『馬券が当たりますように』
事務所の入り口に設置された笹の木。
そこに括りつけられた無数の短冊のうちの1つに、煩悩まみれの願い事が書かれていた。
「………………」
「おぉ、木村。少し頼まれてくれるか?」
はたしてこのままそっとしておいていいものだろうか。
短冊を見て悩んでいると、タバコ休憩から戻ってきた課長に声をかけられた。
「はい。なんスか?」
「洗車してる磯町を呼んできてくれ。話があるから」
ピッと課長が指差した先にあるのは、さっきまでアタシがにらめっこしていた短冊。
「………………了解ッス」
「頼んだぞ~」
ハ~、面倒くさい。
タバコ吸ってる暇があるなら自分で探しに行ってくれればいいのに。
まぁ文句を言っても仕方ない。
上司の命令は絶対、だ。
クソ暑い炎天下の中を歩く。
事務所から10分ほど歩けば、会社が借りている駐車場に着く。
我が社のロゴがプリントされた自動車のうちの1つ。
ハイエースの運転席で、悠々自適にコーヒーを飲むセンパイの姿を見つけた。
「失礼しますよ~」
「おぅ、お疲れぇ」
助手席のドアを開けると、冷たく心地良い風が火照った身体を冷ましてくれる。
冷気が逃げるから早くドアを閉めろ、というセンパイに従って車内に身体を滑り込ませる。
カーナビが映るはずの液晶画面には、たくさんのお馬さんたちが走っている姿が映っていた。
「────よっしゃ、来い! 団野ぉ! アタマで来いやぁ!」
うるさい。
液晶画面に齧りつくように目を釘付けにしながら握り拳を固めるセンパイを睨む。
「おいふざけんな、北村なんか買ってねえぞ! 津村、差せやボケカス!」
………………ダメだこりゃ。気付いてない。
「菅原はどこ行ったんだ、っざけんなぁぁぁぁぁぁ!!」
………………。
あっ終わった?
頭を抱えて呻くセンパイ。プルプル震えて情けない姿が面白い。
「────ハンッ」
「ってめえ木村! 鼻で笑ってんじゃねえぞ!?」
ものすごい剣幕で詰め寄ってくるセンパイ。
コーヒー臭い吐息を出す口を手で押さえる。
「仕事サボってるから当たらないんスよ」
「はー? サボってないが? 車ぜーんぶ洗車したが?」
マジか。
6台もあったのに1人で全部やったとかすごいな。
よっぽど暇だったんだろうか。
「まあいいスけど。課長が呼んでたッスよ」
「課長が? 俺に? どうしてまた」
「短冊」
「ウゲェッ」
しかめっ面に変わった。
コロコロ表情が変わって面白い人だなぁ。見てて飽きない。
「そりゃ仕事に関係ない事を書いてたら怒られるッスよね」
「くそぉ……、今日のレースが終わったらコッソリ外そうと思ってたのに」
「そもそも吊るすなって言ってんスよ」
ダメだこりゃ、反省してないな。
課長に怒られた方がいいよこの人。
「まあ、さっきの様子を見るに願いは届かずって感じスかね」
「バーカ、ここまでは前座よ。メインレースで取り返すんだよ」
はいはい、言ってろ言ってろ。
どうせ当たらんから。
まったく、どうして競馬なんかやるんスかねぇ。
損するだけだって分かってるでしょうに。
「まあ見てろって。当てたら焼肉おごってやるからよ」
「そう言って当てたことありましたっけ?」
「あるよ! 3回くらい一緒に行っただろうが!?」
そう言われればそうだったような気もする。
毎週やってて2,3回なんてそれほぼ当たってねえじゃん、とはさすがに言わないでおこう。可哀想だから。
「もし外しても、アタシがご飯を作ってあげますよ」
「おぅ。お前の作る飯は美味いからな。いつもサンキュー」
軽い感じで返事して手元の新聞とにらめっこするセンパイ。
………………この人、本当に分かってんスかね。
なんとも思ってない異性に手作り料理を振舞うほど酔狂なつもりはないんスけど。
「というか、早く課長のトコに行った方が良くないッスか?」
「それもそうだな。じゃあパパッと買ってから戻るわ」
スマホでポチポチと馬券を購入するセンパイ。
………………うわぁ、もう今日だけで3万負けてんじゃん。
もうちょっと安い金額に抑えてほしい。
なんでこんな無駄遣いして生きていけてるんだ?
1コ下のアタシと給料そんなに変わらないでしょうに。
「────ヨシ、これで完璧よ」
「はいはい、どうせ外れるしどうせ怒られるんだから、早く課長のところに行きましょうね~」
「イヤなこと言うなぁ、お前」
自業自得ってやつッスよ、センパイ。
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「磯町ぃ! 公私混同してんじゃねえぞぉ!?」
「すいませんでしたぁ!」
事務所に戻った瞬間、課長の怒鳴り声とセンパイがスライディング土下座を決めたズザザザザーッという音が響いた。
「呑気に洗車なんかしやがって、自分の仕事は終わってんだろうなぁ!?」
「ウス、終わってます。洗車も半年に1回やるって決まってたじゃないですか。暇なんで全車両やっときましたよ」
「お、おぉぅ……?」
「ほら見てくださいよコレ! 景色をめっちゃ反射しててすごくないですか!?」
なんかスマホの画面見せてる。
たぶん洗車前後の写真を撮ってたんだろうなぁ。
課長もちょっと毒気抜かれてるし。
仕事は早い方なんだよなぁ、センパイ。
まあミスも多いんだけど。
「もういい! 短冊は業務に関係あることだけにしろよ!?」
「わっかりましたぁ!」
大したお咎めもナシで解放された。
今日は仕事のミスがなくて良かったスね、センパイ。
もしミスしてたら課長もっと怒ってましたよ。
……まったく、誰がフォローしてると思ってんスかね。
「おぅ木村、いつも迷惑かけるな! ありがとよ!」
「………………ウス」
なんだ。ちゃんと分かってんならいいんスよ。
………………いや、そもそも仕事サボったりミスしたりすんなよ。
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「おぅ木村、帰ろうぜ!」
「………………ずいぶんとご機嫌じゃないスか、センパイ?」
定時になった瞬間、センパイがアタシを呼ぶ。
ニコニコと満面の笑みでこっちを見てくるから、胸がちょっとザワザワする。
「おかげさまでバッチリ当たったからよ!」
そう言ってスマホの画面を見せてきたセンパイ。
そこには、6桁の数字が輝いていた。
「………………マジスか」
「もちのろんよ! 言っただろ?」
競馬って当たるんだ。
アタシの1ヶ月分の給料より多い金額じゃん。すごい。
「なに食いに行く? 焼肉か、寿司か? それとも高級フレンチかぁ!?」
「………………そッスね」
テンションぶち上げのセンパイを見て、喜ばしいやら残念やら、ちょっと複雑な気持ちになる。
いまいちテンションの上がらないアタシに気付いたのか、センパイが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……どうした? 具合でも悪いのか?」
「いや、そういうわけじゃないスけど……」
どうしよっかなぁ。
これはアタシのワガママだし、でもいらない心配させるのも違うしなぁ。
「………………実は」
「おぅ。実は?」
「もうアタシの家で夕飯の仕込みしてる……んスけど」
「マジで!? じゃあ早く行こうぜ!」
「おい磯町、木村。イチャついてねえで早く帰れ」
「イチャついてねえスよ!?」
「はいはい、早く帰ろうぜ。お疲れさまでしたぁ!」
ちょっと待ってくださいセンパイ!
課長の誤解だけでも解いておかないと!
「誤解なのか?」
「………………その訊き方は、ズルいっスよ」
ニヤッと笑うセンパイの尻を蹴り飛ばす。
痛みに悶える情けない姿を見て、胸の奥にあったモヤモヤが消えていくのを感じる。
「ほら、早く帰りますよ。今日はビーフシチューっスよ」
「マジで!? アレ家で作れるの!?」
明日の代休はセンパイと何をして過ごそうか。
そんなことを考えながら、まだ明るい帰り道を歩くのだった。
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「………………俺も彼女が欲しい」
課長の独り言は、空調の効いた事務所に空しく吸い込まれていった。