そしてそう言った。私は思わずぽかんと口を開ける。

「あ、今嘘つけと思ったでしょ」

 それを見て彼女がにやにやと笑う。

 だって私は咲のお葬式を見ているし、遺体が棺の中で横たわっているのも、それが火葬場に行く所だって見ている。彼女は確かに死んでいた。信じたくなかった私は何度も確認した。頬を撫で手を取って、脈を確かめ体温を測り。けれど咲は死んでいた。

「そうだよ! だって咲は……」

「確かに死んだよ。けどこの場所は特別だからさ。今だけは生きてられるの」

 声を上げた私を遮り、彼女は得意気に微笑む。

「いつまでいられるの?」

「いつまで……かぁ。それはちょっと、わかんないなぁ。でもそんなに長くないかな」

「そうなの?」

「うん。特例中の特例だからね」

 私が眉を下げると、咲が頭を撫でてくる。

「ねぇ、この場所はなんなの。どうしてみんな殺されてるの? 私が殺しちゃったの?」

 彼女の手が濡れた髪をなぞる感触に身を委ねながら尋ねる。なぞる手が震えた。少しの沈黙が降りた。

「美玖は殺してないよ。大丈夫だよ」

 優し気な声が耳に届く。でも胸中の不安は晴れない。未だに頭には死が居座っている。

「ほんとうに。でも証拠があるんだよ。私の手は血塗れだったし、記憶も曖昧で。咲が死んじゃってから私、ほんとにおかしくって。夜になると涙は止まらないし、なのにお母さんは変わらず学校に行けって言うの。もう、どうにかなりそう。きっと私は二重人格なんだよ。それか精神異常者。分かんないけど、治療が必要なんだと思う。ねぇ、どうすればいいのかな。私がみんな殺しちゃったのかな」

 混濁した思考のまま、咲にぶつけた。彼女は私を抱きしめてくれた。心臓の鼓動が聞こえる。華奢なのに包容力があって落ち着く。安寧の中で私は彼女が「そんなことない」と言ってくれるのを期待した。

「そんなことないよ」

 期待通り、咲はそう言ってくれた。けど続く言葉は期待通りじゃなかった。

「だってみんなを殺したのは私だから」

「え?」

 聞き間違いかな。私は思わず身じろぎした。抱きしめている彼女を見上げようかと思った。でも表情を見たら全てを理解してしまう気がして動けない。

「病室で寝てたら悪魔がね、美玖が酷い目に遭ってるって言って来たの」

 黙りこくる私をよそに、咲は一人で喋り出す。

「私は美玖を助けるために命を引き換えに契約を交わしたんだ。だから私は死んじゃった。でも気にしなくていいよ。どうせ、もう長くなかったし」

 咲が何を言ってるのか分からなかった。単語は聞こえるけど、上滑りして届かない。いつもの彼女は死んでしまって、遠くに行ってしまったんだろうか。

「この場所はね、悪魔と契約した私が美玖を脅かす奴らを殺すための場所なの。だから皆を殺し終えたら美玖は自然と解放されるよ。だから安心して。美玖はここから帰れるよ」

 彼女の胸の中にいるのが怖ろしくなる。同じ姿かたちの別人なんじゃないかと思う。

「手が血塗れだったり記憶が曖昧なのは、きっと悪魔の悪ふざけだよ。悪魔、美玖には眞人って言った方が言いか。あれ、趣味悪くてさ」

 彼女の苦笑が私に伝わる。

「とにかく、美玖は安心して。ここで起きたのは美玖のせいじゃないし、現実でも美玖は落ち着いて過ごせるよ。私が……そうするから。だから死ななくていいよ。自殺なんて――やめなよ。これからもっといいことがたくさんあるから」

 優しげな声が上からおりる。現実は生きづらかった。いじめられるのは嫌だったし、学校も大嫌い。そんな状況を変えたかった。けどそのために咲が死んでしまったのはもっと辛かった。だって神様がいなくなっちゃったんだから。

「咲は分かってないよ」

 私はぽつりと呟いた。

「え?」

 彼女の体が揺れ、私の髪から水滴が落ちた。

「確かに辛かったよ。私は麟二が嫌だったし、閉塞感を抱えてた。何回も死のうと思ったし、ナイフで心臓を刺そうとしたこともある。剃刀で手首を切って水につけたのも、一度や二度じゃない。でも私は死ななかった。いつも怖かったからやらなかったし、それだけの理性が残ってた。全部、咲のお陰だったんだよ」

 私は彼女の体を押しのけて、正面に立つ。

「咲、どうして死んじゃったの。私は、落ち着いて過ごせなくても、いじめられてても、よかったのに。苦しかったけど、咲がいたから耐えられたのに。もう耐えられないよ。私はずっと一緒にいたかったよ。こんな場所なんかより、咲とずっと一緒に居られる場所が欲しかったよ」

 泣きだしそうだった。親友が人殺しをした事も、させてしまった事も、心配されるような状況に陥ってしまった不甲斐なさとかがないまぜになって、今にも涙が零れそうだった。

 咲は、はっとしたような表情を浮かべた後、唇を噛んだ。

「私も、ずっと一緒にいたかったよ」

 悔しさを滲ませた声が響く。

「でもそういう訳にはいかないんだ。ごめんね。もう始まっちゃったから」

 彼女が私に背を向ける。

「待って!」

 悪魔とか、契約とか、始まっちゃったとか全然分かんないけど、ここで咲を止めないともう二度と会えない気がした。私は駆け出し手を伸ばす。

「大丈夫。私は死んでもずっと側にいるから」

「さき!」

「じゃあね、親友」

 私は叫んだ。衝動のままに叫んだ。崖から落とされた子ライオンが、崖上の親を呼ぶが如く叫んだ。何度も何度も「咲」と彼女の名前を叫んだ。けどそれは全部、廊下の闇が吸い込んだ。腹ペコの怪物がそこにいるみたいだった。私の口から発せられる懇願を怪物が食べて、私の想いは届かない。

 さっきの言葉を最後に、彼女は消えてしまった。頭上に載っていた手の感触だけが、私の中に残っている。先ほどまで彼女がいた場所には、私の体から落ちた水滴のみ。それ以外には何もない。

 自然と私は地べたに這いつくばっていた。失った彼女を求めて手を伸ばす。空を切る。何度も掴む。何の感触もない。そして実感する。

 ああ、私はまた咲を失ったのだと。

 

 

 

 教室の扉が音を立て勢いよく開け放たれ、そこから弾丸のように人影が飛び出してくきた。

「美玖ちゃん!」

「なにかあったの?」

 それは渚さんと朱莉さんだった。彼女達は水浸しの私を見てぎょっとした後、慌てて駆け寄って来た。

「どうしたの! びしょびしょじゃん!」

「私、保健室にタオル取りに行ってくるね」

 渚さんは私の肩を取り、朱莉さんは階段の方に向かった。

「麟二、朱莉さんについてって。一人じゃ危ないから」

 渚さんはめんどくさそうに教室から出て来た麟二にそう言い、彼が朱莉さんの後をついていったのを見届けてから、私に向き直った。

「もしかして、犯人と会ったの?」

 その声は潜められていて、渚さんの瞳には緊張が滲んでいた。なのに、私は何も考えられない。さっきのは夢だったのだろうか。そうかもしれない。そうだ、夢に違いない。だって彼女は死んだんだから。

「ねぇ、どうしてそんなにびしょびしょなの?」

 渚さんが肩を揺すってくる。

 ああ、死んでしまった。彼女は死んでしまった。やっぱり、さっきのは幻だったんだ。残っていた温もりも感触も今となっては消えた。彼女の痕跡を残す物は、もはやどこにもない。

 廊下に手をつき、咲がいた場所をなぞる。彼女の幻影を求めて、魔法陣でも描くかのように、何度も繰り返す。

「美玖ちゃん!」

 渚さんが両手で私の肩を握み、揺さぶる。

「しっかりして! なにがあったの! ねぇ!」

 無理矢理、眼を合わせられた。彼女の茶色掛かった瞳が私を見据えている。それを他人事みたいに思う。

「トイレに行ってから、何があったの?」

 今度はあやすように、優しくそう問われた。やっぱり私は答えられない。もうどこにもない咲の残滓を追いかけている。渚さんの眼が伏せられ、長い睫毛が瞳を覆う。

「大丈夫だよ。もう安心して」

 彼女は自らが濡れるのも気にせず、柔らかく私を抱いた。その温もりに私は咲を思い出す。体が震えだして、嗚咽が漏れた。

「いいんだよ。いいんだよ」

「なにが、いいわけ、ない」

「いいんだよ。大丈夫だから」

 反抗しても渚さんは全てを受け入れる。何がいいかも分からずに、何が大丈夫かも知らないのに、私を抱きしめてくれている。本当に、同世代なんだろうか。私よりも小さいのに、ずっと大きく感じられた。

「咲がね、そこにいたの」

 信じてくれなくてもいいし、私も半ば信じていなかった。ただ言わないと私はどうにかなりそうだった。

「私は、私がみんなを殺したんじゃないかって思ってて、だからもう死のうとしたの。そしたら突然咲が出て来て、みんなを殺したのは私だって。だから私は死ななくていいって。どうしよう、やっぱり私おかしいのかな」

「…………」

 渚さんが息を呑む気配がした。しばらくしてから「おかしくないよ」と彼女は言った。

「咲ちゃんはおせっかい焼きだったからね。もしかしたら困ってる私達を天国から見つけて、助けに来てくれたのかもね」

 そうかもしれないと少し思った。けど心が違うと叫んでいた。あそこにいた咲は間違いなく、実態があったから。

「咲ちゃんが殺したなんて、そんな訳ないよ。きっと美玖ちゃんを守るためにそう言ったんだよ。美玖ちゃんは気負い過ぎなとこあるしね。自分が犯人かも、なんて思ってる時点で気にしすぎだよ。もし犯人だったとしても、その時は私達がちゃんと止めてあげる」

「ほんとに?」

 私が尋ねた。

「ほんとに」

 渚さんが頷いた。私は廊下をなぞるのをやめた。

「さっきまで、咲がそこにいたんだ」

 妄言と取られると分かってそう言う。

「そっか。よかったね」

 彼女は子供をあやすみたいに、私の頭を撫でた。

「私に――ありがとうって」

「そっか」

「私のこと親友だって」

「そうだね」

「私はまた……」

 声が滲む。喉が引き攣って痛い。目頭の辺りが、マチ針で刺されたみたいにツンとした。落ち着いて決壊した涙腺から、涙が零れだす。ただでさえびしょ濡れな渚さんのセーラー服が、涙で濡れていく。

「咲ちゃんは強かったね。もっと弱かったら、きっと楽だったのに。記憶の中の咲ちゃんはいつも笑ってて。病室でも辛そうになんかちっともしてなくて」

 きっとそれは壁打ちみたいなものだったんだろう。でも私以外から語られる咲は初めてだった。特に中学を卒業してからは。

「美玖ちゃんは知らないと思うけど、私も時々、咲ちゃんのとこに行ってたんだ。咲ちゃんには秘密にしてって頼んでた。美玖ちゃんは私が行ってるって知ったら、来づらいと思ってさ。ほら、私達ってその、あんまし仲良くないし」

 罰が悪そうに彼女は左手で頬を掻いた。本当は仲良くしてくれる彼女を私が拒絶したのに、そう誤魔化した。

「でも咲ちゃんは私にとっても大切な友達だからさ。何回も行ったよ。そこで何回も言われたんだ。美玖をよろしくって」

 私の頭を撫でる手が止まる。

「だけど私、なんにも出来なかった。麟二にいじめられてるのも止められなかったし、美玖ちゃんが一人ぼっちなのもどうにも出来なかった」

 それは彼女のせいじゃない。いじめを拒絶する強さを持たなかった私のせいだ。人と群れるのを弱さと断じた愚かさのせいだ。だけどそう言えない。弱いから。

 いっぱい本を読んで来た。アニメもドラマも、映画だって見た。こんなシーンだって、幾つもあった。登場人物が発する言葉の予測すら出来る。なのに私は何も言えない。

「私は、弱いよ。どんだけ強く在ろうとしても、彼女みたいにはなれない。なる必要はないって分かってる。咲ちゃんが特別心が強い訳じゃないって知ってる。でも、あそこまで隠さないでもよかったのにね」

 私は彼女の独白を聞き続けた。

「辛い時は頼って欲しかったな」

 その弱さを許さなかったのは、私達なのかもしれない。不意にそう思った。自殺という逃亡を、最強で最高で、人として最低の逃避行を、その逃げ道をひた走った私の先に、彼女が立っていた。私はまた救われた。

「私も頼って欲しかった。頼るだけじゃなくて、頼られたかったよ。なにも返せなかった。返したかったのに、何が欲しいかも分かんなくて」

 私は俯いて、考える。気を遣われるのが嫌だったのだろうか。気を遣わせるのが嫌だったんだろうか。それとも、怒りとか不機嫌とか感情すら持たないのか。そんな訳ない。直接見えないだけで、その痕跡はあった。乱れたシーツ、割れた花瓶、破り捨てられた雑誌。悲しみと怒りの足跡。見ないふりをしたの私だ。

「何もかえせなかったよ」

 声が震えた。罪を自覚する。私は、なにもしなかった。そんな私に渚さんは言う。

「何も返せなかったなんて、違うよ。きっと返せたよ」

 彼女が力なく微笑む。あるはずのない真理を持っているみたいな顔をしている。

「どうしてそんな事が!」

「思うしかないんだよ!」

 思わず声を荒げた私を、真剣な眼差しが差す。ひょうきんな態度じゃない。優し気に人を守る時のそれとも違う。彼女の唇の端はわななき、肩を痛いほど握られる。

「咲ちゃんは死んだ!」

「でも、」

「死んだんだよ!」

「さっき」

「もう、咲ちゃんには会えない! どれだけ願っても、叶わないんだよ。私だって会いたい。会いたいよ。私を和也と繋げてくれて、朱莉も救ってくれた。私だけじゃ朱莉は救えなかった。私は和也と表面上は別れるハメになったけど、朱莉を救ってくれた。だから、何か返したかった。けど、なんにも返せてない。私だって……まだ……」

 渚さんが唇を噛んだ。薄っすらと血が滲む。彼女は私に自分という鏡を投影していた。

「だから思うしかないんだよ」

 肩に伝わる力が一層強くなった。痛みに思わず顔を顰める。それでも彼女は握り続ける。

「きっと、なにか返せたって。自分じゃ気づかないようなささいな物でも、きっと返せたって。何か私はあげられたんだって、残された私達は思い続けるしかない。思い続けて感謝するしかないんだよ」

 彼女の顎先を雫が伝い、落ちる。セーラー服が更に濡れた。咲の死を私は誰とも分かち合わなかった。お葬式は粛々としていて、声を上げて泣いている人はいなかった。みんな覚悟していた。彼女は死んでしまうのだと。渚さんもそうなのだろう。だから私達は死の実感を得る事なくここまで来た。

「死んだ和也も、律君にも、私達は何かあげられたんだよ」

 私は反射的に首を振った。違う。そんな事ないと言おうとした。けど渚さんは言い募る。

「違うなら、どうすればいいの。私はどうやって、自分を納得させればいいの。美玖ちゃん、無力な自分を責めちゃダメだよ。どんだけ客観視したって、私達は私達なんだから。出来る事しか出来ないんだから」

 彼女の涙が私の手の甲に落ちる。彼女も自分を責めていた。この状況でリーダーを張って、犠牲者を出した。その数日前に友人も亡くしている。死に触れすぎた。悲しみと郷愁に駆られて、それでも現実はそれを許さない。

 私にはその気持ちが痛いほど分かった。だけど認める訳にはいかなかった。認めたら、さっき会った咲はどうなる? 一人、行き先も告げず発った友は何処へ行く。彼女の気持ちを拾えるのは私しかいない。

「そうだね。そうだね」

 私は嘘を吐いた。いや、嘘とも言えない。それは本当だった。前を向いて生きるには渚さんが正しい。

「きっと何か返せたよね」

 それなら私は後ろ向きで歩く。そんな決意をいざ知らず、彼女は遠い目をして呟いた。

「本当に、頼って欲しかったなぁ。だって私は、これでも学級委員なんだからさ」

 渚さんは力なく笑った。

「さ、いこ。私も美玖ちゃんもずぶ濡れでしょ? 保健室で朱莉が待ってるよ」

 渚さんが私の手を握って歩きだした。私の足が勝手に動く。

変わり映えのしない白皙の壁は、ところどころ塗装が剥げていて年月を感じさせる。不気味なほど静かな構内に、二人の歩く音だけが響いた。陽はすっかり落ちている。廊下にはライトが灯っていない。落ちかけている陽の朱い色だけを頼りにして、私達は歩いた。二人の涙は止まっていた。

今朝から始まった殺人騒ぎ。それから既に九時間近く経っていた。長いようで短かった。嘘、とても短かった。感情の制御が効かない日だ。大海原に放り投げられたガラス瓶みたいに、壁にぶつかって、割れて、砕けて、それでも海を漂い続ける。学校という海に私はいる。

いつ出られるのか。どうやって出るのか。まだ死人は出てしまうのか。

 考えても分からない。全ては神の、私の神様の神意次第。だけど願った。だから願った。どうか、もう殺さないでと。そして叶うならば、もう一度会いたい。

「保健室、行こ」

 渚さんは振り返りもせず言った。返答をさず頷いた。私達は階段を降りて行く。下を見ていた。私にとっては未来に繋がる、咲へと繋がる道だ。そう信じて、私はまた一歩を階段を降りた。

 

 

 通い慣れた保健室はいつもと変わらぬ様相で私を出迎えた。薄肌色のカーテンで覆われた三つのベッド、開放感のあるデスクと丸椅子、ちょっと穴の開いたソファ、ガラス棚には消毒薬や湿布などが並べられている。常にアウェイな学校の中で、保健室だけが私のホームだった。けど今そんなホームにはアウェイが満ちていた。

「それで、どうして濡れてたの?」

 全身をタオルで拭き終えカーテンから出た私に、丸椅子に座った渚さんは開口一番そう言った。

「そうだよ」

 朱莉さんがソファの上で頷いた。

「あー」

 私は朱莉さんの隣に座りながら、斜め上の方向を見た。それを訝しんで、二人はますます詰め寄って来る。

「何か言えないようなことなの?」

「とりあえず言ってみなさいよ」

 自分は二重人格で殺人をしたのは片方の人格で、それに絶望して自殺を決意したら、目の前に死んだはずの咲が現れたと。そして咲が「みんなを殺したのは自分だ」って言い出した。

「あー」

 意味が分からない。かといって、ここで「ちょっと気分が落ち込んじゃって」なんて言うのも変な話だ。

 逡巡する私を朱莉さんが覗き込んで来た。体を捩ってその視線から逃れる。

「ねー」

「ちゃんと言ってよ」

 横目で様子を確かめると、朱莉さんがジト目でこちらを見ていた。渚さんも興味津々といった様子で身を乗り出している。いたたまれなくなって、口の中で舌を動かした。何かいい言い訳でも考えなきゃとは思うけど、まともなのが思い浮かばない。

「その、ちょっと緊張してきちゃって落ち着くために顔洗ってたんだけど。なんか、すっごい暑くなってきて、むしゃくしゃしたから頭から水被った」

「はぁ?」

 結局、奇行を働いた事になってしまった。きっと「何やってんだ、こいつ」とか思われてるんだろうな。ただでさえ浮いてるのに、また変な風に思われる。脳内で頭を抱えていると、渚さんが小さく笑った。

「まぁ、仕方ないよ。私だって正直、真似したいくらいだしさ」

「はぁ?」

 朱莉さんがへの字に顔を歪めた。一方で渚さんは頷く。

「だって怖いよ。いつ殺されるか、なんで殺されるかも分かんないんだもん。どっちか分かったらまだ覚悟のしようがあるけど、何にも分かんない。恨みを買った覚えもない。私は普通の高校生だよ。そりゃ後ろめたい事もあるけど、普通の人と同じくらいだと思う。どうして、こんな目に遭ってるんだろうって何回も思った」

 彼女は椅子の上に両足を乗せ、膝の上に顎先を埋めた。子供みたいな外見の彼女がそれをやると、本当に幼い子供みたいだった。

「だから仕方ないよ。そんな気分にもなるよね」

「そういうもの?」

「そういうものだよ」

 相変わらず朱莉さんは仏頂面のままだったけど、渚さんがそう言うならと納得したようだった。

「にしても水被るのはやりすぎだと思うけどね」

「あはは」

 それでも尚唇を尖らせた朱莉さんを、私は笑って誤魔化す。だというのに、なぜか彼女の機嫌は急落下する。なぜだろう? 分からない。

それを察知したのか、渚さんから悪戯っぽい声が飛んだ。

「朱莉も昔はそうだったじゃん。忘れたとは言わせないよ」

「は? 何言ってんの、あんた」

 朱莉さんが露骨に顔を顰めた。それに、渚さんは一層笑みを深くする。

「あれは、寒い寒い冬の日の事でした。何年ほど前でしょうか、五年ほど前だったと思います。私と朱莉さんは二人で私の家に向かっていました」

「何の話よ」

「まぁまぁ、人の話は最後まで聞くものだよ。残り物には福があるって言うし」

「用途が違うでしょ」

「まぁまぁ。ええじゃないか、ええじゃないか」

「どうでもね」

「あ、あの、続きを」

 犬も食わぬ下らない喧嘩を繰り広げる二人に、おそるおそる声を掛けた。

「それもそうだね」

 頷いて渚さんが再び話し始めた。

「その日は本当に寒くて、雪もちらついてたんだ。当然、私はコートにマフラー、手袋までして完全防備。でも朱莉は相変わらずの生足で、防寒は最低限。体調悪くしてまでオシャレする意味あるのかね」

「うるさいねね、あんた」

「ま、そこは置いといて。その日、朱莉の母親は不倫旅行中で、朱莉が家に一人になっちゃうから、私の家に呼んだんだ」

「ストップ」

 鋭い声が飛ぶ。

「思い出したから、もう言わないで」

「えー、こっからじゃん。朱莉の水びしゃエピソードは」

「うっさい」

「でもこれで分かったでしょ? 朱莉と美玖ちゃんは動揺する箇所が違うだけ。それは私も一緒。だから、別に水被っても不思議じゃないよ」

「はいはい。分かったよ。そういう気分になる時もある」

「ごめんなさいは?」

「は?」

「今、論破したでしょ? 論破されたんだから謝ってよ」

「ほんといい性格してるね、あんた」

 にやにや笑う渚さんに、苦虫を噛み潰した顔する朱莉さん。そんな二人に私は声を上げて笑ってしまう。朱莉さんがこんな軽快に喋るなんて初めて知ったし、渚さんと仲がいいなんて知らなかった。

二人揃って笑う私の顔を見てくる。その動きがぴったりで。

「なんだか懐かしいね」

 頬が緩んでいるのを自覚しながら呟いた。二人は目を丸くして、その後互いに顔を見合わせる。

「そうだね」

「うん」

 蛍光灯の明かりが目に痛かった。薄目で彼女達を見た。みんな大きくなっていた。どろんこになって走ったあの頃と比べて、朱莉は美しくなって、渚さんは風格のようなものを備えている。私はどう見えているんだろう。何か変わったのか分からない。私自身でさえ見つけられない私探しのかくれんぼは、今も続いている。

「どうして、あんま話さなくなっちゃったんだろう」

 幾年も流れた。その間、耳も眼も塞いでいた。興味がないと切り捨て続けた。その方が楽だから。だけど、耳と眼を塞いでも、時は流れてしまう。私以外のみんなは、その流れに逆行してきた。抗って、自らの道を選んだ。喪失を選択と勘違いした愚かな私は、だから取り残された。

「二人とも普通に話せるのに、学校だと喋んないじゃん。喧嘩でもしてたの?」

 軽口が平常の水面に、石を投げる。途端に二人が黙り込む。渚さんが口を開いて、閉じる。罰が悪そうに朱莉を横目で覗いた。覗かれた彼女は腕を組んで眼を閉じている。自分で言っておいて、私は下を向いた。

 沈黙が続く。

「彼氏の元カノと親し気なんておかしいじゃない」

 朱莉さんが吐き出すようにそう言った。

「美玖も知ってるんでしょ? 私と和也が付き合ってたの」

 射貫くような彼女の視線、私は首を縦に振る。

「和也は元々渚と付き合ってた。それも知ってるよね。あんた達がくっつけたんだから」

「あんときはどーも」

 渚さんが片手を挙げ、呑気にお辞儀する。私もおずおずと頭を下げた。頭を上げた時、彼女と目が合った。それがすごく優し気で、あの時の記憶が蘇る。

「和也は渚と別れて、彼は私と付き合い始めた。これが学校で流れてる、一般的な情報ね。真実は違う。実は私は和也と付き合っている風に見せているだけなんだ。渚は彼と別れてないよ」

「え?」

 ぽかんと口を開ける私に、渚さんが人差し指を立てて言う。

「要するに、偽装恋人って奴だよ」

「何のために?」

 小首を傾げる。

「実は、ちょっとトラブルがあって」

 それに朱莉は苦渋を味わったみたいな顔をしてそう濁した。けど未だに眉を寄せる私を見て、観念したのか話し出す。

「私、いつも明るいグループで過ごしてたでしょ。男女入り混じったグループで、その中でみんなカップル作ってたんだ。くっついて離れて、時には外に作って、中にはそういう事をするだけの人もいた。くだらないグループだよ。友達だ友達だって普段は言い回ってるのに、結局行きつくのは男女関係。ハリボテにすら劣ってた」

「まぁ、あるよね。そういうの。私は苦手だけど」

「あんたはそうだろうね。私だって苦手だよ。でもそこ以外は結構馬が合ったし、悪い人たちじゃないんだ。初めの方がそんな感じじゃなかったし、ほんとそこ以外はよかったんだよ」

 感情を殺したように淡々と話す朱莉と、茶化すように笑う渚さん。そのギャップに戸惑いつつも、徐々に話が見えてくる。

「私、まだ男の人が怖くて、だけど周りはなんで誰とも付き合わないんだって言ってくるし、もうぐちゃぐちゃで。折角、中学からの知り合いがあんまいなくて、ちゃんと友達作れたのに、もしここで仲良く出来なかったら、また中学の時みたいに一人ぼっちなんじゃないかって」

 朱莉は家庭の事情から男性恐怖症だ。中学校の時が特に酷かった。保育園からずっと一緒で仲良くしていた麟二や和也はともかく、それ以外の男子とは全く喋れなかった。同じ空間にいるだけで圧迫感を感じるらしく、そんなので友達が出来るはずもない。高校になってから徐々に緩和していったけど、完治には程遠い。

 なのに彼女が高校に入ってから所属したグループは、男女関係を強要されるようなものだった。そこに交わるため、朱莉は渚さんに頼み、彼氏の和也を借りたのだろう。

「理由は何となく分かったけど、それなら別のグループに混じればいいだけじゃない?」

 そんな事をするより縁を切った方がよっぽど簡単に思える。

「うわぁお。きましたよ強者の論理」

 渚さんが仰け反ったポーズをする。大げさすぎてちょっとむかつく。

「それは……そうなんだけど」

 朱莉さんが苦笑して頬を掻いた。

「美玖ちゃん、朱莉は結構頑張って友達作ったんだよ。それを合わないから捨てろってのはちょっと酷いんじゃないかな。美玖ちゃんと違って、友達がいないとやってけない人もいるんだよ。朱莉みたいに」

「その言い方、腹が立つね」

 相変わらず飄々としている彼女に、朱莉さんは唇を尖らせ、その後に肩を落とした。

「渚の言う通りだね。私が弱かったから。私はあそこ以外のグループでやっていけないと思っちゃった。あそこに見捨てられたら、いじめられるんじゃないかって怖かった。中学みたいな腫物扱いは嫌だった。周りにそう思われるのも、そう扱われるので安心してる自分も嫌いだった」

 彼女は泣きそうな瞳で滔々と語る。

「私はもう、戻りたくないの」

 膝の上に置かれた拳が固く握られ、小刻みに震えていた。彼女の顔は長い髪で隠れている。けれど青ざめているように見えた。和也や律が殺された時も毅然とした態度を崩さなかった朱莉の弱った姿に、私は何も言えなくなってしまう。

「美玖は分かるでしょ? あの辛さ。誰も助けてくれない。だけど助けて欲しいと願ってしまって、そんな自分がどんどん嫌いになっていく。もう、あんなの耐えられない。いじめられてる美玖は、分かるよね」

 歯茎を噛みしめる。痛いほど知っている。肉体を痛めつけられて、それ以上に心が傷つく。心無い言葉以上に、その現状を動かせない自分が嫌いになる。どうしようもない負の連鎖だ。

「あの、朱莉は美玖ちゃんを馬鹿にしてないよ。ただ、もういじめられたくないっていう話で」

 控え目に渚さんが声を上げる。

「分かってるよ」

 慌てる彼女に、私は笑みを浮かべた。

「分かってる」

 繰り返す。それは朱莉さんへの答えで、私への自問だった。

「まるで、昔の朱莉みたいだね」

 今なお、彼女はうずくまって震えている。まるで迷子の子供みたいだった。幼い日、公園で別れ際に見た彼女に戻ってしまっていた。落ち往く陽の中、不安気に眼を伏せ、帰って行く私達に手を伸ばす。どこにも行き場のなかった朱莉。髪がぼさぼさで肌ががさがさな、自信なさげに口端を曲げて笑っていた子供の時にそっくり。

「……だよね」

 渚さんが立って、朱莉さんの手に自らの手を乗せる。彼女は基本抱き付き魔だ。誰かを慰めるのに彼女はよく抱き着いて、頭を撫でる。けど朱莉だけは違う。彼女だけには手を乗せて視線も合わせずにいた。

「もう嫌だって思って変われる朱莉はすごいよ。普通は変われないし、変わろうとも思えない。現に私は変わっていないし、何を変えればいいかも分からない。ごめんね、付き合う人を買えればいいなんて言って」

 私は軽く頭を下げた。

「誇るべきだよ。嫌で、それから逃れるために何か出来た自分を」

 今朝、和也にしな垂れかかる彼女を見た。今日だけじゃなくて、何回も見た。それらすべてがカモフラージュだった。いくら子供の頃からの友人だとはいえ、トラウマを抱えた朱莉がそれをするのがどれほど大変だったことか。

「でも渚に迷惑かけた」

 しかしそんな肯定が彼女の心を晴らすはずがない。その闇は深すぎるから。

「またそれ? もういいって、聞き飽きた」

 言葉通り、本当に聞き飽きているのだろう。渚さんはあからさまにため息を吐き、

「そりゃ彼氏取られていい気分なんかしないけどさ。それでも幼馴染に頼まれたら手伝うよ。それに和也が私の事好きなのは疑ってないし。忍ぶれどってね」

 自信満々に言い放った。

「それは本当にそう。私がどれだけ接触しても、無表情だった。少しくらい動揺してもいいのに。厳つい顔してロリコンなのかも」

「勝手に接触しないで頂けますか。それにロリコンじゃなくて、心を大事にするタイプなだけですから。朱莉みたいにギャルは恋愛対象じゃないってさ」

「なによ、その言い草」

「だって本人が言ってたもーん」

「言ってたもーんじゃないわ」

 元のように言い合いを始めた二人に頬が緩んだ。

「あんた麟二の前で、別れたならもう他人だから関係ないみたいな事言ってたじゃない」

「な訳ないよ。末代まで呪ってやる。いーや、和也が末代になるように呪ってやる。一生独り身で過ごせばいいんだ」

「それいいわね。私も今度からそうしよ」

「今度って、朱莉誰とも付き合った経験ないじゃん」

「張っ倒すよ」

けれど胸中に帳が降りる。

結局、これも空想でしかない。和也くんは死んだ。もう渚さんが彼の横を歩く日は来ない。だからこの会話は、きっと春の夜の夢だ。

学生生活から隔離された、一種停滞した空間である保健室。のソファに腰かけた朱莉さんと丸椅子を回す渚。現実を忘れ、彼女達は話し続ける。

「でも朱莉も誰かと付き合う日が来るのかねぇ」

「さぁ、分かんない。今は誰とも付き合いたいと思わないけど」

「またまた。こういう奴に限って、一番に結婚するんだよ。あーあ。やっぱガツガツしてるとダメなんかね」

「そのなりで肉食系とか、ウケる」

「肉食系じゃなくて、一途って言って欲しいな」

「どうだか。すっぽんも言いようによっては一途だし」

「はぁ?」

「ほら、一度喰らいついたら放さないって」

「むぅ、人を妖怪みたいに言って」

 二人は睨みあって火花を散らし――はじけたように笑った。私もそれに釣られて笑みを浮かべる。しばらく笑った後、朱莉が咳払いをした。

「もういい。そんなのより元の話に戻すよ。まぁ、そんな感じで、私と和也は偽装恋人してたの」

「偽装恋人って……。間違ってないけどさ」

「なんか、物語みたいだね」

 渚さんは微妙な顔をしていたけど、私はちょっとわくわくしていた。

「じゃあどうやって言えばいいのよ」

「恋人交換」

「偽装恋愛」

「交換はしてないし、恋愛もしてない。却下」

 三人で笑い合った。互いの本心は分からない。もう子供時代には戻れない。相手が何を考えているかなんて考えずに、要望を押し付け合えたあの頃には。

 話の流れなんて考えずに、好きな話を好きな時に出来た。あの頃は会話がカードゲームじゃなくて、かくれんぼだった。探して、探して、見つかって。見つかったら、鬼と一緒に公園をうろうろ。それが幸せだった。楽しかった。自然と笑えた。今はゴシップで共同体を作って、嫌悪で結束を固めて、同調で幸福を演出している。それが正しい。それが人間。それが生物。猿だってイルカだってやっている。そのコミュニケーションが異常だという事に気づかない程、私はそれが当たり前になっていた。

 目の前にあるやりとりを眺める。こんな気の置けない会話に混ざるのは久しぶりだった。私がしてきた会話のほとんどは咲とのもので、彼女とは相互的で傍観者になる事はなかった。でも、端から私と咲の会話を見たら、こんな感じだったんだろう。

 やっぱり私には咲が必要だ。

 天啓、でもない、事実。人は神を探して外へ行き、宇宙にたどり着いた。そこに神はいなかった。だから創作者は外宇宙に神を創って、地を這う人類は内面に向かった。私の神は内面にはいなかった。外にいた。それは咲だった。神なのに人間なのかと人は笑うだろうか。笑うなら笑えばいい。幾ら笑っても、私が彼女に救われた事実は変わらない。

「なんだか楽しいね」

 私はそう言って、また笑った。

「なんだか昔に戻ったみたい」

 渚さんがまた言った。

「ほんとそう」

 朱莉がしきりに頷いた。

 みんな、分かっている。私が何か隠している事を。分かっていて笑っている。踏み込むべきでない一線があると。

「ああ、楽しかったな。ほんとに」

 朱莉が天井を見上げた。「他の皆もいたらよかったのに」きっと彼女の言葉の後ろにはそう続く。でもそれは発話しなかった。二度と叶わない。時が経って、私達は無垢でいられなくなった。私達が無垢でなくなったように、和也達は骸になった。咲によってそうなった。そして彼等を殺した咲自身も、ここに混ざれない。

しばしの沈黙が落ちた。いよいよ、夜が本格的に始まる。窓から見える外は恐ろしいほどに真っ暗で、時計は七時を指していた。月が世界を染める。今日は満月だった。私が狼男なら喜んだ。でも私は人間で、ここは学校。満月はただ不気味で、思わず身震いする。

 時を同じくして、渚さんが息を呑んだ。私が彼女の方を向く。優し気な顔に影が差し、唇がわなないていた。

「麟二は?」

「え?」

 私と朱莉さんが目を見合わせる。

「さぁ、私は見てないよ。渚たちと一緒にいたんじゃないの?」

 朱莉さんが言う。私は唾を呑みこむ。

「私は朱莉についてって言ったんだけど」

 吹くはずのない風が吹いた気がした。冷えた空気が立ち込め、疑念の渦が巻き上がる。

「ねぇ美玖と朱莉、どっちが殺したの? 朱莉かな。多分、朱莉だよね」

 渚さんがうわごとのように呟いた。それが合図だった。彼女が立ちあがり、一歩足を踏み出す。朱莉はソファから跳ね上がり、彼女に詰め寄る。

「渚、何言ってんの!」

 今にも掴みかからんかという雰囲気だった。なんとかして止めないといけないと思った。

「まだ死んでるって決まった訳じゃないよ」

 平静を装って、私が言う。内心焦っていた。彼が死んだとしたら、それは確実に私の仕業じゃない。そして朱莉さんでも渚さんでもない。きっと咲の仕業だ。

「まだ決まった訳じゃない……か」

「私達を疑うのは安否を確かめてからで遅くないよ。早く確かめなきゃ」

 肩を落とす彼女に言い募る。時間稼ぎにしかならないと分かっている。でもこの場で争って、喧嘩別れになるのは嫌だった。

「そ、そうだよ! まずは確かめなきゃ! もしかして迷子とかになってるだけかも。ほらもう夜だしさ」

 空元気を振りかざす朱莉に、渚さんが胡乱げな目を向ける。

「とにかく、確認しに行こう」

口論になる前に話題を切り上げ、私は踵を返して保健室の扉を開ける。廊下は冷え切っていた。九月と言えど夜はそこそこ冷える。でもそれ以上に、闇が恐ろしい。窓から差す月光は弱すぎて、豆電球を付けないと寝られない子供みたいに足が竦む。それでも扉を抜けて足を出す。やけっぱちに右足を踏み出す。

 私は歩く。一人で、殺人鬼がいる校舎を進む。一寸先は闇という言葉が、これほど似合う状況はない。廊下は電気が点いてないから真っ暗で足元がおぼつかない。スマホをポケットから取り出してライトを点ければいいんだけど、そんな気分になれなかった。今はこの暗闇に体を浸したかった。そうすれば、何かが映し出されるかもしれない。自身が一枚の写真になって、未来とかを現像するかもしれないと思えた。この期に及んでそんな非現実的思考に身を浸す自分の弱さが嫌だった。

 全身が火照っていた。体は熱いのに、外気は冷えている。そのギャップが、周囲と私の境界だ。それはきっと交わらない。これからも一生。

連絡通路に出る。壁の隙間から夜空が覗く。ちかちかと輝くそれらは美しかった。人工物はあの輝きに一生かかっても届かないだろう。それこそ私の一生を費やしても、到底あれには届かない。

 だって私も人工物だから。

 後ろから足音が聞こえる。聞き慣れたスリッパと床が擦れる音だ。二人が走ってこちらに来ている。こうやって空想に浸るのも終わりだ。まぁ大したことはしてない。ヒーローが言えばかっこいいのになぁ。グチグチ言ってただけで、私はほんとに何もしてないからなぁ。

「美玖ちゃん! 危ないよ!」

 渚さんの声、私は振り向く。

「ごめん!」

 さっきまで殺人鬼に疑っていた人間を気遣うその心に、私は一種の尊敬を覚えた。

 

 

 

 それから私達三人はスマホのライトを付けて、校舎を歩いた。初めは一階。次は二階と階段を上ってじゅんぐりに。二人は怯えているようで、互いに抱き合っている。それに私は苦笑した。

 二階に上がった時、途端に空気が湿っぽくなった気がした。うまく言えないけど、変な感じだった。第六感が働いたのかもしれない。

 足場を確かめながら歩く二人に対し、私は気負いなく先に進んだ。歩き慣れた校舎だけど、夜になるとだいぶ趣が変わる。それは情景的な意味でもあるし、感情的な意味でもあった。学校の七不思議は大抵、枕詞に夜がつく。夜の理科室、夜の音楽室、夜の階段、夜のトイレ。もうお化けに怯える歳でもないけど、そんなのいないと達観するには若すぎる。咲談では実際、悪魔はいたわけだし。

 私は恐怖を堪え先に進む。その後ろに渚さん達が続いた。

「麟二、聞こえたら返事して!」

「おーーい!」

 音が波状に伝わっているとよく分かるくらい、声は空虚に走っていく。

 先が見えなかった。自分がどの辺りを歩いているかを示すのは教室のプレートだけ。恐怖をごまかし、唇を噛む。咲は想像場所をどうして学校にしたんだろう。別の場所、病院とかだったらよかったのに。よりによって大嫌いな学校にするなんて。

 頭を振って余計な思考を追い出し、私は歩いた。祭囃子よろしく渚さんと朱莉が麟二を呼ぶ声を引き連れて、廊下を往く。

どれほど歩いただろう?

その先に彼はいた。三階に向かう階段の手前、階数表示版の下だ。予兆はなかった。嘘、あった。あったけど気づかなかった。それは教室に漂う独特な、鉛筆とか汗とかが混じったちょっと木材の香りがするあれに混じっていた。予兆は微かな血の臭いだった。それにみんな気づいていたけど、誰も口には出さずにいた。実際、二階に上がった時点で知ってた。なんだか湿っぽかった。でも言えなかった。言ったら本当になってしまうから、気休めだけどそれが怖かった。

 もう三人死んでいた。みんな限界だった。彼氏を失い、友人を失い、幼馴染を失って、更に誰かを失うのは耐えられない。考えたくもない。だから黙っていた。

黙っていれば可能性で済む。そうやって逃げていた。

 けたたましい音を立ててチャイムが鳴る。音波が体を揺らして、ぶん殴られたような衝撃が頭を襲う。でも目の前の光景が、それ以上に私を揺さぶった。

「っ」

「麟二」

 朱莉は口を手で覆い、渚さんが無力感と共に言葉を吐き出す。

 階段の手前で、彼は無残な姿で発見された。遠くからではシルエットすら見えなかった。それもそのはずで、彼の体は下半身がなかった。上半身だけが廊下に立っていた。子供がふざけてちぎった人形みたいだった。半分になったペットボトルみたいに斬られていて、分かれた胴の部分から血が滴っている。それはリノリウムの傷跡を走り、葉脈みたいにじわじわと私に迫った。思わず飛びのいたけど、血液は直ぐに追いついてきて、スリッパの先を鮮血に染めた。

 彼の死に様は壮絶な物だった。目を血走らせ大口を開き、涙のように血の跡が頬を伝っていた。人を呪って死んだらこうなるんだろうと思えるような顔で、数秒見ただけで腹の奥がざわついた。

「うぅ」

 朱莉が呻く。渚さんが肩を抱いた。彼女は深呼吸を繰り返してなんとか平静を取り戻し、死を否定するように眼を固く閉じた。今までだったらトイレに直行していただろうに、今日だけで随分私達は死体に慣れてしまった。

 私は死んだ麟二をじっと見つめる。

 もうそこに学校で何度も私を殴った彼はいない。骸となった。悲しみもないし、不思議と喜びもない。殺したいほど嫌いだったのに、これをやったのが咲だと思うとむしろ怒りが湧き上がる。彼女への怒りと、そうさせた私への怒りが止められない。麟二が死んで、咲が殺した。事実は残酷に告げられる。

「死んだね」

 呟く。

「もう三人しかいないんだね」

 続ける。

「麟二も、和也も、律も、みんな死んだんだね」

 過去は戻らない。死者は生き返らない。私の呟きに、誰も何も言わなかった。滾々と流れる血液に足元を濡らし、死の実感だけが強まっていく。

 呆然としながら考える。なんのために咲はこんな事をするんだろう。私のためだって言ってた。私を助けるために命を投げ捨てて悪魔と契約したって。私は咲に学校での事を言わなかった。だって言ったら彼女は心配するし、弱い所を見せたくなかった。彼女の前だけでは強く在りたかったし、彼女には美しい物ばかり見ていて欲しかった。だけど結局心配させて、悪魔なんかと契約させて、挙句の果てに殺人をさせた。不甲斐なかった。私は彼女がいないと何もできないと、証明てしまった。

 死ぬのは一瞬だ。人を証明するのは道程だけ。彼等の足取りがどれだけ短かったか。咲の歩数がどれだけ少なかったか。私は悟る。咲が死んだこの世界で、神様がいないこの場所で、福音を失ったこの大地で何を為せばいい。なにもないんだ。咲がいない世界に救いはない。

 丘の上の病院、その一室。箱庭で咲は確かに神だった。

「り、麟二」

 渚さんは手をだらりと下げ、麟二の血走った見つめていた。生前は彼女より三十センチは背が高かったのに、今ではずっと低くなっていて、屈んでちょうどいいくらいだった。

「麟二……」

 彼の頭にそっと手を伸ばし、撫でる。硬い髪がくしゃくしゃになって、それは手を放しても戻らない。彼の魂はここにはない。

「頭、最後まで撫でてあげられなかったね」

 寂しい瞳だった。泣いてはいない。でも和人が、恋人が死んだ時よりも悲しそうだった。何故だか私は分からなかった。二人に幼馴染以上の接点なんてなくて、よくケンカしてて、ライバルみたいな感じだった。二人の間に特別な感情なんてないはずだった。

 そのはずだ。

 渚さんは黙って、死んだ彼の頭を撫でている。私と朱莉はその間何も言えなかった。悲哀を湛えている相貌はあまりにも美しくて、胸を打った。二人の間には特別な何かが感じられた。

「じゃあね」

 渚さんが瞼を伏せ、最後にもう一度彼の髪を撫でた。彼女は名残惜しそうに麟二を眺めた後、私達を一瞥して、闇へと消えて行った。渚さんが階段を歩く音が響く。一階に行ったらしかった。再び沈黙が訪れ、私と朱莉は顔を見合わせる。私はどこかへ向かった渚さんを追いかけようとする。その肩を朱莉が掴んだ。振り返ると、彼女は首を横に振っていた。

「私達じゃ怯えさせるだけだよ」

 悲し気に言う。

「そう言う朱莉は、私が怖くないの?」

「もう、どうでもよくなっちゃった」

 彼女は肩を竦めた。私は「そう」とだけ言って、渚とは反対側に歩き始める。

 築いた絆なんてない。絶対の信頼関係なんてない。砂上の楼閣、蜃気楼。吹けば飛んでしまう幻のようなもの。死によって分かたれれば二度と戻らず、極限状態では忘れ去られる。朱莉と渚さんの関係がそうだとは思わない。けど、その関係は麟二と渚さんの関係には勝てなかった。

 そうだ。部活の友達とか、クラスで一番仲がいいとか、全部全部コミュニティごとのその場しのぎで、「本当の一番」はいつも別の所にある。

でも私は違う。絶対に咲が一番だ。だから私はそれを取り戻さなきゃ。私の神様を取り戻さなきゃ。じゃなきゃ生きてる意味がない。方法は分からない。理屈なんて分からない。私にとって咲は呼吸と同じ。踏みしめてる大地と同じ。七日間で神は世界を創り、十七年で咲は私を創った。どっちも不完全な仕事で、最後は消えた。私はただ病室という楽園で咲と過ごした。林檎は食べてない。蛇にそそのかされてない。けど彼女の死によってそこを追放された。

 その日々が私の道程。私を創ったのは彼女。

 だからきっと迎えに行く。その場所が世界の果てでも。

 

 手持無沙汰になった私と朱莉は、行く当てもなく校舎を歩いていた。とてもじゃないけどじっとしていられなかった。二階から三階へ上がり、教室に入っては外に出て、かと思えば二階に戻って。意味のない事を繰り返す。隣を歩く朱莉の呼吸が響く。渚さんはもうどこに行ったか分からない。恐らく死を覚悟し、無力感を噛みしめながら、私達のように校舎を徘徊しているのだろう。時折、下の方からすすり泣く声がする。この場所には三人の亡霊と、一人の殺人鬼がいる。前者が生者で、後者が死者なんて変な倒錯だけど、事実だ。

 まぁ、そんな場所を私と朱莉は二人で彷徨っていた。風は凪いでいて、じっとりとした空気が漂う。夜、暗い中をスマホのライトだけを頼りにしていた。けどそれが唐突に消えた。

「あっ」

「どうしたの? 充電でも切れた?」

 闇夜に染まった世界。奪われた視界の中、手探りで私が近づく。

「っ」

 彼女が後ずさった。

 もう一歩距離を詰める。その分だけ朱莉が後ずさっていく。目を凝らすと相貌には怯えが張り付けられていていた。そこで彼女が私を警戒していると気づく。私は朱莉が犯人じゃないと知っているけど、彼女はそうじゃない。私を犯人だと疑っているのかもしれない。

互いに睨み合う。彼女のスマホのライトが切れた。完全な闇が降りる。息遣いだけが流れている。空気に粘度が混じり始める。朱莉の荒い鼻息が、私の顔に当たる錯覚すら感じる。

「さっき、どうでもよくなったって言ってたじゃん」

 軽口をぶつける。

「どうでもいいよ。いいけど」

 ベルリンの壁みたいに強固な壁が、言葉を阻む。

「私は自殺志願者じゃない」

 息を吸い込む音がやけに大きく届く。

「それもそっか」

 頷いて、私は一歩後ずさった。そして両手を顔の横に持っていく。その動きに驚愕する気配を肌で覚える。闇に慣れて来て、朱莉の姿が徐々に見えてきた。彼女は電源の切れたスマホを胸に抱き、震えていた。

「なんで、なんで、そんな平気そうな顔してるの」

目の焦点が合っていなかった。歯は小刻みに揺れ、顔は青白く、まるで化け物みたいに、私を睨みつけている。

「美玖、あなたおかしいよ。なんで、なんでそんな平気そうにしてるの。麟二も死んで、渚もどっか行っちゃって。もう私達死ぬしかないんだよ。なのに、どうしてそんな平気そうな顔して歩いて、それどころか手を挙げてるの。おかしい、おかしいよ。私が犯人だって、どうして思わないの。どうしてそんなに簡単に手が挙げられるの。ねぇ、答えてよ」

 ヒステリックに声を上げて、彼女が私のセーラー服の襟を掴む。

「それは……」

 咲が犯人だって知っているから。思ったけど、そんなの通用する訳ない。

「朱莉のこと、信じてるから」

 感情なんてこもってない、煙みたいな言葉を口から吐く。けど彼女はそれを聞いた途端眼を丸くして噴き出した。

「あっはっは! 嘘つくならもっと上手くつきなさいよ。美玖が私達の事信じてる訳ないじゃない!」

 呆気に取られた私の肩を叩き、朱莉は背を向けて歩きだす。

「美玖が信じてるのは咲だけでしょ。そんなあんたが私に信じてるなんて片腹痛いよ。そもそも、私とはベクトルの違う人間嫌いだし。てか、今思えば人に構うより自分のことで手一杯の奴がこんな事する訳ないか。あーあ、心配して損した」

 彼女は晴れやかな声音で歩いていく。私だけが取り残されていた。突然のことに戸惑って、それに私の核を当てられてムッとした。緊張の糸が切れて、するするとほどけていく。私は小走りで彼女を追いかける。

「ねぇ、犯人なの」

 そんな私をよそに、振り返って朱莉が言う。

「犯人じゃないけど」

 足を止めずぶっきらぼうに返した。

「本当に?」

 にやにや笑いながら彼女はまたそう言った。

「本当だよ」

「そっか。ならよかった」

 ふてくされると、やっと納得してくれた。

「朱莉も犯人じゃない?」

 咲の仕業だと分かっていても、儀礼的に聞き返す。

「私も違う」

 唇を引き結んで、朱莉が首を横に振る。

「でも渚がやったとは思いたくない」

 真摯な瞳が私を見ていた。

「だろうね」

 となると消去法で私になる。彼女もそれを分かっている。

 再びの沈黙。けど睨み合いにはならない。

「まぁ、ここまで来たらどうにでもなれ! だね。もう半分死んだみたいなところあるし」

 朱莉が朗らかに笑う。

「どうして、信じてくれるの」

 思わず尋ねた。

 彼女は笑った。

「だって中学に上がってからの美玖、昔の私にそっくりなんだもん。私はこの世の全てを恨んでた。それを渚に救って貰った。両親が離婚して、DV親父が家から消えて、だけど母親は男と毎晩どっかに行って。私のご飯はいつもカップ麺か、コンビニの菓子パンだった。それだってこっそり母親の寝室に潜り込んで、服のポケットから盗んで買ってたんだよ。煌びやかな衣装の中から小銭を盗む時、すごくすごく惨めだった。この服一着で、私は何日食べれるんだろうって、子供ながらに思ったよ。私は全部が嫌いだった。どうして生まれたんだ。どうして産んだんだ。そう思ってるのに、学校ではみんなが私をちやほやしてくれる。その落差に掃きそうだった。一瞬の快楽のために産み出された私が、顔だけしか取り柄がない自分が大嫌いだった。今も嫌い。和也に頼らないと私は結局、学校で過ごせなかった。弱すぎて、唯一の取り柄に縋る私が嫌い」

 朱莉が私から眼を逸らす。

「でも昔ほど人を嫌いじゃない。嘘、まだ嫌い。けど前みたいに恨んでばっかじゃない。悪い事ばっかじゃないって知ったからね」

 彼女が再び私に背を向ける。

「美玖、全部が嫌いすぎて何も分かんなくなってる。咲が死んじゃって余計にそうなってる。自暴自棄になってる。今の美玖なら、咲が生き返るためだとか言って新興宗教に手を出しても不思議じゃない。だけど別に他人を恨んでるとかじゃないでしょ。ただどうしようもなく自分が嫌いなだけ。そんな人は人殺しなんて出来ないよ。一番殺したい人は殺せないんだから。殺したいのは自分なんだから」

 朱莉は自分の手を空に伸ばす。その先には天井があって、星はなくって、月もない。夢がない。

「私と美玖は似てるよ。麟二と渚みたいに。もし何かが違ってたら、私も美玖みたいに全てを嫌っていたかもしれないし、逆に美玖は私みたいに人嫌いなのに人付き合いしてたかもしれない。多分、ほんの些細なボタンの掛け違いだと思う。だから分かるよ、美玖が人殺しなんてしてないって」

 全てを知って受け入れて、彼女が笑いかけてくる。私は何を言えばいいのか分からなくって、反射的に手を強く握った。煩悶する感情は喜びでも怒りでも悔しさでもなくって、戸惑ってしまう。暖かい気がしたけど、それを認めたら私は私でなくなってしまう気がした。そして最終的に唇を噛んだ。ちょっと血の味がした。私の唇はもうぼろぼろで、薄皮が剥げていた。キスでもしたら、きっとガサガサ過ぎてびっくりされる。キスなんてしたことないし、する予定もないけどきっとそうだ。

「そうかもね」

 暴れる感情を抑え、私は頷いた。そして今まで通り冷笑を始める。

 似てはいても、私と朱莉は違う。人は似ているという言葉が好きだ。私は母に言わせれば、母の姉に似ているらしい。変な風に理屈っぽくて、気難しくて、そんでもって人間嫌い。だからその前例に私を押し込めようとする。私と叔母は違うのに。

 でもそれが安心するのだろう。ほんの少し、砂粒ほどの共通点を見つけてはそれをあげつらって「一緒だ、一緒だ」と騒ぎ立てて、「仲間だよ。君の気持ちわかるよ」と甘く語り掛けてくる。

けど私と朱莉は違う。だって彼女の心は外に開けてる。人嫌いの共通項はあっても、それを解く方程式の解が違う。朱莉のそれは渚さんであり、和也くんであり、渚さんの両親であったりする。彼女の解は複数で複雑に絡まっていて、Xなんて五乗くらいあるに違いない。それはつまり解けないってことだ。けど私は違う。私には一つの解しかない。だから私と朱莉は全然違う。

 そんな風に理屈づけ胸に宿る感情を無視し、私は颯爽と話題を変える。

「ところで、麟二と渚さんが似てるって、どういうこと。全然似てるように思えないけど」

「あー、渚が前よく言ってたんだよね。麟二は環境が悪かっただけで、本当は優しいんだって」

「ふーん」

「私からすれば優しすぎだと思うけど、渚はそういうスタンスだったね。けどいくら環境が悪くたって、迷惑かけられる側からすればたまったもんじゃないよ。実際どう、美玖は麟二を許せる?」

「許す?」

「だよね」

 私はただ聞き返しただけなのに、彼女は得心がいったと頷いた。

「私だって親を許せるか、なんて聞かれたらそういう反応になるよ。そういう話じゃない。渚も一度私達と同じになればもう、環境が悪くて可哀想なんて言えない。そりゃ同情しないとは言わないけどさ、責任感とか、無理しがちなとことか渚と麟二は確かに似てると思うし。でも私は麟二を優しいとは思えない」

 朱莉は少し腹を立てているようだった。

「確かに麟二は可哀想だったよ。両親がすごく厳しいってのは私には分かんないけどさ、親から期待されて、それに応え続けなきゃいけないってのがプレッシャーだってのは分かる。その上、お兄さんは優秀で常に同じ水準が要求されるなんて苦しいだろうなって思う。そして麟二はその水準に達せずに、見捨てられた」

 それは事実だった。噂になってる訳じゃないけど、家の雰囲気というのは何となく近所に漏れるものだ。都会ならまだしも、それが地方都市の田舎ならなおさら。

「渚にも優秀な親と兄がいるけど、みんな優しいでしょ。私みたいなのにも優しくしてくれて、夕ご飯何回もごちそうして貰った。けどもし、渚のお父さんとお母さんがすごく厳しかったら、今の渚じゃなかったかもしれない。だから渚は麟二を自分と重ねてたんだよ。もしかしたら私もああなってたかもって」

「でもそれ全然違う話でしょ。そんなの答えなんかないし」

「だよね。私もそう思う。だから変な同情やめなよって言ってたんだけどなぁ」

朱莉は大きく伸びをした。その拍子に少し脇腹が見えて、私は見ちゃいけないものを見た気がして目を背ける。

「で、美玖はどう思う。渚と麟二は似てると思う?」

 彼女が振り向きざま、尋ねてくる。

「え、全然似てないでしょ」

 意表を突かれて、思わず素で答えた。すると朱莉は鳩が豆鉄砲をくらったみたいな顔をして、その後盛大に笑った。

「ははは、そりゃそうだ! 傍から見たら全然似てないよね! 仲間意識なんて所詮そんなもんか」

 校舎内に笑い声が響く。私の口角も自然に上がる。

「ところでさ、美玖は環境が人を悪くするのか、人は元々悪い人として生まれてくるのか。どっちだと思う? 散々虐げられた美玖はどっちだと思う?」

 突然の質問に頭は真っ白になって、何も考えられない。ただ私の知識が天啓のように答えを出した。

「あの、えと、その、私は、両方だと、思う」

 そう口にすると、彼女は喜色を滲ませた。

「美玖らしいね。もっと聞かせて」

 朱莉が続きを促す。私はそれに従ってどんどん話した。幸い知識だけはある。そう、それこそどこで得たのか分からない知識だ。頭の引き出しに乱雑に突っ込まれてたそれらを開けて、朱莉に向かってぶちまけた。誰にもしたことない話、自分にあるなんて知りもしない知識たちを、朱莉に全部ぶつけた。

 性善説から始まって、運命論に入り、正義論から独我論に飛んで――。

 きっと内容はぐちゃぐちゃだったと思う。系統だってもないし、話した内容があってるのかすら定かじゃない。それでも朱莉は聞いてくれた。

「へぇ」

「ふんふん」

「それで」

「つまり今見えてる世界は、自分がいるおかげで見えてるから、世界は私そのものってこと?」

 それどころか、質問すらしてくれた。

 ちゃんと理解しようとしてくれた。

 本当に、本当にぐちゃぐちゃな話だったんだ。かわいげのない子供の、言葉遊びみたいなものだった。なのに、なのに彼女は聞いてくれた。それがたまらなく嬉しかった。母も咲もくれなかった喜びをくれた。

 高揚感と共に私は紡ぐ。

「――だいぶ話から逸れちゃったね。でもそういう訳で、私は環境と生まれつき両方が悪人を生む要因になると思うんだ。まぁ、その悪人の定義もこの現代社会の法律とか社会規範が定めたもので、かなり不安定なんだけどさ」

 長い話をそう締めくくると、朱莉は「なるほどね」と頷いて、

「美玖、話すのへたくそだね」

 にやにやしながらそう言った。

「う」

「あんま人とこういう話したことないでしょ」

 彼女から視線を逸らす。また笑った気配がした。

「咲とはあんま話さなかったの?」

「だって咲とこんな話してもしょうがないじゃん」

 恥ずかしくて、反抗交じりに唇を尖らせる。

「そっか。咲にはこんなのじゃなくて、もっと綺麗なもの見てて欲しいもんね」

 心臓が跳ねた。図星だった。だから私は彼女に童話を好んで読ませた。咲は眠り姫で、人魚姫で、シンデレラだった。ふわふわしてて綿菓子みたいで、重力なんてないみたいな顔してそこに在って欲しかった。彼女には哲学みたいな人間の内面に宿るヘドロじゃなくて、虹や星みたいな美しい物を見て欲しかった。

「悪とか善とか、くだらないよね!」

 彼女はスキップで廊下を駆けた。少しカールした茶髪が翻り、月光に反射して眼球を焼く。

 朱莉がこちらを振り返った。暗くて表情が見えない。でも口紅の引かれた唇が弧を描いているのが分かる。

「考えたって仕方ないしさ! もっと考えるべきことがあるよ!」

「たとえば?」

「え」

 人差し指を顎に当てて、彼女は少し考えて。

「今日の夕ご飯何作ろうとか、明日のお弁当どうしよっかとか。渚の課題、手伝わなくっちゃとか。この歌手の曲、素敵だなとか。そういうことだよ」

 私は思わず笑ってしまった。なんだそれ、くだらない。

「あ、いまくだらないって顔したでしょ」

 こっちはあっちの表情が分からないのに、あっちは分かってるみたいだった。

「今度はなんでわかるのって顔」

 大口を開けてしまう。

「ははは! ほんとわっかりやす」

 人差し指が私を指して揺れている。

「いいんだよ、くだらなくて。世の中にくだらなくない事なんてないんだから!」

 朱莉がまたスキップで廊下を走る。短いスカートが揺れて、白い太ももが遠ざかる。気づけば私もスキップしていた。兎みたいに、ぴょんぴょんって。ばかみたい。でも楽しい、面白い。

「そーだよ。くだらなくない事なんてないんだよ。私達が死にそうなのも、みんなが死んじゃったのも、世界から見たら、星から見たら、とってもちっぽけでくだらない!」

 彼女の体から真っ直ぐ伸ばされた両手がやじろべえみたいに宙を彷徨う。それはまるで私たちの存在そのものみたいだった。

 こんな不思議な空間に閉じ込められて、咲が齎す死を待つことしか出来ない私たち。でも、そんなの現実も一緒。結局、存在を確立するのは自分。自分の存在を確信できるのは、自分しかいない。それは他の誰でもない。私だけ。いわゆる神はきっとちっぽけな私なんて見ていない。

 だから私達は産まれる時、大声を上げる。

「だれか見て」

「だれか救って」

「だれか、だれか、だれか」

 それは見つけて欲しいからだ。親とか祖母とか医者とか、個人個人の神様に。そして何より自分自身に。

「そうだね! くだらない!」

 私は大声で叫ぶ。校舎に木霊する、私の声。こんなに高かったっけ。もっと低かった気がする。風を切る感触が心地いい。セーラーの襟がはためいて邪魔くさい。

「そうだよ! 全部くだらないんだよ! 正義とか悪とか、誰と仲良くするとか、そんなのどうでもいい! ただ、私は私が幸せであればいい! ただそれだけを目指すの! ねぇ、それって悪いことかな!」

 風の音の奥で、朱莉の声が薄っすらと聞こえた。

「悪くなんてない!」

 反射的にそう答えた。彼女の真意は分からないし、なんなら何を言ってるかも聞こえなかった。でも私はそう答えた。

 スキップで校内を駆けまわって、階段を一段飛ばしで昇って、四段飛ばしでジャンプして。子供みたいに何段飛ばしが限界か対決した。

 バカみたいだった。くだらなかった。何段で飛んでも何も変わらない。頭はよくならないし、美人になるわけじゃない。せいぜい、毎日やったら痩せるかもしれないくらいだ。

 だけど私達は笑っていた。

 笑いながら校内を走り回っていた。何度か渚さんともすれ違った。

 彼女は「何してるの」と声を掛けて来て、朱莉がそれに「遊んでるの!」と返す。苦笑していた。

朱莉がジャンプに失敗して、膝小僧を擦りむいた。白い脚が赤くなってて、私はそれを指さして笑ってやった。

それから少しして、私が階段飛ばしに失敗して、脛を打った。そのまま私はその場に悶絶して動かなかった。痛みにしばらく呻いていると、先に行ったはずの朱莉が戻ってきた。

「大丈夫?」

 なんとか眼を開けた先に、透明なネイルが塗られた指があった。私は涙を流しながら首を横に振った。背中に手が当たる。擦られる。嗚咽が漏れた。なんでだろ。悲しくなんてないのに。苦しくなんてないのに。痛いだけなのに。向う脛が痛くて、辛いだけなのに。どうしてこんなにも、体がばらばらになってしまいそうなほど痛いんだ。

「ほら」

 私は差し出された手を握った。彼女の力も借りて私は立ち上がる。

「ありがとう」

 お礼を言った。自然と出た。

「ドジなんだから」

 彼女は言った。会話は終わった。

「おーーい! 二人とも、何してるのさ!」

 渚さんの声が聞こえた。

「ちょっとね!」

 朱莉が返す。二人とも息切れが酷い。口の中は血の味がして、頭がくらくらする。でもいい。これでいい。

「美玖の話、下手くそだけど面白かった」

「え?」

「また、ああいう話聞かせてよ。好きなんでしょ、哲学」

「別に、好きって訳じゃ」

「嘘が下手。美玖って誤魔化すのは得意でも、嘘は苦手なタイプだよね」

「そんなこと」

「あるよ。美玖は好きなんだよ。話すのが。だってあんなに楽しそうにしてる美玖、久しぶりに見たもん」

 彼女の額を汗が伝っていく。私はそれを眺めていて、黙っている。

「だからまた聞かせて。色々話そうよ。難しくて下らない事も、簡単すぎて話すのも馬鹿らしい事もさ」

 朱莉が天真爛漫な顔で笑いかけてくる。それは季節外れに咲いた向日葵だった。幼い頃、下を向いていた苗が、見下ろしていた苗が、私の背丈よりも高くなっていた。

 私はしゃがみ込んで、上目遣いに彼女を見た。彼女が首を傾げる。その反動で汗が落ちて、額に当たる。

「あ、ごめん」

 ポケットからハンカチを取り出して、私に落ちた汗を拭う。視界がハンカチのピンクに染められる。

「こんな時だから言うけどさ」

 朱莉は私の眼をハンカチで覆ったまま話し始めた。

何だろうと思う。

彼女の話も、この胸に走る痛みも、私は分からなかった。

「私、ずっと美玖とまた仲良くなりたかったの。申し訳なく思ってた。こんな事言える立場にないのは分かってる。私はいじめられるのが怖くって、何も言えなかった。言わなかった。麟二が死んで、私も近々死んじゃうかもしれないこのタイミングで、こんなこと言うのは卑怯だって分かってる。でも言わせて」

 息を吸う音が、やけに大きく耳に響いた。

「ごめんなさい」

 私は、私は、わたしは。

 息を吐いた。

 何と言えばいいんだろう。貧弱な語彙で、この胸に溢れた感情をどう表せばいいんだろう。律は言った、言ってくれた。

「いままでごめん」と。

 渚さんは言った。

「私が一人ぼっちなのをどうにもできなかった」と。

 朱莉は言った。

「ごめんなさい」と。

 ぜんぶぜんぶ、私が貰った言葉で、みんなから受け取ったボール。さぁ、それに何て返せばいい。お得意のマルバツゲームの始まりだ。

 十七年で蓄積された経験値が、喜ぶ回答、怒る回答、茶化す回答を弾き出す。それらを吟味して私は返す――。

 返そう。

 かえさなくちゃ。

 口を開けて、声を発せ!

「ごめんね」

 朱莉の声がまたする。

「ごめんなさい」

 ちょっと荒い渚さんの声がする。

「本当に、ごめん」

 私は喋れない。言葉が思いついても、返せない。

「いいんだよ」

「ありがとう」

「これからよろしくね」

「ここから出たら、仲良くして」

「今度、駅に遊びに行こ」

 思いつく。思いつく。腹の中に溜まっていく。でも言えない。本音じゃない。

「もっと早く助けてよ!」

「なんで今まで黙ってたの!」

「こんな時だからって、都合がいいよ!」

「ずるいよ!」

「二人とも、大っ嫌いだ!」

 思いつく。思いつく。喉元まで出かかる。口から溢れそうなのに、でも言えない。きっとそれは本音じゃない。私は本音が言いたい。でも本音が分からない。自分の感情について考えると、怖い。全身がかじかんで動けなくなってしまう。最後に本音で話したの、いつだっけ。分からない。もう、私には偽物しか残ってないのかもしれない。怖い。空っぽなのが怖い。直視したくない。いやだ。いやだ。もう、いやだ。

「ぜんぜん――」

「昔、皆で公園で遊んだときさ、楽しかったよね」

 嘔吐するように出した言葉を遮って、唐突に渚さんが言った。

「そうだね。楽しかったね」

 朱莉がそれに答える。

「うんうん、楽しかったよ」

 渚さんがまた答えて、会話が途切れる。

 二人とも昔の事なんてろくに覚えていないから、具体的なエピソードが話せない。記憶の波に押し流されてどこかへ行ってしまった。

「中身、空っぽだね」

「仕方ないよ。もう十年近く前だし」

「あれから、十年も経ったのね」

「朱莉も胸とか背とか大きくなったしね」

「あんたは昔とちっとも変わらない」

「え、四十センチは伸びたんだけど」

「百センチが百四十センチになっても大した違いじゃないわよ」

「ひどいなぁ」

 二人は笑っていたけど、たぶん一緒に泣いていた。だって私の顔を私のものじゃない温かい液体が幾筋も流れていったから。それはとても温かくて、ひどく懐かしい物だった。それは私が切り捨てたもの、人の温もり。神様だった咲と触れ合い過ぎて忘れてしまっていた、大切な物。

「もどりたい」

 不意に言葉が湧いた。色んな気持ちを燃やした空気を吸って濁った肺、吐く息は全部曇っていて、そこから出る私の言葉は今まで灰色だった。もしかしたら、この言葉すら灰色なのかもしれない。でも今の言葉は透明だと信じたい。

「あの頃にもどりたいよ」

 忘れていた。繋いでいた手、鬼ごっこでタッチした背中、さよならと振った手。全部忘れようとした。分からなかった。分かろうとしなかった。自分の本音を知りたくなかった。知ってしまったら、戻れない。変わらざるをえない。もう、二度と数秒前の私には戻れない。不可逆のカルマに囚われる。

「もどりたいよ。咲が生きてて、みんな仲良くって、気兼ねなく話せたあの頃に」

 視界は覆われたまま。闇の中で叫ぶ。

「そうだね」

「ほんとに」

 頷いた気配がする。

「気づくのが遅かったね」

「ほんとに」

「あーあ、もったいないことした」

「いいじゃん。ここから出た後、やりなおせば」

「やりなおせるかな」

「やりなおせるよ、きっと」

「そうだね」

「そうだよ」

 打てば響く、会話を聞く。

 その夢はきっと叶わない。死んだ咲が、彼女達を狙ってるから。

 眼に当てられたハンカチを振り払う。お互いの顔以外、何も見えない所に涙を浮かべる朱莉と渚さんがいる。朱莉は睫毛が長くて、黒目が少し小さめ。切れ長の瞳をしていて、鼻筋が通っている。渚さんはまん丸な眼をしていて、頬っぺたも丸みを帯びている。眉毛がたれ目系で、優し気だ。昔は二人とも丸い顔でお揃いのショートカットだったのに、朱莉はゆるふわカールで、渚さんは活発なポニーテールになっている。

 変わっていく。

 長い間一緒だったのに、知らなかったよ。初めて知った。変わってたんだ。分かってたけど上辺だけだった。こうして近くで見るまで、私は何も知らなかった。

 ようやくわかった。私の想い。両手を合わせて強く握り、祈る。私は戻りたいです。何も考えずに人と話せたあの頃、人と仲良く出来たあの頃、無邪気で何も知らなかったあの頃に。

 戻れないって知ってます。分かってます。私達は高校生になってしまいました。小学生じゃないんです。もう、ほとんど大人になってしまったんです。でもまだ子供なんです。わがままなんです。お願いです。咲が生きててまだ元気で、麟二や和也、律、朱莉と渚さんと無邪気に遊んでたあの頃に戻してください。

 そうやってみても、願いは届かなかった。この世界に神様はいない。支配している咲は全能じゃなくて、この学校を出ても神様は見守るだけで、私を見ていない。逆行の魔法はかけてくれない。だから前に進むしかない。

「ここから出たらさ。山登りにでも行こうよ。本宮山」

 渚さんが切り出した。

「えぇ、なんで本宮山」

 朱莉が思いきり顔を顰めて、渚さんは苦笑する。

「そんな嫌な顔しないでさ。昔はちょくちょく行ってたじゃん。あそこ、結構好きだったんだ。街が一望できてさ。背が伸びた今行ったら違う景色が見れるよ」

「背が伸びたって……、大して変わんないじゃん」

「うるさいなぁ」

「それにもう若くないし、山登りはきついよ。服とか大変だし」

「若くないって、若さ真っ盛りの高校生が何言ってんの。服なんて体操服でいいしさ。いいから行こうよ」

 渚さんが嫌がる朱莉の腕を引き、しだいに彼女の表情が柔らかくなっていく。

「仕方ないね」

「やった!」

 渚さんはガッツポーズをして、舌を出した。

「美玖ちゃんも行こ。一緒に」

 彼女が私に手を伸ばしてくる。相変わらず小さな手だった。私はそれを迎えにいくように手を伸ばして握った。この手が朱莉を救った手だ。多くの人を救って、私を救って、これから握っていく手。

「ありがとう、渚」

 私は言った。

 渚は眼を丸くしてて、それがおかしかった。でもそれは私も一緒で、やってる事がらしくないなと思う。それで少し笑った。夏風が胸を駆けていく。心地いい。自嘲と嘲笑以外で心から笑うのは久しぶりだなと気づく。人と心を通わせる、こんなにも美しいことを、私は忘れてしまっていたんだ。

「朱莉もありがと」

 自然と口角が上がった。笑ったという意識すらしてない。笑おうとも思ってない。

「なんで?」

 朱莉が尋ねてきた。

「なんでも」

 はぐらかした。

「ここから出たら、一緒に行こうね」

 理由の代わりに、私は小指を差し出した。二人は顔を見合わせ微笑み、揃って小指を差し出してくる。示し合わせたようにそれを絡ませた。朱莉の指は少し荒れていて、私の爪は欠けている。渚のは小さくて苦労知らずだ。ぜんぶ違って、それぞれに良さがある。きっとそれでいい。私の良さはストレスで欠けた爪でいい。

「じゃあ、約束ね」

 私が言った。約束をした。未来を信じた。

咲、今まで私は怖くて、踏み出せなかったよ。振り返ってみると、私達約束なんてしたことなかったよね。そうだよね。咲はそんなの出来ないよね。だって昔、遊ぶ約束して咲が来なかった時、入院しちゃって来れなかった時、私が責めたから。

未来なんてない。そう思った方が楽だった。ここにあるのは、今を生きてる私だけで、過去の自分も未来の自分も存在しない。そんな責任逃れの魔法を、私は私にかけ続けて来た。

 けど違う。過去の私も、未来の私も、今の私も、同じ私だ。

過去には戻れない。あの楽しかった日々は二度と戻らない。咲は死んだ。神様は死んだ。いなくなった。本当にもういないんだ。

なら今の私に出来るのは――。

「これから、たくさん楽しいことしようね!」

 連続する夜明けと日没、全てを愛するのを恐れずに。神の消滅を恐れずに、前を行こう。

 それだけが私に出来ること。赦されたこと。一人じゃ気づけなかった。今やっと気づいた。

咲がいなくても私は一人じゃない。渚は神様じゃない。朱莉も違う。他の誰も神様にはなれない。それでいい。

 ありがとう神様。ここまで歩かせてくれたのは間違いなく貴方。咲がいなかったら、きっと死んでしまっていた。何も言わない父の機嫌を取って、怒るしかしない母の期待に応えて、私は私でいられなくなっていたと思う。命は喪っていなくても、私は喪っていたと思う。皮肉屋で、生意気で、勇気もない。怯えてばっかでものぐさだ。可愛くないし、声が綺麗とも言われたことがない。

 価値なんてない。でもそんな私を好きでいてくれる人がいた。だから貴方は神様だった。

「ありがとう、咲」

 口の中で呟いた。

 薄情かもしれない。お気に入りのおもちゃをもういらないと捨てるみたいに、私は貴方を捨てる。そう見えるかもしれない。でも勘違いしないで欲しい。捨てる訳じゃなくて、一緒に生きたい。死んだ貴方がくれたものは私の中に生きてるから。貴方の命が、貴方の時間が、私を生かした。その証である私が、これから先を歩む。

 一生一緒の存在証明を、世界に、朱莉に、渚に刻もう。

 そのために、まずは咲の罪を清算する。咲は間違ってるって言って、それを認めさせて、その選択をさせた私と一緒に、罪を償うんだ。そうやって言わなくちゃ。この空間のどこかにいる咲に伝えなくちゃ。

「待っててね」

 私が呟いた。チャイムが鳴った。目の前にいたはずの二人が死んだ。どさりという重いものが倒れる音がして、朱莉も渚も闇に横たわる。跪いていた私の膝を暖かい血液が濡らす。手で触れると水みたいで、よだれなんじゃないかと思ってしまう。暗いから眠たくなったのかもしれない。そう思いたくなる。

「朱莉」

 体を揺すった。動かない。

「渚」

 石みたいに動かない。

 軽口を放っていた口は半開きで、ジト目を向けていた瞳に色はない。互いの顔が見えるくらい近かったのに、二人は殺されてしまった。

 どうやってか咲が二人を殺したんだ。どうして殺したんだろう。あんなに優しかったのに、みんなと仲が良かったのに、悪魔に騙されたとはいえなんでみんなを殺しちゃったんだろう。全部私のためなんだろうか。私をこの世界から出すために、みんなを殺したんだろうか。

「さき……」

 戻るのかな。日比谷咲という神様が支配するこの領域を出て、他の神の支配領域に行けばみんなは生き返るのかな。

 分からない。咲しか答えは持ってない。

 会いに行かなくちゃ。その衝動が胸に渦巻く。

 私は立ち上がった。粘度の上がった血液が後ろ髪を引く。けどそれを無視した。どこに行けば咲に会えるのか、分からなかった。でもがむしゃらに走る。

 自分のためだけじゃなくて、二人のために。死んだみんなの意思を継いだ私が、ここであったことを外の世界に伝えるために。

 そうして私は階段を上った。

 

 

私は走り出して、一目散に三階に行った。暗くて足を踏み外して、それでも三階を目指して走った。理由なんてなかった。勘だった。けどそれすらも咲の手の中だったのかもしれない。彼女が私にそういう信号を送っていて、それに操られて動いたのかもしれない。本能で私は動いていた。

 散々走って、気づけば私は見知らぬ扉の前にいた。咲の病院の扉によく似てた。たぶん、一緒だ。白い大きな引き戸で、取っ手の上に「日比谷」のネームプレートがある。それは前に探索した時は存在しなくて、まるでここに入れとでも言わんばかりに三階に突如として現れた。

 私は金属の取っ手に手をかける。冷えていた。長らく誰も触っていないのだろう。私の顔を鏡の様に反射する。汗を流している醜い私が、視界に入る。

 それを受け止め、息を吸った。

この扉が咲に続いているのか実際分からない。でも直感的にこの先に彼女の気配を感じる。大切なのは咲に会う事だけ。彼女の真意を尋ねて、元に戻るのかを聞いて、共に殺人の罪を贖う。訣別には痛みを伴う。咲はおもちゃじゃなくて友達で、親友で神様だった。墜ちるならば共に墜ち、そこから這い上がる。昔の私ならきっと思いもしなかった。彼女と一緒に償おうなんて。全てを咲に押し付けて、逃げ出しただろう。

それはもうやめだ。私は彼女と共に在り、その他の人と共に在る。強くなくていい。弱くていい。私を信じてくれる人にさえ胸が張れれば。

 狭まっていた視界は広がった。辺りは開けていて、私の近くには朱莉や渚がいる。死んだ咲は心の中で芽吹いている。一見何もない荒涼とした大地だったとしても、種を植え水をやればきっといつかは花が咲く。

 種はまいてくれた。あとはそれを絶やさぬだけ。

 私は鍵のかかっていない扉を叩いた。一回、二回と繰りして覚悟を固める。この先にいるだろう彼女に許可を求める。腹は決まった。揺るがない刀を携えて、神に至る扉を叩く。

「いいよ」

 懐かしい声がした。病院の廊下で何度も聞いた、陽だまりみたいな彼女の声。泣きそうな時、泣いている時に耳元で流れていて、心を溶かした甘い声。それと決別するために、私は取っ手を強く握る。

 私は変わった。変えられた。渚や朱莉が私に温もりを与えた。今朝、教室の扉を開ける時に感じていた恐怖はもうない。体も震えていない。革命の時は来た。

だから、しよう。これまでの罪の清算を。

 これが私と咲の物語の終わりだ。

 

 

 

 扉を開けたら、そこは学校の屋上だった。初めて行ったけれど、第一校舎が目の前にあったからすぐ分かった。アニメで見たシーンみたいに殺風景で、エアコンの室外機と銀色の排気口、落下防止の柵くらいしかない。その上、それらも夜の今は眼を凝らしてようやく見える程度だ。遠くにある送電塔が流れ星みたいに光っていた。駅前のビル明かりが青、赤、黄と幾つか見える。更にその向こうには咲や、渚や朱莉と行こうと話した本宮山がある。郷愁に駆られながら、私は泰然と立ち尽くした。物語で勝手知ったる屋上。いつか行きたいと思ってたけど、こんな形で訪れるなんて思いもしなかった。

「綺麗だね」

 コンクリの屋上、その中央に立っていた彼女に語り掛ける。答えはない。彼女は死ぬ前日に見ていたファッション雑誌の桜色のワンピースを着ていた。私が着てもお上りさんにしかならないのに、彼女が着るとすごくきまっていて、あんな味気ない病院着じゃなくてもっとこういう恰好をして欲しかったと思う。そう思うのは私のエゴだ。その選択をさせなかったのは私で、しなかったのは彼女。咲は病気だったから実質選択権はなかったけれど、私が破らせてもよかった。けどそう促さなかった。私は彼女に病人らしくある事を強いた。彼女もそれに満足していた。私達は互いが互いに役割を求めていた。そんな歪な関係を築いたのは私達の業。

「よくここまで来れたね」

咲は開口一番そう言った。

「私もそう思うよ」

 緊張で乾いた唇を舐める。彼女に向かって歩く度、視界が揺れた。心臓が破裂しそうなほど脈動していて、死んでしまいそうだった。でも気のせいだと言い聞かせて、歩き始める。

「それ以上近づくなら、美玖も殺すよ」

 三歩進んだ所で、彼女にナイフを突きつけられた。それでも私は黙って歩き続けた。

「脅しじゃないよ。分かってるでしょ。もう四人殺してるんだから、一人増えた所で何も変わらない」

 黙って歩き続ける。

「止まって!」

 彼女が叫んだ。悲鳴交じりの声だった。私は初めて足を止めた。

「せっかく、私がみんなを殺したのに。もう外に出られるんだよ? 昇降口に行って扉を開ければ、すぐ外に出られる。なんなら窓から出てもいい。それだけで、この世界から出られるんだよ。これでもう美玖は嫌な想いをせずに済む。いじめられる事もなく、穏やかな日々が過ごせる。私がみんなを殺したから、もう悪魔との契約は切れて美玖は自由になったんだよ」

 私を守るために彼女は悪魔と契約し、自分の命を投げ打った。それを選ばせたのが私の罪。分かっていても突き付けられると胸が痛む。

「咲、私は自由なんて欲しくないよ。欲しいのは咲だけ。咲の心だけ」

「美玖、私はもう死んでるんだよ」

「分かってる。分かって言ってる」

「帰って。ここでお別れだよ。元々、死んでさよならのはずだったんだし、大したことないでしょ」

 今まで見た事ない鋭い瞳が、私を貫く。でもそれで諦める訳にいかない。大したことないなら、私はここに立っていない。死んで欲しくなかった。生きてて欲しかった。死ぬのだとしても、こんな風に生き返って欲しくなかった。何の憂いもなく逝って欲しかった。私は、彼女の死を呑み込みたかった。

「むりだよ」

 唇を噛みしめる。痛みが走った。けどそんなのどうでもよかった。

「どうしてみんなを殺したの」

「それはさっき言ったでしょ」

「違う。そういう意味じゃない。咲が私の将来を心配して殺したとか、そんなのを聞いてる訳じゃない」

「じゃあ、何が聞きたいのさ」

 片頬を吊り上げて彼女が笑んだ。それがあまりにも無理矢理で、私もこんな顔で笑っていたんだと思い知らされる。

 胸が苦しかった。同時に自分を呪った。咲をこんな風にしたのは、私だ。勝手に神様にしちゃった。咲は人間なのに。私と同じで人を恐れ、嫌われたくなくて、好かれたい。だから人前で笑うしかない人間なのに。

「なんで、私と一緒にいてくれなかったの! それを願ってくれなかったの! やりたかったことがあったはずじゃん。モデルになりたかったんでしょ。オシャレがしたかったんでしょ。なのに、どうしてその願いを自分のために使わなかったの! 私は、咲が幸せになれたら、その姿が見られたら、それだけで、幸せだったのに! 咲だってそうでしょ! 私が幸せになるためなら、命が捨てられるんでしょ! 私もそうだよ! 咲のためなら、なんだってやったよ!

そこが通じてるのに、なんで、なんで、死んじゃったんだよ!」

 我儘だって分かってる。でも純粋な感情だ。それを私は全力で咲にぶつけた。彼女は固まって、不意を突かれたみたいに動かなくなって、その後黒髪を右手で梳いた。

「本当に、なんでだろうね」

 私から視線を逸らし、ぼんやりと呟く。表情も虚ろで、彼女自身でも何でか分からないみたいだった。

「悪魔がいるんならこんな空間を貰うんじゃなくて、病気を治してって言えばよかったのに」

 逃げようとする彼女を追い詰めるみたいに、私は近寄っていく。私が一歩歩む度、咲は一歩後ずさって、あっという間に逃げ場が亡くなり、最後は落下防止の柵に背を預ける。私の眼光から逃れるために、彼女は後ろを向く。久し振りに見た彼女の背中は生前より遥かに肉付きがよくて、それが嬉しくて悲しい。そんな背中に語りかける。。

「思いつかなかったんでしょ。咲にとって死んじゃうのは確定事項だから」

 背中が揺れた。

「悪魔は多分、咲を誘導したんだよ。たとえば『死ぬ前に叶えたい願いがあるか』とかって。死ぬのを前提にして駆け引きを持ちかけた。それにまんまと騙されて、咲はその条件を呑んだ。対価が何かは分からないけど、悪魔だったら魂とかかな。そして咲は本当の願いを見失った」

 

残酷なことをしていると思う。だって命と引き換えにしてまで、私の幸せを願ってくれた彼女を否定しているんだから。でもしなきゃいけない。それを許しちゃいけない。私のためにも、咲のためにも。それがたぶん友達にすべきことだから。

「生きるのがすごく辛くて、どうしようもなく耐えられないんだったら、悪魔に願わず、普通に死を願えばよかった。でも咲はそうしなかった。ほんとは生きたかったんじゃないの? 叶えたい夢があったんじゃないの?」

「それは……理詰めがすぎるよ。私はそこまで考えてなかった」

「そうだったとしても! 私の幸せなんて願わなくてよかった!」

 私は咲から自由を奪った。一人ではどうしようもない事情を抱えた彼女に依存して、神という役割を押し付けた。

 咲は私から意思を奪った。狭い病室で一人きり、社会から隔絶された彼女は病室を訪れる私に好かれるために、全能のふりをした。

 今思うとお互い様だ。初めは私が依存していただけだった。けれど最後は相互依存になって、私達はどこへも立ち行かなくなってしまった。それこそ彼女が自分の命を蔑ろにしてしまうほどに。

「咲、こんなこともうやめよう。私達を解放して」

「解放してどうなるの」

 背中越し、小さな声だったけれど、私の耳にそれは届いた。

「あの世界に帰るんでしょ? 美玖が大嫌いだった、あの場所に。私がいないあの場所に。いられなかった、あの場所に」

「そうだよ」

「それなら、少しくらいゆっくりしていきなよ。最後には解放するからさ、もう少しだけゆっくりしていきなよ。そんなに急がなくてもいいじゃん」

 咲が振り返って、泣き笑いみたいな顔で言う。私の胸がじわりと痛む。けれどその想いを知らんぷりして、首を振った。

「はやく戻らなきゃ」

「なんで?」

 彼女が口を引き絞った。

「ほら、明日も学校があるからさ」

 私は多分肩を竦めていた。現実を受け入れて、破壊衝動も自殺願望も希死念慮も全てを呑み込んで消化して――。発した時は気づかなかったけど、この言葉が出た時に俗に言う『大人』になったのだと思う。

 だから咲はそんな私を睨みつけて、潤んで、いやいやするみたいに髪を振って、俯いた。

「私達を解放して。もう楽になろ。私も咲も」

 一歩、また近づく。三次元と四次元、はたまた五次元か。分からないけれど、死という次元の壁に阻まれていた私と彼女は、織り姫と彦星よろしく同じ次元にいる。こんなのは奇跡だ。死んだ人間への贖罪の機会が与えられるなんて。

 彼女の艶やかな黒髪は夜闇でも輝いている。それは天の川みたいにきらきらとしていた。北極星みたいな一点の灯りではなく、私にとって咲の全てが灯りだった。その光に救われていた。褒められたい気持ち、怒られたくないという気持ち、やりたい事なんて全然なくてぼんやりとした私の心の中で、咲への想いだけが本物だった。

「一人にしてごめん」

 私は無言で頭を下げる。痛いとか苦しいとかじゃなくて、寂寞とした想いが内に渦巻いていた。名前は付けられなかった。きっとそれでいい。この痛みを、私と彼女の苦しみを名付けてしまったら、それは普遍的になってしまうから。

 私は頭を下げ続けた。一人にはさせず、かといって何もしなかった。

そうしながら思っていた。彼女は「いまさら」と怒るだろうか。殺されてしまうかもしれない。それとも泣くんだろうか。泣いたまま殴られるんだろうか。本当に色々考えたけど、どれもが正しくて間違っているように感じられる。咲の事なら分かっていると思ってたのに、分からない。多分、それが正しい。全部分かって貰っているというのは幻想で、そんなのが出来るのは神様だけ。私達は友達だから、相手の全ては知らない。

でも彼女が何を言うにせよ、それらはすべて受けるべき誹りで、報いだ。

そうして数分にも思える数十秒が過ぎて、彼女が私に言ったのは――

「やめてよ」

 だった。

 私が驚きで顔を上げると、彼女と正面から眼が合った。。白い頬が紅くなっていて、眉が苦し気に歪められている。右手は心臓を強く握っていて、ワンピースが皴になっていた。

「そんな事言わないでよ」

 体をハリネズミみたいに丸めて、咲は言った。

「もうお別れは嫌だよ。解放してもみんなが生き返る訳じゃない。ここが壊れたら、美玖と話すのは最期だよ。私は、嫌だよ。死にたくないよ。死ぬのがこわい。前に死んだ時は目的があったし、悪魔契約のお陰で希望があった。でも今死んだら、ここを壊しちゃったら、ほんとに死んじゃう。なんにもなくなっちゃう」

 彼女は外敵から身を守るみたいに全身を固くしていた。

「嫌だよ。私、なんにもしてないよ。なんにもできてない。寝て、起きて、苦しくて、看護士さんに肩を撫でられて大丈夫って言って。お母さんが来たら笑って、お父さんが来たら笑って、美玖が来たら笑って、渚が来たら笑って。笑ってばっかし」

 体を丸めるのを止めた咲の腕が、柵の手すりを掴む。その手が小刻みに震えていて、眼を逸らしたくなる。この場から逃げ出して、校舎を駆け回りたくなる。「咲はそんなに弱くない」と叫び出したくなる。でもダメだ。絶対にダメだ。そんな事したら、咲はきっと私に何も言わずに恐怖心を押し殺して死んでしまう。「ごめんね」って謝って、その後あそこから飛び降りて死んでしまう。

 彼女をもう二度と一人で逝かせたくない。

「私は頑張って笑うのに、みんなは泣いてる。私が眠ってて目が覚めたら、お母さんが泣いてた。お父さんが横に座ってその背中を擦ってて、「どうして咲がこんな目に」って言うお母さんに、「俺たちが支えよう」って言ってるのを聞いた。私は布団の中に潜ったまま、じっと息を顰めてた。胸がじくじく痛んできて、あぁ私の前で笑ってたのは全部嘘だったんだなって気づいちゃった。私が哀れだから、可哀想だから、私にそれを気づかせないように無理して笑ってくれてるんだなって。

だからその時、私は辛いって言っちゃいけないんだって思った。私が辛いって言うと、みんな困っちゃうから。美玖もそう。私が笑って明るくしてたら、みんな喜ぶ。でもお母さんは泣いちゃうし、お父さんも部屋を出た後こっそり扉の前で泣いてた。美玖も泣きはしなかったけど、泣きそうになってたことあるよね」

 咲が目線で問いかけてくる。私は素直に「うん」と答えた。

「みんな、人前で泣いてる。苦しいって叫んでる。私だけだよ。なんにもないのは。感情も未来も、明日の体も、みんな空っぽ。将来の話も出来ないんだよ。明日生きてるかも分かんない私には」

 彼女の背中から風が吹いて、髪を揺らす。それを手で押さえながら、彼女は自嘲するみたいに笑った。

「大学に行く、って美玖は言ったよね。私、あの時思ったよ。私はどうなるんだろう。病気が治ったとして、ろくに勉強もしてない私を雇ってくれる所なんてあるのかな。結婚とかできるのかな。恋とかしてみたかったなって、夜ベッドの中で思うの。私には後悔すら許されてない。将来の話っていうより全部、夢の話だよ」

「そうかもね」

「そうだよ。そうなんだよ」

 私が相槌を打つと、彼女の瞳に涙が浮かんだ。それは流れる事なく引っ込んでしまう。

 私は何度、咲にこうして流れるはずだった涙を押しとどめさせたのだろう。その数を想像すると私まで泣きたくなる。

「ごめんなさい」

 謝っても謝り足りないけれど、それくらいしか出来ない。

「ううん、いいんだよ」

また頭を下げようとした私を彼女が止めた。

「私も、美玖も、悪くないんだからさ。ただ、そうする事でしか生きられなかったんだから。そういう生き方しか知らなかったんだから」

 遠い目で空を見つめていた。そこに涙の面影はなかった。気丈であろうとする少女の姿があった。天蓋には星々が輝いていて、変わらぬ日々のようにそこにある。遠い山並みが風にざわつき、薄汚れた校舎に染みついた汗の臭いが鼻腔を刺激した。

 慣れ親しんだものたちだ。けど咲と私にとっては違う。彼女は見れず、私は見ようとしなかった。それが選んだ生き方だった。

「違うよ」

 だから私はそれを否定する。

「咲は泣いてよかったんだよ。周りを困らせて『可哀想な子』になればよかった。そうなっても、私は見捨てなかったと思う。そしたら、逆に立場になってたかも。私が咲みたいになって、咲が私みたいになってたり」

「泣き虫の美玖が?」

 彼女に鼻で笑われる。でも私は真面目くさった顔で頷いた。

「結局、私達は勇気がなかったんだよ。どうでもいい事はどうでもいいと切り捨てちゃったし、迷惑はかけちゃいけないと思い込んでた。賢すぎて馬鹿だったんだ」

「ふふっ」

 咲が笑った。それに釣られて私も笑った。初めは苦笑だったけど、なんだか楽しくなってきてお腹を抱えながら大声で笑った。私達の声は二棟に反射して、こだまみたいに重奏を奏でる。彼女と私が一緒に声を出して笑ったのは初めてかもしれない。だから、なんだかぎこちなくて、作り物めいた声だった。でも笑顔は本物だった。

「賢すぎるって、普通自分で言う?」

「だって馬鹿には分かんない感覚だと思わない?」

「知らないよ。私はそんな選民思想持ってないし」

「咲のくせに難しい言葉使って生意気」

「あんたが私の部屋に哲学やら経済やらの本を持ち込んだんでしょ? 私は恋愛物が読みたいのに」

「ちゃんとそういうのばっか持ち込んでたでしょ?」

「私が欲しいって言うのは恋愛物だったけど、美玖が面白いからって勧めたのは全部哲学だったでしょ?」

「そうだっけ。でも興味ないって言えばよかったじゃん」

「嫌だよ。見え張りたいじゃん」

「よく洋楽聞いてたしね」

「それとこれとは関係ない!」

 どうでもいいことだった。咲は元々難しい言葉を知っていたし、私は別に賢すぎるというほど賢くもない。洋楽は私も時々聞いてたし、純文学とかもおすすめしてた。喧嘩するほどでもなく、話題に挙げるものでもない。

「ばーかばーか」

「なにおう」

 私が舌を出すと、咲が飛び掛かって来る。それを避けきれなくて、コンクリートの上に尻餅をつく。

「とりゃぁ!」

「ぐへ」

 それを好機とみて彼女はお腹に馬乗りになってきた。

「へへへ、私のかちぃ」

 私の胸に手を置きながら咲は高らかに勝利宣言を行った。私は頬を膨らませて「卑怯だ」と毒づいた。

「いいじゃん、たまには。いつも勝負できなかったんだから」

 私のセーラー服のリボンを弄び、彼女は笑った。下から見る彼女は美しかった。子供みたいで、だけど女らしくて。これが私の親友だ。神様じゃなくて、私の友達。このじゃれあいが、意味のない戯れが、きっと神下ろしの儀だった。

 私達は対等だ。まぁ勝負には負けちゃったけど。

「綺麗だね」

 私は咲の頬に手を伸ばす。近づくと猫みたいにちょっと逃げられる。けど触れさせてもらえる。

 滑らかな白磁の肌、黒曜の瞳、華奢で細い肩、月下美人の如く儚く、朧月夜のように幻想的な、箱庭でしか生きられなかった彼女。神に逆らう禁を犯して外に出てきてしまった友達。

 悪魔の作ったこの場所で、五人の命が刈り取られたこの場所で、ようやく出会えた。そして本当の姿を見つけられた。相互依存じゃなくて、崇めるだけでもなくて、私達は「ただの友達」になった。

「でしょ?」

 月を背にして艶然と彼女は微笑む。桜色のワンピースがちょっと透けて、優美なフォルムが目に痛い。閉じ込めて隠しておきたくなる。源氏の気持ちが今なら分かるかもと思った。幼女趣味という訳ではなくて、大切な物ほど縛りたくなるという独占欲的な意味で。

 でもそうはいかない。彼女は死人だ。私は生者だ。そこは分かたれてしかるべきで、私が彼岸を渡るにも、咲がこちらに泳ぐのも許されない。

「一回くらい咲と遊園地とか行って、制服デートすればよかった。バカみたいだって笑わずに」

「後悔先に立たずだね」

「ほんとに。バカにするより楽しんだ方が得なのに」

「そうだよ。だから私は言ってたのに」

 彼女の頬を撫でながら在りし日を思う。咲がまだ外に出られた中学時代、出来た事がたくさんあった。でもしなかった。バカみたいだったからだ。一番のバカは私なのに。

「ねぇ」

 彼女が声を掛けてくる。私は目を逸らさず、唇を噤む。息をするのが苦しかった。喉奥が引っこんでは出てを繰り返して、嗚咽が漏れそうになっている。時限爆弾が仕掛けられているでもないのに、別れが刻一刻と迫っていると分かる。残された時間はもう残り少ない。咲の漂わせる雰囲気が、私に知らせてくる。知りたいことは全然知れないのに、知りたくないことは直ぐに分かってしまう。

「私、何か残せたかな? 私の人生に、意味ってあったのかな?」

 馬乗りになった彼女の顔から落ちて来た雫が、私の瞼に当たる。それは私が十七年生きてきて初めて見る咲の泣き顔だった。喉が引き攣る。もちろんと言うには人生経験が足りない。咲は大事だ。咲が大事だ。もう離れたくない。絶対に、絶対にもう別れたくない。でも別れなきゃいけない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

「私、頑張るよ。頑張って、頑張って、頑張って、夫とか子供とか友達に、死に際に言うよ。私が今生きてるのは咲のお陰だって。それじゃ、ダメかな。それじゃ、生きた意味にならないかな。そんなちっぽけなものしかあげられないけど」

 私は泣き笑いみたいな声で言った。泣きたくなかった。泣き虫って言われてたから、強い所が見せたかった。最後くらいは強い私を見せたかった。でも泣いちゃった。

「そっかぁ。そんなのでよかったんだぁ」

 咲は小さな声で呟いた。

「こんなのでいいの?」

 私は不安になって聞いた。彼女はこくりと頷いて、その拍子に私の頬がまた濡れた。

「うん。だってとっても嬉しいから」

 涙が月光に反射し、ダイヤモンドのように咲を彩る。美しかった。満面の笑みと、涙、咲、三拍子の美が私を包んで、温かな想いが押し寄せる。

「最後に冒険しない? もう、山には行けなくなっちゃったから」

 さらさらと落ちる砂のように、時は手のひらから零れ往く。これが最後。涙を見るのも旅をするのも。

 友達と話すのも。

「冒険しよう」

 私は寝ころんだまま声を張り上げた。子供じみてた。

「立って!」

 腕を引かれ、私はその場に立ち上がる。眼下には生まれ育った町の風景が広がっている。まばらに散る家の灯り、繁華街のビル、山へと続く送電線、鬱蒼と茂る裏山、嫌な事ばかりだった学校、咲がいた病院、その病室。狭いとばかり思っていた世界。狭くて広い私の世界。

 これから生きていく世界。

「冒険の準備はいい?」

 咲は手すりに手をかけた。風がごうごうと吹きすさぶ。突如吹き荒れる風はまるで彼女の心象に呼応しているようだ。実際そうなのかもしれない。だってここは彼女が作った箱庭なんだから。

「もちろん!」

 風に負けぬよう声を出す。下をみると少し足が竦んだ。校舎の屋上から落ちたらただでは済まない。

「今までありがとう」

「こちらこそ」

「これからもよろしくね」

 私がそう言うと、彼女は変な顔をした。

「咲のやった事も、思い出も、私がこれから持っていくから」

忘れて、作って、忘れて作って。その繰り返し。それを人は営みと呼ぶ。

咲はきょとんとしてから、慈しみの籠った目で私を見た。

「じゃあ、いこっか」

 私と咲は手を繋ぐ。そして流麗なダンスのように息を合わせて、後ろへ五歩下がる。靴音が心地いい音を奏でた。互いに顔を見た。彼女の瞳は強張っている。でも頬は上がっていた。私も多分そうだった。彼女の顔から目を逸らし、手すりの先、空中を見据える。そこには夜闇がある。空中が漂っている。

 ほぅと息を吐き、唾を呑みこむ。合図はなかった。

 私と咲は手を繋いだまま駆け出した。きっとそれは流れ星にも似た速さだった。二人の願いを乗せて、星は奔った。コンクリの地面を蹴り、手すりに向かっておもいっきしジャンプする。それでも飛距離が足りないから、私は左手で、彼女は右手で手すりをかっとばした。

 体が宙に投げ出される。スカートが太ももに纏わりつく。クラゲが全身を覆うような、不思議な浮遊感が体を包む。一瞬だけ無重力になって、世界法則から解放される。どことなく心地よくて、けど不安が僅かに残る。それが理から外れる事なのかもしれないなんて思う。社会から外れるのも、重力から解放されるのも、生から解き放たれるのも、結局完全な快感ではないのかもしれない。

 そしてその解放は長くは続かないものだ。

 河が上から下に流れるように。死後も世界があるように。重力がすぐに私を捕える。

 落下が始まって、私のスカートが音を立てて捲れた。なんてことない白い下着が露わになる。でもそんなのどうでもよかった。パンツが見えても見る人はいないし、羞恥心はあるけど気にした所でしょうがない。

咲と目を合わせた。私と同じく、彼女の桜色のワンピースは捲り上がっていて、下着どころか形のいいお臍まで覗いている。けれどそれを気にした様子もなく、咲は笑った。

 空中で彼女と抱き合う。落下に伴う風が肌を切り、すこし寒い。それを補うために抱き合った。ただ温もりだけを求めて、陰と陽みたいに、強く強く抱き合った。

 私達は完璧じゃないし、頭が格別よかったとかじゃない。でも生きていた。確かにここにいた。二人いても不完全で、三人いても不完全。三人寄っても文殊の知恵なんかじゃなくて、大して変わんない。それでいいと気づくのが遅かった。

 咲は欲張ればよかったし、私はプライドが高すぎた。二人とも気づかなかったし、気づこうともしなかった。渚さんは自分を全能だと思い込んでいる。諦めを失っている。朱莉は自分の価値を甘く付ける傾向が強い。律は優しさのあまり、人にものが言えない。麟二は家の価値観に縛られている。和也は体育会系の掟に従わざるを得ない。

 みんな、どこか欠けていく。ステレオタイプの牢獄に入れられ、バイアスに呪われる。それは悪いことじゃないけど、いいことでもない。

 だから私達は完璧じゃない。一人じゃ神様にはなれないんだ。だからきっと、神様の周りにも天使がいて、それぞれの権能を司っている。役割を分けて、頑張って完全へと近づこうとする。

 そうやって、私達も生きるべきだった。私と咲はそういう風になるべきだった。

 これは後悔、なのかもしれない。涙は出ないし、寂寥の想いも特にない。あるのは茫漠とした意識だけ。咲と抱き合って宙を落ちていると様々な事を思い出す。走馬灯が明滅して目の前を照らす。

 学校で咲と話した事、病室で読み聞かせた御伽噺、渚さんと公園を駆け回った日の夕焼け、咲の家に遊びに行った時に出て来たオムライスの味、和也と走った二人三脚、朱莉と手を繋いでいた通学路、律に貸したCDがまだ帰って来てないこと。それが私の因果交流、これが私の人生を照らし続けた者たち。

 時は流れていく。はためくスカートが、落下していく体がそれを伝える いつ死んでもいいと思っていた。生きる価値なんてないと思っていた。今でもそれは変わってないし、皆を殺した罪は注がなくちゃいけないと分かっている。

 このまま落下したら、硬い地面に激突して、私と咲は死ぬだろう。私はここで一度死ぬ。死んで生まれ変わる。それでいい。そんな最期がこの関係には相応しい。でも思い出すのは美しいものばかりだ。

 生きていて辛いことばっかのはずなのに、実際生きていた時に考えてたのは辛いことばっかだったのに、死の間際ばっかり美しく映る。

 これが死にかけられた魔法なのかもしれない。

 時が流れていく。薄目を開けて、咲を見る。彼女の瞼は閉じられていて、安からな顔をしている。そこに死を前にした動騒はない。何人も殺した殺人鬼にはありえない顔だった。本当ならこんな顔をして死ぬのは許されないのかもしれない。私もそうだ。私と彼女は共謀者と相違ない。

 時は流れる。夜空に浮かぶ月がどんどん遠くなっていく。人工物は汚いといったけど、それは嘘だ。だってきっと今の私達は美しいから。屋上から地面に流れる流星は綺麗だろうから。

 綺羅星のように生きた咲の人生。

 目を凝らしたら薄汚れているだろう。星かと思って拾ったら、金平糖みたいな子供騙し。誰からも求められてない。でも私は胸を張って言おう。

 咲は精一杯生きたと。

 時よ流れ続けろ。とめどなくあふれろ。連綿と続く営みを、彼女は生きた。私は生きた。

 

 私達は生きた!

 

 その後、衝撃が体を包んだ。衝撃に反して、すぐに意識が途切れる事はなかったけど、すごく頭が痛かった。一日で随分慣れ親しんだ血のぬめりが全身にある。酷く打撲したみたいで指一本すら動かせない。そんな中で、私はなんとか眼を開ける。ものすごく高い位置に月があった。私達を馬鹿にしてるみたいだった。首を動かして、咲を探す。彼女は私の横にいてワンピースが土と血で臙脂色みたいになっていた。

 咲は身動き一つしない。死んでしまったのだろうかと思う。私だけ生き残るというラストが鎌首をもたげる。恐怖が全身を襲う。またあんな想いをしたくない。また置いてかれる。折角、追いついたのに。死んだ彼女に辿り着いて、神様から友達に引きずり落ろして、同じ三次元に落ちたのに、また彼女はどこかへ行ってしまうのか。

 私は彼女に向けて手を伸ばす。

 けどそれは何も捉えず、地面へ落ちた。小石が手の平に刺さって血が滲む。痛みは感じなかった。存在する感覚は暖かさだけで、温泉にいるような心地よさがある。その心地よさに目を細めて、そこで私の意識は途切れた。

 

 

 

昔から月が好きだった。咲と美玖が飛び降りた屋上で、眞人は一人、そんな事を思い丈の長いコートを腕で払う。契約者である咲が死んだにもかかわらず、彼に動揺は見えない。細く切れ長の瞳には議論の時にあった飄々とした色はかけらもなく、見た者が呑み込まれてしまいそうなどこまでも深い深淵が宿っていた。

「うーん、ちょっと期待外れだったかな」

 咲に話を持ち掛けて、それがすぐに了承された時、なんて大馬鹿者だと思った。多少、質問を誘導したものの、自分の人生の代償が他人だなんて意味が分からない。自分ならば考えられない。けど悪魔であり昔から何人もの願いを叶えて来た彼は知っていた。

 人間は時折、ものすごく善人かつ、途方もない悪人になり、善悪は両立するものだと。

周囲には闇が広がっている。悪魔である彼には慣れ親しんだものだ。太陽は明るすぎる。あんなのが好きな奴は何処か狂っているんだ。悪魔だって狂っていると言われるが、あんな陽の下で生きていける奴にくらべれば幾分かマシだろう。だってそうだろ。お天道様の下で、光明正大に生きていくなんて怖気が走る。神が全てを見ているなんて恐ろしい。悪事の一つも許されぬなら、善行も見逃さないでもらいたい。閻魔の鏡なんて嘘っぱちだ。こと現代においては特に。

 と、善行など一度もやった事がない眞人は嘯いてみる。悪魔の自分が吐く言葉は真実真っ黒で、美玖のグレーを埋め尽くす、正真正銘のブラックだ。

「まぁ嘘を吐く時と場所は弁えてるよ。嘘は相手がいて初めて吐けるものだからね。こういう独白も相手がいない限り、全部嘘になるだろう。こういう時に悪魔は不便なんだ。一人にならないと嘘も言えない」

 真実などそこにはないし、必要もない。眞人はそういう存在だ。

 彼はブーツをこれ見よがしに鳴らしながら屋上の縁を歩き、美玖たちが落下した場所を覗き込む。そこには生前の美しさを失って、骨が剥き出しになった足をはしたなく左右に開いた咲の姿と、彼女に向けて手を伸ばす頭部の潰れた美玖がいた。美しいと言い張っておきながら、その死に様はどうしようもなく無様で醜い。

 彼は彼女達が辿った軌跡をなぞるように屋上から飛び降りる。そして地面に無傷で着地して、美玖の閉じられた瞳を指で開いた。死後数分と経っていないから、それはいとも容易く開けた。

 双眸は歪み潤んでいた。口は噛みしめられていて、苦悶の表情が見て取れる。最期の思考とは裏腹に凄絶な姿だった。噛みしめすぎて僅かに欠けた歯からもそれが分かる。彼女は生にしがみついていた。

「覚悟がどうのとか言っておいて、結局怖かったんじゃないか」

 眞人は決意を口にしていた美玖を思い出して、せせら笑った。死を前にした時、人は決まって恐怖を覚える。それは咲でさえも例外でない。彼女も魂を差し出した時の手は震えていた。

 人間なんてこんなもんだ。明確に生きる意味を与えられない者は存在がぶれる。昨日と今日じゃ違う意見になる。天気ならそれでもいいが、意思あるものがそんなザマではいけない。信念っていうのは大事で価値がある。だって悪魔が主食にするくらいなんだから。

「まぁ腹は膨れたし、それで満足するべきかな」

 膨れた腹を撫でさする。久し振りの食事だった。最近はどこも検閲が厳しくなっていけない。昔は一人いなくなった所で大して騒がれもせず楽だったのに、最近はすぐに捜索願いが出されてめんどくさい。今回もこれが終わったら、色んな所に顔を出して記憶操作をしなきゃならないだろう。七人の魂と引き換えと考えても収支はマイナスだ。まぁ久しぶりの満腹と、おまけにつまらないショーがついてきたと考えると、微妙にプラスともいえるかもしれない。マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるみたいに。最後の晩餐にしては貧しいかもしれないけど。

「別にうまくないけどね」

 なんとなしにそう呟き、小石でも蹴飛ばすみたいに地面を蹴った。すると瞬く間に眞人の体は屋上へと舞い戻る。三階分ある校舎の高さなど関係ないかのような足取りだった。

 遥か高み、およそ十五ⅿ上から契約者の死体を眺める。血が地面に染み込んで、粘性を纏い始めている。だが相変わらず何の感慨もない。汚いなとは思うが、悲しいとか嬉しいとか、そういう情緒的感情は浮上してこない。多分、そんなの沈殿もしていないんだろう。

やはり、自分と彼女達では何かが違うのだろう。同じ姿形でも決定的に何かがズレている。それは多分、人間とサルの間にある染色体一本分の差のように圧倒的かつ潜在的なのだ。理解できるはずもない。

「神様、かぁ」

 悪魔も元は神の一部だ。神が堕落して害をなすと悪神となり、混沌を齎す。その悪神の手先が悪魔になる。

けど変な話だ。真に完全で、全なる一であるならば堕落などしないのではないか。エデンに林檎はなぜあったんだ。一で十分ならば神はなぜ権能が分かれているんだ。堕落を理由にして全てを水に流すのならば、ノア一人をなぜ生かした。誠実な人間は他にいなかったのか。本当にノアだけが正しかったのか。正しいとはなんだ。神を信じていれば正しいのか、それだけでいいのか。神さえ信じてその言う事を聞いていれば、それ以外の間接的悪は許容されるのか。

 眞人も神に近しい存在だが、それの考えは全く分からない。

「分かる必要もないけどさ、そんなに神様っていうのは大事かね」

 人は親がなぜ親かを気にするか? 気にしないだろう。腹が膨れて、そこから出た瞬間、親は親となり子は子となる。そこに疑問の余地はない。

 神もそれと一緒だというのに。人間はそれに気づかない。気づけない。彼等はそれを知覚できないから。そこが超常と凡俗の差になる。

「結局、神様なんて何もしてくれないものさ。それこそ都合がいいようには動いちゃくれない。物語を見てれば分かることよ。彼等が人にしてくれるのは精々星座にするくらいさ」

 神は七日間で世界を創った。きっともっと時間をかけて丁寧に作れたのに。この世界を自己と同じように完全な物に出来ただろうに。それをしなかった。

 それをしなかった理由は明白だと、眞人は思う。昨日までなら分からなかった。咲との契約によって学校という箱庭を作り上げ、そこにプレイヤーとして参加した今日初めて分かった。完全無欠の世界の主は酷くつまらない。不完全だからこそイレギュラーが生まれ、感情のおかげで一+一が四になる。死という現象に理由付けが行われ、行動に意味が求められる。埋葬なんて人間の最たるものだ。

 それに自分たちみたいな明確な悪役がいた方が面白い。ミステリには犯人がいるし、RPGにも魔王がいる。そいつらに動機だとか目的だとかは求められてない。舞台を際立たせるための立役者でしかない。その存在に理由なんてない。箱庭を創る上で、それを眺める上で退屈しのぎに必要だった。それ以上でも以下でもない。

 咲の上には眞人がいて、眞人の上には神がいる。神の上には――。知る事は叶わない。

「お迎えが来たみたいだ」

 派手に暴れすぎた。トリックスターは手を叩かれるが、バランスブレイカーは嫌煙される運命だ。

 上空に輝いていた月に罅が入る。空間全体が震動して、体がバラバラになりそうな圧力が全身を襲う。眞人の作った学校という空間を何者かが外部から破壊しようとしている。何者か、なんてぼかす必要もないか。神が意にそぐわぬ者を排そうとしている。そして眞人はそれに抗えない。

 月が音を立てて八つに割れた。チャイムが音高に鳴り、晩鐘を告げる。空間が割けて光が差し込み、眩い輝きが漆黒に包まれていた眞人を襲う。

 今自分は美玖みたいに恐怖におののいているか。彼は自問する。もしそうであるなら、長年生きて少しは人に染まったのだろう。それを確かめる術がないのが、少し寂しい。

「まぁこれも嘘だけどね」

 神に見られていた以上、本質は嘘へと落ちる。彼はついぞ、真実を口にする事も見極める事もなく、光に呑まれ消えて行った。

 

 

『万物の根源は水である』とかの有名な哲学者、タレスは言った。それは割と正鵠を射ていると私は思う。特に社会なんてその最たるものだ。物質的な水ではなく、その流動性に着目した時、社会や人間の心、季節なんていうものは捉え処のない、さながら川の流れのような流動性を魅せる。

と言っても、私の体は真実百パーセント水ではないし、隣を歩いている渚さんの着ている服が綿百パーセントのYシャツである以上、タレスの考えは明確に反証されるのだけど。

「美玖、もっと運動したらどう? 私よりも体力がないなんて、少しは情けないと思わない?」

先を歩いている朱莉が振り返って、ため息を吐いてくる。私はそれに「ごめん。朱莉と違って温室育ちなんだ」と返した。

 彼女の額に筋が入って、私はそれを鼻で笑う。平気でライン越えした悪口を言うのは存外楽しい。火花を散らす私達の間に渚さんが割って入り、「あと少ししたら休憩所に着くから、そこで休もう。私、コンビニでおにぎり買って来たんだ」と言った。

 

時は過ぎていく。楽しかった思い出も、辛かった記憶も、頬を伝った温かい涙も。それらは遥か後方に。

 あれから二週間が経った。私はなんてことない、自宅で眼を覚ました。外はすっかり明るくなっていて、時計は午前六時を指していた。

私はそれを見て唖然とした。咲と過ごした不思議な一日、皆が死んだ学校、惨劇が起きた場所。私も皆も死んだ場所。ベッドの上で眼を開けた私に待ち受けていた感情は「あれは――夢だったのだろうか」だった。

 外傷はなかったし、あの時間が現実であるという反証は何一つ得られない。全てが夢だったのかもしれない。でも夢にしては鮮烈に過ぎた。臭いや感触、味まで感じられる夢なんてどこにあるだろう。私の本能は夢でないと叫んでいたけど、結局それを証明できる事実なんてどこにもない。

 その日、私は学校に行った。気が優れないと言う私を無理矢理着替えさせて、母は学校へ送り付けた。寝ぼけていた私はそこで初めて麟二からのいじめを思い出し、校門でいつものように震えた。

「美玖、今度ピクニックでも行かない?」

 そんな私に声を掛けてくれたのが渚さんと朱莉だった。

 

 木々に囲まれるのは実に三年振りだ。昔、咲が元気だった頃はよく山登りをした。彼女は体を動かすのが好きで、私はそれによく付き合わされたんだ。舗装されていない地面は歩きづらいし、階段やら木が歩行を邪魔してくる。その上、景色が全然変わらないから私は嫌いだった。高校の時、咲とここに来る約束をしていて、それをとても楽しみにしていたけど、思い出補正だったんだろう。実際歩いてみると、楽しいどころか辛すぎる。背中のリュックは子泣き爺でもしょっているかのような重さだ。

「なんで、朱莉は、そんな平気そう、なの」

 一方で朱莉はオフショルダーの白シャツに黒のカーディガン、膝丈のスカート、おまけにパンプスという出で立ちなのに、ひょいひょいと足を進めている。

「鍛え方が違うからね、あんたとは」

「朱莉は家に居づらかった時の名残で、毎日走ってるからね」

「あんたら、ほんとに余計な事しか言わないね」

 憎らし気な朱莉に渚さんが微笑む。インドアなのは私だけかと唇を噛む。くぅ、インドアで役に立つことなんてほとんどないじゃないか。不公平だとうそぶいてみる。言うまでもなく、人間社会においてアウトドアはインドアに優越するのだ。

 ギターを弾いて、歌を歌って何になる。吟遊詩人にでもなるのか。くだらない。求められるのは体力気力充実した企業戦士なのだ。

「そんだけ憎まれ口叩けるなら十分ね」

 口に出ていたのか、朱莉さんが頬を上げて笑った。それからまた前を向いて、ぐんぐん前へ進んでいく。私はどんどんおいて行かれて、それでも追いつこうとなけなしの力を振り絞って歩く。そんな私の背中を渚さんが「がんばれ、がんばれ」と言いながら押してくれる。そのお陰で私は足を止めずに歩き続けられる。

 

 あの日、二人が私をハイキングに誘ってくれた時、あれは夢ではないと思う事にした。どちらでもいいのだ。夢でも夢じゃなくても、たとえ夢だったとしても、咲が私に教えてくれた事は変わらない。残されたものだけがリアルだ。

 朱莉は和也と別れた。和也は渚さんと堂々付き合い始めた。律が時々家に本を持ってくる。古典ミステリは私も得意とするところだ。ヴァン・ダインを受け取り、エラリィ・クイーンを渡した。麟二の凶暴性は鳴りを潜め、時折怯えるようになった。渚さんがそれをフォローしている。

 私はと言えば、特に何かが変わったとは言えない。何かを変えようと努力はしてるけど、そんなにすぐには変われない。『世界を変えるより、己を変える方が容易い』とはよく言ったもので、『宇宙を壊すより、地球を壊す方が容易い』みたいなものだ。要するに、どっちも果てしなく難しい。木を見て森を見ず、その実木の大きさを知らず、といったところか。

 まぁ私はそんなにすぐ変われない。人はスイカやトマトじゃないから。

 でも少し生きやすくなった気がする。晴天や星空を素直に美しいと言えるようになった。甘い物が好きで、読書が好き、知識はあるけど要領は悪い。それが私だと知った。その程度の人間だと、特別でも選ばれし者でもないけど、それでいい。

 だって私は神様に、親友である咲に選ばれた人間だから。

 

「もう少しで着くよ、頑張って!」

 下を向き、息を切らす私の耳に、渚さんの声が響く。

「あとちょっとだよ」

 前方からは朱莉の声。

 それらを手掛かりに私は進み、そして最後の階段を上った。

「ほら、見てよ。凄い景色でしょ!」

「私も渚もここが好きなの。だってここ、街が一望できて、今の悩みがちっぽけなんだってそう思えるから」

 時刻は真昼、夕焼けでもないし、空に星が浮かんでいる訳でもない。あるがまま、ありのままの街の姿。なんてことない灰色の道路が張り巡らされ、赤い屋根や青い屋根が目につき、最近建てられたマンションが悪目立ちする。遠くには赤い送電塔がそびえ、その近くには咲がいた病院がある。

 街はとても小さかった。そしてそれに劣る私はとてもちいぽけな存在なんだ。

『綺麗だね。私、ここ好きなんだ。あの山を越えたら何があるんだろう。ねぇ、美玖は知ってる? 行ったことあるんでしょ』

 咲が人差し指を伸ばして、指さした山すらも車があれば数分で登れてしまう。彼女はそれを知らない。外に無知な彼女は籠の鳥だった。約束していたこの場所を訪れて、私達の憧れはこんな他愛のないものだと知らされる。

「咲、私はきっと咲の夢見た山の先に行くよ」

 それは大学に行った時かもしれない。就職した時かもしれない。結婚して夫に付いて行く時かもしれない。分からないけど、それをもう恐れない。私には咲がくれた翼があるから。

「さよなら、咲」

 さようなら、ちっぽけな小鳥よ。青年期を彩った美しき花よ。咲きみだれ散った美しき彼女よ。

「ありがとう」

 償いは終わっていない。咲の生きた意味を私は背負っていく。見ていて欲しい。私の最期を。旧信徒の、眷属が歩む道のりを。

 

 住み慣れた街は何も言わないし、蒼空に声は呑まれる。死んだ咲にきっと言葉は届かない。それでもいい。私が彼女に感謝したいだけだから。胸に巣食う喪失に、蹴りを付けたいだけだから。

 

 それから少しの間、景色を楽しんで、私達は隅の方にレジャーシートを広げて座っていた。

「じゃあ、私が作って来たお弁当でも食べましょうか」

「ええ!? おにぎり買って来たんですけど!」

「渚と違って私は家庭的だから」

「がぁ~ん」

「あ、私もサンドイッチ持ってきたよ」

 私は背負ったリュックを下ろし、中からタッパーを持ち出した。色とりどりの食べ物が、レジャーシートの上に並ぶ。それを私達は涎を垂らしながら見ていた。朱莉の料理は重箱に入っていて、家庭的な料理がおいしそうに盛り付けられている。私の物は飾りっけない、卵とハムのサンドウィッチ。渚さんはしゃけとツナマヨおにぎりだ。ウェットティッシュで手を拭いて、私達はそれぞれ食べ始めた。

 美味しかった。

 美味しかった。

 美味しかった。

 頑張って歩いたからか、みんなで食べているからか、今までのご飯よりずっとずっと美味しかった。

 多分、それだけでいい。私の神様はこんな時間でいい。

「美味しいね」

「当たり前でしょう」

「そうだね」

 風が吹いて、私の前髪を揺らした。鼻腔をハンバーグの香りが撫でる。私はハンバーグに箸を伸ばす。途中で渚さんにブロックされる。

 私は笑った。彼女も笑った。朱莉は「行儀が悪い」と口を尖らせた。

 胸がぽかぽかして、お腹がいっぱいになって、眠気が来て、幸せだった。きっとこの気持ちは間違いじゃない。

 


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