重要なのは、私は今日も、これからも戦い続けなければならないということだ。
ここは地獄だ。文字通りの地獄。
生前に悪逆非道の限りを尽くし、閻魔様の怒りを買った罪深き者達の終着地だ。
天上へと立ち昇る炎は、鉄をも溶かすほどの熱を帯びて燃え盛り、血が滴る剣山から響き渡る悲鳴は、地獄の空を今も震わせる。地獄へと降り注ぐ銅の雨は、骨の髄まで焼け焦げるほどの熱を持ち、肉は汗を滴らせる間もなく焼け焦げ続けていく。
立ち枯れした剣樹の陰からは、私の身長ほどはある毒虫が狩りの機会を伺い、ひび割れた大地では皮と骨ばかりの害獣が空腹の赴くままに罪人たちを貪り食っていた。炎に炙られ続け、鋼色の巻雲が這いまわる、夕焼けのような色合いをした空では、焼けた肉の匂いに魅惑されたカラスたちが飛び回り、焦熱の地に倒れ伏した者達の内臓をついばむ瞬間を今か今かと待ちわびていた。
獣の頭をした獄卒は、サディズムの快楽に溺れた喚声を上げて罪人たちに追いすがり、刀で、槌で、斧で、槍で、彼らの肉を切り裂き、引き潰し、叩き割り、貫いていく。
獄卒たちの力は天災を思わせ、彼らの体の硬さは鋼を連想させた。巨岩を切り裂く彼らの膂力、稲妻の直撃にすらも耐える彼らの堅牢さの前では、並大抵の抵抗は全くの無意味である。
地獄へ堕ちた者達は、己の罪過の深さを悔やみ、己の無力を呪いながら、肉体を弄ばれる以外にない。
私も、そうやって地獄で蹂躙される者達の一員だ。ただ、一つ彼らとの違いを挙げるとするならば、それは地獄の獄卒たちと戦える武力を私は持っていることだ。
「……はぁっ……はぁっ……」
生気のない大地を一歩踏みしめるたびに、全身を覆う赤さびた板金鎧がギシギシと笑い、全身の骨がガタガタと震えていた。眠ることなく歩き続けた足裏に感覚はなく、膝関節は裂傷のような痛みを私に訴えかけている。
自分の体が、手に負えない程に重い荷物のように感じられ、今すぐにでも座り込みたいという誘惑が、私の理性を誘惑し続ける。
喉がカラカラに乾き、喉奥は裂けるような痛みを覚えているかというのに、体からは玉のような汗が吹き出し、不快感を私に与えてくる。自分自身の汗で体を蒸される感覚は、いつだって慣れることが出来ず、ただでさえ少ない体力を余計に削り取っていく。
この顎が出るほどの疲労を振り払う術を持たない私は、それでも何とか前へと進もうと肩で息をするが、その気概は私が一歩足を踏み出すだけで、氷のように溶け出していく。
肺腑が激しく伸縮すればするほど、鉄の茨で織られた鎖帷子が私の体を傷つけ、体全身にずっしりとのしかかるプレートアーマーの隙間から、血が滴り落ちる。左腕に繋がれた鎖付きの鉄球が地面をズルズルと這うたびに、紫色に変色した私の手首からは金槌で叩かれたかのような痛みが走り、体幹がフラリとぐらついてしまう。
右手に握る牛頭の肉断ち包丁は、元の主人が余程名残惜しいのか、いくら引きずっても地面に深く食い込み、俺の歩みを遅くすることをやめはしない。だが、このだんびらをあやす体力も残っていない私にとれる選択肢は、この武器が駄々をこねる様を見て見ぬふりするだけであった。ずる……ずる……と剣を引きずり、今にも断ち切れそうな緊張の糸をピィンと張り詰めながら、私はこの等活地獄を進み続けた。
「等括地獄」……そこは、最も天国に近い地獄である。この地獄で課せられる刑罰はただ一つ、戦い続けることのみだ。
この地獄にいる間、私は獄卒、怪物、罪人と戦い続けなければならない。迫りくる敵に打ち勝ったとしても、私に安息は訪れない。終わりなき戦いに絶望し、自死を選んだとしても、その先に安息はない。
地獄で私たちが死ぬことはないからである。
閻魔様が下した刑期を満了するまで、私は生き続け、戦い続けなければならないのである。
「はぁっ……はぁっ……ぁあ……」
私の元へと全速力で駆け寄ってくる影が一つ見える。遠目から見ても、その体躯は、私数人分はあり、4つの手足で大地を踏み割り、土煙をあげながら近づいてくるその姿は、その顔つきもあってまさに馬そのものであった。
鼻から勢いよく噴き出す吐息は、多量の蒸気を含んでいるため、煙幕のような煙を周囲に立ち昇らせていた。
全身に纏う分厚く豪勢な鎧がガチャンガチャンとわめきたて、腰に差された金槌は、馬頭が駆け抜ける中で、血糊の付いた玄翁を地面に幾度も叩きつけている。ふらつく体で肉断ち包丁を構え、戦闘に備える私を前に、馬頭はその両腕を勢いよく叩きつけ、軽やかに空を舞う。金槌を抜いた馬頭は、重力に身を任せて私めがけて金槌を振り下ろした。
馬頭の獄卒。
これからこの怪物と戦うことになるという事実を前に、私は喘ぐような慨嘆の言葉を漏らす以外に出来なかった。
「!!」
馬頭の攻撃を見きり、寸でのところで私は攻撃を回避した。空振りした金槌は、そのまま地面を叩き割り、地響きと共に無数の土塊を上空へと吹き上げる。
馬頭は滅茶苦茶な叫び声をあげながらそのまま金槌を振り回し、竜巻のような突風が馬頭の周囲に巻き起こった。口から涎を垂れ流す馬頭の目は血走り、土塊ばかりで視界が遮られている中で、私の姿を見つけ出そうとその目をギョロギョロと動かしている。風車のように振り回される金槌は、やがて空気の壁をも破り、雷鳴のような音を轟かせながら数メートル四方を跳ね回った。
無定見な攻撃である。当たれば幸運程度に考えているのだろう。馬頭の無神経ぶりに、私は安心した。
無鉄砲な攻撃から隙を見出し、私は浮かび上がった攻撃線に沿って剣を振るった。
「が……ぁあ!!」
牛頭の肉断ち包丁を大上段に振り下ろし、獄卒の肩からどす黒い血が噴水のように吹き上がった時、私の右腕は骨が軋むような痛みに悶えていた。全身は針に貫かれるような痛みに溺れ、意識を手放さないようにするために、私は舌を噛み切る程に歯を食いしばる。
肉を裂かれた獄卒の絶叫は脳髄を揺らされるほどに甲高く、鼓膜が破裂した耳からは鮮血が滴り落ちた。腹の底まで震えるほどの悲鳴は、私の耳に響き渡った「バツン」という音と共にかき消され、私は幾度も体感した無音の世界の中で、数秒先の未来を予測する。
「……くッ……!」
背後に迫る殺気を前にして、私は獄卒の肩に食い込んだ肉断ち包丁を力任せに抜き取り、私の背丈の3倍はある獄卒の肉体を蹴り上げた。一回転する世界の中で、私は馬頭の獄卒が私の体を掴もうと、切り口めがけてその手を伸ばす瞬間を目撃し、疲労と苦痛でふらつく足で何とか着陸する。この時には、私は次の回避の一手を壊れかけた足に指示しなければならなかった。
肩から腹までザックリと裂かれた獄卒は、最期のあがきとばかりに獲物である金槌を振るい、地面が波打つほどの衝撃で私の四肢を砕かんとする。豹のような姿勢で地面をかけ抜け、寸でのところでそれを回避した私は、左腕に取り付けられた鎖付きの鉄球を獄卒の足めがけて投げつけた。
鎖をガシャガシャと鳴らし、弾丸のように回転し、光線のように一直線を跳んだ鉄球は、吸い寄せられるかのように獄卒の足を砕く。
ぶるぶると唇を震わせた馬面の獄卒は、そのまま糸の切れた人形のように倒れ伏したのであった。
「……!! ……ッ!! ……ッァ!! ……ハァッ!!」
死闘の果てに得られた極わずかな安息を前に、私は肩で激しく息をし、崩れそうになる足を牛頭の肉断ち包丁で支えなければならなかった。
己の醜い姿を隠すためだけに着込んだ鎧の重みが一層切実に感じられるようになり、汗を出し尽くした汗線は、それでも汗を出そうと痙攣している。戦いの中で裂けた鼓膜は、荒い呼吸を繰り返す中で再生し、爪の間に針を刺されるような激痛の中で私の世界に音が戻ってきた。
地獄に堕ちてから、どれだけの期間戦い続けてきたのか解らない。地獄で戦い続けたことで、誰よりも戦い慣れてきたはずなのに、地獄に雲霞の如く蠢く怪物一匹を打ち倒すだけで私は満身創痍である。私が強くなればなるほど、彼らも比例するかのように強くなっているというのだろうか?
……吐き気を催すほどの徒労感が、私の体に更に重くのしかかってきた。
しかし、私はもう、己の境遇に絶望などしていられなかった。幾百年の時を地獄で過ごしてきた私は、この苦境に終わりが来ることを既に諦めていた。
「……はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
馬頭の体が再生し、再び私に襲いかかる前に、私はその場から駆け足で離れていく。
地獄に一時の安息を求め、地平線の先にある茜色の空を目指して、私は走り続けた。