名のない囚人騎士は幾多の地獄で猛獣・罪人・獄卒・天使・神と戦い続ける   作:西東 吾妻

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第十四話:冬神は頞部陀地獄(あぶだじごく)の罪人と戦いのワルツを踊りだす

「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」

 

 冬神マチルダは、口元に垂れ下がる薄いヴェールの奥で、満面の笑みを浮かべていた。

 

 彼女の足取りは羽毛のように軽く、宮殿の大広間一面にズラリと敷かれた氷のタイルをつま先で踏み込むたびに、彼女の体はふわりと中空へと飛び跳ねる。

 

 久方ぶりに人と喋った彼女の口は、冷めやらない興奮を冷ますかのように、鼻歌を口ずさんでいた。短く、単調なリズムで成り立つその歌を、彼女は本当にうれしそうに、うっとりとした表情で歌いあげ、晴れやかな解放感に満ち満ちた華奢な体は、その音律に合わせて空と戯れる。

 

 彼女が空を跳ね、大げさに両腕を振るたびに、袖口に縫い付けられた銀の鈴はチリン、チリンと鳴いている。

 

 青く染められた彼女の着物は、風を飲み込み、半紙のように薄い生地をバタバタとたなびかせ、主と共に至福の瞬間を楽しんだ。

 

 冷気をはらんだ彼女の愛剣も勿論、その刃先に滴る血を啜りながら、主との細やかな宴の中で酩酊し、銀色の刀身をギラリと煌めかせていた。

 

「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」

 

 この鼻歌は、彼女の気分が昂った時に現れる癖であった。女神は今、久方ぶりの余興を終えて、飛び上がらんばかりの上機嫌となっていたのである。

 

 氷と白に包まれたこの地獄で、彼女に供された生贄。動くこともままならないこの場所で、絶対的な神としてふるまう彼女に牙向く、剛の者が現れてくれた。

 

 この幸福を彼女は喜び、心の底から祝っていたのである。

 

「やめろぉ……やめてくれぇ……許してくれぇぇえ……ゆるしてくださいぃいい……」

 

 壁に磔となった罪人が涙ながらに喚きたてる。

 

 下卑た笑い声と共に女神に切りかかってきたこの名のない女は、今、鎧ごと服をひんむかれ、四肢を砕かれ、撃ち込まれた氷柱によって、肉体を壁に縫い付けられていた。

 

 潰れた肉からは赤黒い血がダクダクと溢れ出して宮殿の壁を汚し、外気に露出した骨から滴り落ちる血の雫は、床に転がる鎧の残骸の上に落ち、カツーン、カツーンと音を立てている。

 

「おれはぁああ……おれはぁあだまされたんだぁあああ……あのおんなにだまされっちまっただんだぁあああ……」

 

 数刻前まで、のぼせ上る程に高い自尊心に支配されていた女の顔は、今や血と涙と鼻水によってグショグショに汚れている。痣まみれとなって不細工に膨らんだ唇を震わせて、赤黒く変色した頬を涙で濡らしながら、女は神に対し、己をこのような苦境に陥れた、あの火傷面の女武者に自分はけしかけられたのだと白状していた。

 

「神を殺せば、この地獄から解放される。今は、その冬神を殺す絶好の機会だ。弱く意気地のない冬神は、楽に殺せる」

 

 強く引かれた弓の弦のように口角を吊り上げる女武者が、そんな言葉を吐いていたことを、女は息も絶え絶えに思い出す。

 

 虎虎婆(ここば)地獄で神殺しを成し遂げ、己の実力をその後100年に渡り褒めちぎり続けてきた女は、「自分であれば冬神とやらなど、赤子の手を捻るように屠って見せる」と思い込み、着る物もそのままに冬神が住まう宮殿に突貫した。

 

 その短慮の先にあった物は、無様な姿を衆目に晒す結末であった。

 

「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」

 

 泣きわめく罪人の断末魔を肴に、冬神は勝利の快感に酔いしれる。氷のように冷たい体は溶けそうな程に火照っており、頬を紅潮させて口ずさむ鼻歌は、幾百年ぶりに熱を帯びていた。

 

 女神は、今日が至高のひと時であると確信していた。

 

 神殺しを成し遂げた剛の者と、心行くまで戦い、圧倒的なまでに打ち勝ったからだ。

 

 同じく、神を殺して見せた剛の者二人と、これから戦えるからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人は、赤さびた板金鎧で全身を包み込み、金棒のように無骨で、槍のように長大なだんびらを振るう、ベラトリクスの謀叛騎士。

 

 この男は等括地獄で岩のように重いだんびらを手足のように操り、銃神「ハフバ」の首を一つ切り落とした。

 

 地獄の獄卒たちを凌ぐ膂力と、塗炭の苦しみをもたらす地獄の拷問に耐え抜く精神力、奇天烈な発想を躊躇なく実行に移す行動力が、神殺しを成し遂げる原動力となっていることは、言うまでもないことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一人は、幅広で肉厚な短剣と、龍の如き炎を吐く短筒を手に、幾柱の神の命を貪り啜った、傾国の首狩り浪人。

 

 この女は、人とは思えぬ身軽さに物を言わせ、戦神「トール・パレイド」、炎神「蒼神楽」を始めとした、数々の神を屠ってきた恐るべき女である。

 

 俊敏である故に用意できる手数の多さ、人を操り、けしかけることを可能とするその話術、……そして何より、半身を侵す火傷跡から噴き出す、焦熱地獄をも焼き焦がしたあの炎。

 

 骨をも焦がすその炎を身にまとうことは、気が狂わんばかりの苦痛をもたらすはずだが、人の身でその苦しみを降伏していることは全く興味が尽きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう間もなく、彼らと戦うことになるだろう……冬神はまだ見ぬ戦いに胸を躍らせる。

 

 ただ、そんな彼女にも、不安の種が一つあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベラトリクスの謀叛騎士と共に、銃神「ハフバ」を屠った、堕神「ハデス」。

 

 ……天使長ミカエルの奸計により、主神の座を追われた神が、遠くで自身の命を虎視眈々と狙っていることを冬神は察知していた。

 

 何が狙いなのか……謀略により神と成ったミカエルへの復讐に燃えるこの神が、なぜ私の命を狙っているのか……。

 

 見通せぬ解を前にした不安を、彼女は心の奥にしまい込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何はともあれ、勝てばいいだけの話なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……」

 

 赤い瞳がぎょろりと動き、鼻歌を口ずさむ冬神マチルダの口が結ばれる。

 

 共に舞いに興じていた愛剣は、ふっと鞘の中に納められ、主君の次の命を待っている。

 

 空を跳ねていた足は、彼女が抜刀の構えを見せると同時に、音もなく床を踏みしめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつだって、戦いを始めるのは私。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴェールの下で冬神がにんまりと笑うと、龍のように地獄で荒れ狂う吹雪が、ふっと止まる。一拍の呼吸を置いたのち、風が、雪原にまぶされた粉雪を上空へと巻き上げながら、スウウと冬神の両手に握られる神剣へと吸い込まれる。

 

 宮殿を形作る尖塔の頂点では、冬神の旗がバタバタとより激しくはためき、冬神の愛剣を目指して宮殿内へとなだれ込む吹雪たちをせわしなく向かい入れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、音も光も塗りつぶしてきた吹雪は、幻のようにかき消された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 頞部陀地獄はこの瞬間、ほんの数秒だけ、ガラスのように透き通った白い無音の世界へと変貌を遂げていた。

 

 時が止まったかのような情景。

 

 何の抑揚もない白の世界に、緊張が走る。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひぃあぁぁああああ……ひぃぃぃあぁぁぁああああああ……!! いやだあああぁぁ……! いやだぁあぁあああ……!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 壁に磔にされた女は、未来を予知し、喉を震わせ泣いていた。顔は青ざめ、むき出しになった歯をガチガチと震わせ、奇跡が起こることを心の底から祈り始めていた。

 

 なんとか逃げ出そうともがき出すが、氷漬けにされた四肢はピクリとも動かない。

 

 首だけを動かし、天を仰ぎ見る神殺しの女。

 

 冬を司る女神の目に、彼女の姿は写っていなかった。

 

 女神は神殺しに挑む二人の罪人に、剣先の照準を合わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬神「マルヌ・マチルダ」は既に剣を振るっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 神速でもって両断された頞部陀地獄は、数泊の呼吸を置いたのち、地鳴りと共に崩れ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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